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2007/05/31

イノケンさんの「ハモニカ横丁」冊子に

Inoken忙しいのだろうか。忙しいようだ。とりあえず、とり急ぎこれだけ掲載。新宿へ行って用を半分ぐらい足し帰って来たら、ポストに封書。某編集者から。あけたら、この新聞切抜きが。

朝日新聞5月11日、東京版のようだ。おおっ、"「ハモニカ横丁」冊子に"の見出し。おおっ、顔写真は、イケメンイイ男、イノケンさんこと井上健一郎さん23歳ではないか。そうか、そういえば、あの話題の卒論レポートを冊子にするような話があったような気がするな。忘れていてすまん。それにしても、この編集者、よく気がついて、送ってくださった、どうもありがとう。持つべきはイイ友と、こういうときだけ言い。

"魅力にとりつかれ元法大生 卒論の吉祥寺部分を「要約」"の見出しにリード文は。

"戦後のヤミ市に端を発し、今も世代を超えたファンを引きつける吉祥寺の「ハモニカ横丁」(武蔵野市)。学生時代にその魅力にとりつかれ、通い詰めた若者が、歴史と変遷を調べて冊子にまとめた。市史などの文献と、数少なくなった横丁の「生き字引」の話をもとにした力作だ。"

みなさん、買って読んでください。応援、よろしくね。とくに年寄りたち、「いまの世の中は」「いまの若者は」と懐古詠嘆にひたっていないで、こういう若者を応援しよう。若者たち、自分が興味を持ったこと共感できることをガツンと追求してみよう。500円。

イノケンさんのブログ「ヤミ市横丁研究所ブログ」によると、「吉祥寺駅ビルLONLON 2Fの弘栄堂書店でも販売中です」とのこと。…クリック地獄
ハモニカ横丁の干物の店「なぎさや」さんでも販売しているとのことです。


大衆食と森林緑資源と街・横丁は、根本的なところで密接に関係すると思っているおれが、初めてイノケンさんと吉祥寺で会ったのは、一昨年のことだ。そのとき、イノケンさんは大学生で、卒論のためのハモニカ横丁研究をレポートにまとめていた。それをいただきいろいろ話をした。そのあと、卒業後、故郷の新潟へ戻ったイノケンさんと再会したのは去年の10月、赤羽でだった。そのあたりのことは、以下の当ブログに。おれは過激なことを書いているけど、イノケンさんは現代の若者の目から、現実的かつ未来的に考えている。おおいに期待したいね。ま、功名をあせらず、じっくり取り組んでほしい。これから一生かけても惜しくないテーマだもの。

2006/10/29「赤羽、王子で横丁路地街談義」…クリック地獄

2005/03/25「横丁路地そして東京や「下町」を考える」…クリック地獄

2005/04/03「「観光」で東京はナントカなるのか?」…クリック地獄

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「ささやかだけれど、役に立つこと」

今夜の意地酒酔いどれ深夜便のタイトルは、2007/05/28「二日酔いの朝にアル中小説を読み」に書いた、村上春樹訳の『CARVER'S DOZENカーヴァーズ・ダズン レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫)に収められた短編のタイトルだ。

おれは、酔っているからではなく、この小説の、あまりの素晴しさを、うまく書くことができない。とにかく、これから何度も読むことになるだろう。

村上春樹さんの解説によると、原題は『小さな、良きもの』つまり「A Small, Good Thing」。
これは、直接的には、食べること、焼きたてのパンのことを、さしている。

疲れきって、深い苦悩の中にいる夫妻に、パン屋は、こう言う。
"「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」"

"「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」"

"「何かを食べるって、いいことなんです」"

この「何かを食べるって、いいことなんです」って、うまい訳だなあ。ほんと、村上春樹は、訳はうまい。

なぜ二人がパン屋にいるかは、読んでもらったほうがよい。「ささやかだけれど、役に立つこと」は、それ単独で存在するわけではない。「生きる」である。生きること食べることの根本が、そこにある。

生きることには、突然の不幸や、不安、不信、憎しみ、争い、さまざまなことがつきまとう。この小説の大部分は、どこにでも転がっているような、そんな話ですぎていき、最後のほうで、二人は疲れと深い苦悩を抱えて、パン屋にいる。だからこそ、「ささやかだけれど、役に立つこと」が生きてくる。このへんは、ストーリーテリングのうまさもあるだろう。

村上春樹さんの解説から……。"カーヴァーの小説には何かを食べる情景がよく出てくる。『でぶ』もそう、『大聖堂』もそうだ。そこでは人々は決しておいしそうなもの、上等なものを食べているわけではないのだが、それでも読んでいると自分も同じものを食べてみたいなという気持ちになってくるから不思議だ。僕は想像するのだけれど、カーヴァー自身食べることが大好きだったのではないか? それもたぶん日々の普通の食事を、普通に食べることが大好きだったのだろう。彼の小説はそのようないくつかの「スモール、グッド・シングズ」に励まされて成立しているように、僕には見える。"

おれなど、カーヴァーさんや村上春樹さんの足元の下の下の下の下の下…、はるかにおよばない谷底ドン底の男だが、当ブログやザ大衆食のサイトをごらんのかたはご存知と思う、ありふれたものをおいしく食べる、"日々の普通の食事を、普通に食べること"を大切にしたいと思ってきた。それを損なう、グルメ騒動や栄養健康食育騒動や下町昭和レトロ騒動に悪態をついてきた。

そして、今年のコンセプトは「好食」なのだ。おれも「スモール、グッド・シングズ」に励まされ、このブログやザ大衆食を続けよう。酔いどれは、やめられないが。カーヴァーさんは、アル中に陥りながらアルコールを断って再起した。ま、おれは、"日々の普通の食事を、普通に食べること"を損なうほどアルコールにやられてはいない。ちゃんと、日々「何かを食べるって、いいことなんです」を味わっている。つもり。

この話は、妻がパン屋に行って、息子の誕生日を祝うケーキを注文するところから始まる。ところがある事件から、それどころではなくなってしまう。ケーキは放っておかれる。パン屋は頭にきて、電話をする。ケーキのことは忘れられている。パン屋の電話はエスカレートし夜中の悪戯電話になる。夫妻は怒り心頭、パン屋へ出向く。パン屋は言う「あたしは奥さんが電話で言われたような邪悪な人間じゃありません」。パンを食べる、ささやかなことは、和解にも役に立つ。食べることが好きであれば、お互いの誤解をとき理解を深める助けにもなる。食べることって、そのようにいいことだ。とも読める。もっとも、会ってテーブルを共にできればのことで、電話で邪悪な人間と嫌われたままでは、どうにもならない。が、そんなこともあるなあ。

当ブログ関連。

2006/12/29「本気で考える「好食」」…クリック地獄

2007/01/12「飲食の楽しさの格別な意味」…クリック地獄

2007/01/14「ファンダメンタルな好食」…クリック地獄

2007/05/22「おれは生きている! お前も生きている!」…クリック地獄

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2007/05/30

日本そば:中華そば:ラーメン

……身の程もわきまえず、人を裁くようなことばかりしているグルメは、食文化を貶めるだけ。
……やはり食べ物の話に興じる日本人はバカがおおいということさ。

けっきょく、かなしいかな、そういう結論になってしまった。ことわっておくが、そば屋で一緒に飲んだおれの連れは、なかなか食べ物にウルサイが、「グルメ」が大嫌いなのだ。「あなたはグルメですね」なんていわれようものなら、「おれをあんなバカドモと一緒にするな!」と血相を変えて怒る男だ。あんたもう65歳なんだから、あまりカッカするなよ。

眠くて中断した夜中の「女と日本そば」の話を続きを書こう。あまり愉快な話ではない。隣の席の、女にふられた話もあまり楽しいものじゃないが。

ようするにおれの連れが、顔見知りのラーメン屋へ行った。するとそこのオヤジがこんな話をしたというのだ。

このあいだ、冷しラーメンを注文した客がいて、つくって出したら、見るなり「これは冷し中華じゃないか」といわれたので、それなら食べなくてもいいよとスグひっこめた。客は帰って行ったが、ものには言いようがあるだろう。ウチはもう30年以上もこれを冷しラーメンでやっているし、知り合いの札幌のラーメン屋は、もっと前からこれが冷しラーメンだ。ああいうことをいう客がちかごろ増えたけど、どういうわけかね。思っていたのと違うといわれたら説明してやるけど、頭から「これは冷し中華じゃないかだよ」、そんな決まり、だれがつくったんだ、国語教育審議会かい。だいたい食べ物は食べてみて、うまいかうまくないかで判断してもらいたいね。

その話から、むかしは「中華そば」で、ラーメンとはいわなかったよな。そういえば、「そば」といえば中華そばで、いまフツウにそばと呼んでいるものは「日本そば」だったぞ、「そば屋」は「日本そば屋」と呼んでいたぞ。というような話になったのだった。

もともとゴチャマゼのものを分類しようなんて無理があるよ。だけど、そういうことをして偉そうにしたがるのがグルメというやつらでね。やつらは人様を採点し裁くことに夢中で、現実から学ぼうという姿勢がない。しかし「国語教育審議会」とは、うまい表現だな。偉そうなグルメは、方言や土着のもの、店や地域ごとの独自の歴史的発達を認めようとしない御用学者とおなじようなものではないか。そんなところに食文化が開花するだろうか。食文化こそ、それぞれの人びとの作り方しだいの自由なものでなければ。だけど、そういうココロザシのないものがグルメじゃないの。知ったふりして威張りたいだけの低脳の見本みたいな。

そんな話。

ちなみに、あてにならないWikipediaの「ラーメン」には、「呼称の変遷」という項があり、こう書いてある。引用……

昭和20年代までは「支那そば」という呼称が一般的で、「チャンそば」(チャンは中国の意)、「南京そば」(南京は「中国の」あるいは「外来の」程度のニュアンスで、都市としての南京を指すものではない)、あるいは単にそば、汁そばなどと呼ばれることもあった。

戦後、一般にも食べられるようになり支那そばや中華そばと呼ばれるようになった(ラーメンという言葉もあったが、中華そばの方が一般的だった)。この為、戦後の一時期、日本では「そば」「おそば」というとラーメンを指し、蕎麦は「日本そば」と呼称していた時代がある。現在も地方の高齢者の中にはこの呼び方をする人が多く、蕎麦屋を起源としているわけではないのにラーメン屋の店名に「そば」の字がある店も存在する。また、一部の中華料理店では長年「五目そば」とも呼ばれてきた。なお北海道では中華そば、支那そばという呼び方はほとんどされない。

1958年(昭和33年)に日清チキンラーメンが発売され爆発的ヒットして以降は「ラーメン」という呼称が標準的となったが、地域によっては中華そばのほうが通りが良い場合や、ラーメンと中華そばを区別して認識される場合もある。

近年ではラーメンの多様化を受けて、懐古的な意味合いから昔風のラーメンを支那そばと呼ぶ店も増加している

……引用おわり。

おれの体験は、ここに述べらていることに同意する。

また「冷し中華」については、「茹であげた麺を冷やし、酸味を利かせたタレをかけるのが一般的。夏限定で出される事が多く、風物詩ともなっている。なお北海道で「冷やしラーメン」と言うとこちらの方を指す。また、西日本で「冷麺」と言った場合も「盛岡冷麺」ではなく、こちらの方を指す。」とある。ラーメン屋のオヤジがいっていることは、これに即している。

冷しラーメンについては、「冷やし中華とは異なり通常のラーメンを冷たくしたもの」と解説しているが、しかし、冷し中華と冷しラーメンの区別も、かつてはこのように「厳密」ではなかった。

さらに気になるので、手近の本にあたってみた。

『B級グルメの基礎知識』(文藝春秋編、文春文庫ビジュアル版1989年)。「横浜中華街のツウになる基礎知識」「その五 午後の中華ソバがうまいというフシギ」では、「ところでこの街のラーメン事情はどうなっているのだろう」と書き出し、こう述べている。

「ただし、これらが厳密な意味では"ラーメン"と呼べないことを断っておく必要があろう。"ラーメン"といえば具のシナチク、チャーシューが必携品であり、時によってはナルト、ホウレン草、海苔などを伴う、いわば日本帰化食である」と言い切っている。著者は中島るみ子さん。

これに対しては、一例をあげておけば、こと足りるだろう。ごぞんじ、「中華そば」にこだわる荻窪の春木屋の「中華そば」は、そのラーメン必携のシナチク、チャーシュー、海苔入りなのだ。おれの記憶にあるほどんどの「中華そば」はこれであり、1962年に上京してのち、いつのまにか「ラーメン」というようになった。

「日本そば屋」の呼称は、70年代でも、そう呼んでいたような記憶がある。ということは「中華そば」が広く通用していたということか。

「厳密」という言葉を知っていても、「本質」ということを知らなくては意味ないだろう。細かく定義しても本質を欠いたら陳腐なだけだ。「厳密」とは「本質」に忠実になることではないかな。

とにかく、「そば屋」を、ワザワザ「日本そば屋」といわなくてすむようになったのはよかった。

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女と日本そば

そば屋で酒を飲みそばを食べていた。
「それで、その女とはここで酒を飲んだのが最後になったんだよ」男が言った。
もう一人の男は、黙って盃を傾けていた。
なんだか似たような話があるなと、おれは思った。
「だけど、どうもその理由がわからないんだ」男が言った。
すると、もう一人の男が、「嫌われたのだろ」と言った。
「だから、なぜ嫌われたのか、わからないんだよ」
「ほかに好きな男ができれば嫌われるさ」
どんな事情があってふられたのだろうか。
「納得いかないなあ。このままじゃ納得できないまま死ななくてはならないよ」
「そんなことないさ、忘れるよ。一年後に、おなじことを言っていたら酒をおごってやる」
おれは思わず笑って、酒を口にふくんだ。
おれのようなトシなら、もう死ぬまでひきずるだろうが、若いのだから、そのとおりだろう。男も女も、若ければすぐ忘れる。いくらでも楽しいことがあるし。おれは、そんな風に思った。
「おれの話を聞いてるのか、むかしはそば屋のことを日本そば屋といったよな」
おれの連れが、そういったので、おれは気がついた。
「そういえば、そうだ、なぜ、わざわざ日本そば屋といったのだろう」

午前2時半、眠いのでオシマイ。

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2007/05/29

「緑資源」をどうするのだろう、どうなるのだろう

Oganoosizu0705農林の大臣が自殺して世間は「政局」に関心が動いているようだ。だけど、このさい、「政局」より「緑資源」つまり山林資源は、どうなっているか、どうなるのか、とくに都会者は、そのことにどう関係していくかを考えてみる、いい機会ではないかなと思う。

マツオカさんというひとは、おれがちょうど熊本県の奥地でシゴトをしていたころ、そのへんを地盤に国会議員になったかたで、ちょっとだけ縁があった。そのころは宮崎県側の、のちにやはり農水大臣になったセンセイとも縁があり、このかたとは六本木でカラオケなんぞをやったりしたが、ようするに田舎で農林業に関係する何かをやろうとするなら、そういう付き合いが有効だった。

だから、自殺したからと同情し、すべてをチャラにしてあげるのはマチガイと思うが、そういうことではなく、マツオカさんの不幸に同情したいところはある。マツオカさんが、どんなに悪いことをしていたかは知らないが、たいがいのひとがやっているフツウのことをしていたのではないかなと思う。ましてやマツオカさんは「族」議員だ、ほかの「生き方」を知らなかったであろう。

なるほど「政治とカネ」のモンダイは大事だ。しかしだよ、そのモンダイが生まれる根源には、なんでも「政府頼り」という、とくに農林業の構造があるからではないか。なんでも「政府頼り」というのは、当事者は「政府頼り」であり、当事者以外の都会者は「政府まかせ」の無関心。「食育」だの「自然はすばらしい」だのと能書きたれていれば、食べていける。田舎では、キレイな水と空気だけでは生きていけないと利権にすがる。この構造があるかぎり、マツオカさんは生き続ける。ときにはマツオカさんのような犠牲をだしながら。

マツオカさんにかぎらず、「農村票」の地盤では黒いウワサはたえない。簡単にいってしまえば、それは議員だけではなく、選挙民自身が「利権」構造の末端を担いながら「生きている」からだ。

どの陣営につくかで実入りがちがってしまう、けっこうシビアな生活。うっかり反対陣営についてしまったら、オイシイ情報はあとまわしで、スカしか手にできない。没落を強める田舎で、それがどんなに恐ろしいことか、食料を与えられず、山の中に置き去りにされるようなものだ。

そしてイイ情報の結節点にいれば、あらフシギ「口利き料」のようなものが、入ってきたりする。逆にいえば、そういう地域へ行って、うまくシゴトをすすめるには、要所に納めなくてはならないものがある。貰うにしても、納めるにしても、法を犯さないようにやる。しかし、長い「癒着」で習慣化された「取り引き」は、ついイイカゲンになり、複雑な利権環境のなかで政敵にあばかれたりする。

とにかく、大小のマツオカさんが、フツウの人たちのあいだに、ごろごろいることでコンニチの農林業は成り立ってきたといっても言い過ぎではないだろう。それは言い換えれば、それで食糧政策は成り立ってきたのだ。

日の丸ハチマキでノキョーに動員され、特定候補の演説に集まる絵は、最近は表立っては、あまり見かけないが、その構造は、いまもって生きている。政治家と高級官僚は談合や天下りや利権の構造つくり、その末端にぶらさがりながら生きなくてはならない農林業のナサケナイ状態。これは「食育」なんぞでは解決しない。

それ以外の「正しい生き方」が望ましいのは、誰もが何度かは考えるだろうし、そのように「自立」した人たちもいる。だけど容易ではない。まだまだ、たとえば今度の参議院選挙でも、農協の幹部が自○党から立候補する。当選するだろう。

「農林」とまとめて言うが、何度か当ブログで書いてきたように、「稲作農家」が特別に優遇されてきたのであって、林業は、ずっと以前から「没落」の一途たどっている。

一方で、森林は生命の源であり、林業は農業や近海漁業の源であることは、リクツでは知られてきている。しかし、こころもとない。一度ニンゲンの手が入った山は、もはや自然ではなく、それなりに管理をしていかないとダメになる。そのマイナスの影響すら、計算されてない。

2006/08/27「幡ヶ谷、森林再生機構に1億円を!」では、「大衆食堂より明日がない林業に再生の道はあるのか。ナイに決まっているだろう」と書き、だが当面1億円あればと書いたのは、冗談ではない。そのように、自分の見える範囲で希望を持つことが、これほど絶望的になった食糧環境である緑資源のために必要であり、不幸なマツオカさんを根絶するために必要だと、不肖エンテツは思うわけであります。

マツオカさんも、おなじ悪いことするなら、われらが森林再生機構に1億1千万円工面してくれたら、1千万円献金してあげたのに。そしてその1億円は、道路をつくるだけで林業はしない土建屋に流れることなく、緑資源に投入されたのに。

画像は、没落林業の里の、没落林業の家から見た、未来のない緑資源。前の道路を走るバスは、年々本数が減り、いまでは一日4往復ぐらい。人口もドンドン減って、小学校も中学校もなくなった。しかし道路だけは拡張されている。この奥の林道は、立派に舗装され延びている。おかげで、たまにの登山のときには、あまり歩かなくてすむようになったが。立派な道路はできるが、成長したまま放置される林。林業家は没落。マツオカさんの姿は、この日本の姿だ。

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2007/05/28

二日酔いの朝にアル中小説を読み

Yomiuri0705_gyonikusoああ、ひどい二日酔い。二日酔いがひどいと、なぜマブタの裏が痛むのだろう。マブタの裏が痛むのか頭が痛んでいるのかワカラナイが。

昨夜は、大宮いづみやで飲み人の会。出かける前に、画像の読売新聞5月26日の夕刊が届いた。魚肉ソーセージの留め金が、「けが心配」「分別大変」などの消費者の声で消える。社会部の記事というところがオモシロイ。日常の何気ないところに、かえって本質的な、社会や人の変化がみられる。大事件だけじゃなく、こういうところに目配りのきく社会部っていいな。記事の最後に「大衆食に詳しいフリーライターの遠藤哲夫さん(63)は「開けるコツは、犬歯をうまく使うことだが、ヒヤッとした金属の苦みが口の中に残るのが印象的。野趣のあるものがだんだんなくなるのはさみしいですね」と話す。」と、おれのコメントがのっている。

飲み人の会は6時から。ちょい前にいづみやに着くと、シノさんがすでに飲んでいた。彼は中野からの参加だが、これで1月の最初から毎月「皆勤」。ほぼ時間通りに、地元のモンクさん、小岩のタノさん、川崎のクマさん、阿佐ヶ谷のオッタチトウフさん、かんぱーい。7時近くに地元のコンさんあらわれ、これで参加予定者すべてそろう。とにかく飲む飲む食べる食べるしゃべるしゃべる。いつものように大雑把にたのしく。おれは、予定どおり、ビール、ホッピー、梅割りと飲み継いで、最後によくきくアヤシゲ黒糖焼酎で、すっかりできあがり。10時閉店。もう一軒という声もあったが、もう飲めない、解散宣言。

朝、キツイ。午後イチまでにやることがあったので、ムリヤリ身体を動かす。片付け、横になって、村上春樹訳の『レイモンド・カーヴァー傑作選 CARVER'S DOZENカーヴァーズ・ダズン』(中公文庫)を読む。このあいだ2007/05/12「「古本暮らし」で「人生派」を考える」でカーヴァーの『ぼくが電話をかけている場所』を思い出し、読みたくなったのだ。いまは、この短編は、この傑作選に収録されている。二日酔いの頭で読むアル中小説。村上春樹も書いているが、「まったくもって明るい話ではないのだけれど」「読み終えるたびに「巧いなあ」とつくづく感服する」。まさに。

うげっ。吐き気をこらえて。ほんとあの黒糖焼酎は翌日の午後すぎまで、悪い酔いを残してくれるよい酒だ。これから、昨夜、オッタチトウフさんにコピーをもらった、田中小実昌編の『日本の名随筆66 酔』のなかの内田百閒「わが酒歴」を読むのだ。二日酔いで、アル中小説や酒歴話を読んでも、二日酔いがひどくなることもアル中になる心配もないだろう。読むだけならば。じつは、ビールを飲みながら読もうと思っている。

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2007/05/27

秩父は小鹿野町のわらじかつ丼

Ogano_warajikatu「粋だね!昭和の大衆食」だって。名前は「粋」とはいえないようだが、くってみねえ。ソースカツ丼だが、おもしろい名前をつけたものだ。昭和の初めごろの生まれらしい。小鹿野は、雑穀食の伝統が生きている。つつっこやえびし、キビ入りのおこわ。うまい蕎麦屋もあるよ。栗原製穀のそば粉も小麦粉もいいねえ。コンニャクもいいねえ。戸田牛乳、コクがあってうまい。ああ、酒は、隣の元吉田町になるが、小さな酒蔵、和久井酒造を、よろしく。その近くの七平豆腐、うまい!えーと、そうそう、わらじかつといえば、小鹿野町のクアパレスには、手づくりのわらじが売っている。「チエばあさんのわらじ」は、はくのがもったいない、飾りになる、なかなかよくできたわらじ。温泉に入って、わらじを買おう。ってな。ぐはっ。

ま、とにかく、きょうも忙しいから、この画像を掲載してオシマイ。
「前へ!」

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2007/05/26

今日の読売新聞夕刊 ちょっとだけ

さきほど読売新聞の記者から電話があって、2007/05/14「たくましく やりたいねえ プロセス主義」に書いた魚肉ソーセージの話、ちょっとだけだがおれのコメントとして、今日の夕刊に載せたそうだ。東京地方版だとおもうが。記事全体は、留め金がなくなるという話題らしい。お手近にあったら、ごらんください。

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カレーライスの歴史 もうちょっと責任ある発言がほしい

ちかごろ、丼物の歴史については、汁かけめしや芳飯からの発生や流れを説明するものがふえた。おれも、2007/05/10「5月10日発売『旅の手帖』6月号」に告知した寄稿では、そのように書いているし、本文のほうにも、そのような解説が見受けられた。

このばあい、難点が一つあって、室町期の芳飯については説明があっても、汁かけめしについては欠落しやすいことだ。それは、芳飯は、天皇や高級貴族が食べたもので文献にも明快に書かれているし、なにより権威主義におかされている世間では、天皇や高級貴族が食べていたとなると、通りがよい。だから、「芳飯」は汁かけめしの一種である、みそ汁ぶっかけめしの仲間なのだ、といった説明はないまま、イメージのよい芳飯の話に偏りがちだ。

しかし、それでも、丼物という料理を、ドンブリという器の始まりや言葉の始まりから説明していた、ついこのあいだまでの状況とくらべたら、かなりよくなったといえる。丼物とは、どんな料理か、あきらかになってきた。といえる。『汁かけめし快食學』の売れゆきは、イマイチだが、それなりに関心が高い、あるいはクロウト筋に読まれて、多少その影響もあるかな、と思われる。

モンダイは、カレーライスなのだ。これは、もうメチャクチャといってよいぐらい混迷を深め、あいかわらず根拠のない話が横行している。

そもそも「ライスカレー」の名付け親として、たいがいのカレーライスの話に登場していた北海道大学のクラーク博士さんは、いまやほとんど姿を消しつつある。Web上でも、かつては、そのように説明していたのに、いまでは削除されていて、あれまあ証拠として保存しておくべきだったと思ったりする。

その話は、もともと根拠がなかったのだ。そして、いまは、北海道大学のサイトの「よくある質問と回答」で、明快になっている。つまり「Q.クラーク博士について」の「3、クラーク博士とカレーライスについて 」で、このように説明している。さすが「学問の府」だ。
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/q/faq.html#9から……

 クラーク博士とカレーライスの係わりについて,「ライスカレーの名付け親はクラーク博士」,「日本のカレーライスの発祥は札幌農学校」,「生徒は米飯を食すべからず,但しライスカレーはこの限りにあらず。と農学校の寮規則に書かれていた」というのは本当のことか,事実なら資料を見せてほしい,という問い合わせを多くいただきます。
 しかし,札幌農学校当時の記録で[カレー]の記述があるものは,明治10年9月の取裁録(公文書を綴ったもの)の中の,買い上げの品として「カレー粉三ダース」,明治14年11月の取裁録の中の,「夕食<パン バタ 肉肴之類ニテ二品 湯 但隔日ニライスカレー外壱品>」,この2点の史料のみで,クラーク博士とカレーを結びつけるはっきりとした史料は残っていません。
 ただ,当時の状況としては,開拓史顧問のホーレス・ケプロンらによるパン,肉食の奨励に対して,農学校においてもこれを採用しており,恵迪寮史(昭和8年刊行)には,「札幌農学校・札幌女学校等はパン,洋食をもって常食と定め,東京より札幌移転の時も男女学生分小麦粉七万三千斤を用意し米はライスカレーの外には用いるを禁じた位である」と記述されています。また,「ライスカレー」の名称については,北海道立文書館報『赤れんが(昭和59年1月号)』の古文書紹介の中で,「開拓史の東京出張所では,明治5年に既に御雇い外国人の食事のために,コーヒーや紅茶,〈タ(ラ)イスカレー>を用意していたとの記録がある」と記述されています

……引用おわり。

このように明快になる一方で、まだ、「カレーライスの歴史は服部流割烹家元にあり!」と、こんなことをいっている人たちもいる。

「グルメ豆知識 日本初のカレーライス」
http://www.life-talk.net/other/saying/kako/07_hattori.htmlから

カレーライスの歴史は
服部流割烹家元にあり!

お題はこちら:「日本初のカレーライス」

視聴者の方から「カレーライスは、服部専門学校の校長(テレビによく出ている人)のおじいちゃんが作ったものらしいです。正確な情報を是非調べてください。」といったメールをいただきました!そこで、「学校法人服部学園 服部栄養専門学校」様に問い合わせたところ、服部幸應氏のお名前で正式にご回答をいただきました。

カレーライスの始まりは・・・
「服部流割烹家元」13代服部茂一氏が、明治18年から服部式料理講習会にて、カレーを教えたのが始まり。ここで注意したいのが「カレーオンザライス」と「ライス&カレー」の違い!服部式料理講習会にて広められたのが、ライスの上にカレーを乗せる「カレーオンザライス」で、ライスとカレーを別々に出す「ライス&カレー」は欧風式の出し方だそうです。

服部式:カレーオンザライス 欧風式:ライス&カレー

「服部流割烹家元」13代服部茂一氏は、カレーライス以外にもトマトを料理に取り入れたり、ハヤシライスなども日本で初めて料理のメニューに載せた人物だそうです。

情報提供:学校法人服部学園 服部栄養専門学校 様

……引用おわり。

それなら、いったい、いま引用したばかりの北大の資料とのくいちがい、あの横須賀海軍から始まったという説や、ほかにもいろいろ明治時代の初めてのカレーライスの話があったと思うが、それとの関係はどうなるのだろうか。それに対する説明責任は、必要ないのか。もし、この「服部式」なるものが、日本初だとすると、これまでのさまざまな説を否定するだけの、説明責任があると思う。

が、しかし、こうもいろいろな説が、しかもかつては耳にしたこともない説が「新発見」されるのは、どこか根本がイイカゲンで、よく調べもせずにその場その場でテキトウなことを言っているからだと思わざるを得ない。

それは、『汁かけめし快食學』にも書いたが、根本的な一つは、食べればなくなる料理の歴史を、どう考えたらよいかについてだ。そのことについて、考えられてない。本にのっている料理は、すべて作られ食べられていたとする根拠は、どこにあるのだろうか。

それから、「カレーライス」という言葉の歴史、その言葉が登場する出版の歴史、それらを含めたカレーライスの風俗の歴史と、料理の歴史をゴチャマゼにしていることだ。そのことも『汁かけめし快食學』にも書いたが、世の中には、おなじ名前でちがう料理、おなじ料理でちがう名前なんていくらでもある。それは、風俗のことであり、料理のことではない。

料理は手作業から生まれる。ある味覚を作りだす手わざやその習慣の歴史を考えなくては、料理としてのカレーライスの歴史にならない。

そこを考えれば、「伝来」したとされる「カレーライス」の何が伝来したのか、料理としてのカレーライスなのか、名前なのか、カレー粉なのか、そのすべてか一部か、そして、日本人の手わざや習慣はどう関係しているのか。など検討しなくてはならないだろう。

とにかく、自分が発表したことについては、ナニゴトにせよ、きちんと説明できる責任がある。まちがっていたら、説明し訂正が必要だろう。そういう責任を、ちっとはかんじているのだろうかと思わざるを得ない話が、カレーライスには多い。

そういう本が、おれの『汁かけめし快食學』より売れている。……って、なーんだ、そういう愚痴をいいたいのか。

いやいや、しかし、マジでよ、「国民食カレーライス」について、根拠薄弱な無責任な発言が許されているが、それでいいのか。これはワレワレの歴史なのだ。

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2007/05/25

大構想 小説料理物語

Konoememo_1忙しい。というか、図書館に通ったり、ウチの資料をひっくりかえしたり、調べものに没頭熱中夢中になっている。

ファイルから、これを見つけて、「わーお」と声をあげてしまった。そうなのだ、すっかり忘れていたが、以前に、「小説料理物語」ってなかんじのものを思いついたことがある。そのころおれはマーケティング・プランナーでくっていて、紙の上をウロウロしているような糞ライターなんてものには興味がなく、江原恵さんにその構想を話し、書いてもらおうとしたのだった。

そのおれの構想のメモ、それを見てその気になった江原さんが調べたメモ、などが出てきた。江原さんからの封筒は、1990年の年賀切手が貼ってあり、愛知県日進町の住所になっている。おれの住所は渋谷区千駄ヶ谷だ。消印は2月17日が読みとれるが、年はわからない。おそらく1990年のことだろう。

これは、『汁かけめし快食學』の254ページ「ルネッサンスなかけめし」にも書いた、1643年に本になった『料理物語』を近代料理思想の萌芽と見立て、それ以前100年ぐらいから始まる、日本近代料理物語を構想したものだ。おれはそれで、江原さんの『庖丁文化論』をおもしろい読物に展開することをもくろんでいた。中里介山の『大菩薩峠』のように、主人公以外のさまざまな人物が物語をつくり、いくつもの説話が連続する、厖大な構想だった。

江原さんは、すごい興味を示し、一人ではやれないから一緒に書こうといってきた。おれは、調べたり構想つめたりぐらいは付き合ってもいいからというような生返事で、たしか二度ばかり江原さんの自宅まで行き、また江原さんが講演などで上京したときには会い、そしてメモを郵便でやりとりしていたのだった。

おれのメモの一つには、こんなことが書いてある。「室町末期から戦国時代そして江戸時代初期は、今日までつながる、生活思想とそのカタチ・文化の草創期である。「料理はつくりかたしだい」と『料理物語』でいいきった、あたらしい生活思想の持ち主である料理人たちの誕生と、その目をとおしてみた、近代日本の源泉をつくった「非政治家」のバイタリティを描く」

物語の引き回し役の一人に、実在の人物である、近衛前久(さきひさ)をあげている。1536年に生まれ1612年に没した彼をみつけたのは、近かったのでよく利用していた原宿の渋谷図書館で調べものをしていたときだったとおもう。たしか、その時代の茶人たちを調べていて、近衛前久にたどりついたのではなかったかな。どうも図書館で調べものをしていると、すぐ脇道に入ってしまう。それで、こういう人物に行き当たることもある。この人は、摂政関白家の血筋で、関白になった近衛家16代の当主だが、資料から想像すると、とんでもなく自由奔放な生き方をしていた。時代がとんでもなくでんぐりかえっていたこともあるが、おれは自由奔放が大好きだから、エエッこんな公家がいたのかよ、と激しく興味をもってしまった。

『料理物語』には、二つだけ、貴族のニオイが強い「餅」が登場する。「御所様餅」と「近衛様雪餅」だ。江原さんの『料理物語・考』でも、その考察にこだわっている。これが料理物語の成立と深い関係をしめしていると見立て、そこに近衛前久をからめていく。ま、ようするに近衛前久と女、近衛前久の妹や娘をめぐる男たち、その男たちのなかに料理人がいて、この名前の料理が残ることになった、というのが、おれのそもそもの思いつきの発端だった。それは、実在したが不明の『料理物語』の著者の輪郭をうきぼりにするはずだった。

メモをみると、江原さんは、おもに実在あるいは伝説上の人物のリストアップと諸事件、おれは料理にからむ架空の人物の構想といったぐあいで、おれはもっぱら想像というか妄想というかをたくましくしている。うーむ、なかなかオモシロイ。きのうの夜、あるところで見知った女が男といるところを見かけたことから、おもわぬ想像や妄想が働いたりする。きのうのことも、数百年前のことも、おなじなのだ。

……と、こうしちゃいられない。忙しいので、このへんで今日はオシマイ。

画像は、江原さんのメモ。

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2007/05/24

玉川奈々福さんの師匠、福太郎さん亡くなる

Hukutarou22007/05/22「おれは生きている! お前も生きている!」に「玉川奈々福の浪花節は、「おれは生きている! おまえも生きている!」と生活感満々で、いいねえ」と書いたばかりだが、その奈々福さんの師匠、玉川福太郎さんの死亡記事をみつけた。突然の事故死。61歳。

なんともいいようがない。

昨年末12月16日、奈々福さんの襲名披露で喉を聴き、そのあと打ち上げ飲み会で一緒だった。玉川一門の師匠であるだけでなく、浪曲界にとって、大事な人だった。

福太郎さんの口演というと、天保水滸伝をはじめとする、男は度胸よ愛嬌よ、義侠の二字を横抱き走るステキな男たちの世界が、なんといっても妙味があり高い評価を得ていたとおもうが、おれが忘れられないのは、何年前だろうか浅草の木馬亭で聴いた、明治の探偵ものだ。築地署の探偵が活躍するそれは、山田風太郎の「明治波濤歌」の世界を髣髴とさせた。例によって、いいかんじで盛り上がったところで、「ちょうど、時間と、なりました~」でおわった。もう「うまいっ!」としか、いいようがなかった。あの続きを聴きたいと思いながら、ついに聴けなかった。一見、鬼瓦のようなコワソウな顔、まさに「男は度胸よ愛嬌よ」というかんじで、舞台度胸はよく、そしてふだんの笑顔はカワイイぐらい愛嬌があった。

黙祷。

奈々福さんは頼りとする師匠が亡くなり、大ショックだろうが、のりこえてほしい。
(画像は、一昨年の連続独演会「玉川福太郎の浪曲英雄列伝」のチラシから。「天保水滸伝」といい名口演だった。福太郎さんが亡くなって、「天保水滸伝」はどうなるのだろうか。奈々福さんは最近、福太郎師匠にいわれ、稽古を始めたばかりだった。)


浪曲師の玉川福太郎さん死亡=田植え機の下敷きに-山形
5月24日1時1分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070524-00000003-jij-soci

 23日午前10時50分ごろ、山形県酒田市北俣の農道で、浪曲師の玉川福太郎(本名佐藤忠士)さん(61)=東京都足立区本木=が田植え機を運転中に田んぼに転落して田植え機の下敷きとなり、病院に運ばれた。県警酒田署によると、玉川さんは午後10時18分、低酸素脳症のため死亡した。
 同署によると、玉川さんは酒田市北俣にある妻の実家に農作業の手伝いに来ていた。田植え機をしまうために運転していたところ、農道の左カーブを曲がる際に左側の田んぼに転落し、田植え機の下敷きになった。同署が詳しい事故原因を調べている。
 玉川さんは山形県生まれ。1990年に文化庁芸術祭賞を受賞している。

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2007/05/23

素敵なあなたの素敵な思い出

あなたの姿が目に入ったとき、あなたがいとしくなって光輝いて
この世界がまえと違って新しくなったように見えた
私はあなたが本当にステキだと認めなくてはならない

……と、このタイトルと書き出しで、アラッわたしのことを書く気なのかしらと胸をときめかせよろこんだアンタ。そんなアンタはきっとおれに惚れているにちがいないとおもうが、いっこないか。

なにかとバタバタと落ち着かないときは、ちょこちょこ調べては書きためていた軟派ネタをアップする。これは、それだ。

青春時代におれの頭に棲みついてしまった一曲。ジャズのスタンダードとして有名な「素敵なあなた」は、おれにとっては特別なのだ。いまでも気がつくと、そのメロディを鼻歌しているおれがいる。それにしては、自分の鼻毛について考えたことも調べたこともないように、よく考えたことも調べたこともなかった。アンドリュー・シスターズが歌って大ヒットしたぐらいの知識しかなかった。それをネットで調べたのだ。わかったことを書こう。

ラジオ関東(現・RFラジオ日本)が開局したのは、1958年12月24日。1943年生まれのおれは、15歳だから、中学3年の冬ということになるだろうか。その深夜放送の番組だった。番組名は正確にわからない。どうやら「ミッドナイトミュージック」らしい。オープニングミュージックのタイトルである「素敵なあなた」が番組名のように思っていた。とにかく、24時ごろから始まる、「洋楽」中心のデイスクジョッキーだったような気がする。

おれは、「素敵なあなた」以前から深夜放送を聴いていた。年表によれば、ラジオの深夜放送は、日本文化放送(現・文化放送)が1954年7月11日に最初に始めた。1954年というと、おれは11歳だから小学校5年生だろうか。だが、そのころおれは深夜放送を聴いてない。そもそもウチにはラジオがなかった。

はっきりしていることは、小学校6年生のときに、おれのウチはおれが小学校4年に倒産し離婚再婚4畳半間借暮らしのち、オヤジは再起し家を建て引っ越した。そこで初めて「自分の部屋」を持った。部屋にはラジオがあった。それで深夜放送を聴くことになった。

「素敵なあなた」のほかに記憶のある番組というと、23時ごろだったか24時ごろだったか、とにかく「素敵なあなた」が始まる前、10分ぐらい、大橋巨泉と前田武彦の「きのうの続きはまたあした」といったか「きょうの続きはまたあした」といった番組があって、これはほぼ毎日聴いていた。内容は覚えていない。どうってことないおもしろい話だった。

「素敵なあなた」は、毎日ではなく、週一ぐらいだったのではないかな。その夜が楽しみだった。モノを買うという習性があまりなかったせいもあってか、このシングル盤を買おうなどとはおもいつかず、ひたすら放送の日を待った。この曲を聴けば大満足で、番組の洋楽はおまけのようなものだった。

2階の6畳の間。廊下側は障子、反対側に一間の床の間と半間の押入れ。床の間は、カネがなくなって上塗りされないままの荒壁だった。そこに木箱を置き、その上にレコードプレーヤーを置き、その上にラジオを置いた。

ド田舎の深夜、静まりかえって、ラジオの音しかない。声変わりしニキビ面したおれは、それを待っていた。とりわけ、その声は、宇宙の彼方からやっと届いたかのようだった。古いレコードから出る音のように、かすれていた。そのかすれぐあいが、深夜の風情にピッタリだった。心もとなく、孤独な、そしてあとで知った言葉をつかえば、切なく色っぽかった。

原題は『Bei Mir Bist Du Schon』(バイ・ミア・ビスト・ドゥー・シェーン)。調べてわかったのだが、ラジオで使用され、おれが何回も聴いたのは、キーリースミスとルイ・プリマがカバーした盤だった。邦題は「美わしの君よ」とのことだが、そのタイトルの記憶はない。

YouTubeで聴けるアンドリュー・シスターズの『Bei Mir Bist Du Schon』には、当時の雰囲気がある。ま、カバーしたほうが、その雰囲気をまねたのかもしれないが。
http://www.youtube.com/watch?v=4Vvo3MaFcxw&mode=related&search=

このうたは、やはり深夜に聴くのがいい。

深夜に一人で聴いていると、ほんとにあれから半世紀もすぎたのだろうかとおもう。

最初の書き出しは、邦訳の一部をつかわせてもらった。こちらに詳しくある、クリック地獄。原題からしてそうだが、ユダヤ系の作詞だそうだ。世に出るまで、出てからも、ドラマがおおかったようだ。

あなたの姿が目に入ったとき、あなたがいとしくなって光輝いて
この世界がまえと違って新しくなったように見えたわ
私はあなたが本当にステキだと認めなくてはならないわ

歌詞は、女が男をおもってうたったものだ。こうまでいわれた男は、やっぱりうれしいのだろうな。が、ごちゃごちゃいわずに、いきなり抱きしめてキッス、ね、ベッドへいきましょうよだって、悪くはないのだ。ただ、それではうたにならないだけ。

深夜生活の一般化は、有史以来の生活の基本パターンを変える、決定的なデキゴトだったといえるだろう。それは古きよき時代といわれ、そこに正しい生活があるかのようにいわれる、昭和の戦後が生んだのだ。

田舎の片隅まで深夜生活が開発されていた時代。1958年8月、日清食品「チキンラーメン」発売。9月、タバコ自販機開発。朝日麦酒、缶ビール発売。12月23日、東京タワー完成。中学3年の冬、おれには素敵な女はいなかった。すくなくともいまでも覚えているような。

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2007/05/22

おれは生きている! お前も生きている!

 週刊誌「タイム」の編集長だったマシューズ氏に言わせると、ジャーナリズムで最も大切なのは、レポート(報告)することではなく、コミュニケート(伝達)することである。
「何を伝達するのですか?」と私は訊いた。
「最も大切なことは」と彼は言った。「リングの一方の男が言う言葉だ。『おれは生きている! おまえも生きている!』すると、その対戦相手もその気持を汲んで言う。『おまえの言うとおりだ! 二人とも生きている!』」
 これこそ「タイム」のようなニューズマガジンをつづける要諦であると私はいまだに思っているが、それはボクシングの試合を観に出かける立派な理由になる。テレビジョンは、放置しておくと、私たちを部族総会以前の状態に逆もどりさせてしまうかもしれない。すなわち、家族が最大の話し相手だった時代へ。

……『ザ・ニューヨーカー・セレクション』(アーウイン・ショー他、常盤新平訳、王国社1986年)のなかの「肉眼で見るボクシング」( A・J・リーブリング)から。

いまや、テレビジョンどころかパソコンもろもろのメディアは、家族すら話し相手でなくしてしまったようだ。かりに家族や友人知人との会話でも、メディアを仲介した、つまりメディアのネタをコミュニケーションのネタにしたコミュニケーションが、幅をきかせている。そして肉眼をつかうときにはすでに、その眼は、メディアから得たガラクタ情報で曇りきっている。空から明日の天気を読むのではなく、天気予報のつまった頭で空を見るように。

そもそも。「おれは生きている! おまえも生きている!」「おまえの言うとおりだ! 二人とも生きている!」に、おれは生々しい生活感をおもうが、コンニチの日本の商業メディアはとりわけ、こうした生活感を失っている。レポート(報告)もコミュニケート(伝達)もなく、煽動や脅迫と説教と自慢だけだ。

尊大な「評論家」や「作家」、おれのようなしがない「ライター」、そんな似非ツラをしてメディアを賑わす人たち、彼らの功名心によるお節介のおかげで、生活感のない話と情報が氾濫し、生活感のない空間が広がる。それを、ま、「情報化」というらしいのだが。

コンニチの活字文化、ブンガクなんてのは、そういう生活感を失った表現の頂点に立つものだろう。どんなブンガクの形式だろうが、生活感が失われてしまった。そしてその形式についてだけは、やたらうるさい。その場面に、飲食があり、人びとが生きる街はあってもだ。そこにあるのは生活から生活感をひいた飲食や街……。体裁も文も整っているが生活のニオイがしない。それが「美しい」といわれる。

「おれは生きている! お前も生きている!」というニオイすらなく。再開発されたビル街のようだ。そういや、ちかごろの落語や落語ファンもそうだな。そこへいくってえと、玉川奈々福の浪花節は、「おれは生きている! おまえも生きている!」と生活感満々で、いいねえ。とにかくいま、ブンガク的洗練とか、ゲージュツ的洗練とかいうと、そのように生活感を削り落としてしまったものなのだ。

ともすると、おれはこれを知っている、おれはこれを見つけた、すごいだろう、これはこういうものだ、こういうことだ、あるいは、ああもうだめ、助けてちょうだい、だめな人間なの、泣けるでしょ、笑えるでしょ、日本沈没だ~……そんなことを微にいり細にいり、針小棒大に述べる。ああ、わかったわかった、あんたは物知りだ正しい、そのうえ検索機能つき書庫みたいだ。ついでにいえば、身近な人が死んだりガンになってイノチの大切さに気づいたなんて、単に想像力がないだけのバカではないか。そのていどのものが、後世に残る創造的なことをやっている顔をしている。

汗が飛び散るほど殴り合うように、「おれは生きている! お前も生きている!」と言い合えなくなったムナシサよ。

が、しかし、せめて、飲食のときぐらいは、「おれは生きている! お前も生きている!」とやりたいものだ。おれが主張する、食事は「生命(いのち)をつなぐ祭事」とは、そういうことなのだ。そして「気どるな、力強くめしをくえ!」は、こうしてブログの路地裏で、しぶとく貧乏に生き続ける。

「大衆食 飲み人の会」が、「よい店よい酒よい料理にこだわることなく、楽しく飲む人間をみがく」を掲げるのも、べつに「よい店よい酒よい料理」はどうでもよいということではない。もちろん、飲み人の会の会場となる飲み屋は、「よい店よい酒よい料理」と縁遠いということではない。強いて言えば「おれは生きている! お前も生きている!」というニオイのする店だ。いやべつに、そういうニオイがしない店でも、ワレワレがいることで、そういうニオイが店の空気になるようになりたいものだとおもう。

ようするに、「楽しく飲む人間をみがく」とは、つまり「おれは生きている! お前も生きている!」とコミュニケートする力を育むことなのだ。これだけ飲食について誰もが語るようになった時代に、いちばん欠けているのは、それだろう。

自分が、モンダイなのだ。いつだって。

なんだか演説のようだ。まもなく午前1時。

おれより若い男、ただのリーマンだが、5回も結婚しているやつがいて、ショックをうけ悪い酔いしてしまった。きっと、いつも金持ちの女を選んでいたにちがいない。でないと、たいがいおれのように離婚貧乏に落ちるはずだが。

そうそう、タロウさーん、会社辞めたんだってね、妻と子をかかえてプーだから、これがほんとのプータロウだってねえ。エルからのハガキには、おれが「目標」って書いてあったけど……。ってことは酒とバラとビンボーかい。

ま、いいじゃないの、後をふりむいてもゴミばかりだから前をむいて、「おれは生きている! お前も生きている!」と生き抜こう飲み抜こう。

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2007/05/19

京都市右京区 だるまや食堂

このようなメールが届いていた。10数名しか入れない小さな食堂のようだが、サイトをつくって、しかも英語版も携帯サイトもあって、積極的に宣伝しようということだろう。大衆食堂の生き方も、さまざまになるにちがいない。たくましく力強く生き抜こうじゃないですか。

こんど京都へ行ったときは入ってみたいものだ……といいつつ、いつも行くと飲みすぎて、いろいろ教えてもらった食堂に寄らずに帰って来ることがおおく、行かねばならない食堂がどんどんたまっていくのだが。だから、いつまでも、京都へ行きたい行かねばならない理由が存在するわけでもある。

とにかく、みなさん、よろしく~

………

ザ大衆食 御中

初めまして。お世話になります。
だるまや食堂と申します。

当店このたびホームページを開設しまして、ぜひご覧いただきたくメール差し上げました。

380円定食約10種ほか、多数の定食・麺類・丼物を取りそろえております。遠方ではございますが、もし機会がありましたらお立ち寄りいただけると幸いに存じます。

なお、ホームページは英語版・携帯サイトもございます。
よろしくお願い申し上げます。

〒616-8016
京都市右京区龍安寺西ノ川町8番地
だるまや食堂

URL http://www.eonet.ne.jp/~darumaya-syokudo/

………

ところで「だるまや」といえば、ザ大衆食のサイトには西京区桂の串の店「だるま」を載せてある(クリック地獄)。この店と、この「だるまや食堂」は、なにか関係あるのだろうか。ないのだろうな。桂のだるまには、このあともいつだったかな?京都へ行ったときに寄って、べろんべろんに酔って正体をなくしてしまったのだが、ひげのマスターは元気にやっているだろうか。

ああ、こうやって書いていると、また京都へ行きたくなる。なにか仕事がないかね。でも、仕事だと、あまり酒飲めないしなあ。でも、ときには、あまり飲まずに、マジメに食堂めぐりをするのも悪くないか。でも、飲むのを自制した旅ってのもオモシロクナイし。ま、どうでもよい、とにかく、行きたい。


関係ないが、さきほど書いたことに関係。きのう入った、ション横の岐阜屋で、初めて気がついたが、あそこのシューマイは蒸すのではなく、麺をゆでるときのザルにいれて熱湯に入れて茹でるのだ。知らんかった。

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新宿ション横で、どうにもとまらない話

きのうのこと。夕方、新宿ション横〔鳥園〕で待ち合わせ。JR西口を出て、なんとなく地下道を選び、丸の内線自動券売機の広場を通りながら思い出したことがあってチトためいき。地下鉄ビル地下街に入るが、かなり以前に全面的にさくらやになってしまって、むかしよく飲んだ闇市なごりの店はあとかたもなく。ション横も来るたびに変わっている。思い出横丁のつるかめの隣、もりかわ食堂は、名前は「もりかわ」のままだが、イマ風ダイニングな居酒屋になり、明星食堂だったかな?そのあと穂波になったところは、ギョーザ屋のようなものになっていた。ほかもところどころ変わっている。

鳥園、まだ本格的に混む前。以前も、ここで昼間から飲みながら企画の打ち合わせなどをよくした。先に着いて飲んでいるとスーツ姿で決めたケイ男あらわれる。ビール飲みながら書類の束をめくり、ややこしいビジネスの話。うーむ、なんとかなるか。なんとかするよりしかたないだろう。難しい課題のないビジネスなんてありゃしないのだから。しかし日本はめんどうなことになってきた。戦争は平和なうちに準備され気がついたときには始まっているのさ。このあいだの戦争のときだって東京の大勢は、ナニゴトもない楽しい平和なうちにすすんだ。疲弊していたのは地方だけ。ファシズムや戦争はコワイ顔して近づいてくるわけじゃないよ。パリじゃドイツ侵攻直前までバカンスの旅行の話で浮かれていたというし。山口瞳も書いていたね、真珠湾前夜の銀座のお祭騒ぎ賑わいは、ふだんと変わらなかった。いまの日本には治安維持法なんていらないと誰かいってたな。頼りになる学会さん。有識者文化人ただのインテリという連中は骨抜き、ビジネスマン顔負けに上手、カネさえやればなんでもしてくれる。カネはいくらあってもよい、いくらあっても足りない。改憲から戦争の準備が始まるのではなく、戦争体制の仕上げだよ。もともと改憲を党是とする党を政権の座に選んできたのだから、いまさらどうのこうのじゃないだろう。いい湯加減の、いよいよ前夜というわけか。本気でやりたがっている連中がいるし。もう、どうにもとまらない。そんなうたがあったな。国民が選択していることだから仕方ないが、ビジネスが政治的要因に左右されてやりにくい。出店計画もころころ変わって。リーマンは、この状況から逃げられないからね。心臓に悪いよ。肝臓は丈夫そうじゃないか。どっちも一個だけだからなあ。どういうつかいかたをするかだな。そっちは若いが、こっちは先が見えてきた。そんなこといって逃げないでくださいよ。さあね、おれもトシだから、楽してカネほしい。ケイ男、社に戻る。飲んでも神経冴えたまま酔わず。岐阜屋でやきそば。

雑踏の中を、思い出をたどるように、地下道を東口へぬける。1962年上京してから、何度ここを歩いたか、天井の高さだけは変わっていない。何も変わっていないとおなじだ。これこそ「昭和」だよ。あのとき待ち合わせの約束をしたが会えずに終った東口駅交番前は大混雑、待ち合わせの人たちをかきわけなくては通れない、かきわけながら、アイツはどうしているかと思う。約束はむなしい、明日のことはわからない。なにがどう変わっていくのか。自分の楽しみだけで知らん顔していたほうが楽ではあるが。

北浦和に着き買い物して7時半ごろ帰宅。酒飲んで、届いていた古本セドローくんの目録「古書現世」をみていたら、前から欲しかったが高くて手が出なかった本、なんとか手が出せる値段でのっている。さっそくメールで注文。夜半すぎに返事あり「売り切れ」。やはりそうか、あの値段では、すぐ買い手がつくと思った。それにしても手の早いヤツがいる。なんでも競争、はやいもの勝ち、どうにもとまらない。

と、日記風に書いてみた。明日の高千代友の会の酒宴は都合つかず出席断念。

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2007/05/18

「唐辛子」の味わい

チョイと古いネタだが、『彷書月刊』2003年5月号の特集は「まんぷく」だ。

書いている顔ぶれは、「幸福だった詩人」山本容朗、「浅草広小路の屋台」吉村平吉、「牛乳屋の子孫が語る牛乳物語」黒川鍾信、「料理学校の歴史とその周囲」真銅正宏、「滋養食と健康」串間努、「光太郎、スカッとさわやか――清涼飲料の時代」林哲夫、「まことしやかさの「向こう側」――食をめぐる「うわさ」から」重信幸彦、「ハチミツと食文化の一考察」清水美智子、「おいしい味噌の造り方」佐藤隆、「宇宙食、過去から未来へ」松本暁子。

吉村平吉さんが亡くなられた2005年の春から2年がすぎた。いまあらためて、ここに掲載の吉村さんの文章を読むと、味覚の表現にハッと思わせるものがある。そもそもあれほど浅草に通じていながら通ぶることのない人で、食に関してもそうだったが、やはり、なかなかの方なのだな。

「浅草広小路の屋台」というタイトルで、「日本一の盛り場といわれた頃の浅草(――いまは誰もいわない)の魅力は、観音様と六区の興行街、それと安くて旨くてしかもバラエティに富んだ食べもの屋にあった」と書き出し、とくにいまでは面影すらない、浅草ならではの屋台について書いている。

浅草の屋台といえば、近代の汁かけめし〔牛めし〕の屋台で、これはいまでも「浅草名物」らしい名残りがあるが。このように書いている。以下引用……

 "カメチャボ"と称えた牛めしの屋台は浅草名物みたいになっていた。何軒かあっても、あそこのが旨い、とそれぞれの常連があるらしかった。
 因みに、カメチャボのカメは洋犬のことで、横浜あたりのガイジンが犬を「カメーン!」と呼んだことからきているらしい。チャボはチャプスイの訛ったもので、つまり"犬のご飯"の謂れである。

……引用オワリ。
この文章は、ヒジョーに微妙な内容を含んでいる。カメチャボが"犬のご飯"だというのは、ウワサのように犬肉をつかっていたことに関係するのか、それとも「猫まんま」のことを「犬めし」と呼ぶように"犬のご飯"なのか。そこんとこが、どちらともとれるようで、気になる。「謂れ」とのことだから、後者のような気がしないでもないが。

それはともかく、おれが、ハッとしたのは、この記述だ。

「とくにカメチャボの屋台には感動した。初めて経験する味ということもあって、七味唐辛子をふりかけると脂濃いはずなのにさっぱりした食感だった。牛の筋肉をじっくりと柔らかくなるまで煮込んだものが主体だという。」

この「七味唐辛子をふりかけると脂濃いはずなのにさっぱりした食感だった」は、じつに簡潔にうまく書いている。近年の韓流ブームもあって「辛い」ものがはやったが、ばかに「辛い」ことを競うような話ばかりで、このように辛子の味わいを表現した例は記憶にない。

牛筋煮込みもそうだし、ヤキトンのカシラなども、一味唐辛子を真っ赤になるぐらいかけてたべると、さっぱりするだけでなく脂の旨みが引き立ってよい。ま、好き好きだが、唐辛子の効果はそういうことなのだと、あらためて思った。

当ブログ、吉村平吉さん関連
2005/03/07「吉村平吉さん逝去  追記」…クリック地獄
2005/03/20「望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと」…クリック地獄

ザ大衆食「浅草と浪曲と牛すじ煮込み」…クリック地獄
「ふくちゃん」が登場するけど、ここが浅草でイチバン安くてうまいという話をしているわけじゃないからね、まちがわないよーに、こころ狭い通ぶるグルメたち。

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2007/05/17

頑張れ日本の農業ビジネス はすみふぁーむのアスパラガス

以前にも紹介したことある、「長野県に移住してワイナリー&ブリュワリ-を造りたい。 頑張れ日本の農業ビジネス&田舎暮らしを楽しもう!」というニック蓮見さんのメルマガ「第59回 はすみふぁ~むより、はたけだより」が届いていた。一部を紹介すると、こんな内容。

<<<<< 雹(ひょう)の直撃 >>>>>

もう本当にショックでした。

先週の木曜日は全国的に荒れた天気で、
各地で雷雨がふきあれると天気予報で言って
いましたが、まさか雹が降ってくるとは。。。。

全国的でもここ東信濃地区がたくさん降ったようです。

おかげでぶどうの葉はビリビリ、アスパラもポキポキ。

自然災害ですから怒ってもしかたないのですが、
何かやるせないです。

不幸中の幸いはまだ葉が出はじめた頃だったので、
被害がそんなにひどくなく、これからまだまだ新しい葉が
出てくるという事。

これが2年前のように6月に降ってきたりすると、
かなり参ってしまいます。

まあおこってしまった事をクヨクヨしても仕方ないので、
今後の災害があまりないように祈りつつ、今季を乗り切りたいと
思います。 

何事も前向きに考えないと農業なんてやってられないですよ(笑)


<<<<< アスパラ発送しています  >>>>>

とういうわけで霜にも負けず、雹にもめげず、
はすみふぁーむの採りたてアスパラガス、現在
日本各地に好評発送中です。

生で食べられるくらいの新鮮なアスパラガス。
ニックはグリルして軽く塩をふったり、バターで
炒めたりして食べるのがお気に入りです。

パスタに入れても美味しい、すり潰してポタージュに
入れても美味ですね。

ベーコンで巻いてもいいし、ピザの上にのせても。。。。

こんな感じで妄想はとまらない(笑)

はすみふぁーむでは収穫したばかりのアスパラガスを
そのままクール宅急便にて発送しています。 
収穫日の次の日に到着するので新鮮そのものです。
(九州、北海道その他の地域は翌々日着になります)

この機会に是非お試しくださいね。


……がんばっているねえ。応援したいねえ。

はすみふぁーむからは、巨峰を買ったことがあるけど、うまかった。きっとアスパラもうまいだろう。ほんと、そもそも、スーパーで売っているアスパラは、とてもとれたてとはいえないわけで、あのみずみずしさがない。

大都会の大衆は、なかなか新鮮なうまい野菜を安く食べられる機会がないのだけど、こういう直販通販を利用し、職場や近所の方と一緒に割り勘で試みるのもいいのではないかとおもう。そして、うまい野菜をたべてみながら、これまでの「農協農業」は、いったい大衆のために農業をやっていたのか、考えてみるのもよいかも。

とにかく、ま、よろしく~。
メルマガの読者にもなろう。

はすみふぁーむのブログ。長いタイトル。「長野県に移住してワイナリー&ブリュワリ-を造りたい。 頑張れ日本の農業ビジネス&田舎暮らしを楽しもう!」…クリック地獄


当ブログ関連
2006/09/07
「はすみふぁーむ」を応援するのは「地産地消」の精神に反するか?…クリック地獄
2005/10/06
長野県に移住してワイナリー&ブリュワリーをつくりたい、頑張れ日本の農業ビジネス…クリック地獄

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「男と女」の話はね

2007/05/11「「孤独のグルメ」の食べ方で復活「男と女」」、おもしろいから、「男と女」を続けろという声が若干ありますが、あれはね、酔っ払っていては書けないのですよ。あれを酔っ払っても書けるようになったら、おれは小説家だ。って、小説家だって、酔っては書かないか。

ま、だから、女にふられた話やら、たいがいの思いついたことを書くだけなら、酔っていくらでも書けるけど、「男と女」のあれは、イチオウ構成というか、いろいろ考えないと書けない。意地酒飲んだあとに、ただ指がキーを叩くままに書いているのとはちがうわけですよ。また書くつもりだけど。酔ってないときに。そーいうことです。

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ビンボーを背中にしょった不器用さ

ジワジワジワと、きますねえ。なにがって、酒じゃないよ、「ビンボーを背中にしょった不器用さ」ですよ。うまいこと書くねえ。

[書評]のメルマガ vol.313 2007.5.16発行、これ、きょうの発行か。えっ、きょうは16日か。でも、いま、24時をまわったから17日。はやいなあ、あれから何日がすぎたのでしょうか。ほんと、おれは不器用でねえ。田舎者の不器用といったら、都会で女にふられる役回り。もてないわけじゃないが、ふられる。そこなんだな、モンダイは。この場合、「女」=「世間」と見立てるとわかりやすい。なにをやっても、必ず、どこか不器用で、クソマジメといえばクソマジメなのだが、ワザワイのもとになる。本気で好かれることがないというか。チョイと不器用が出ると、みっともないドジをふんだり、ふられたり、敬遠されたり、受け入れてもらえない。

まったく、「ビンボーを背中にしょった不器用さ」とは、うまいねえ。コレ、入谷コピー文庫の堀内恭さんが書いている。「[書評]のメルマガ」での連載「入谷コピー文庫 しみじみ通信」だが、今回は「飯田橋ビンボー大学先~輩、遠藤哲夫!」というタイトルなのだ。そのなかにある。こんなぐあいね。

「遠藤さんと会うのは、だいたい安い居酒屋か大衆食堂なのですが、いつも奇妙な元気をもらっています。遠藤さんは新潟、私は高知というどちらもド田舎者という共通点のほかに、遠藤さんとは、飯田橋ビンボー大学の大先輩と後輩という間柄なので、どこかビンボーを背中にしょった不器用さがあるような気がします」

「飯田橋ビンボー大学の大先輩と後輩」といっても、トシも離れているし、おれは大学へ入学しても、食うのに忙しく仕事を転々としたままやめただけだから、あまり大学のことなど話したことはないのだが、たまたま堀内さんとは、その話になった。というのも、堀内さんの出身は高知で、おれは高知のスーパーマーケットの仕事を1年ぐらいやっていたことがあって、堀内さんの故郷に少しばかり土地勘があったりで、なんとなく昔話をしているうちに、大学のことやらいろいろな話になった。

おれも堀内さんも、紳士淑女小市民の東京に同化し切れない、田舎者くささ、貧乏くささを引きずって生きているなあとしみじみおもう。「ビンボーを背中にしょった不器用さ」は、そのかんじを、じつにうまく表現している。

ま、こちらをご覧ください。……クリック地獄

堀内恭さんはフリーの編集者で、倒産した四谷ラウンドから刊行の『ぶっかけめしの悦楽』は、彼がいなかったら世に出ていなくて、したがって『汁かけめし快食學』もなく、おれは、しかし、あいかわらず酒を飲んでいる日々だったにはちがいない。

ところで、はて、次の入谷コピー文庫に入る予定の現代日本料理考シリーズの「マカロニ」は、いつ書きあがるのだろうか。

今月は、日程がややこしくなってきて、例年の高千代酒造の友の会の酒宴へ行けるかどうかも危ぶまれる状態になっているというのに。

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2007/05/14

たくましく やりたいねえ プロセス主義

ある全国紙の記者と電話で話した。魚肉ソーセージについて取材していて、コメントがほしいということだった。ザ大衆食の「したたかな魚肉ソーセージ」を読んでおられて、いくつか質問され答えた。

そのとき話の中で、ようするに魚肉ソーセージは、片手に持って、あの留め金のところをかじり切り、口にくわえたまま包装のフィルムをはがし、丸ごとかじる、その野趣がよいとおもうのだけど、そういうものは行儀が悪いということになって、だんだんおとなしくなるだけでツマラナイ、というようなことをいった。すると記者が、「たくましさがなくなっているということでしょうかね」というふうにいった。

電話がおわってからまた、さきほどブログに書いた「たまたま入った食堂が」にも関連して考えた。大衆が、敷居の高い高級店に入るならともかく、大衆的な飲食店に入るのに、情報を頼るというのは、もしかして「たくましさ」が失われていっているからだろうか。

いつもハズレのない結果がほしい。よい結果だけを得たい。そういう、ある種の「結果主義」というか「成果主義」というか、それは経済活動のことだけではなくて、「生き方」として、そのようになっているのかもしれない。

たしかに行儀よくして、紳士淑女していれば、失敗は少ないだろう。ほんとはちがうとおもうが、そういうことになっている。それが食べ物や飲食店の選択や食べ方にまで関係し、食品や料理のつくりかたにまで影響をあたえるようになった。もちろん、賞味期限などの表示も含めて。そういう生活のために、とんでもない(飲食をネタにするだけの)「評論家」や「情報屋」が跋扈している。経営コンサルタントなんかいなくてもやっていけるのに、無用な経営コンサルタントに頼る経営みたいだ。

そこで、おれとしては、「プロセス主義」というものを考えてみている。「プロセス主義」は、刹那が大事だ。以前、チョイと書いたことがあるが、「刹那」というと、悪のイメージがあるが、そんなことはない。ま、とにかく、たいがい、成り行きまかせの出たとこ勝負をたのしむ。そういうことに強くなる。なにか、よい結果を出したい残したい、なんてことは、あまり考えない。うわべの調子よさに流されずに、ひたすらプロセスを大切にし、たのしむ。

その金谷の食堂に入ったときもそうだったが、朝起きて、とにかく金谷まで行くことだけは決めた。東京湾をフェリーで渡りたかったからだ。その先は決めてない。金谷について、とりあえずめしをくうことになって、さきほど書いたところに入った。それからJR線に乗って館山方面へ行くことにしたが、行き先が決まってない。最低料金の切符で乗り、乗ってから、駅の周辺にビルがないところで降りようと決めた。それで富浦駅についたら、まわりにビルがない。あわてて降りた。こうして、初めての土地、富浦に行った。ガイドブックを調べてなら、けっして行かなかったであろう土地だ。そこが気に入って、また行った。そのいきさつは、こちらに書いてある。(クリック地獄

万事その調子でも、けっこうたのしく充実した旅ができる。毎日の生活も、その延長の人生も、それでいいじゃないの。じつは、その調子で、横浜の伊勢崎町や渋谷で「遭難」しそうになったこともあるのだが。とにかく、もっと力強く、たくましく、魚肉ソーセージを丸ごとかじるように、したたかに生き残る魚肉ソーセージのように、やりたいものだなあ。

そんなことを、魚肉ソーセージの話から考えたのだった。
ああ、魚肉ソーセージをかじりたくなった。あれは、やはり、丸ごとかじるのだよ。うん。

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たまたま入った食堂が

ときどきポッと思い出し気になることがある。去年の1月17日に千葉県富津市JR内房線浜金谷駅前の「味はな」という食堂をザ大衆食のサイトに掲載している(クリック地獄)。詳細は完成してないのだが、ここは、その前1月14日に、「四月と十月」古墳部の旅で寄ったところだ。

じつは、それ以前に、金谷は何度か通過し、「味はな」の斜め前にある食堂に2回入っている。いま古いメモを探し出して調べたら、どうやら「澄芳」という店名で、最初に入ったのは1998年5月5日、2回目は2003年2月4日か5日のことらしい。いずれも、神奈川県横須賀港から千葉県金谷港へフェリー、浜金谷駅でJR線に乗り換え。帰りは、その逆になるのだが、その途中のことだ。

最初の5月5日のとき、「味はな」にするか「澄芳」か少し迷ったが、すぐ「澄芳」を選んだ。というのも、「澄芳」はむかしの大衆食堂のように素っ気ない佇まいだったからだ。「味はな」の店頭には、たしか雑誌かなんかに載った記事が貼ってあったりして、建物も派手とはちがうが目立つ演出だから、なんとなくそういうところは肉体が敬遠してしまう。

「澄芳」は、なめろうや刺身など、地元らしい料理に普通の大衆食堂メニューが揃っている。値段が、やや観光地駅前食堂風というかんじがしないでもないが、内容的に満足できるものだった。ま、いいだろうということで、次に前を通ったときにも寄った。

「澄芳」は、むかしから変わらないおなじことを続けているかんじで、惰性的といえば惰性的だ。「味はな」は、すでに紹介したように、外観から意欲的で、メニューや料理にも工夫がある。「澄芳」が保守的なら、「味はな」は新進というかんじで、それぞれ味わいがある。

ところが、いまザ大衆食のサイトに載っているのは、自分が怠けていることもあって「味はな」だけなのだ。「澄芳」は、店名すら忘れて、いま調べてやっとわかったアリサマ。

おれが気にしているのは、こういうことって、わりとあるのではないかということだ。どちらも、たまたま、入ったにすぎない。

「味はな」は、日程を分刻みで組むことが「趣味」の、自ら「数字フェチ」というスソ古墳部長が、あらかじめWebで調べて決めて、われわれは導かれてそこへ行ったのだが、おれからすれば、たまたまであり、スソさんだって、とくに「よい店」を「厳選」したわけではなく、その時間に浜金谷駅で合流する人たちがいるので、駅の近くということで選んだにすぎない。

大衆店というのは、たまたま入っても、甲乙つけがたい店がたくさんある。もちろん、好みのことをいってしまえば、「味はな」と「澄芳」は好みがわかれるところかもしれないが、たまたま一二度通りがかりに寄ることなら、どちらもそれなりの満足があるだろう。

ところが、かりに、いま浜金谷駅周辺の食堂を、ザ大衆食のサイトで調べると、「味はな」しかない。こういう外側の情報が、おなじ地域で甲乙つけがたくやっている飲食店に、情報的な差をつけてしまうことになる。

ま、そんなことを気にしていたら、こういうサイトはやっていけないのだが。なるべく、そんなことで差が生まれるようなことはしたくないな、とはおもう。

基本は、現場で、自分の眼で選ぶということだろう。おれも、そうして載せているのだから、その情報を活用するひとは、そのように手順をふんでもらいたいとおもう。しかし、その手順をはぶくために、情報を利用するということが、フツウでもある。

さらには、誰々さんオススメの店だからという「選択」もフツウになり、一方、自分が選んでいるのは「厳選」だの「正統」だのということを臆面もなくいうひとも出てくる。ともすると外観をみただけでよい店かどうかわかる神様のようなことまで言い出すものも出てくる、というアリサマなのだ。

だけど、「現場」では、誰々さんに選ばれなくても、ちゃんとやって生きている飲食店は、いくらでもあるのだ。もちろん、評価しフルイにかけることをしてはいけないというつもりはないが、大衆店のばあい、おおくは根拠が薄弱である。評価しフルイにかけるほうだって、市場調査のように、キッチリ地域を調べあげているわけではない。ほとんど、たまたまの連続なのだ。

でも、たまたまで、運命が決まってしまうこともある。むずかしいなあ。

ま、知ったかぶりの尊大な態度だけは、気をつけたい。ゆきあたりばったり、たまたまの出会いもよいものだ。

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2007/05/13

「こほろぎ嬢」18日まで、下北沢の憂い

2007/05/07「コナモンと汁かけめしの出合い」にコメントをいただいている、山崎邦紀さん脚本の映画「こほろぎ嬢」(監督は浜野佐知さん)は、正月に公開ロードショーをやった下北沢のシネマアートンで今週18日金曜日まで、アンコールモーニングショーをやっている。午前11時から。

もう平日だけになってしまったから、平日の午前11時から、どんな人たちが見に行くか。きっと昼酒を飲める人たちだろう。昼酒やめて「こほろぎ嬢」を見に行くか。

そもそも、客の入りに一喜一憂しているわりには、告知が徹底してない。おれなんぞは、大阪の公開はいつかと気にして、といってもそれほど熱心に気にしていたわけではないが、できたらここに紹介したいとおもって、山崎さんのブログをときどきのぞいていたのだが、ながいあいだ更新もなく、そして、トツジョ、去る4月23日だが「はて面妖な十三~『こほろぎ嬢』大阪ロードショー」の記事が載った(クリック地獄)。

山崎さんから見た大阪の十三の面妖ぶりが画像入りで、とてもオモシロイのだが、これ、映画のほうはロードショーが終ったあとで、映画館がある十三の話なのだ。なんとまあ、事後報告じゃしょうがねえだろう、映画の客を集める気があるのか。

そうおもっているところへ、愛人8号(7号ではない)からメールがあった。下北沢のシネマアートンへ「こほろぎ嬢」を観にいきますと。えっ、また下北沢でやっているの、そんなこと知らなかったぞ。そりゃまあ、どこかでチェックしていればわかるのだろうけど、山崎さんのブログに告知がないなんて、まあ、あのひとらしいというか、さすが日本のドブロフスキー?といわれる大物だ。それなら田舎の消防団のハッピを着て映画館のまえでウロウロしながら客の入りを心配せずに、酒場で酒飲んで悠然としていればよいものを。とおもって、愛人8号にはメールで山崎さんへの伝言を頼んだのだった。こんな内容。

こほろぎ嬢、またやっているとは知らなかった。
ヤマザキクニノリは宣伝がヘタだなあ。
自分のブログにも、そんなこと書いてないし。
明日、たぶん会場にいると思うから、
(宣伝を徹底してやってないのに客の入りに一喜一憂しているはず)
見つけたら、そういっておいてください。

彼女は、山崎さんに、この携帯メールをそのまま見せたらしい。その日は、ちょうど浜野監督が本業?のエロ映画の撮影で挨拶ができないので、山崎さんが挨拶をしたとのことだ。ま、その日のこと、そして、なぜブログに告知をできなかったかの、ながーい言い訳を、山崎さんは、きのう12日にブログに書いた。「『こほろぎ嬢』下北沢リターンズ~エンテツ大兄へ」というタイトル。(クリック地獄

その長い長い文章を最後まで読むと、最後のほうにいたって、このリターンズが今週の18日金曜日まであることがわかる。「これから一週間、浜野監督の登板する13日(日)、14日(月)、最終日の18日(金)を除いて、わたしが舞台の袖から挨拶することになっている。モノは試しで、一度聴きに来てもらいたいものである」と書いてあるのだ。この長い文を、みな最後まで読むものとの自信があるらしい。

しかし、たしかに、ながい文章だがオモシロイ。酔っ払って自転車で転がりヒドイめにあったこと。それがブログに告知を載せられなかった原因になったらしい。「5月4日が、映画『こほろぎ嬢』のパンフレットに、尾崎翠全集の書評(1980年)を収録させていただいた、吉行理恵さんの一周忌」にちなんで、吉行あぐり編『青い部屋』のこと。それに符節をあわせたように映画「こほろぎ嬢」アンコールショーが5日からはじまること。「このところ『こほろぎ嬢』の上映に関しては<mixi>の「尾崎翠『こほろぎ嬢』製作上映」コミュや「浜野佐知」コミュを中心に、せっせと広報してきた」こと。ところが「お金を使った宣伝を打てない以上、今回は<mixi>という親密な閉じられた仮想空間から出て、ブログという開かれた地平に出てみよう、と考えたのだが、バカげた大転倒のおかげでポシャッてしまった」というわけだ。

そして、「シネマアートン下北沢が入っている鈴なり横丁。下北沢の再開発計画によって、存亡の危機に立っている」ことが書かれている。そうなのだ。一年前ぐらい、そのこともからんでおれは下北沢であったシンポジウムに出たのだが。ま、もう、この話をしてもしかたないか。下北沢については、それが「繁華な街」の宿命なのかもしれないが、表層的なイメージで語られ流され、この鈴なり横丁も含め、そこにどのような蓄積があるかなんか、あまり語られたことはない。見かけの華やかさや欠陥をネタにするような話ばかりが流通する。街や店を知ったかぶりで語る連中が多すぎるのだ。

ま、ま、とにかく山崎さんの話は、それでやっと愛人8号と会ったときのことになって、それから、おれと会ったときの話になって、そこでナゼか、エロ映画撮影現場での「ハヤシライスの呪いなのだ」になる。これ、汁かけめしだからか。いや、この話がオモシロイ。

日本のドブロフスキーという、ドブロクとウイスキーをあわせたような名前と思い込んでいたが、そうではなかった。よく調べたら「タルコフスキー」らしいが、どのみちおれは知らない著名な人物のようであると褒め上げる女たちがいるらしい(この映画は、どうも女にウケがよいようだ)、山崎邦紀さんが脚本の「こほろぎ嬢」。今週18日まで、毎日午前11時から。よろしくね~。

けっきょく山崎さんの「『こほろぎ嬢』下北沢リターンズ~エンテツ大兄へ」は、挨拶が上手になったような気がするから、「モノは試しで、一度聴きに来てもらいたいものである」ということらしい。ふん。

シネマアートン…クリック地獄


当ブログ関連
2007/01/04「『こほろぎ嬢』お正月公開でも見に行くか」…クリック地獄
2007/01/16「形而上と形而下をふらふら」…クリック地獄
2007/02/12「「そして切ない「愛情料理」」に讃辞が」…クリック地獄

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2007/05/12

「古本暮らし」で「人生派」を考える

一昨日の10日、「生活感、関係あるか荻原魚雷「古本暮らし」」に、魚雷さんの出版を祝う会の案内状が届いたと書いた。それを追いかけるように、きのう、ご本人から本が届いた。恐縮しちゃうなあ。どうもありがとうございます。

掌編のつまったエッセイ集。夜中にふとんに入ってパラパラ見た。「クリスマス・コラム」というタイトルの「今年はアメリカのコラムニストの本をたくさん読んだ」の書き出しが目にとまり、読んだ。読んでいるうちに眠ってしまって、ほかはまだ読んでない。

おれも、そこに名前があがっている、アンディ・ルーニーやマイク・ロイコ、ボブ・グリーン、ピート・ハミル、東京書籍のアメリカンコラムニスト全集を続けて読んだことがあった。いま名前をあげたうちピート・ハミルは、おれの肌にあわないが、ほかの3人は気に入っているし、3人とも、当ブログに登場しているはずだ。

もとはといえば、村上春樹訳のカーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』を読み、それとは関係ないが、1987年秋、急性肝炎で入院した。入院の最中に、アルバイトで使っていた大学生から見舞いにアーヴィングの『サイダーハウス・ルールズ』をもらって読んだことで、なんとなくアメリカの現代ブンガクって、けっこうオモシロイなと思い始めた。

でも、おれは本好き読書家ではないから、ゆっくりとアーヴィングやカポーティーとかサリンジャーとか大キライな村上春樹ご推奨系をはじめデレデレ読んで、コラムニストってのに取り掛かったのは、ちょうど『大衆食堂の研究』が刊行なった1995年ごろだった。と、いま振り返っている。

それはともかく、魚雷さんの文には、マイク・ロイコの『男のコラム 1・2』の解説のことが出てくる。これ、向井敏さんが書いている。しかし、おれは、その名前を見ただけで、読んでなかった。あまり読みたくないひとなのだ。

しかし、魚雷さんが書いていることが気になり、きょうの華麗なるブランチ、赤ワインとカマンベールチーズとパンをやりながら、その解説だけ読んだ。やはり、こいつは嫌なヤロウだと思いながら。でも、嫌なヤロウだからといって、全人格を否定してはいけないし、書いていることを頭から否定してはいけない。ただ、おれは、こういう評論家に評価されるようなことは、文章のスタイルも含めて書く気はしないということだ。(どうせ書けないだろう。という声が聞こえてきそうだが)

おれが持っているのは河出文庫版で、向井敏さんの解説は、『男のコラム1』にある。魚雷さんが引用しているのは、向井さんが書いているけど、魚雷さんが「心酔」しているという鮎川信夫さんの文からの引用だ。

つまり、鮎川信夫さんは、「アメリカのコラムニストを、「内外の政治を中心に論陣を張る有識者タイプ」と、「生活問題の万般を扱う人生派タイプ」との二つの型に大別し」ている。

そして向井さんがいうには、「この分類に照らして、邦訳されたコラムニストたちの顔ぶれをながめわたしてみると、そのほとんどが「人生派タイプ」に属する」。さらに、その「人生派タイプにもじつは大略二つの流儀があるらしい」と、ピート・ハミルやボブ・グリーンの系統の流派と、アート・バックウォルド、アンディ・ルーニー、マイク・ロイコの系統をあげる。

ふむ。鮎川信夫さんの「生活問題の万般を扱う人生派タイプ」というのは、わかる。おれが、そのタイプのコラムを読んで感じたのは、日本の新聞や雑誌の歴史だって、けっこう長いのに、どうしてこういうコラムニストが生まれなかったのか育たなかったのか、ということだった。

村上春樹訳のカーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』を読んだときも衝撃的で、こういう作家は日本には生まれにくいだろうなあと思ったのだが、それも関係するような気がする。

「食」から日本の文学や活字文化をみていると、何度も書いているように、すごい事大主義や権力志向や貴族趣味を感じる。それが日本の食文化の歴史をゆがめている、あるいは流行に右往左往の偉そうなグルメを生む一因ではないかと、気になっている。

ということを思いついたので書いておく。

荻原魚雷さん、「人生派コラムニスト」になる、か。『古本暮らし』、まだこれだけしか読んでないが、「人生派生活派」のニオイはする。チト文章表現が、チトなんかちがうかな、というかんじはあるが。

でも、もともと、おれは、こういうナントカ派といった分類は、あまり好きじゃない。便宜的な範囲の話にすぎない。

そうそう、それで一昨日の「生活感、関係あるか荻原魚雷「古本暮らし」」の最後に、「こうしちゃいられない」と書いたら、某編集者からメールがあって、「こうしちゃいられない、でしょ」「ブログで、人の本の宣伝をしている場合じゃないでしょ~」と。うへ~。編集者は、ブログのおかげで著者管理がやりやすくなったのだろうなあ。

高円寺に根が生えたような荻原魚雷さんのブログ…クリック地獄

ご参考、当ブログ

アンディ・ルーニー登場、ちょっとだけ
2005/06/09「「ブログジャーナル」とかな」…クリック地獄

マイク・ロイコ登場
2006/02/20「マイク・ロイコ流残飯絶滅法」…クリック地獄

ボブ・グリーン登場
2002/12/21「反グルメ論」…クリック地獄
2002/12/22「「反グルメ論」続」…クリック地獄

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2007/05/11

「孤独のグルメ」の食べ方で復活「男と女」

女…ひさしぶりに登場ですね。
男…何年ぶりだろうか。このカタチだと、おれがエンテツと誤解されやすいからやめていたらしい。
女…あなたは、エンテツではないのですね。
男…エンテツが書いてはいるのだけど。そういう意味では、あなただっておなじではないかな。ま、どうでもよい。このほうが書きやすいということなのだろう。それはともかく、『孤独のグルメ』の主人公は、どうやって店を選んで入っているか、そこをみてみよう。
女…輸入雑貨商の主人公は店を持たないで営業している。出かけた先々で食事をする。だけど、ガイドブックや情報誌などの情報は頼らない。自分で街を歩きみつける。
男…「第1話 東京都台東区山谷のぶた肉いためライス」。知らない街、雨に降られ走る。「くそっ、それにしても腹減ったなあ」「どこでもいい”めし屋”はないのか」「ええい!ここだ入っちまえ」
女…「腹減った、どこでもいい、ここだ入っちまえ」。これが第1話ということは、基本であるとも読めますね。
男…基本というか、そこが日常の出発点というか。それに、知らない街では、よくあることだよね。それが知らない街や知らない店や知らない人びとにふれるキッカケにもなる。この本は、ぜんぶそういう話ですね。
女…でも、まったく知らないところに入るには、勇気がいります。だから情報に頼るようになるのでは。
男…勇気ってほどのものはいらないとおもうけど、決断は必要だよね。だから「ええい!ここだ入っちまえ」なのでは。結婚の、ええい!このへんで決めてしまえに比べたら、ごく日常の決断で、勇気ってほどのことじゃないとおもうが。
女…結婚の決断とくらべちゃいけませんよ。見合いならともかく、知らない男と結婚するわけじゃないから。
男…あなたのばあいは、セックスの相性までわかって結婚しているからな。でも、もっとよい男がいるかもしれないとおもうだろう、この男でいいのかと。そういう迷いと決断とくらべたら。
女…なにをおっしゃいます、私は迷わず彼と結婚しましたよ、のぼせていましたから。知らない街の知らない店は、勇気いることがあります。汚いボロの大衆食堂など、引いちゃいますよ。女だから、かしら。
男…なにをしおらしいことを。そういう女がいるから、こぎれいな店ばかりになるのだ。そもそもボッタクリのアヤシイ飲み屋とはちがうのだから勇気なんかいらないよ。フツウの決断でいいのだ。つぎへいこう。
女…「第2話 東京都武蔵野市吉祥寺の廻転寿司」は、昼飯を食いそこねて4時半という時間。「何でもいいからと思いながら 入る店の無さとこみあげる空腹感にいらだちを覚える」牛丼屋を見ても「こんな時間に牛丼なんてマヌケすぎる」と、選んだのが廻転寿司。
男…マヌケすぎるという消去法があるんだ。いわゆるランチタイムを外すと、食事をするのが難しい街は、けっこうあるねえ。
女…この話は、選択の決断というより、その中途半端な時間に選ぶ、スナック的にも利用できるし食事としても利用できる廻転寿司の利用勝手のよさと、その時間帯ならではの客のおもしろさということになるでしょうか。
男…ではつぎ「第3話 東京都台東区浅草の豆かん」これは訪問先のお客さんに地元の甘味屋をすすめられる。こういうことは、ありがちだね。出先では、地元の人に聞くのが、よい。
女…主人公は「俺はまたも空腹を抱えて歩いている」と、とにかく空腹です。
男…だから甘味屋でも、雑煮や煮込みうどんや釜飯のようなものならあるだろうと行ってみる。いつも「空腹を満たす」ことが第一なのだ。
女…でも季節メニューの関係もあって、豆かんをくうはめに。「しかし、うまかった」と。だけど、やはりそれではすまない、「できれば腹ごしらえしてからたべたかったな」と思い、歩いているうちにかんじのよい洋食屋をみつけて、入る。
男…食事は腹ごしらえ。
女…食欲と食欲の文化的充足とエンテツが書いていました。「第4話 東京都北区赤羽の鰻丼」。早朝から仕事をして、納品先の赤羽で仕事が終わったのが9時半、「腹の中はキレイにすっからかん」「こんなに朝早くからやっている店なんかあるのかな」と駅のほうへ歩く。そこで見つけた店。朝から酒を飲んでいる客がたくさんいる。知らない街で、こんな時間に、こんなよい店を、ぐうぜん見つけるって、フツウではあまりないとおもいますが。
男…そうだね。だけど、やはり、腹がすいたら、まず街を歩くというのが、基本なんだよ。「第5話 高崎市の焼きまんじゅう」のばあいも。
女…ここには、いくつか重要なポイントが出てくるようですが。とにかく、店の佇まいをみて、「俺にお似合いのはこういうもんですよ」という選び方ですね。
男…それは自分の「生きざま」による選択といえるかな。あるいはアイデンティティ。そういうものがないとできない。それに、焼きそばと焼きまんじゅうという「不思議な組み合わせ」の看板にも魅かれる。「よし試してみるか」という選び方。
女…入ってみたけど、食べたいものがない。ミソダレをぬったアン入りの焼きまんじゅう。それが「焼き鳥みたいでおいしい」とは。デタラメすぎて頭が混乱する。ここでは「素朴な味」「複雑な甘さ」という表現は出てくるけど、「うまい」という言葉ありません。
男…「この店みたいに……ずっと昔に時間が止まってしまったような味だ」。そして店を出て帰りながら、焼きまんじゅう屋で焼いていたおじいさんのことが気になる。ばあさんが具合悪いっていっていたけど、あと5年たって、10年後、この街でひとりになって……そういう「鑑賞」や「感傷」も食事のうち。情報誌で「おいしい店」だけをピックアップしていたのでは、こういう体験ができない。生活が情報誌に偏ってしまう。
女…その最後の場面に関係しますが、この話は、パリで女にふられる最初の場面が、けっこうカギですね。仕事が忙しくてパリに逃げ出してきた女がイライラしている。主人公は、帰国をすすめる。「あなたはわたしを淋しいおばあさんにしたいの?」という女に、主人公は、「落ちつけよ ほらもうこんな時間だ 何かあったかいものでも食べながらゆっくり話そう」これがけっこうカギですね。主人公の生きざまというか思想だとおもいます。女は「もういいわ!」「わたしには何かを食べている時間も落ちついてる時間もないのよ!!」と。悲劇的。
男…そこまで極端でなくても、けっこうありがち。
女…あなた、そんなふうに女にふられたことあるでしょ。
男…なにを、トツゼンおっしゃいますか。
女…だから「もういいわ!」といわれて、食事も一緒にできなくなったのでしょ。
男…いやそうではなくて、「何かを食べている時間も落ちついてる時間もない」ということが、ありがちだし、この女は大女優ということなんだけど、そうではなくても、そういう忙しい日々には、だからこそ、落ち着いてゆっくり食事をとるというのが大事だってこと。なにも大急ぎで男と別れることはないのさ。
女…ほら、やっぱりふられたんだ。では、きょうはこれぐらいで。あなたは一人で食事に行きなさい。
男…ふん、あなたは、不倫の相手と飲みにいくのかい。
女…おだまりっ! あなたにはシオヤマやナンダロウがお似合いよ。

やれやれ、この男と女には孤独の情緒というものがないのか。

『孤独のグルメ』(久住昌之、谷口ジロー、扶桑社)

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2007/05/10

5月10日発売『旅の手帖』6月号

第2特集「美味満腹どんぶり紀行」に巻頭エッセイを寄稿しています。タイトルは「風土と人情を丸ごとほおばる」。よろしく~。

67~91ページまで、丼旅満載。

「漁港へ!市場へ!海鮮丼めぐり」……北海道釧路市、和商市場、勝手丼。神奈川県三浦市、三崎市場、マグロ丼。静岡県由比町、由比漁港、桜エビのかき揚げ丼。石川県金沢市、近江町市場、海鮮丼。

海鮮丼コラム「天草ありあけタコ街道の 絶品タコ丼に要チュ~目」

「列車旅!町歩き! ご当地丼紀行 飯田線ローカル丼の旅」……辰野町、ほたる丼。宮田村、名物丼。駒ヶ根市、ソースカツ丼。中村村、かのこ丼。松川町、ごぼとん丼。

「浜松うな丼 食べ比べ散歩」

「五大丼 山盛りうんちく」 カツ丼 うな丼 天丼 牛丼 親子丼

『旅の手帖』は、『散歩の達人』とおなじ交通新聞社の発行です。

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生活感、関係あるか荻原魚雷「古本暮らし」

ときどき「生活感」について考えている。「生活感」と「生活観」とか。それらと「経済観念」「経済感覚」の関係とか。「経済観念」のあるひとは「生活観」があり「生活感」があるという短絡や、貧乏な話でないと「生活感」を感じられない鈍感とか。もろもろ。もちろん、そこには「食」がからむ。

荻原魚雷さんが、最近『古本暮らし』という本を晶文社から出したそうで、その出版を祝う会の案内がきている。それをみて、また「生活感」を考えている。

「魚雷さん」という呼び方をしてしまうのだが、それほど親しい関係ではないと思うが、「親しさ」なんてのは「愛」とおなじようにスプーンで計るようには計量化できないのだから、まあいいのだ。

荻原魚雷さんのことについては、以前2004/09/11「BOOKMANな人びと・荻原魚雷の巻」に書いている。…クリック地獄

たいしたことは書いてないし、カンジンなことは書いてない。カンジンなことは、ね。魚雷さんは「生活感」のあるひとだ。「生活感」のある文章を書く。ということなのだ。すくなくとも、おれが魚雷さんに感じる魅力というと、そういうことなのだ。おれは「生活感」が好きだからね。

魚雷さんは「生活感」のあるひとだ。というのは、何度か本人と会って一緒に酒を飲んで、おれが、感じたことだ。

「生活感」のある文章を書く。というのは、『借家と古本』(スムース文庫)を読んで、おれが、感じたことだ。

だから、誰にも文句はいわせない。本人の文句だって、おれが感じたことなのだから、認めない。

ま、おれのようなブンガク的でも本好きでもない野蛮で下品なやつが、こんなことを書くと、ちっとも魚雷さんの宣伝にならなし迷惑かもしれないが、だって、そう感じちゃったんだもんね~。なのだ。

で、まあ、では、荻原魚雷さんについておれが感じる「生活感」とは何か? ということになるのだが、じつは、おれ、いま酔っているのね。昼の1時すぎ。酔っているけど中途半端で、もっと酔えば書けるかもしれないが、もっと酔うわけにはいかないので、それについてイマは書く気がしないわけ。

でも、簡単にいってしまうと、「生活のなかの」という言葉をアタマにつけてもおかしくない、ということなんだな。たとえば、「生活のなかの荻原魚雷」とか、「生活のなかの古本好き」とか、不自然ではない。そして、なおかつ、おれほどかどうかはわからないが、女が気にする存在だということなのだ。

飲み屋で飲んでいた。おれの前と隣には、「美人」といわれる女がいた。一人は独身、一人は人妻。その二人は、ゼッタイ、魚雷さんは離婚するとおもう、このままでおわらないわよね、何回結婚するのかしら、なーんて夢中で話していた。まるで、魚雷さんが離婚するのを期待しているかのように、そしてもしかしたらワタシとウフフフ、というような感情がにじんでいた。女ってのは、わからない動物だ。オイオイ、おれは、もうないのかと、おれはその話に耳を傾けているしかなかった。

ま、とにかく、おれはまだこの本を買ってないのだけど、「古本暮らし」というタイトルからして、そういう魚雷さんらしい。

では、その「生活感」とは、なんなのか、ってことを、また考えているわけだ。

たしか、魚雷さんは「自炊派」で、料理が好きだ。

と、『古本暮らし』のセンデン。になっているか? もう塩山芳明(『出版業界最底辺日記』著者)と南陀楼綾繁(『出版業界最底辺日記』編者、『路上派遊書日記』著者)の時代は、おわった。この二人は、単なる「蒐集家」で「生活感」がない、女にもてない。と、またセンデンしてしまったか。

こうしちゃいられない。

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2007/05/09

小諸の揚羽屋オヤジ追悼 もっと一緒に飲みたかった

Agehaya_0605_32007/05/02「今年も揚羽屋へ行く前に」に書いた、長野県小諸の揚羽屋オヤジ追悼を、やっと、なんとか、ザ大衆食のサイトに掲載した。なっとくのいくできではないが、いまのところ、こんなぐあいにしか書けない。もう2年になるのだから、とにかく、とりあえず、追悼だ。……クリック地獄

画像は、去年5月6日に揚羽屋を訪れたときのものだ。一階の壁が白くキレイになっていたので改装したのかと思ったら、ちがった。なかはそのままで、前の北国街道を走るトラックが夜中に突っ込んで壊したのだそうだ。あぶないねえ。

右隣の建物、前から気になっていた。いまは食堂なのだ。だけど、どう見てもフツウの建物ではない。気になっていたのだが、まだ入ったことがない。

そう、オヤジ亡くなる一年前、オヤジと飲んだときに、この食堂が話題になった。オヤジは、昔はダンスホールだったといった。おおっ、なっとく。

オヤジとは、もっと一緒に飲んで、いろいろ楽しく話をしたかった。

遠くにいても何度でも会いに行きたかったひと。死んでしまってから、もっと会いに行けばよかったと思っても、遅すぎた。おれが生きているあいだは、オヤジも生きていて、行けばいつでも会えるという、意識しない思いがあった。

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2007/05/08

さいたま市与野の〔大衆食堂 横丁〕閉店

先月か先々月に、ここでチョッイ告知したが、かつての埼玉県与野市、いまのさいたま市京浜東北線与野駅から10分ばかりのところにあった、〔大衆食堂 横丁〕は四月一杯で閉店した。

きょう、もうきのうか、閉店を確認しにゆき、開くことのない閉ざされた扉のまえで、閉店を確認した。やっぱり閉店したのだ。「ゴールデンウィーク」があけたからといって、なにもかわらない。閉められた扉のまえに立ったところで、扉が開いてくれるわけではなかった。

さらば愛しきひとよ。

って、なんだか去っていった女を思い出すような感傷を抱えて、んじゃ、あたりばちラーメンで、あのラーメンとギョーザをガツンと食べるかと、近くのあたりばちラーメンへ行った。

酒を買って帰って来て、飲んだ。

今回の、〔大衆食堂 横丁〕の閉店は、大都会の土地問題というか、日本の資本主義体制の根本にある非資本主義的な土地制度と都心一極集中制度というか、その構造というか、そういうものを象徴する。大衆食堂を含めた零細自営業者が、意欲があって、文字どおり身を粉にして働いても、この土地制度があるかぎり避けられないモンダイ。それなのだ。

それを、大衆食堂は古い過去の古きよき昭和と懐かしみながら、そのモンダイにふれないで、大衆食堂を「昭和博物館」入りさせるような、レトロブームだの懐古趣味?だのは、あるいはそういうところをネタにして食べ飲み歩き?はしゃいでいるだけというのは、結果的に大衆食堂が失われていく土地制度の延命に手をかすようなものではないか。

「再生」のありえない土地制度の構造下で、「再生」を唱えることこそ笑止であり、「昔はよかった」なんて、もちろんデタラメの陳腐のクソだ。このイマは、その「よかった昔」に土台がつくられている。その上に、いまワレワレはいるのだ。そうではないのか。

その土台を変えないかぎり、自分には責任がないような顔して、懐古しているあいだに事態は、どんどん悪化するだろう。ま、おれは何度か書いたように、構造的な瓦解まですすむとみている。それ以前に自ら変えよう変わろうなんていうことは、近年の趨勢をみれば、ありえない。キレイゴトをいいながら、消費し食いつぶしていくだけだ。ま、それが「東京最終荒野論」なのだが。キレイゴトばかり、いってるんじゃないよ。

と、酔いにまかせて書きなぐったところで、去った女がもどらないように、閉店した大衆食堂がもどるわけではない。

ただし、〔大衆食堂 横丁〕は、この住みなれた常連もいる、与野駅周辺でやれる場所があれば、やる気でいる。モンダイは、そこなのだ。

10年前、さいたまナントカ都心開発で与野駅前の再開発があって、〔大衆食堂 横丁〕の夫妻が働いていた大衆食堂は閉店になり、かれらは商売の立地としてはマッタクよくない、この場所を居抜きの10年契約で借り開業した。不況の真っ只中、どうなるかと思ったが、とにかくなんとか、その10年契約の期間、続けられた。生きてこられた。だが、その10年契約が切れるときがきた。

10年の間に、どこかのテレビ局、愛の貧乏脱出だのなんだのという尊大な番組から、どうだ出演しないかといった話もあったりしたが。

ああ、酔っているのか、書けない。

Yokotyo_satsumaimo021030画像を一枚。これは、えーと、これは、2002年10月30日に横丁で撮影した。その日、開店早々に入ると、カウンターで女将が、これをやっていたの。おれは一瞬、目を疑った。まさか、コレ、アレ、だよね。そう、サツマイモのツルだよ。

その細いツルの皮を彼女は、働き者の太い指でむいていた。右のザルが、皮をむく前のもの、左のザルが皮をむいたあと。右隅うえに彼女の手が写っている。これは、皮をむいて、キンピラにする。「甘味があって、おいしいよね」と、おれより10歳ぐらい年下の彼女はいった。うーん、そりゃマそうだが、いまどき、サツマイモのツルを、めんどうして食べるとはなあ。おれは彼女の故郷の高知を思いながら、どんなふうに育ったのか考えた。

ま、きょうは、もうまもなく午前2時ですからね、こんなところでオシマイ。

愛してるよ~。

ザ大衆食の「大衆食堂 横丁」……クリック地獄

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2007/05/07

コナモンと汁かけめしの出合い

きのう書いたように、きょうはコナモンの日なので、日本コナモン協会の会長、熊谷真菜さんとおれの出合いについて書くことにする。

熊谷さんとおれの出合いは、イイ女とイイ男の出合いだった。と書いてもイロケのことではない。コナモンと汁かけめしの出合いだったからなのだ。その結果、熊谷さんには、拙著『汁かけめし快食學』の解説を書いていただくまでになった。

日本人のあいだで信じられてきた歴史には、「米は日本人の主食」という、「米食史観」ともよぶべきものがある。コナモンと汁かけめしは、生活の実態としては大きな比重を占め、必要欠くべからざるものだったにもかかわらず、その「史観」からは無視され続けてきた。「米食史観」からすれば、どちらも長いあいだ「下賎の食」だった。道楽や趣味ならともかく、こんなものと、まともに取り組むひとなどいなかった。

しかし、どちらも、日本の食文化史を語るとき、欠かせないものなのだ。そのことに興味を持ち本にした2人が出合った。これは日本の食文化史上、大ジケンではないか。そうですなあ、この邂逅を、なんにたとえたらよいか、とにかくまっとうな日本の食文化史は、たぶんきっと、ここから始まることになる。

では、おれたちは、どうして出合ったか。熊谷さんは関西のひと、おれは関東。

熊谷真菜さんは1961年生まれだが、1993年にリブロポートから『たこやき』(現在、講談社文庫)を刊行し、おれが『大衆食堂の研究』を刊行した1995年には、まだそれほど広範囲ではなかったが、食文化に興味ある人たちのあいだでは知られる存在だった。

一人の男がいた。いまはある大学の教壇に立っているが、『大衆食堂の研究』発刊当時は某新聞大阪本社の記者をやっていてワザワザ東京まで大衆食の会を取材に来た。このひとが、関西の研究者が中心の現代風俗研究会で、熊谷さんの知り合いだった。熊谷さんは、立命館大学の卒論で「たこやき」に取り組み、それが『たこやき』の本になったのだが、同志社大学大学院修士課程を経てか在学中にか現代風俗研究会の事務局を担当していた。

1999年、拙著『ぶっかけめしの悦楽』刊行。熊谷さんは、「ふりかけ」に取り組んでいた。そして、ふりかけとぶっかけは関係ありそうと『ぶっかけめしの悦楽』を読んでいるところに、その記者があらわれた。「この著者知っているよ」「ワアッ会いたい紹介して」ということで、熊谷さんが上京したついでに、東京ステーションホテルで会ったのだった。

そのときのことは、『ふりかけ 日本の食と思想』(学陽書房)に書かれている。……

 折りしも時代は、ご飯もの大人気で、「ぶっかけ飯」や「おどんぶり」が注目されているなか、『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド)が出版された。著者である遠藤哲夫さんに、ふりかけをどうとらえたらいいのか、教えを乞うことにしよう。

  ――ふりかけを広げて広げて考えていくと、なんとなく、ぶっかけめしに通じていくような気がするんですが。

……こんなふうに始まり、おれの話が載っている。2000年11月25日の日付がある。この日が初めての出合いなのだ。

熊谷さんは、大学院修士まで出ているのに、本を読むのが苦手だ。そこで、まるで探偵みたいに、つぎつぎにひとに会い、インタビューを文章にしていく手法をとることにした。これは、出版業界的な本づくりのためには、よい編集者がついてないとうまくいかない難点があるようで、その意味では『ふりかけ 日本の食と思想』は、貴重な資料を含みながら惜しい結果になっている。だがしかし、大衆食にとっては都合のよい方法なのだ。大衆食は、生活と密接であり、そこを掘り返した出版物は、まだまだ少ない。これまでの本に書いてあることは、根本的なところで、生活の実態から遊離したウソがおおい。

そして、熊谷さんは、たくさんのひとに会い、探偵の探索のように突っ込んだ深い話を聞いているからだろう、食文化の本質を生活の現場のこととして理解している。

たとえば、『汁かけめし快食學』の解説に、こう書いている。「母のしつけは本来のおいしさをゆがめることもあります。庶民とは何か、たくましく生きるとはどういうことなのか、喰いたいように、うまいと思うようにして喰らえばいい、という当たり前のことを、再確認させてくれる一冊でした。」

おれは、ここを読んで、熊谷さんに解説をお願いしてよかったとおもった。熊谷さんは見るからに育ちのよいかたで、華やかさが似合うし社交的なかただ。おれとはまったく逆、生きてきた世界がちがうようだけど、やはり「コナモンと汁かけめし的同志」なのだとおもった。

『ふりかけ 日本の食と思想』の熊谷さんの言葉を引用しながら、きょうのまとめ。「文化とは、人々の生きざまそのものであり、暮らしの細部において活用され、しかもその土地、その人固有の思想として、おのずと受け継がれていく、美しい形(理)といえる」そこにある「おいしく食べるという営み」に、もっと視線を注がなくてはならない。

ここで、「その人固有の思想として」とまでいうひとは、めったにいない。おおくは、「その土地固有」のあたりで思考がとまっている。それは熊谷さんは、たくさんのひとに会い、それぞれがちがう生き方と食べ方をしていることを肌で感じ知り、なおかつそこに食文化の本質や未来の可能性をみているから書けることだろうとおもう。

熊谷さんは、一見ミーハーだけど、ま、そもそもミーハーそのものは悪いことだとはおもわないが、やはりちゃんとみているということなのだ。本なんか、読まなくてもよい。でも、ちったあ読まなくては、こういう言葉も出てこないか。苦手だといいながら、けっこう読んでいる。ただ、本に書かれてない生活を、忘れない、大事にしている。けっして知ったかぶりしないひとなのだ。それから、なにより、食べることが好きだ。

と、最後は、熊谷真菜礼賛になってしまった。彼女の活躍は心強い。

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2007/05/06

板橋区大山〔かどや食堂〕は、やはり閉店

こちらyasuさんのブログに、「2007年5月6日 かどや食堂 閉店」のニュースがあった。5月1日付けの閉店を知らせる貼り紙の画像もある。…クリック地獄

右サイドバーのコメント欄で「中年おやじ」さんに、「閉まったまま」だとの心配のコメントもいただいていた。ザ大衆食の「かどや食堂」のページは、ちゃんと完成しないうちに閉店になってしまった。……クリック地獄

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5月7日はコナモンの日なのですが

明日になってしまった。いま日本コナモン協会のサイトを見たら、大阪で開催の「日本全国コナモンまつり」は、5月3日から今日でおわりですがな。

昨年の5月7日は日曜日だったから、下谷神社の祭りへ行き、フライを食べ酒を飲むってのをやった。2006/05/08「コナモンの日にフライを食べ酒を飲む」に報告がある。…クリック地獄

まいど書いていることだけど、ザ大衆食のサイトに「関東コナモン連」のページがあって、「関東コナモン連いきさつ」を書いている。2003年2月9日のことだ。…クリック地獄。というわけで、会長の熊谷真菜さんはヨタヨタと日本コナモン協会を立ち上げたばかり、なんだか心細そうだったので、景気づけにこのページをつくったのだった。

しかし、あまり目立つ派手なことは好きでないおれは、たいしたことはせずにきている。去る2月にも、メールのやりとりがあったときに、「コナモンのことサボリーマンですみません」と書いたら、熊谷さんからは折り返し、「サボリーマンでもいいですから、コナモンをこよなく愛しといてくださいね~」と返信があった。じつは、そのあとに「いや、ボチボチ、サボれなくしようかな・・・」とも書いてあったのだが、そちらのほうはおれは知らん顔して、「こよなく愛しているよ~」という姿勢だけは、こうして示している。

とにかく、明日5月7日はコナモンの日だということ。日本人は、米粒ばかりで生きてきたわけじゃないということ。

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あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか

さらにまた、2007/05/03「街に生きる大衆食堂と大衆食堂に生きる街」に関連して。

けっきょく、「あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか」について考えなくても生きていけるようになった。「あなた」は、ひとだけではなく、工場や学校や店や街や……など自分以外の他者の存在。

ともすると顔や名前を覚えなくてもよい。荒川洋治さんが、なにかの本に、自分中心主義だったか自己中心主義だったか、そういうひとは、ひとの顔や名前を覚えない、というようなことを書いていて、それを読んだときは、まさかそんなことは関係ないだろうとおもった。どうもそうではないようだ。

消費主義が、たとえばスーパーマーケットだが、ひとの顔と名前すらおぼえなくても生きていけるような生活を実現した。「都会的生活」ってやつだ。自分が好きなことだけにカネと時間とアタマをついやしていれば「バラ色」の日々が手に入る。それが、メンドウのない消費主義の理想でありモデルで、おれたちはたいがいそういう「思想」に身をゆだねてきた。

こうして、街を語るにも、生活を語るにも、食を語るにも、安直で横着な、うすっぺらなオシャベリが蔓延した。

ような気がする。

もっと「あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか」を考えたい。それは大衆食堂や大衆食については、なんども書いてきた。食べることは、自己認識であり社会認識だとも書いた。「探偵」のようにシツコクこだわりたい。横着になってはいけないのだ。

2007/04/10「大衆食堂と街と、なぜか村上春樹」を書いたころから、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』や『さらば愛しき女よ』を読み返し、また藤沢周平の「彫師伊之助捕物覚え」シリーズも読み返した。いずれも主人公の「探偵」がやっている「探索」は、街を歩きまわりひとに会い、「あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか」を考えることだった。

藤沢周平の『漆黒の霧の中で』には、こんな一行がある。「横着な岡っ引は、頭の悪い岡っ引より始末が悪い、と半沢がこぼしていたのを、伊之助は思い出している」。半沢というのは、かつて伊之助が岡っ引でつかえていた同心だが。

関連……2007/04/19「「ないよりマシ」という横着」…クリック地獄

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2007/05/05

ひさしぶりの吸う&鶯谷信濃路

きのうのこと。連休だから明るいうちに飲もうという理由をつけ、4時に鶯谷の信濃路で吸うさんと待ち合わせだった。チョイはやめに着いた。まだ吸うさんはいなかった。カウンター席は7割ぐらいうまっていた。いつもの奥席に座ろうとおもっていたが、すでに数人のものたちが盛り上がっていた。

ホッピーとハムカツとポテトサラダを注文した。吸うさんが登場。オスッ、ことしはじめてだな。奥で盛り上がっていたなかの一人、頭がうすい腹の出た酒焼け顔のオヤジ、どこかで見たことあるが、ここかどこかの酒場で見たことあるのかとおもっていたら、「エンテツさんでしょ」と声をかけられた。「シオヤマと一緒に飲んだ、タダです」。ああ、そういやそうだ、エロ漫画屋、嫌われ者塩の字(自分の本もエロ漫画も売れないので古本を売っているらしい『出版業界最底辺日記』の塩山芳明、とセンデンしといてあげよう)と同業友人のタダさんだ。もっと大柄でコキタナイ印象があったが、わりとこざっぱりして、なんだか一回り小さくなったかんじで気がつかなかった。それにしても、こういうところであう知り合いって、ろくなやついないな。紳士淑女のいない酒場はすばらしい。

吸うさんとアレコレおしゃべり、たのしい。ホッピー、なか3で2本あけ、燗酒2合とっくり2本目あたりまで覚えている。途中でワダさんたちが挨拶して帰っていった。連休中休みの店がおおいので、はしごはせず、どっぷり泥酔し帰宅だった。

やや二日酔い。

なかざと、閉店の話だったが、やる気まんまんらしい。閉店はとりやめになったのだろうか?

吸うさんの「ただ呑んでるだけ」ブログに画像がある。そういえば帰りがけに写真を撮れといいポーズをとったような気がする。…クリック地獄

合言葉は「野糞でこんにちは」。

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2007/05/04

たよりない味覚

中国のお茶のようにたよりない熱意が彼女の表情に浮かんだ。

……「たより」に傍点。『さらば愛しき女よ』(レイモンド・チャンドラー、清水俊二訳、ハヤカワ文庫)より。

原文ではどうなっているのか知らないが、プーアール茶やフォア茶を思い浮かべ、ナルホドとおもった。ちかごろ流行の、ソバ茶も、おなじようなかんじだな。

「たよりない」だけではなく「たよりない熱意」とやったところが、なお巧みというか。食エッセイなどより、フツウの文学にチョロっと書かれた味覚表現のほうが、うまいばあいがおおい。おおくの食エッセイは、「舌」の感覚から離れて自由になれないウラミがある。書き手の想像力不足からそうなるのか、読者の想像力不足がそのように導くのか。サイテーなのはテレビの食べ物番組の味覚表現で、現物を画像でみせちゃうためもあるのだろうか、「たよりない熱意」すらかんじられない。あんなものを見ていたら想像力が退化するばかりだ。情報誌もヒドイけど、ヒドさの傾向がちがう。情報誌は「たよりない熱意」を型に流し込んだような、教条的官僚的な味覚表現がおおい。

最後になったが、引用文の「彼女」はアル中なのだ。

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2007/05/03

街に生きる大衆食堂と大衆食堂に生きる街

ようするに、なんだね、『雲のうえ』おとなの社会見学の続きというか。

「写真や映像で断片的に知る以外の知識を持つことはなかった。ほとんどの人にとってそうだろう」…、牧野さんは「工場」について述べている。じつは、たいがいのことについて、そうなのだ。ようするに、たいがいのことは、書物やメディアからの断片的な知識で間に合わせている。おれもそうだが、安直かつ横着な考え方や過ごし方だ。

2005/11/27「東京に働く人々」では、

「東京本」「東京人」という言葉が踊るとき、そのワクからいつも抜け落ちている東京をかんじる。今回も、また、なのだが、ま、文学的虚構の東京も、コンニチの東京の一面なのかも知れない。

しかし、浅草を語るとき、そこに憧れ慰めを求めた南部労働者や葛飾労働者、また荒川をこえた埼玉になるが川口周辺の労働者をヌキに語られること自体、おれとしてはフシギだ。とても偏った「東京観」をかんじるし、「東京に働く人々」への無関心をかんじる。

……てな、ことを書いているわけだけど、そこにあらわれている現実は、たくさん本を読んでいるにも関わらず、あるいは、もしかすると本を読めば読むほど、「東京に働く人々」への無関心が増大する可能性、ではないだろうか。

ほんらい、東京の街を歩いて、なぜそれがそこにあるのかということに興味を持って調べれば、それは一件の大衆食堂の存在ですら、工場や労働者の存在をぬきには語れない東京の街があるはずなのだ。なのに、である。

そんな調子で、おれも含め、どうやって生きてきたか、ナゼしたり顔でものをいえるかというと、業界的な知識や情報、それにテレビや新聞の「風説」ていどの「社会常識」があれば、それで食べていける世間があったからだろう。

とくに大都会ほどそうであり、何度か書いたように、生活もちろん趣味まで、「業界的」に成り立っている。街まで業界的なるものにのみこまれている。そのことが、「街的」な視点を失わせる、一つの原因ではなかったかと、ぼんやり考えている。もちろん、そこには事大主義な活字文化が聳えているのだけど。

というわけで、街は、どんどんイラナイ存在になりつつある。いまでは、街についても、工場のように、路上から外側を眺めたていどの知識でものを言っている状態が広がりつつあるようにみえる。

たとえば、おれのウチは町内会ってやつに入っている。でも、会合には出たことはない。それでも、生きていけるのだ。たしかに街灯や公園の電球が切れたら町内会へ連絡すればよいとか、ゴミの収集では役員の人たちが苦労しているのは知っているから、会えば挨拶ぐらいはする。だけど、そもそもその町内会のシゴトは、役所を通してのどこかの業界の「社会貢献」「社会奉仕」をタテマエにした下請け下働きだ。それで街の日常の大切なところが維持されているにしても、街は業界の下請けに「吸収」されつつあると、みることもできる。

コンニチの、とくに大都会の生活は、そのように、業界ジャンルにぶらさがって成り立っている。しかもそれを「街の暮らし」と錯覚しているフシもあるようだ。そこから将来の望ましい街のビジョンが生まれるだろうか。

ビジョンも考えずに、安直かつ横着に自分の都合で街を語るのではなく(それはほとんど、これまでの「業界的」に帰結することになるだろう)、まずそこで何がおこなわれてきたのか、なにがあるかを「学ぶ」ことだろう。「読み解く」だの「貢献」だのなんてのは、横柄すぎる。つまり、「おとなの社会科見学」として、工場を見学するように街を見学するのだ。ま、工場だって、街の一部だが。そこには、工場とおなじように、変わらないこと変わっていくことがある。

このブログでは、「街的」というコトバや概念に共感してきた。なぜ共感するかというと、そうだ、きょうのタイトルは、この話だ。

ある種の編集者からみると拙著『大衆食堂の研究』は、「空間論」であるということになるらしい。そのことを否定するつもりはない。まさにそうだといえる。できたら、「地理学的」でもあるとか、いってほしいぐらいだ。

ただ「空間論」であって「食」ではないということになると、それはチョイとおかしいんではないかナとおもっている。

「空間論」であって「食」ではないという見方は、学術業界がつくりだし活字となって流布された見方であり、これは「業界的」と同じ軸か一体のものだろう。つまりタテ型のジャンルわけであり、それぞれのジャンルには権威なるものがいる。

たとえば、大学の学部や学科、あるいは学校の教科や図書館の分類法などのようなものに、街や生活をはめこんでいく「思想」の反映のようにおもう。

そういう見方は、大衆食堂にはなじまないし、街にだって、なじまないはずだ。そこから将来の望ましい街や食堂のビジョンは生まれないだろう。

銭湯を例にすると、わかりやすい。2007/04/14「生活と趣味のあいだ」に書いたように、銭湯に詳しいひとの話によると、減り続ける銭湯だが、銭湯を「趣味」としている人たちが毎日銭湯へ行けば経営が成り立つほど、「ファン」というか「同好の士」はいるとのことだ。ところが現実の銭湯は、街をこえた銭湯業界と銭湯ファンという業界的ジャンルで成り立っているのではない。街に生きているのであり、銭湯ファンもいるかもしれないが、日常的に街に生きる人たちが担っている。大衆食堂も、そういうことなのだ。街的存在なのだ。

「業界的」な下請けで成り立つのではなく、街で自立的に成り立たなくてはならない存在。そこには、かろうじて街と街の生活が残っている。

しかし、この街というのはメンドウな存在だ。まず、嫌なカネにならない人間関係を逃げるわけにはいかない。であるから、横着者がおおい大都会から、街が失われてきた。その失われた街を、文学的な記憶でうめていく。それでまた街の幻想が拡大する。ノスタルジー、レトロ……。そのあいだに街は、どんどん業界的に変貌する。

ちかごろ、ビジネスマンたちと飲む機会がおおいが、必ずミニバブルの話になる。懲りたはずのバブルだが、またぞろナゼこうも簡単に東京の街は、バブルで失われていくのか、といったことが話題になる。外からのカネの圧力も大きいが、こうも簡単にやられるのは、やはり内つまり街の人間のモンダイも大きいだろう。

横着ができる業界的生活になれてしまった。一度横着の味をしると、横着そのものがバブルを期待する。東京はいきつくところまでいくしかないだろう。自ら変わり横着をやめ、苦労しても自分たちの街を、なんてことに、いまさらなるはずないじゃないか。だいたい、そんなことをいったら、政治家なら落選、物書きなら売れないに決まっている。たいがい、そんな話で、顔を見合わせ、ためいきをつく。

おれのばあいは、そこでまたもや「東京最終荒野論」を語り、もう「危機感」の段階は通りこしている、絶望感のなかで絶望し希望を持つしかないだろうと酔いを深める。

ありゃ、はて、なんの話だったのか、長くなったので、とつじょ、オワリ。

忘れないうちに書いておこう、街を「体験」するには、東京にかぎらず、選挙運動をやってみるのがてっとりばやいとおもう。街は10人10色の人びとが、諍いながら生きている。その現実が、もっとも短期に鋭く露呈するのが、選挙なのだ。点と線の路上からみているだけでは窺い知ることのできない、街の生々しい姿が、そこにはある。地方で暮していれば、それは日常のことだが、東京のような大都会では、街の諍いには関わらないで生活できる。いまも述べたように業界的に生きているからなのだ。ま、おれは、東京では、シゴトで2回ぐらいしか選挙に関わったことがないが。あと、ちかごろは、やどやPTの関係で、やどやの一軒がある地域が再開発地上げ真っ最中で、こういう坩堝のなかでは、おなじように「街的」なるものを体験できる。いずれも街の日常ではないが、日常が集中的に露呈する。とにかく、点と線から、なかへ面へ箱へ入り、そこになにがあるか。

街は「その時の自分にとって都合よく構築された物語の蓄積」ではなく存在する。だから街は、メンドウなのだ。業界には業界のメンドウもあるが。

外側からにせよ、おなじ大衆食堂へ通い続ければ、それはかんじることができる。なにしろ、嫌なやつとも、おなじテーブルでめしをたべなくてはならないことがある。そのとき、ああコレが街的ということだなとおもう。

関連……2006/07/19「「地下鉄のザジ」の街的飛躍そしてパーソナルヒストリー」

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2007/05/02

今年も揚羽屋へ行く前に

0508ageha6_1連休が明ければ、初夏の匂いが一段と強くなる。となれば、アユ。となれば、小諸の揚羽屋で、アユの背ごしを食べながら、地酒の亀の海を飲みたくなる。

しかし、今年は、行く前に、ぜひとも揚羽屋のオヤジの追悼をザ大衆食のサイトに掲載したいと思っている。

おれとほぼおなじ年齢の揚羽屋のオヤジが亡くなったのは、2005年6月26日のことで、おれはそれを知らずに、8月6日に行った。

1年に1度は揚羽屋を訪ね魅力あるオヤジに会うのが楽しみだった。前年の7月13日に一緒に飲んで泥酔し、例によっておれは、どうやって北浦和のウチまで帰ってきたのかわからない。それ以来だった。ところが、揚羽屋に着いてみると、オヤジがいない。亡くなっていたのだ。

そして、去年の6月5日、オヤジが死んで1年たとうというころ、揚羽屋を訪ねて帰ってきたのだが、それでもまだ、そのことを書く気がおきない。

しかし、今年は、行く前に、ぜひとも揚羽屋のオヤジの追悼をザ大衆食のサイトにアップしたいと思っている。そして、きょう、そのページをつくりはじめた。が、キーボードを打つ指が動かない。でも、なんとか近日中につくりあげよう。

上の画像。2005年8月6日、オヤジの死を知り、涙を流しながら写真を撮り食べた、アユの背ごし。泣きながらでも、このアユも、それと飲む亀の海もうまかった。どんなときでも飲食に集中してしまう意地汚さ。あのオヤジなら、それを不謹慎とはいわないだろう。背ごしを食べたあと残る頭と尾の部分は、みそ汁にしてもらってたべる。これがまた、うまい。

当ブログ2005/08/08「喪中につき怒りのタワゴト」で、オヤジが死んだ悲しみを、オヤジのいのちを縮めたかも知れないソースカツ丼に群がった人びとに、タワゴトした。…クリック地獄

0508ageha_katsu去年2006年6月5日には、オヤジのいのちを縮めたかも知れない、大混雑の評判になったソースカツ丼を食べた。

ザ大衆食の「揚羽屋」には、2001年に初めて訪ねてからの記録がある。しかし、2005年の8月にオヤジが亡くなったことを告げた、そのままになっている。…クリック地獄

好きだった人との永遠の別れは、カナシイ。

ま、しかし、なんとか、ザ大衆食の「揚羽屋」に追悼を掲載できるよう、やってみよう。

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食欲と食欲の文化的充足

このタイトルの言い方は、2007/04/06「なぜ『「こつ」の科学』なのか、そして押上のいこい食堂」で一度だけつかっている。まだ自分自身のなかで十分こなれていない感じなので、あまりつかってない。

それは、2006/06/07「コーミソースのドボドボ宴会」に書いた、昨年6月の「四月と十月」古墳部の旅の帰り、牧野さんたちと泊まった宿で、酒のつまみにいろいろな話をしていた、そのとき美術と生活の関わりといったようなことも話題になった。それがキッカケだった。

けっきょく、生活というのは生命をつなげる欲望の満足だ。人間のばあいそれを「文化的」に充足させる。食欲の満足は腹を満たすことであり、文化的充足とは味覚や楽しみだろう。味覚や楽しみのために、美術が縄文の昔から活躍している例は、縄文遺跡を見たあとだったことでもあり記憶に新しかった。もちろん性欲だって、文化的な充足が関係するとおもうのだが、それはまあ、おいとくとしよう。

そのとき牧野さんたちの話をききながら、美術系のひとは、けっこう生活をソースやリソースにして見たり考えたりするようだが、文術系のひとたちは、どちらかというと書物をソースやリソースにすることがおおいのではないかと、酔いがまわっている頭でフトおもった。

文術系のひとの手にかかると、街や料理まで、文学的な記憶で埋められることはすくなくない。そして、とくに働くこと、働く生活から、どんどん離れる。それに関連することは、2005/11/27「東京に働く人々」に書いたが、ずっと気になっていることなのだ。

ともあれ、そういうわけで、今年のコンセプトは「好食」だ、なんて書いたりした。いままた、『雲のうえ』3号を読んで、「食欲と食欲の文化的充足」は「仕事が好きか。生きているか。」に深く関係する、それは大衆食の根本ではないかと、あれこれ考えている。なにか、ひらめきそうだ。

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いつだって明日はない

あう、午前1時過ぎの酔いどれ便どす。

酔うと感傷的になるものらしい。だから、酔ったときはブログを書かないほうがよい。しかし、酔うと悪態をつきたくなる、ってこともあるのだな。単に酒癖が悪いということかもしれないが。いちばん面白くないのは、感傷的にせよ、悪態的にせよ、その書いたことを見て、よろこんでいるやつがいるってことだ。それを考えると、ますます悪態をつきたくなる。

おい、おまえだよ、おれは、おまえをよろこばせるために、酔って書いているわけじゃないんだ。ま、よろこばせて慰めてあげようか、というぐらいの狂言ごころは、なきにしもあらずだが。どうした、ふられた彼女は。おれが何度も言っただろ、「去るものは追わず」って。やせがまんのようだが、追ってどうなる、ますます嫌われるだけだぞ。もどってくるはずもないしな、もうおまえのことなど忘れられているよ。

おれなんか、こんどのデートは4日だか5日後と楽しみしていたのに、そのままふられてあえなくなって、あれは、たしかいまでも覚えているが、木曜日にあって、月曜日にあう約束だったが、日曜の夜にチョイとしたジケンがあって、それでオシマイ。永遠のさよなら、死んだもおなじ。そういうことがあるのだ。いつだって明日はない。

おれの第一婚期の三番目のガキが死んだ日は、おれはその朝ふつうに家を出て、ということは帰ってくれば、おなじようにいる、まさか死ぬとは思っていない。で、その夜は仕事が徹夜になって、会社に泊まった。朝方、会社に電話があって、そのときは死んでいたのさ。そのように、いつだって明日はない。

「冗談だよ」といってほしくても、現実はそういうことなのだ。でも、明日はないと思いながら、希望や夢はもたなくてはいけないのさ。希望や夢ってのは、先が見えない真っ暗やみのなかで持つものなのさ。ほんとの希望や夢はそういうもので、テレビなんかで語られるようなキラキラ輝く小市民の未来といったふうなものじゃない。絶望の中で生きるためのものなのだ。明日なんか、ありゃしないよ。

酔っぱらいの感傷でした。人生は冗談。飲食だけがたのしみ。

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2007/05/01

仕事が好きか。生きているか。…『雲のうえ』おとなの社会科見学

いやはや、コーフンして、いろいろ考えすぎて、なにから書いてよいかわからない。きのうチョイと書いた北九州市の『雲のうえ』を読んでのことだ。

とりあえず、あらためて牧野伊三夫さんって、何年生まれだったのかなと『四月と十月』を見た。1964年生まれ、ということは、43歳か。

本誌は、牧野さん一人の力ではなく、おなじ編集委員会の有山達也さんや大谷道子さんをはじめ、多くの人たちの関わりですばらしいものになっているとおもう。しかし、それでも、今号の特集「おとなの社会科見学 君は、工場を見たか」を読むと、牧野さんの力を感じる。

この特集は、牧野さんが書いているのだ。そして、けっきょく、創刊号の「角打ち」、2号の「市場」の特集は、今号の特集につながり包括される。あぶらがのったイイ仕事をしていますねえ。

その扉の文章を転載しよう。……

空を見よ。煙突からたなびく煙。
地を見渡せ。はるかに聳(そび)える鋼鉄の城。
大きなものも小さなものも、硬いものもやわらかいものも、
目に見えるものも形のないものも、
皆すべて人の手で作られ、変わらずにそうあるのだと知る。
昔も、今も、工場こそが街のアイデンティティ。
社会科見学は子どもの特権? とんでもない。
大人になった今だからこそ訪れたい、北九州・ものづくりの現場。
仕事が好きか。生きているか。
行けば、触れれば、人生、変わるぞ。

……以上。

牧野さんは新日鐵八幡製鐵所を訪れた記事を「再訪の日。」の見出しで書く。その冒頭。「小倉に生まれ育った僕は、小学生の折、学校の社会科見学で新日鐵へ行ったことがある」。そして今回の取材で、「2月半ば、30数年ぶりに新日鐵へ行くことになった」

「あのころ手にした教科書には「鉄は国家なり」と書かれていた。しかしそれも、すでに歴史に一ページを飾るコピーとして知った言葉だ。製鉄所のある街で育たなかった身にとって、溶鉱炉や煙突、そこで成し遂げられた偉大な仕事は遠い世界の話で、それこそ写真や映像で断片的に知る以外の知識を持つことはなかった。ほとんどの人にとってそうだろう」

……ここで、おれは、あれっ、牧野さんて、何歳だったかなとおもった。おれは、あまり相手の社会的地位や評判もちろん年齢や職業、どんな仕事をしているか気にしない。話をしていてオモシロイかどうかだけだ。牧野さんとは何度か飲んで、それも短いあいだに泊りがけが3度ほどあったが、年齢を正確には知らなかった。あるときは50歳にもおもえたし、あるときは40歳にもおもえたし、あるときには30歳にもおもえたが、60歳や20歳ということはなかった。とにかく、牧野さんの30数年前というのは、大衆食堂が力強く成長していた時代と重なる。

特集は新日鐵に続いて、北九州市のものづくりの現場が続く。
「知らなかった。」の見出しで、安川電機、TOTO本社小倉第一工場、安田工業八幡工場。
「人が働く。」の見出しで、シャボン玉石けん、村上精機工作所、鶴元製作所。
「この街の仕事。」の見出しで、遊生織工房、山福印刷。
「未来の岸辺で。」の見出しで、ジェイ・リライツ、西日本家電リサイクル、九州工業大学エコタウン実証研究センター。

きのう牧野さんの言葉として紹介したように、「自分自身の原風景を、ただのノスタルジーとして片付けてしまわず、よみがえらせる」試みなのだ。

牧野さんは特集を、こう結ぶ。「今、大人になって多少、産業だとか地域文化、あるいは自然環境などという言葉の意味がわかるようになった。まだほんの一部であるが、今回の見学を終えてみて、この歴史ある工業都市に育まれてきたものが何であるかをはじめて知ったように思う。工場は、僕自身を映し出した。ぜひ一度ここへ来て、この街の底力に触れてほしい。」

  仕事が好きか。生きているか。
  行けば、触れれば、人生、変わるぞ。

大衆食や大衆食堂の言葉でもあるような気がする。大衆食や大衆食堂は働き生きる日々の生活のためにあったし、ある。おれたちは、まだおれたち自身の歴史を知らない。とりわけ働き生きる生活の歴史について。

そうそう、この特集の写真は、久家靖秀さんが撮っている。これがまた素晴しい。工場も生きているぞ。という感じ。

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