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2007/05/29

「緑資源」をどうするのだろう、どうなるのだろう

Oganoosizu0705農林の大臣が自殺して世間は「政局」に関心が動いているようだ。だけど、このさい、「政局」より「緑資源」つまり山林資源は、どうなっているか、どうなるのか、とくに都会者は、そのことにどう関係していくかを考えてみる、いい機会ではないかなと思う。

マツオカさんというひとは、おれがちょうど熊本県の奥地でシゴトをしていたころ、そのへんを地盤に国会議員になったかたで、ちょっとだけ縁があった。そのころは宮崎県側の、のちにやはり農水大臣になったセンセイとも縁があり、このかたとは六本木でカラオケなんぞをやったりしたが、ようするに田舎で農林業に関係する何かをやろうとするなら、そういう付き合いが有効だった。

だから、自殺したからと同情し、すべてをチャラにしてあげるのはマチガイと思うが、そういうことではなく、マツオカさんの不幸に同情したいところはある。マツオカさんが、どんなに悪いことをしていたかは知らないが、たいがいのひとがやっているフツウのことをしていたのではないかなと思う。ましてやマツオカさんは「族」議員だ、ほかの「生き方」を知らなかったであろう。

なるほど「政治とカネ」のモンダイは大事だ。しかしだよ、そのモンダイが生まれる根源には、なんでも「政府頼り」という、とくに農林業の構造があるからではないか。なんでも「政府頼り」というのは、当事者は「政府頼り」であり、当事者以外の都会者は「政府まかせ」の無関心。「食育」だの「自然はすばらしい」だのと能書きたれていれば、食べていける。田舎では、キレイな水と空気だけでは生きていけないと利権にすがる。この構造があるかぎり、マツオカさんは生き続ける。ときにはマツオカさんのような犠牲をだしながら。

マツオカさんにかぎらず、「農村票」の地盤では黒いウワサはたえない。簡単にいってしまえば、それは議員だけではなく、選挙民自身が「利権」構造の末端を担いながら「生きている」からだ。

どの陣営につくかで実入りがちがってしまう、けっこうシビアな生活。うっかり反対陣営についてしまったら、オイシイ情報はあとまわしで、スカしか手にできない。没落を強める田舎で、それがどんなに恐ろしいことか、食料を与えられず、山の中に置き去りにされるようなものだ。

そしてイイ情報の結節点にいれば、あらフシギ「口利き料」のようなものが、入ってきたりする。逆にいえば、そういう地域へ行って、うまくシゴトをすすめるには、要所に納めなくてはならないものがある。貰うにしても、納めるにしても、法を犯さないようにやる。しかし、長い「癒着」で習慣化された「取り引き」は、ついイイカゲンになり、複雑な利権環境のなかで政敵にあばかれたりする。

とにかく、大小のマツオカさんが、フツウの人たちのあいだに、ごろごろいることでコンニチの農林業は成り立ってきたといっても言い過ぎではないだろう。それは言い換えれば、それで食糧政策は成り立ってきたのだ。

日の丸ハチマキでノキョーに動員され、特定候補の演説に集まる絵は、最近は表立っては、あまり見かけないが、その構造は、いまもって生きている。政治家と高級官僚は談合や天下りや利権の構造つくり、その末端にぶらさがりながら生きなくてはならない農林業のナサケナイ状態。これは「食育」なんぞでは解決しない。

それ以外の「正しい生き方」が望ましいのは、誰もが何度かは考えるだろうし、そのように「自立」した人たちもいる。だけど容易ではない。まだまだ、たとえば今度の参議院選挙でも、農協の幹部が自○党から立候補する。当選するだろう。

「農林」とまとめて言うが、何度か当ブログで書いてきたように、「稲作農家」が特別に優遇されてきたのであって、林業は、ずっと以前から「没落」の一途たどっている。

一方で、森林は生命の源であり、林業は農業や近海漁業の源であることは、リクツでは知られてきている。しかし、こころもとない。一度ニンゲンの手が入った山は、もはや自然ではなく、それなりに管理をしていかないとダメになる。そのマイナスの影響すら、計算されてない。

2006/08/27「幡ヶ谷、森林再生機構に1億円を!」では、「大衆食堂より明日がない林業に再生の道はあるのか。ナイに決まっているだろう」と書き、だが当面1億円あればと書いたのは、冗談ではない。そのように、自分の見える範囲で希望を持つことが、これほど絶望的になった食糧環境である緑資源のために必要であり、不幸なマツオカさんを根絶するために必要だと、不肖エンテツは思うわけであります。

マツオカさんも、おなじ悪いことするなら、われらが森林再生機構に1億1千万円工面してくれたら、1千万円献金してあげたのに。そしてその1億円は、道路をつくるだけで林業はしない土建屋に流れることなく、緑資源に投入されたのに。

画像は、没落林業の里の、没落林業の家から見た、未来のない緑資源。前の道路を走るバスは、年々本数が減り、いまでは一日4往復ぐらい。人口もドンドン減って、小学校も中学校もなくなった。しかし道路だけは拡張されている。この奥の林道は、立派に舗装され延びている。おかげで、たまにの登山のときには、あまり歩かなくてすむようになったが。立派な道路はできるが、成長したまま放置される林。林業家は没落。マツオカさんの姿は、この日本の姿だ。

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