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2007/05/06

あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか

さらにまた、2007/05/03「街に生きる大衆食堂と大衆食堂に生きる街」に関連して。

けっきょく、「あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか」について考えなくても生きていけるようになった。「あなた」は、ひとだけではなく、工場や学校や店や街や……など自分以外の他者の存在。

ともすると顔や名前を覚えなくてもよい。荒川洋治さんが、なにかの本に、自分中心主義だったか自己中心主義だったか、そういうひとは、ひとの顔や名前を覚えない、というようなことを書いていて、それを読んだときは、まさかそんなことは関係ないだろうとおもった。どうもそうではないようだ。

消費主義が、たとえばスーパーマーケットだが、ひとの顔と名前すらおぼえなくても生きていけるような生活を実現した。「都会的生活」ってやつだ。自分が好きなことだけにカネと時間とアタマをついやしていれば「バラ色」の日々が手に入る。それが、メンドウのない消費主義の理想でありモデルで、おれたちはたいがいそういう「思想」に身をゆだねてきた。

こうして、街を語るにも、生活を語るにも、食を語るにも、安直で横着な、うすっぺらなオシャベリが蔓延した。

ような気がする。

もっと「あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか」を考えたい。それは大衆食堂や大衆食については、なんども書いてきた。食べることは、自己認識であり社会認識だとも書いた。「探偵」のようにシツコクこだわりたい。横着になってはいけないのだ。

2007/04/10「大衆食堂と街と、なぜか村上春樹」を書いたころから、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』や『さらば愛しき女よ』を読み返し、また藤沢周平の「彫師伊之助捕物覚え」シリーズも読み返した。いずれも主人公の「探偵」がやっている「探索」は、街を歩きまわりひとに会い、「あなたはなぜそこにいて、自分はなぜここにいるのか」を考えることだった。

藤沢周平の『漆黒の霧の中で』には、こんな一行がある。「横着な岡っ引は、頭の悪い岡っ引より始末が悪い、と半沢がこぼしていたのを、伊之助は思い出している」。半沢というのは、かつて伊之助が岡っ引でつかえていた同心だが。

関連……2007/04/19「「ないよりマシ」という横着」…クリック地獄

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