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2007/06/30

1974年の暑い熱い夏

宮澤喜一さんが亡くなった。来月は参議院選挙だ。なので、1974年の夏の思い出だ。

えーと、おれは、30歳ってわけか。1974年の7月7日は「七夕選挙」といわれ、参議院選挙投票日だった。その投票日の一週間前ぐらいに、おれは自民党本部の幹事長の会議室にいた。1974年の6月30日か7月1日のことかもしれない。

おれを含め、たしか7つの選対事務所の責任者がいたはずだ。その選対を直接統括する、のちに建設大臣などをやり亡くなったS代議士、そしてこれも故人である「田中の金庫番」といわれていた橋本幹事長。

この顔ぶれの会議は、それが3回目で最後だったと記憶する。投票日を一週間後にひかえ、各候補の宣伝カーを、どこに配置するかが主要な議題だった。簡単に言ってしまえば、橋本幹事長が、自派の田中派の当落線上にいる候補者に有利に配置させるための会議だった。

おれは、会議のときは、いつも最上席だった。それはおれの「実力」ではなく、おれの担当する候補者が「大物タレント候補」だったからにすぎないが、おれのすぐ右隣は幹事長だった。ベッコウの太いふちの眼鏡だったと思う、いかにもロンドン仕立てですという黒に近い濃紺のスーツ、いかにも高そうなピカピカに磨き上げた黒い靴、そして手には高そうな葉巻。

その日、おれは幹事長に大きな目でギギギギギッと睨みすえられながら、おれの選対のボス責任者がおれに指示したように一歩も引かず、幹事長が指示する宣伝カーの配置に激しく抵抗し、最後まで受け入れないで会議は終わった。ほとんどは、幹事長とおれとの応酬だった。それが幹事長を見た最後。それ以来、自民党本部に入ったことはあるが、幹事長室に入ったことはない。

おれが、なぜそこでそんなことをしていたか。それは、以前に少し書いている。2006/09/10「いつだってテロル」…クリック地獄

その、参議院選挙は、もしかすると保革逆転かもしれない「保革伯仲選挙」といわれ、自民党と財界は二つの方法で、それをしのごうとした。一つは、集票力のあるタレント候補、一つは「企業選挙」といわれたが候補者ごとに応援する企業を割り当て全社を挙げての体制を組む、ということだった。

で、タレント候補は全部で7名だったと思う。みな全国区。そのなかでも「大物タレント候補」といわれ、トップ当選まちがいなし、200万票をこえる票がとれるかどうか注目された候補がいた。おれは、その選対を代表して(イチオウ選対の副責任者ということで)、その会議に出ていたのだ。

他の選対からの出席者は、みな責任者が出ていたから、50歳代60歳代の貫禄ある人たちばかりだった。そのなかでおれだけが痩せた貧相な30歳の若造だった。しかも上着だけは着ていくようにいわれていたのでそうしていたが、ノーネクタイにジーパン姿。

初めての顔合わせの会議のときには、おれの隣にすわった幹事長が、おれをチラッと見るや不審もあらわにS代議士を手招きし、おれにも聞こえる小声で「この男は」ときいた。S代議士は、声をあげて笑い、「大丈夫です、○○選対の××さんがまかせているひとですから」というようなことを言った。S代議士とおれは、すでに何度も会っていた。幹事長は、またおれを見て、貫禄をつけた低い声で「よろしく頼んだよ」といった。

当時の政権は田中角栄と大平正芳の、つまり田中派と大平派が主流派の政権だった。大平派は、宏池会という池田勇人がつくった派閥組織を大平正芳が継承したものだ。自民党のなかでは独特の、当時としては「政策通」の多い集団だったといえる。代議士や代議士に所属する秘書のほかにも、宏池会に直接所属する秘書がいて、自民党的ムラ社会ではあったが、それだけではなく理念や政策をともにする理想に燃えているところがあった。

チトひいきめの言い方になっているかもしれないが、いわゆるテクノクラート型の政治家のいない日本で、テクノクラート風をめざしている人たちが比較的おおい派閥組織だったいえるだろう。そんなわけで選挙も、カネや利権や後援会組織に頼るだけではなく、理念と政策を直接大衆に訴えることをしようという意気込みも強かった。

他の派閥と比べると、大衆ウケする政治家的なハッタリがチト弱い。ボス連中は、大平正芳もそうだし、そのあとの鈴木善幸、そのあとの宮澤喜一もそうだが、顔はイマイチでドンくさい。でも見かけによらず、紳士的でスマートな人たちが多かった。やたら強引に威張ったりすることなく、利権的などろくさい話はなくはないが、政策的な展望を持ち、よく議論したり会話を通して解決していこうという姿勢があった。

大平正芳さんと鈴木善幸さんには会ったことあるが、宮澤喜一さんは、会ったことがない。宮澤喜一は、まだ「ニューリーダー」という呼び方はなかったと思うし、のちに竹下登とならんでニューリーダーといわれるようになるが、すでに派閥の中では将来の総裁まちがいないといわれていた。おれは田中派の人たちとも付き合いがあったが、田中派にあっては、竹下登が、おなじようにいわれていた。

おれが、その大物タレント候補事務所に出向になったのは、投票日の3か月前ぐらい、たしか3月ごろだったように思う。公示がせまってくると、いわゆるウラ選対の仕事がふえ、一晩おきに事務所に泊まる体制になった。

モンダイは、その大物タレント候補が、田中派と大平派が激しい争奪戦の結果、大平派から立候補したことだった。しかも、企業選挙として割り当てられた企業が、こんにち巨大利益をあげている某自動車メーカーの販売会社組織で、ここは田中派の牙城だった。それがどんなにメンドウなモンダイをはらんでいたか。当面の参議院選挙の得票数は、次期の衆議院選挙とそれにからむ総理総裁争いにからんでいたのだ。

とにかく、そんなわけで、わが事務所のボス責任者のシモさんは、たしか58歳で、いわゆる選挙参謀としてはベテラン、頭のよい人だった。田中派がからむメンドウなところには、おれを副責任者として派遣して難を逃れていた。でも、この人は、たしかに頭はよく、おれをただその状況にほおりこむのではなく、状況や相手の出方、ゆずってはならない点やいくつかの対策を、よく説明してくれた。おかげで、おれは苦労したけど、いろいろなことを学んだ。

目標得票数を獲得して当選した。
暑い熱い夏だった。
ああ30歳、運命のわかれ道。おれが、カネでもなんでもいい、もっと何かに執着するところがあったら、もっとグレイトでアクドイ悪いスバラシイ、女にふられたぐらいで思い悩むことない、人生を送っていたであろうに。

あのあと、おれには秘書になる打診があった。おれはまるでその気はなく、知り合いの20歳ばかり上のウエさんが秘書になった。彼とは、よく飲んだが、すでに彼は糖尿病を持っていたし、秘書の激務が務まらなくなり、ある団体の役員に横滑りし、やがて亡くなった。大物タレント議員は、そのあとも出馬し当選したが、顔がパンダに似ていたことから「票集めパンダ」と陰口をたたかれながら亡くなった。彼の人生を考えれば、国会議員なんかにならないほうがよかったかも知れない。すでに、人気者というだけではなく、高い社会的地位にあったのだし、奥さんは、子供はいない家庭の二人だけの静かな幸せを願い、出馬には、ものすごく反対していたのだが。

あのときのタレント議員で、いまでも残っている議員がいる。山東昭子さん。やはり、女は強いのか。
イチオウ政治改革とやらで「政策秘書」なる制度もできたが、あいかわらず闇の利権政治がはびこり、そして、あいかわらずタレント議員で数合わせするようなことが続いているのだなあ。

さあ酒でも飲みに行きましょうか。

この仕事は、大手広告代理店のD通とのジョイントベンチャーだった。当時、D通では「販売促進本部」というような名前の部署が選挙を担当していた。D通からは、ヤタさんが出向で来て、主にアナウンス嬢の訓練をやっていた。

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2007/06/29

「癒し」って、どうするの?

『厳選名古屋居酒屋+周辺80選』(平岡俊佑編、風媒社1997年)をパラパラ見ていた。新書サイズ1見開きに1店載っているガイドブックなのだが、いろいろな人が書いている。なかには、いわゆるガイドな文章からするとどうかなと思われるものがあって、おれとしては、それがかえってオモシロイ。

たとえば、ある店の紹介は、こんなふうに始まる……

「大変な時代になった」という言葉がよく聞かれる。「カオスエイジ」とも言われる。何かにつけ先行き不透明な時代だから、庶民の愚痴、ボヤキも半端じゃない。
 それで「はけ口」を求めて、男も女も酒に歌にと夜の街を徘徊するのが、お決まりのコースらしい。そんなことしたって何も癒されないことは、皆判っているのに。

……なーんて書いてあるのだ。スバラシイ!と祝杯をあげたくなる。

これだけじゃ誤解されちゃうだろうから注釈をすれば、この著者は、「心癒されるところでしみじみ飲む」ことを奨励したいのだ。それで紹介する店が「愚痴やボヤキもここでは品がいい」となる。おれのポリシーには沿わないが、主張は理解できるし、なるほどねえと思う。

しかし、一方で、これはべつのことだが、こんな「癒し」の主張もあるのだ。

ファックスの箱を整理していたら、あるテレビ番組の制作プロダクションから送られてきた企画書が出てきた。たまーに、こういう制作協力や出演の依頼があるのだが、エンターテイメント系やわけのわからないバラエティ番組については、テキトウに逃げるようにしている。でも根が親切だから、不親切に対応することはない、けっこうタダで面倒なことをしてあげたりすることもある。この場合は、どうしたか、もう忘れた。ファックスの日付は2003年4月某日。超有名なタレントの名前が冠のスペシャル番組だ。

「企画意図」に、このような言葉が陳列されている。……

「日本全国から「家庭の味」を発掘!
“究極の癒しメニュー”を作り上げ、将来的には実際に販売していくという今だかつてなかった新機軸の「食バラエティ」です」

「今、日本人の舌が求めている味は、イタリアンでもフレンチでもありません!
素朴で心温まる「おふくろの味」!世知辛いこの世の中で、
人々はぬくもりを求めているのです。
そこで!全国各地の家々を訪ね「家庭の味」を発掘!」

「一見すると何でもないけれども食べると自然と涙が頬を伝うような素朴な家庭料理メニューが次々と誕生!」

「田舎の原風景、おばあちゃんの笑顔が最高の隠し味となった
老若男女誰もが癒される
究極の“癒しメニュー”が誕生します!」

……といったぐあい。わかったわかった、どーぞ勝手にやってください。と、癒し酒を飲みたくなる。おれのような下品な文章を得意とする男ですら、その「!」の使い方、なんとかならんのか!下品すぎるぞ! と言いたくなるのですね!

だけど、こういうことを、けっこう高学歴高給取りの人たちが寄ってたかってマジメな顔してやっているのですな。

そりゃ、それゆけ「癒し!」だ。

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「中退」といふ人生

昨夜は「祝、祝、祝、内定」のことを思いながら飲んだ。おれは左サイドバーの「リンク」にある「大衆食と「普通にうまい」」の経歴にあるように「大学中退」だから、いわゆる「新卒」の就職活動の経験はない。職業について「夢」や「希望」を持ったこともない。めしがくえればいい。川で流されるように、とりあえず溺れ死なないように生きてきた。それだけだった。かといって、不幸だとも思っていないし、不服があるわけでもない。また成功だの不成功だのを考えたこともない。

以前ちょっと書いたが、転々として、まず学歴経験不問で就職できる営業職にたどりつき、それからまたより学歴の関係ない世界へと転々とした。

法律的にはどうかしらないが、社会通念的には「中退」は「学歴」としては通用しない。中卒、高卒、短大卒、専門学校卒、大卒……なんでもいい「卒」でなければならない。だから「大学中退」はなく高卒になる。それは、経理の仕事をやるようになって知ったのだが、給与体系というものに「中退」の位置づけがないのと関係するのかもしれない。オモイヤリのある会社では、大学で2学年以上の単位取得の証明があれば、短大卒に位置づけられる例はあった。

一般的には、自分の経歴に「中退」なんて書くのは、まったく意味がない。だけど、「書いてくださいよ」といわれることもある。一つには、高校卒業してスグはなにをやっていたのだ、ヤクザかドロボウでくっていたのか、というふうに怪しまれないためのようである。それから、なんだか、文章の分野では、ただの高卒よりイチオウ大学に入ったことがあるのですヨ、これこれを専攻しナントカという教授がいましてねというふうが、なんだか本をたくさん読んでいるような知的な文章の世界では「力」になるかんじである。ま、ようするに、この世は、「ドーダ」なのですね。

それから、やはり「学術的」なからみ「論文的」になると、中退でも「書いてくださいよ」になることがおおいようだ。それぞれの分野の「慣例」というものだろう。

「大衆食と「普通にうまい」」のときは、「法政大学を3年間で中退後、そこそこやってはやめ別のことをやる中退人生」といったぐあいに、「中退」をひきずって書くワガママをやり許してもらったが、『大衆食堂の研究』も『汁かけめし快食學』も著者略歴では学歴についてはふれてない。

「3年間で中退」といっても、そのあいだも「臨時雇い」を転々とし、たしか3年の前期まで学費をムダに納入したということであって、後期は払えなくてあきらめた。おれにとって「中退」が意味があるとしたら、なんに対しても執着のない「そこそこやってはやめ別のことをやる中退人生」なのだ。

しかし、なんだかんだいっても、この世は「学歴社会」であり「学閥社会」だ。出版や学界や官庁のように、古い業界ほど、そうだ。大方の当事者は、イヤそんなことはないと否定するだろう。それはタテマエ、自らの意思として、そのように「命令」したり「指示」したりした「事実」はないということにおいてそうかもしれないが、その人たちのまわりに群がり気に入られようとしたり、また尊敬から真似しようとしたり、そういうことを率先したり他に強要する関係が周囲に「自然」にできる。それらを否定できるほど、距離を置いたり無関係でいたかというとそうでもないことがほとんどだろう。

ま、だからといって、おれはウラミごとをいうつもりはない。そういう話をしているのではない。そんなことはどーでもよいのだ。それより、このことだ。

「卒」が尊重される背景には、「コレ一筋」や「首尾一貫」が尊重されることがあると思うのだ。あっちこっちフラフラするやつは信用ならない、ってことのようだ。しかし、「コレ一筋」や「首尾一貫」を美風にするのは、ようするに自分がアンシンしたいためではないかと、おれは思う。実績でしか人間を判断できない横着と悪癖にすぎない。グルメの世界だと、何軒食べた、本の世界だと、何冊読んだ、といったことがはびこるのも無関係ではないだろう。それも、ある種の「履歴」なのだ。

本来なら、生年月日すら必要ない。ことばをかわしながら、どう判断するかだけだろう。何軒食べても何冊読んでも、ダメなやつはダメなのだ。恋愛の場面では、そういうふうに「人間」を判断することがあるようだが、仕事や趣味になるとそうではないのが、オカシイ。結婚まで含めて「中退人生」のおれとしては、そう思う。なんでも、恋愛のように判断すればよいのだ。

もっとも恋愛でも、相手の学歴や職歴や資産を気にするひともいるし、オスの孔雀が羽をひろげるようにいろいろな実績を見せびらかしたがるひともいる。しかも、恥ずかしそうなふりをしながら。それは実際そういうものが尊重されたり話題になるのだから、それなりの見識というものだろう。こうやってものを書くのも、自分の頭の中を見せびらかしていることには違いない。

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2007/06/28

祝、祝、祝、内定。

このあいだも就職のめでたい知らせがあったばかりだが、またまた内定の知らせが。めでたいねえ、大難関を突破して、希望していたところに入れたんだもの。「長年の夢が叶い、とてもうれしいです」という文字が、ほんとうにうれしそうだ。その「夢」を聞いたのは、何年前、3年前だったかな?

よかった、よかった。よくがんばった。まずは、とりえあえず、ここで祝福! おめでとう。 

その職場、外見とちがい、すごい「男世界」だから負けないように。ま、大丈夫だろうけど。来年の春までに、酒の飲み方だけは、おれが仕込んであげる。

うーむ、おれも、こうしちゃいられない。という気になって……そうだ、まずは一人で祝杯をあげよう。

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電車でレタスクラブを見る女

このあいだ東京へ行くため、午前11時ごろの京浜東北線に乗った。車両はガラガラで、テキトウに座った。ほぼ斜め前の女が、真剣な顔で、雑誌を見ていた。その雑誌は、「レタスクラブ」だった。

ワタクシは電車のなかで真剣に「レタスクラブ」を見る女におどろいて興味を持った。20台後半といいたいところだが、30歳前後に見えた。若いようなのだが、生活の疲れがただよう。貧相というほどではないが、あまり肉のついてないからだ。とくに特徴のない地味な白いブラウスにスカート。アクセサリー、なし。これから、アルバイトかパートの勤めに行くような感じで。

なぜ、彼女は、そんなに真剣に「レタスクラブ」を見るのだろうか。ワタクシは赤羽で降りるまで、ずっと考えたが、なにも思い当たることはなかった。ただ、ふと、彼女には「レタスクラブ」がお似合い、か、「レタスクラブ」には彼女がお似合いという感じがした。普通の人、普通の生活。ジケンにでも巻き込まれないかぎりテレビや新聞や雑誌に登場することがない。

“われわれの日常は、じつに多くの、また微細な生活習慣から成り立っている。そして生き甲斐などと、ひと口に言えば大変なものも、仔細に眺めれば、こうしたひとつひとつの小さな生活の実感の間に潜んでいる筈のものである。”

……と藤沢周平さんは書いている。たしかにその通りだと思うのだけど、そういう「小さな生活の実感の間に潜んでいる」ものが見えない判らない、テレビや新聞で話題になるような美しさや醜さしか感じなくなったワタクシがいるのだった。

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2007/06/27

愚痴と悪態の限りを尽くしても、膝を払ってすっくと立ち上がる

新宿らんぶるの地下は、1962年春に初めて入ったときと、ほとんど変わってないと思う。いまどきのセチガライ東京の地価など無関係という感じで、ドバッと広い。地下2階の席は吹き抜けで、地下1階の席から見下ろせる。きょう知ったが200席あるのだ。

13時に、牧野伊三夫さんと、電話では話しているが初対面の大谷道子さん。打ち合わせ。じわじわイメージとやる気がわいてくる。

7月の日程も、かなり決まってきた。けっきょく、14日間のうち、2日間を除いて、牧野さんと一緒だなんて…。飲み過ぎないようにしなくては。そして、8月は。いや、まだ8月のことは考えないにしよう。

外に出ると暑い。うーむ、この暑さ、7月を乗り切れるか。なんとかなるだろう。お二人と別れて、ション横で、生ビール。うめえ、たまらん。飲みすぎた。

大谷道子さんは「クウネル ku:nel」でも活躍しているが、なんといっても印象に残っているのは「雲のうえ」3号の「街のうた」。

居酒屋で飲んで、愚痴と悪態の限りを尽くす女ともだち。アパレルメーカーに勤めている。多くのスタッフを抱えての仕事はストレスが大きい。「が、愚痴と悪態の限りを尽くしても、最後はひとりで膝を払ってすっくと立ち上がる人だということが、ここ数年の付き合いでわかってきた。」

いいねえ、この描写。「最後はひとりで膝を払ってすっくと立ち上がる」

毎日、職場へ行けば、愚痴や悪態をつきたいことだらけだ。でも、逃げるわけにはいかない。時間中は、ニコニコ過ごす。たいがい、そうだ。会社勤めじゃなくても、不条理と理不尽だらけの現実との格闘。それは「生きている」ということでもあるだろう。そして、今夜も、酒のんでめしくって、「最後はひとりで膝を払ってすっくと立ち上がる」のだ。「隠居の道楽」のような酒やめしとは、そこがちがう。

それゆけ。

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2007/06/26

日々の飲食という小さな祝祭を大切に楽しむ

なんとなくWebをウロウロしていたら、2007/06/11「文京区駒込のたぬき食堂が再開の朗報!」に紹介した、その朗報を教えてくださったyanchamonoさんのブログがあった。たぬき食堂が再開を告げるポスターの画像もあった。

ブログのタイトルは「酒場という磁場」。飲食店での飲み食いだけではなく、自分で料理をつくる「家呑み」もけっこうある。ひかえめの表現のなかに、日々の飲食という小さな祝祭を大切に楽しむ雰囲気があふれていて、好ましい印象を持った。

たとえば6月25日には、こんなことを述べている。

今日は嬉しい嬉しい給料日。
でも調子には乗らずに慎重に呑む。これが大事。大事。
肉じゃがの汁だけで、ホッピーを1杯いく。これが大事。大事。


・酒場という磁場…クリック地獄
・たぬき食堂@駒込の開店の告知ポスターは6月10日…クリック地獄

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氾濫するコギレイな雑誌、本。コキタナイ闇の中の食。

おれも、まだ若造というかバカというか、言っても仕方ないと判っていても、こういうジケンの片付けかたを目の前にすると、ついつい言ってしまう。こんなことを書いているより、女と酒飲みながらイチャイチャしていたほうがマシ。もちろん、そういう相手がいればだが。みな、そのように、自分の楽しみのなかにいる。だから、今回の件については、これで最後にしよう。

読売新聞をツルシたいわけではないが、きのうたまたま読売新聞を取り上げ、「農水省は、なんらかの責任をとるつもりなのか。そこのところをなぜ、マスコミは追及しないで、叩きやすい弱小企業だけを叩くのか。」と書いたので、「公平風味」のために、この読売新聞の記事を使わせてもらおう。

YOMIURI ONLINE
農水省と北海道、計8回の立ち入り検査でも不正見抜けず
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070626i301.htm?from=main3

 食肉偽装の告発をもとに、農林水産省と北海道が2002年から07年までに計8回、ミート社に立ち入り調査をしながら、不正を見抜けなかったことが25日、明らかになった。

 道は02年3月、同社員を名乗る男性から最初の告発を受け、立ち入り調査に入ったが、裏付ける証拠を得られなかった。

 告発は06年にもあり、苫小牧保健所が2、11月に調査。11月には「牛タンスモーク」から基準値を超す発色剤(亜硝酸ナトリウム)を検出した。食品衛生法違反で同社に出荷停止を指示したが、さらに「ウサギやカモの肉も使っている」などの情報が提供され、12月にも2回、追加調査した。しかし、この時も原料偽装を突き止められなかった。

 農水省の北海道農政事務所にも06年2月、偽装情報が寄せられたが、同事務所は「拠点が道内だけの業者なので日本農林規格(JAS)法の調査権限は道にある」として、3月23日付で道に対し、「具体的疑義が確定できませんでしたので参考までに回付します」との文書を作成したという。

 同事務所は昨年9月、ミート社に東京事務所があることを知ったが、直ちに調査に入らなかった。北海道農政事務所は、06年3月と今年3、5月に立ち入り調査をしたが、これは牛肉の個体識別の信頼性を確保するための調査だった。道の近藤光雄副知事は「情報を一元管理していればもっと早く不正が見つかっていたかもしれない」と話し、北海道農政事務所の小野哲士消費・安全部長も「連携が十分でなかった点は反省している」としている。

(2007年6月26日3時7分 読売新聞)


ミートホープ社の田中社長に対する責任追及と比べたら、なんとまあ最初から腰が引けていることか。責任逃れのアリバイ証明を提供しているような記事ではないか。

ついでに、当ブログで、「ハンナン浅田」のジケンを思い出しておこう。
2004/04/19「もう一人の浅田」。2004/04/22「どうなるハンナン浅田」

ついでに、こんなことを書いている新聞もあった。神戸新聞2005年5月28日社説「ハンナン判決/農水省は責任をどう取る」

ハンナン浅田だけではなく、食肉ジケンは続いた。でも、狂牛病のアメリカの酷さを言い立てることで、日本の農水省と食肉業界に免罪符を与えてきたのだ。

破滅してもよいと思うが、世界は急速に破滅に向かっている。活字文化は虚栄心と功名心に乗っ取られ、こんなにみんなが食べ物の本を書いているのに、賄賂と汚職が流布し真相は解明されない。世も末だ。
……こだまひろしさんの「モグラゲリラひろしの「さよなら、ギャングたち」」の「世界は急速に破滅に向かっている。賄賂と汚職が流布しみんなが本を書きたがっている。世も末だ。」を勝手に改ざん。

氾濫するコギレイな雑誌、本。コキタナイ闇の中の食。不条理はスバラシイ。

「とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。」……キライな太宰治さんのお言葉(「斜陽」から)。

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2007/06/25

ウラがとれてない記事は、「偽装」かもしれない

yahoo!ニュースに載った記事だ。この記事は、元社員の名前もないし、書いた記者の名前もない。表示のない商品とおなじで、しかも、内容の裏づけが、まったくない。「毒入り」情報かもしれないのだ。せめて保険会社を取材してから載せるべきだろう。こんな記事を大読売新聞が載せるのだからねえ。たかだかパート従業員を含めて60名ぐらいの会社が生きていくために「偽装」するようになるのだろう。ま、こんなことを競って書いていると、農水省の責任モンダイが浮上しないようにする、必死が伝わるだけ。こんな「報道の自由」が許されるなら、お互い自由な表示と取引で、したがって食べた味のよしあしと価格で食品が売買されてもよいじゃないかと思ってしまう。じっさい、外食店の現状は、そうなのだ。指導管理できない表示義務を定めることは、できないことを公言するウソ無策とおなじではないか。それとも、農水省は、なんらかの責任をとるつもりなのか。そこのところをなぜ、マスコミは追及しないで、叩きやすい弱小企業だけを叩くのか。近年の食肉関係の「偽装」モンダイだけでも、どれだけあったか思い返してみろ。あっ、わかってます、「正義風味」を「正義」といつわる演出ですね。

ミートホープ社、クレーム商品は保険金で賠償・回収し転売
6月25日22時13分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070625-00000013-yom-soci

 北海道苫小牧市の食肉製造加工会社「ミートホープ」(田中稔社長)の牛肉ミンチ偽装事件で、納入先の商品にトラブルが起きた際、同社が、保険を使って納入先に賠償金を支払ったうえ、回収した商品をレストランなどに転売していた疑いのあることが25日、元社員の話で明らかになった。

 元社員によると、同社は偽装肉や粗悪材料を使っていたため、納入先からの苦情に備え、賠償保険に入っていた。保険は、納入した商品に起因するトラブルで取引先が商品回収などを迫られた場合に支払われるタイプ。苦情は度々あり、田中社長は「保険でやればいい」などとして保険金を請求し、納入先に賠償していたという。元社員は「(保険金は)何十回となく下りていた」と話している。同社は回収した商品の販路も確保しており、容易に売りさばいていたという。

最終更新:6月25日22時13分

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おれもバカだが、消費者もバカである

Suitaiけっきょく、きのうは夜の10時ごろになるまで、一滴も酒を飲めなかった。そして、飲んだビールのうまかったこと。

ところで、またもや、おれの酔態醜態をさらすような画像がメールで届いた。すでに書いたように、記憶はほとんどないのだが、タノさんの坊主頭を抱えてほおずりしキスをしたことは覚えていた。唇に、坊主頭のザラザラした感触が残っていた。その場面を、オッタチトウフさんが携帯で動画撮影していたのだ。はあ、やれやれ。

そのように、おれもバカだが、消費者もバカだ。といった社長がいるらしい。いや、「もちろん私が一番悪いんですけども…消費者自体も安いものばかり求めるから」と、消費者も悪いといったらしい。これは、本音だろう。そう思っている「生産者」や「食の専門家」は、けっこういるはずだ。そのように思っている消費者もいるだろう。

自分だけは正しいという顔をして、ひとを教育しようという「食育」は、そのように消費者をダラクモノ悪者よばわりして成り立っている。「地産地消」を錦の御旗にしながら、中国に米を売る全農。それもキット、国産のうまい高い米を買わない消費者が悪いと、消費者のせいにするのだろう。

日本の食糧自給率が低下するのは、安くて悪い輸入品を買う消費者がいるからだ、というようなことを言って、「食育」を主張する人たちもいる。みな、消費者を非難することで、自分は間違っていないような顔をして、ひとを「食育」しようというのだ。「私が一番悪いんですけども」と言っただけ、この社長は正直なほうかもしれない。自分では作らないが飲食店で「手づくり礼賛」の正義の連中よりは正直だろう。

そもそも農水産業や食品メーカーを指導監督する立場の農水省が、自分たちのやるべき指導監督責任をはたさないで「食育」に熱心というのはオカシイ。問題が起きるとメーカーの一つや二つ潰して自分たちの利権や地位を守ることに専念する。その繰り返しではないか。

とにかく、そのYahoo!ニュースの記事、こうだ。こういう社長の発言が問題なら、消費者を悪者に仕立て上げ「食育」を推進しようという連中は、もっと問題だろう。

おれは、そもそも、コロッケが、牛肉入りだとかなんだとかに価値を認めない。これからは「牛肉風味」を開発すべきだろう。それなら偽装にならないし、そういうものに価値を認めるひとを満足させることもできる。カニカマなどそうだが、もとのものが高価になっている一方で、生活経済は向上していない、しかしイメージだけは「中流」を維持したい、そういう中では、その種の「風味食品」を開発すればよいのだ。

この記事、「加ト吉や日本生活協同組合の鑑定で」と書くあたりに、いかにも、この事件をミートホープ社の田中社長イケニエ責任追及でオワリにしたい意図が露骨だね。ま、筋書きとしては、そういうことなのだろう。これを「正義風味」の記事という。

田中社長仰天発言「消費者にも問題」…ミンチ偽装で強制捜査
6月25日8時3分配信 スポーツ報知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070625-00000007-sph-soci

北海道苫小牧市の食肉加工販売会社「ミートホープ」の「ミンチ偽装問題」について、北海道警は24日、同社と取引先の「北海道加ト吉」など十数か所を不正競争防止法違反容疑で家宅捜索した。道警は田中稔社長(68)の主導による会社ぐるみでの違法行為とみており、今後は田中社長の立件も視野に捜査する。捜査に先立ち、田中社長は事件の責任について「消費者にも問題がある」などと発言した。

 午後2時半、段ボールを持った道警の捜査員30人が続々とミートホープ社に入った。窓ガラスには青いビニールが張られた。

 ミート社は豚肉や鶏肉を混ぜて偽の牛ミンチ肉を製造。伝票などに「牛100%」と原料表示を偽って北海道加ト吉に販売した疑いが持たれている。加ト吉や日本生活協同組合の鑑定で、ミート社の原材料を使った「牛肉コロッケ」から豚肉や鶏肉が検出された。

 道警はこれまでミート社などから資料の任意提出を受け分析し、幹部から任意で事情聴取。田中社長の指示で長期間にわたり大規模な偽装が行われたと見て、詐欺容疑の適用も検討している。

 午前10時、捜索に先立ち、同社前に茶色いチェックのシャツというラフなスタイルで現れた田中社長は「業界全体の体質も(警察に)説明しなきゃいかんと思うし、販売店も悪いし、半額セールで喜んで買う消費者にも問題がある」と神妙な面持ちで解説。

 さらに「もちろん私が一番悪いんですけども…消費者自体も安いものばかり求めるから」と“被害者”であるはずの一般消費者に責任の一端をなすりつけた。

 これまでも田中社長は発言を二転三転させてきた。問題発覚の20日、ミンチの偽装は工場長からの求めに応じたものだったと説明。同じ機械を使うことで牛肉と豚肉が混ざったとも話したが、同日中に翻し、故意に混ぜたことを「考えられない訳じゃない」と暗に認めた。

 翌21日「私がいちいち(肉の混入現場の)横にいたら大変ですよ」と笑顔で自身の関与を否定。しかし同じ会見中に長男の等取締役から「本当のことを言ってください」と責め立てられ「コストを下げるため牛肉に豚肉を混入するよう指示した」と偽装の主導を認めている。

 ミート社によると、牛ミンチの取扱量が増え始めた7、8年前から偽装が常態化。牛肉どころか豚肉すら検出されない「牛肉コロッケ」まであった。産地の偽装や賞味期限の改ざん、袋を偽造してブランド肉を装ったり、肉を赤く見せるための血による着色、果てには水を注射しての重量アップ疑惑など、同社は偽装のデパート状態となっている。

最終更新:6月25日8時3分

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2007/06/24

雲よ

Komoro先日、小諸なる古城で、雲の写真を撮った。
谷川雁の詩「雲よ」の、ここが好きなのだ。


雲がゆく
おれもゆく
(略)
雲よ
むろんおれは貧乏だが
いいじゃないか つれてゆけよ

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第6回飲み人の会酔態 ああ楽しかった

Nomibito070623gいつものように、たっぷり飲んで、楽しかったね~。ほとんど記憶にないけど、肉体が楽しかったと覚えている。

14時。まだ肉体がヨレヨレ脳がフニャフニャだが、やっとブログを書ける感じになった。それに、この酔態画像がメールで届いたからには、載せねばならぬ。

きのう、第6回飲み人の会。JR山手線大塚駅北口の会場の飲み屋に6時集合。時間前に、すぐそばの角海老宝石ジムの前を通ると、見物人たちのなかにコンさんとヤマさんが。ジムでは、ちょうどスパーリングらしきことをやっていた。窓を開け放っているので、リングサイドで見るのとおなじ。汗のにおいに、汗がとびちるのまでわかる。見ていてあきない。

さて飲むか。3人で生ビールを注文したところで、タノさんがあらわれる。しばらくしてからシノさん。彼は、1回も休まずの参加。そして9時過ぎか?オッタチトウフさん。もうそのころには、かなり酔っていた。

二軒目。どこかわからない、とにかく大塚。なんだかファミレスを居抜きで居酒屋にしたような妙な飲み屋。混んでいた。ここで、この画像を撮ったのだ。ほとんど覚えていない。タノさんの坊主頭をなでなでし、チュをしたのだけは覚えている。まだ、唇のまわりに、そのザラザラした感触が残っていて、気持ちわるいよう。

三軒目。ばかだねえ元気だねえ。もうみな泥酔状態で、電車の時間もなくなりそうなのに、たしか鶯谷の信濃路へ行ったような気がする。鶯谷の駅のホームで、みんなで、吸うさーーーん、と呼んだ……ウソ。

とにかく、それで、電車があるうちに無事に帰ってきたようだ。今朝気がついたら、服を着たまま畳の上に寝ていた。

7月8月は、おれが忙しくて開催できないので、彼らは勝手にやるようだ。勝手にやってくれ。

とりあえず、以上。

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2007/06/23

夕方のスーパーの男は光っていた

Tomatoまだ外は明るい19時ごろ、スーパーで買い物して、あらためて思った。男の客が多い、半分は男なのだ。しかも30代が多いようだ。ほとんどは見るからに勤め帰り、一人で買い物をしている。それが、そんなにわびしそうではない。

この北浦和で、その時間にスーパーにいられるなんて、どんな仕事の人だろうと想像する。わからない。公務員?そこそこの会社の管理部門? 24時間スーパーで23時ごろ買い物している男たちも多いが、彼らのばあいは、チトくたびれているのだろう、わびしさもただよう。しかし、この時間帯の男たちは、ヨシッ食べるぞというかんじがみなぎっている。

商品の品定めをする目つきも真剣だ。よく昼間のスーパーで主婦が、両手に同じものを持って、真剣に見比べている姿を見ると、なにをそんなに真剣に見ているのだろう、主婦ってのはヘンなことを気にするからなあ、ああやって見比べながら何を考えているのだろうと思うことがあるのだが、男でもおなじことをするのに気づいた。そうか、男も女もおなじなのだ。

とにかく、そんな男たちの姿を見ながら買い物するのは、なんだかとても気分がよい。楽しい生活だ。もちろん、買い物かごのなかは、とりのから揚げに弁当と缶ビールというひともいるが、みな楽しそうだ。19時ごろにスーパーで買い物できる時間に会社がおわるようになれば、こういう男たちはさらに増えるにちがいないと思った。

外でも飲み食いすることもあるだろう。そして、だから、ウチでも飲み食いしたくなる。一人でくつろいで食べるのも、よいものだ。簡単に何かをつくって。外食のよさ、自炊のよさ。いろいろまざっていろいろ食べて、生活は楽しくなるのだろう。仕事のことで頭がいっぱい趣味までガツガツガツ食べ歩き買い歩き情報あさり自慢ごっこの生活ではなく、ふらっとスーパーに寄るぶらぶらな気分が、もっとあっていい。

また「生活連鎖」を考えてしまった。「生活連鎖」といえば、少しずつザ大衆食のサイトを作り変えているのだが、岡崎武志さんと荻原魚雷さんのお言葉を、あらためて読み返して、これが生活の中の食事の姿だよなあと思った。

岡崎武志さんのお言葉…クリック地獄
荻原魚雷さんのお言葉…クリック地獄

スーパーの店頭では、地場の埼玉県のトマトが安く大量に売っていた。この色を見ると、気分もなごむ。地元のものが安くてうまければ、「地産地消」の説教なんか聞かなくたって買うのだ。夕方、スーパーで買い物できる時間に会社がおわれば、もっと料理をするひとも増えるだろう。しかし、そこんとこが、ビンボウでビンボウ性の日本じゃ、難しいのか。せかせかせかせかせかせかせか……。その埋め合わせのように食育食育食育食育食育……。

画像は、わざとソフトフォーカスのように撮りました。ウソ、ぼけ。

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2007/06/22

どんどん作って食べて夏を楽しく

右サイドバーにトラックバックがある、雅楽多blogさんの「タマネギとトマトのポン酢&タバスコ漬のホットサンドがバカ美味かった」は、おもしろい。…クリック地獄

当ブログの2007/06/13「暑くなったから、夏バテ時のためのサラダ」の「タマネギとトマトのレモン汁辛子漬け」をごらんになってやってみた話だが、さらに展開がある。こういうふうにいろいろに展開していくのって、ホント、おもしろいし楽しいねえ。

思い出したのだが、食パンにとろけるチーズとこれをのせてオーブンで焼いて、タバスコかけて食べるのも、うまいんだよな。

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酒を飲みめしをくい不条理を空気のように呼吸する

おとといは20日水曜日。朝、目がさめたときはそのつもりではなかったが、どんどん日程が決まっていく7月8月の仕事のことを考えたら小諸の揚羽屋へ行く日にちがなくなっているのに気づく。なんと不条理な。では、いまから行こう。12時ごろ大宮発の新幹線に乗ったら、揚羽屋には13時半ごろついた。なんてこった、こんな不条理が許されていいのか。いいのだ。人間は存在そのものが不条理なのだ。ウンコは便所でするし。

アユは自然の条理に生きているから、まだチトはやくて食べられない。揚羽屋で食べるアユが棲息する川の釣りが解禁になるのは6月30日だそうだ。残念ながら、アユの背ごしはない。いいのだ。アレコレ食べて飲む。例によって、佐久の地酒「亀の海」、うめえぇぇぇ。おかわり、おかわり。2時間以上ひたすら飲んでいたら、酔った。

では風にあたろう。小諸なる古城のほとり、いまじゃ懐古園、カネを出して入るのは不条理、どうも気がすすまない。ケヤキなどの大木で、入り口の前が、よい感じの木陰になっている。ベンチにごろり。眠ってしまった。目が覚めたら、5時過ぎで人影がない。入場券売り場も閉まっている、誰もいない。つまり、タダで入れるのだ。うーむ、よい仕組みだ。カネは昼間の観光客からとればよい。酒を買ってこなかったのが残念だが、城の石垣のうえから暮れ行く千曲川を眺める。ああ、あの川が酒だったら、詩が浮かぶものを。ただの水だなんて、不条理だ。日が沈む城跡をあとに、帰宅。

そして帰ってからは、きのう、きょう、不条理つづき。いや、そうでもないか。いや、そうか。いろいろあったが、なんだか、日にちがたつと書くのがめんどうだな。そのうち小出しにしよう。パソコンのパーテーションのサイズを変更する作業の最中に、処理をまちがえて、メールと住所録ほか、すべて消えてしまった。めでたし。

小出しの1。幻堂出版のなかのしげるさんから、西野空男『四コマ 幸福番外地』が届いた。どうもありがとうございます。四コマ漫画詩、といったところか。ロンドンで強盗にあったという小野原教子さんと、そのロンドンで彼女が「家族に一番近い感情をもっていた存在」というアイルランド人?ロバート・ハーバートさんの英訳つき。カバーデザイン、いつものことながら、本人の見た目とはちがい、あっ、繊細なデザインの石井章さん。じつは、幸福は幸福番外地にある。不条理を呼吸しながら生きるのが人生なれば。あっ、いや。不条理は、愛より普遍、ということ。

こちら烏さんに告知あり。…クリック地獄

ま、とりあえず。

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2007/06/20

書評のメルマガ 食卓の歴史

2007/06/07「食卓の歴史」、2007/06/08「もっと自信をもってやったらどうかと思う」に書いた、書評のメルマガ連載の「食の本つまみぐい」は、すでに発行になっているのだった。こちら…クリック地獄

ヤハリ、まだイマイチ読みこなれていないなあという感じだが。ま、とりあえず、こんなところで。とにかく、この本は、グローバリゼーションなどで多様化が拡大する現代と未来のヴィジョンを考えるうえで、とても示唆に富んでいる。

今日は時間がないので、とりあえず、こんなところで。

「食の本つまみぐい」の掲載分もくじはこちら「ザ大衆食」のサイト…クリック地獄

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2007/06/19

ほんのアソビ 真似してみたい

Yahooのトップにページに、こんな広告があった。

…………………

真似してみたい東京ストリートの着こなし

何枚でも欲しいTシャツ
欠かせないスニーカー
探そう、ベストジーンズ
個性が光るコダワリのメガネ
極上ブランドのシルバーアクセ
サンダルも脱・ワンパターン
マストアウターはパーカで
夏までにスレンダーボディ

そして頭の中はカラッポ

…………………

「そして頭の中はカラッポ」はウソ、おれが付け足したの。そして、ある人を思い浮かべながら、下記のようにアレンジしてみた。うふふふ。ウソウソ。

…………………

真似してみたい東京○○生活

何枚あっても気にならない汚れたパンツ
欠かせない安酒場
探そう、ベスト古本屋
個性が光るコダワリの無精ひげ
極上ブランドがのったチラシを切ったメモ用紙
サンダルは3年前のもの
マストアウターは洗濯したことないTシャツ
夏になっても出っ腹

そして頭の中は?

…………………

あなたも、誰かを思い浮かべてやってみたら。

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2007/06/18

貧乏食通研究所

ザ大衆食のサイトに「貧乏食通研究所」というコーナーがあり、その下位に「食文化本のドッ研究」というコーナーがある。そういうつもりだった。

しかし、もともとカテゴライズやパターン化は興味ない上に、成り行きにまかせて泥縄連鎖をクリック地獄でつなげているうちに、自分でも連鎖泥沼にはまりわけがわからなくなってきた。そこで、少し整理をした。まだ整理している最中だが、デザインも変えた。

貧乏食通研究所…クリック地獄

「食文化本のドッ研究」のコーナーは、構成とデザインを変え、書評のメルマガに連載の「食文化本つまみぐい」の一覧もくじをつくった。

本を読んだときの感想などは、忘れないうちにと思って、このブログに書いて、そのまま忘れてしまう。それらを発掘して、改訂転載したり、リンクをはったり、したい。という、ツモリ。

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D級人生の生活連鎖

左サイドバーにあるように、おれは「それゆけ30~50点人生」を歩んでいる。100を5段階に分けると、80~100がA、60~80がB、40~60がC、20~40がD、0~20がEになるから、30~50は、CとDにまたがるアイマイ領域になる。それをねらったわけではないが、アイマイってのは、けっこう好きだ。いずれの型にもはまらない。C型のようでいてC型ではなく、D型のようでいてD型でもない。そのことによって、どの型にも属さない、型ナシ人生になる。というのは、いま思いついたロジックだ。

とにかく、アイマイなことをいいことに、それゆけD級人生である、ときにはC級かも知れない、というていどにしておこう。で、ようするにD級人生の生活は、どのように決まるかというと、おれはD級人間だから、D級にやろうなんてことで決まるわけじゃない。

食生活のことだが、きのうはアレを食べたから今日はコレを食べたい、昼はアレを食べたから夜はコレを食べたい、というぐあいに考える。そのとき、D級なりの考えは働くと思うが、そのように連鎖的に考える。あるいは、今日は、よく働いたからとか、天気がよかったからとか、時間がないからとか、身体の調子が悪いからとか。そういう何かのツナガリのなかで決まっていくのが、生活のなかの食事であり料理なのだ。と、考える。

今日はバレンタインだからとか父の日だから、結婚記念日だから、元旦だから、いろいろな行事やイベントが連鎖に関係することもある。だからこそ、そういうセールが盛んである。また、いまジャガイモが旬だからとか、今日は給料日だからという連鎖もある。

関係ないが、「連鎖店」という言葉は、最近ほとんど見ない。1970年代はじめのころは、チラホラ使われていた。直営連鎖店はレギュラー・チェーンのこと、協業だったかな協働だったかなの連鎖店はボランタリー・チェーン、そしてフランチャイズ・チェーンという言葉が普及しだしたころには、そのまんまで漢字はなかったように思う。フランチャイズ・チェーンにあてはまる漢字がなく、ということは発想もなかったのかも知れない。

とにかく、生活そして生活の中の食事や料理は、そのようにいろいろな連鎖のなかで成り立っている。

ところが、それを「ハレ」と「ケ」に分けてみようとしたのが民俗学で、これは一時はやった。いまでも、そのように分けるひともいるが、現実的でもなければ生活的でもない。そして、もう一つ、連鎖から切り離して食事や料理を舌の味覚的に語る「グルメ」というのが登場した。

D級人生だって、A級はともかく、けっこうB級C級との付き合いはあるし、そのように食事をすることもある。一食300円と予算は決めていても実際は1000円になったり100円になったりする。それは連鎖の関係で決まる。経済的だけではなく、さきほど述べたように、いろいろな連鎖で決まる。

生活とは、いろいろな連鎖が絡んでいる。それは「生きる」ということが、いろいろな連鎖なのだからトウゼンだしフツウなのだ。

しかしそれなのに、アアそれなのに、その連鎖から切り離された話が、なぜそんなに好きなのよ。なぜにそんなに連鎖から離れ細分化されたグルメになるの。そういう疑問が、ズッとあったのだが、最近、あることをキッカケに、そのナゾが氷解しそうなのだ。

「好き」なんて言葉を信じちゃいけない。ひとはみな連鎖のなかの気まぐれなのさ。鎖は簡単に繋がり、そしてまた簡単に切れる。明日のAより今夜のBがよければBを選ぶ。

そして、明日、二日酔いなら水を飲んでしのぐのさ。

ああ、なんの話かわからない。どんな生活も、鎖の一つなのだ。いいじゃないのそれで。わからん。
午前1時半の酔いどれ深夜便、オワリ。

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2007/06/17

みんなの感想

きょう気がついたのだが、Yahoo!ニュースを見ると、記事の下のほうに「みんなの感想」というアンケート集計がある。

ニュースというか記事を読んでの感想らしい。回答は、5項目5段階。

考えさせられる
役に立つ
興味深い
誰かに教えたい
びっくりした

「ほう」とか「はあ」とか「へえ」とか「ふん」とかいう項目は、ない。これじゃ、おれは答えられない。

しかし、「みんなの感想」だって、いやだねえ。「みんな」、ああ、いやだいやだ。これは、「みんなの感想」じゃなく、アンケートに答えたひとの結果だろう。しかも単純集計をレーダーチャートという表現法で、ワケありげにして。でも、「みんな」になってしまうんだよね。ああ、いやだいやだ、「みんな」はキライ。

このばあい、正確には、「ニュースの感想」と「記事の感想」とでは違うはずなのだけど、そのあたりをアイマイにしてアンケートし、結果に都合のよい解釈を加えるというのは、調査でよくつかうテだね。

数年前、一緒に仕事をやった、ある女。ま、プロデューサーってことになるのかな。おれの調査分析のレポートを見て、「あら、上手につくってくれて、ありがとう」。オレ「なんだよ、上手にとは、これがデータの結果なんだよ」。オンナ「わかってる、プランナーはそういうの。集計と解釈の仕方でどうとでもなるのでしょ。クライアントからおカネがでるように上手につくってくれて、ありがとう。感謝してるのよ」……こういうオンナ、仕事はできるのだが、やりにくい。美人で「好き」といわれても抱く気にならない。ふん。「ふん度 5」

そんなことは、どーでもよいのだ。アレコレやっているうちに夕方になってしまった。きのう、この夏の間じゅう、おれを可愛がってくれる編集さんから電話があって、先日べつのひとから打診があったときに聞いたアバウトな地獄と天国のスケジュールより、さらに正確なそれを聞いた。感想は、「ほう度 5」「はあ度 5」。来週から打ち合わせが始って、9月の上旬まで続く。なるべく片付けることを片付けておき、わが身をまかせるのみ。暑い熱い夏。ナニハトモアレ、生ビールだねえ。この暑いときに、燗酒もいいんだよな。「ふー度 5」

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2007/06/16

あたりまえフツウのことを当たり前ふつうに位置づける

五十嵐さんにメデタイことがあったようなのでブログを見たけど、そのことは書いてない。謙虚だねえ。そして「『現代思想』6月号」というタイトルで書いているなかに、こんなセリフがあった。

“外国人関係の問題を日本社会の中にすげー当たり前に位置づけるような話がわりと少ないと常々思っているので、これはこれでよかったと思っています。”

このへんが、五十嵐さんの謙虚な、というか、当たり前フツウを正確に位置づけていこうという姿勢のあらわれなのだろうなあ、と思った。

メディアは、とかく、突出、特別、特殊、新奇、めずらしい、変わっている、そんなことに偏って話題を求めたがる。普通、スタンダードを見失いがちだ。

かなりキチンとやるマーケティングリサーチや社会調査は、基礎調査とか基本調査というものをシッカリやる。それは、ごく当たり前フツウすぎて、そんなことワザワザやるこたあねえだろうということをやる。じつは、未来のカギは、そこにあるからだ。たとえば、国勢調査は、いろいろ問題が噴出しているようだが、そういう普通を示すデータがなくては、未来を構想することはできない。

だけど、人びとの関心は、メディアの影響もあって、なかなか普通へ向かない。ブームな、マニアックな、突出した、そういうことでないとコーフンできないのだろうか。コーフンしたいのだろうか。あるいは未来やビジョンなんかどうでもよいとか。

人生、フツウで終りたくないのかな。自分が、注目される特別な存在になりたいのかな。みる人間より、みられる人間を意識するほど、何かに偏執していく。細分化していくグルメもそのようにみえる。

おれは、「あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい」「普通の食事を大切に」「ありふれたものを美味しく食べる」とか、やっている。何度も述べているように、おれの関心は、現代日本食のスタンダードとは何か、だ。スタンダードのシッカリしない文化など、浮き草のようなものだと思っている。

やはり、堅気のサラリーマンやビジネスマンや労働者、呼び方はいろいろあるが、社会や生活の土台を支えている人たちの余剰を頼みに、おれのようなフリーライターがやっていられると思う。学者や研究者やエセ文化人やメディアが偉そうにしていられる。ま、いまや、実態のともなわない余剰のために、虚業家の群が「活躍」しているにしても。文化だの芸術だの科学だのは、普通の生活のなかにあるものだ。おれは、そう思っている。カンジンなことは、普通酒や普通のめしがうまくなることだ。そのことを考えなくなったら、人間としてオシマイと思っている。そのわりには、五十嵐さんほど謙虚でないと、反省。

とにかく、いろいろなことを「当たり前に位置づけるような話がわりと少ない」。そのことを、あらためて思った。ので、忘れないように書いておく。

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それぞれの「上京物語」

下記に掲載した、セドローくんこと向井透史さんの「古書現世店番日記」に、興味津々のトークショウの案内があった。…クリック地獄

拙著『大衆食堂の研究』は、山本容朗さんが週刊ポストで評したとおり、「読み方によれば、この著作は、型破りの東京同化ストオリーだろう」なのだ。それはまた、おれなりの「上京物語」でもある。

2005/03/19「悩ましい「田舎者」」でも書いているが、岡崎武志さんの上京者のココロも引用している。上京者には、それぞれの「上京物語」があるのではないだろうか。

さらに、このトークショウにおれが注目するワケは、荻原魚雷さんと浅生ハルミンさんは、三重県出身だからだ。お二人とは、たしか別々だったと思うが飲む機会があって、そのたびに酔った勢いで言ったと思う。おれは何人かの三重県出身者と親しく仕事をしたことがあるのだが、共通する「何か」がある。それは、「三重県人は過激だ」ということだ。おれが感じたことであるが、荻原さんも浅生さんも否定はしなかったように思う。「過激」なのだ。

そんなわけで、「三重県人!~わたしたちが東京に来るまで~」のタイトルが、とても気になる。でも、行けない。このあいだの荻原さんの出版記念会にも顔を出せなかった。スミマセン。おれ、この夏は、天国と地獄が一緒のようなスケジュールをこなさなくてはならない。いまから体力をつけ(もう遅いか)、備えているが。このタソガレの年齢で、失意と絶望を抱え、8月末まで、身体がもつか? もつだろう、酒があるもんね。酒は飲める仕事なのだ。それにスケジュールはキツイが、一緒のひとたちが、とてもハッピー。

みなさん、東京の田舎者たちよ、あなたにはあなたの「わたしたちが東京に来るまで」があるはずだ。このトークに耳を傾けながら、あなたは何を思う。クソッタレな東京で。

以下、セドローくんの案内。

■ワメトークvol.2 『古本暮らし』刊行記念

「三重県人!~わたしたちが東京に来るまで~」

荻原魚雷さんの『古本暮らし』(晶文社)の刊行を記念いたしまして、トークショーを開催します。お相手は人気イラストレーターの”猫ストーカー”浅生ハルミンさん。お二人の共通点、それは三重県出身! 三重とは?、不良との戦い、地方での古本体験から東京に出てくるまでのエピソードを交えて語っていただきます。

荻原魚雷(ライター)×浅生ハルミン(イラストレーター)
司会・向井透史(古書現世)

■日時
7月8日(日)
14:00~16:00(開場1:30)

■会場
上り屋敷会館 2階座敷
東京都豊島区西池袋2-2-15
地図はコチラです。→http://f.hatena.ne.jp/wamezo/20070413174217

■参加料 600円
■定員 40名
■予約方法
予約・問い合わせは古書往来座が受けます。
電話・メール・FAXのいずれかで、お名前、参加人数をご記入の上、お申し込みください。
◎古書往来座 営業時間11:00~22:00
TEL&FAX 03-5951-3939
ouraiza@kosho.ne.jp

※当日、参加希望の方は、外市会場で直接、もしくは往来座に電話にて座席の有無をご確認ください。事前に定員に達した場合は「わめぞブログ」にてお知らせいたします。 http://d.hatena.ne.jp/wamezo/

◎荻原魚雷(おぎはら・ぎょらい)
1969年三重生まれ。フリーライター。著書に『借家と古本』(スムース文庫のちにコクテイル文庫)、編著に『吉行淳之介エッセイ・コレクション』(全四巻、ちくま文庫)。最新刊『古本暮らし』(晶文社)が好評発売中。

ブログ「文壇高円寺」http://gyorai.blogspot.com/

◎浅生ハルミン(あさお・はるみん)
三重生まれ。イラストレーター。数々の雑誌にイラストやコラムを寄稿。本の装丁も手がける。著書に『私は猫ストーカー』(洋泉社)がある。『彷書月刊』にて「ハルミン&ナリコの読書クラブ」、講談社サイト『moura』で『帰って来た猫ストーカー』を連載中。http://moura.jp/liter/harumin/

ブログ http://kikitodd.exblog.jp/

◎司会 向井透史(むかい・とうし)
1972年早稲田生まれ。早稲田の古本屋「古書現世」店主。「本の雑誌」「WiLL」で連載。著書に『早稲田古本屋日録』(右文書院)、『早稲田古本屋街』(未来社)。

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2007/06/15

タマネギとジャガイモ

Yasai書こうと思って書くのを忘れていたが、2007/05/17「頑張れ日本の農業ビジネス はすみふぁーむのアスパラガス」に紹介したアスパラガスを注文して、もう食べおわってしまった。

いつも庭のオオバなどをいただいている一階の大家さんにもあげようと、多めに頼んだのだが、着いたのをスグ食べたら、うまくてうまくてみな自分で食べちゃおうと気が変わり、ついにあげなかった。一週間ぐらい、毎日、そのアスパラを食べていた。すみません、大家さん、けっしていつもマズイ残りものをあげているわけじゃありません。

画像は、一昨日あたり届いたタマネギとジャガイモだ。これは田舎人からタダでもらった。たくさんとれた、おすそわけ。箱の底が見えないほど入っていたのだが、見えるようになってホッとしている。

タマネギは、2007/06/13「暑くなったから、夏バテ時のためのサラダ」にある「玉ねぎトマトレモン唐辛子漬け」をやるので、いくらあってもよいのだが、ジャガイモは、これ大きいし、一度に何個も食べられない。もちろんうまいにはうまいのだが、しだいに格闘している気分になる。おれの場合、ウチにいれば、毎日ではなく毎食、これを食べることになる。きのうの肉じゃがは、まだあまっていて、今朝は汁ごとめしにかけて食べた。サラダ、ポトフ、肉じゃがとやってきて、なんとか、ここまで減らした。ま、「格闘している」といっても、うれしい「格闘」だから、タダなら、いくら送ってもらってもよいのだが。

それそのものがうまいものであっても、毎日のことになると、それだけでは食べられない。やはり料理がものをいう。それが保存法も含めて農業社会で料理術が成長した一つの理由だろうと思う。とにかく、素材か料理かといったふうに、ニ項を対立的に考えるのは現実的でない。

ところが、マスコミや「言論人」「評論家」などは、ニ項対立をぶちあげ、「どちらがよいか」「女だから、男だから」といった話題づくりをよくやる。「サッカーか、野球か」なんて、まるで比較することすら無理なものを平気で比べる。すると人びとは、どちらか選んでしまう。

画像の箱のなかの野菜、タマネギかジャガイモ、どちらでも一つだけ好きなほうを選んでくださいと持ちかけられたら、たいがいの人が、イヤおれは別に好きな野菜があるからイラナイとはいわないだろう。どちらかを選ぶ。するとマスコミは、日本人のあいだではタマネギが支持されているとか、ジャガイモが支持されているとか報道する。そして、その報道をもとに例の循環論法が展開される。どんどん現実から思考が離れる。世の中、そういうカラクリだらけだ。

えーと、また話がそれたようだな。なんの話か。ま、いいや流れにまかせよう。

ニ項対立といえば、男と女。ある小説では、男は女を裏切るから信用ならないとあり、ある小説では、女は男を裏切るから信用ならないとある。そういう二つの傾向があったとしたら、これは、どちらが正しいかではなく、ようするにひとはひとを裏切るから信用ならないし、だからまた信用すべきだということにすぎない。小説は話をおもしろくするために、人間のことを男と女におきかえる。すると、そのニ項対立が実態として普遍的なことのように錯覚し、あるいは幻想し、そこで男と女の循環論法が成り立つ。しかし、そもそも世の中、男と女だけじゃない。

おお、そうそう思い出した、味覚のことだ。

味覚の仕組は、わかっていないことのほうが多い。それをどれぐらいわかって味覚について話しているか、カンジンではないかと思う。どうしても知っていることを話したい自慢したい、それは仕方ないとして、その一方で、その知っていることは、たいしたことではないと、どこかで自覚しているかどうかだ。そもそも世の中、男と女だけじゃないといったが、それをどれぐらいわかりながら、男と女について話しているか。そのことに似ている。男か女かの議論は、人間から議論がそれてしまう。野球かサッカーかの話が、スポーツからそれるように。

男と女、出生したとき、なにを根拠にわけるか、染色体検査をして決めるのか。おれが知っているのは、チンポがついていれば男だ。生まれつきの味覚、つまり生得的とか普遍的といわれる「差」は、そのていどのもので、あとは、ほとんど「学習」で決まる。「男らしさ」「女らしさ」は、ほぼ百パーセント「学習」であるらしい。そして「学習」は味覚のばあい、たいがい、自然的環境、それから社会的文化的環境が影響を及ぼすとみられている。

「自然的環境」と、アイマイな書き方をしたのは、おれは、人間のほうからそれを見るかぎり、「地理的環境」といったほうがよいように思うからだ。たとえば、農村的環境は、自然的環境に近いが、自然環境とはいえないし、農村は都市と密接に成り立っている、また都市は農村と疎遠であったとしても無縁で成り立っているわけじゃない。なにより農村でも都市でもない生活がある。そういう環境を考えると「地理的環境」と表現したほうがよいかなと思っている。

そうそう、なんでこんなことを書いているか思い出した。それは2007/06/10「『季刊 うかたま』で、ボンヤリ「食」と「農」のゆくえを懸念」に引用した、農文協の理念のようなものが気になるからだ。おれもシツコイね。

“ 近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。
 農文協は、農と食・健康・教育を軸心として「いのちの流れ」を呼びおこし、都市と農村の関係を変え、自然と人間の調和した社会を形成することをめざして、総合的活動を展開する文化団体です。近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。”

“自然と人間の調和した社会”って、どんな社会だろう。農民が農協に頼っていれば楽できる社会ってことじゃないよね。でも「都市と農村の関係を変え」なんて書いてあると、「力」バランスを変えること「力の均衡」のようで、そりゃ文化じゃなく政治のモンダイじゃないかと思ってしまう。

ここに見られる、二項対立の考え方、見方は妥当なのか、ってことが気になるのだな。そういうふうに「敵対的」に「学習」してしまった、そこに問題はありゃしないかと気になる。

たぶん、それは味覚や料理の考え方にも関係する、たとえば「粗食」か「美食」かといった。また「男」「女」にも関係するようにも思われる。

なにしろおれのばあいは「美食も粗食も贅沢も清貧もふみこえて、庶民の快食を追求。」だからね。ニ項対立なんかふみこえのりこえちゃうのだ。

ま、そのように、ボンヤリ考えている。考えているだけで、結論はない。はっきりしていることは、今日もまた、ジャガイモを食べたし、食べるのだ。

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2007/06/14

朝酒と気候

ゆっくり読みすすんでいる『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳、早川書房)で、主人公の探偵フィリップ・マーロウが、こう思うことを述べる場面がある。

“ 私は午前中にはまず酒を飲まない。穏やかな南カリフォルニアの気候には不向きだ。代謝に時間がかかりすぎる。”

で、おれは、こう思った。そうかあ、するってえと、おれが朝から酒がすすむのは、ここ北浦和の気候のせいなのだな。……テナことを考えているから、余計に本が読みすすまないのだな。おまけに、そのことを、ここに書いたりしているし。

ついでに、清水俊二訳の早川文庫版の、そこを見た。

“ ふつうなら、午前中に酒を飲むことはほとんどなかった。南カリフォルニアの気候がおだやかすぎるからだ。新陳代謝がはげしくないのだ。”

おっと、こうしちゃいられない。

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偉そうな旗手になりたいのか、楽しみたいのか

食の道楽を非難するつもりはない。道楽は道楽らしく楽しめばよいと思う。「手づくり」礼賛もよいだろう。

しかし、近代文明批判や、市場原理批判や、産業社会批判や、昭和礼賛や、ともすると縄文礼賛といったことをやり、自分が、あたかも「正統」な食文化の旗手や守護神のごとき表現をするとなると、話はちがってくる。もちろん、それはそれでよいのだが、それなりの根拠のある主張でなければならない。

たとえば、むかしの手動ではない、そのあとのモーターで氷かきを回転させる最初の方のタイプと思われる機械でつくった「かき氷」を食べ、「いまの効率優先の機械では、こういう味は出ない」といったことをいう。その氷の味がどんなであるかの説明もなく、そのように、「いまの効率優先の機械」が非難され、「一口食べて見る。ああ、昭和の子供時代のなつかしい味」でおわる。

これは、食べ物の話なのか。それとも「昭和道楽」の話なのか。いったい、その「昭和の子供時代のなつかしい味」とは、どういう味なのか、「いまの効率優先の機械では、こういう味は出ない」と言い切る根拠がほしくなる。

もしかしたら、単なる自分の好みにすぎない、つまり自分の味覚が「いまの効率優先の機械」になじまない、というていどの話を大げさにし、機械文明批判のような高邁な精神を謳うことで自分を偉そうに見せようとしているのではないかと誤解したくなる。

いや、ご本人が食べ物の話をしているつもりはなく、食べ物をネタに効率優先批判を展開したいのであるなら、それはそれでよいが、それなら、べつの矛盾がでる。

つまり。そのモーターをつけた氷かきの機械そのものが、それ以前の手動のものと比べたら効率化されているのではないか。それは、味覚を優先してそうなったのではなく、効率を優先してそうなったと理解するのが妥当ではないかと思うが、ちがうのだろうか。

そもそも、昭和という時代、戦後だろうと戦前だろうと、食の分野で「手づくり」が中心であったのは、効率を否定し味覚を優先していたからではない。機械化効率化するだけの、さまざまな条件や能力に欠けていたからにすぎない。だからこそ昭和の時代は、機械化効率化に憧れと優越を抱いて、工業化近代化にまい進したのではないか。たくさんの「地上の星」を生んだのだ。

昭和の手づくりは、「手づくり志向」によるものではなく、手づくりを必要とする環境がもたらしたものだ。昭和でも1970年代以後、多くの庶民が機械化効率化の恩恵に浴してから、それと相対的に「手づくり志向」が脚光を浴びた。つまり、機械化効率化の恩恵と手づくり志向は相対関係にある二本の足であり、片方を否定しては成り立たないものだというのが実態だろう。そこをよく認識する必要があるのではないか。

なにしろ、「いまの効率優先の機械」を批判している本人が、その話を、機械化効率化競争の極地ともいうべき、インターネット上でやっている。自宅には、冷蔵庫も洗濯機もあり、クルマもあるかもしれない、新幹線や飛行機も利用することがあるだろう。かき氷の氷だって、天然のものではないかも知れないし、天然のものだとしても、流通過程ではさまざまな機械化効率化が貢献しているだろう。たいがいの家が、電気釜を使っているだろう。生きていくための米づくりは、田植え機やコンバイをぬきに成り立たない。

現代の「手づくり志向」は、そのように、機械化効率化と一体のものとして考察すべきで、片方を否定することは正しい実態認識とはいえない。歴史と現実の否定につながりかねない。

それから、たしか、どこかで見たのだが、いまの機械化されたかき氷は粗くてシャキシャキしていて、むかしのようにフワフワでないからおいしくないというような話がある。それは、自分の好みの話としてならわかるが、機械化の否定の根拠にはならないだろう。おれの記憶では、むかしの手動式のころは、フワフワではなく氷のシャキシャキがそのまま伝わるような粗いものもけっこうあった。そのあと、モーターで動かすようになって、安定したフワフワが実現したのであって、その前の「手づくり」は、じつに粗っぽいものだった。もちろんそれは、「手づくり」であるがゆえに、作り手によってイロイロだった。フワフワがアタリマエのうまさとはいえなかったと思う。コンニチの機械化は、機械の調整によって、「むかし風」の粗っぽさを演出できるようになった。それも「懐かしい味」といわれるようになった。だが、むかしそのままではありえない。そういうものだと思う。

そういう「事実の認識」が、機械化効率化批判のなかで、正確に行なわれず観念的なオシャベリになってしまう。だから、もちろん、それは道楽ならよいのだ。道楽なら、偉そうに文明批評めいたことは口にせず、楽しんでいればよいのである。

おれは、道楽で「大衆食」と向き合っているつもりはなく、生活として向きあっているつもりだ。ようするに生活を楽しむということだ。それは道楽で食を楽しむというのとは、またチト違うと思っている。自分のために自分の台所でつくる楽しみが最高である。時代に即した手づくりは、そこで行なわれ、取捨選択されていくだろうと思っている。外食の場では、いろいろな経済産業的要因や生活的要因が関係するから、複雑だ。手づくりは、能書きではなく、自分でやることだろう。ま、本日は、ここまで。

あたふた流行の言説にふりまわされることなく、
ゆうゆうと食文化を楽しみたい。

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2007/06/13

暑くなったから、夏バテ時のためのサラダ

きのういただいたメールに、

今日は暑いので
玉ねぎトマトレモン唐辛子マリネ

とあった。

そしたら、ちょうどpfaelzerweinさんのブログ2007-06-13「夏バテ時のためのサラダ」にも紹介された。ドイツらしく、ソーセージとのコンビネーション。pfaelzerweinさん、よく覚えていてくださいました、うれしいです。

これは、2007/04/09「辛抱料理」にも紹介している簡単だが、とくにこれからの暑い季節にオススメのやつだ。そのままめしにかけて食べてもうまいし、カツオなどの刺身とまぜたり、そうめんにのせたり、ようするにさまざまなサラダに利用できる。焼肉や冷シャブと一緒に食べてもよいね。

都内のあるバーでも、これをやって好評だったとか。
まだの方は、お試しください。やり方によって、タマネギの食感に変化がつけられる。自分なりの工夫も楽しい。
夏の暑さに負けないよう、たっぷりたべよう。

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2007/06/12

だましきった分が稼ぎになる虚業の時代だからだまされないようにする

2007/06/05「北京オリンピックまで」を書いたばかりだが、どこかのWebニュースで中国投資を勧誘している会社が別の件で問題になっているのを見た。これからの中国投資は用心が必要だ。だいたいブームというのはそうだが、大きな話題になって誰でも簡単に飛びつくようになったころには、オイシイところはほぼおわっているのだ。おこぼれがないわけじゃないが、よほどうまくやらないと、元金の回収すら難しい事態になりかねない。クロウトでも綱渡りだし、シロウトでは無理だ。もうすでに悠々と配当で元金を回収しているひとはいいけど、これから突っ込むのは、詐欺まがいの投資会社を儲けさせるだけだろう。

そもそも投資にしろ食育の資格商法にしろ、情報をもとにした「想像でしかない事実」による循環論法のなかで、だましだまされが行なわれる。

それはそれでなかなか人間の欲望がからんでオモシロイ景色ではあるが、実態のない話ほど、けっこう人は信用するのだ。つまり実態のない話を、夢だのロマンだの健康だの美容だのガイドラインだのといって、コギレイに見せてやれば、その差の分だけ稼げる。「文章」の世界もそうで、おれのように、ミもフタもないほど現実を、しかも現実のままに猥雑な文章であからさまにしていては、儲かるチャンスは少ない。

「北海道発・生活問題を考えるブログ 家政学・生活科学を学んだ立場から、最近の生活問題について本気で考えていきます。」を見たら、2007-06-10「湯水のように使われる食育関連予算」に、「食育関連予算は、平成17年度で53億6千万円、平成18年度は99億6千万円、平成19年度は122億2千万円である」という記述があった。

いまどき、うらやましいぐらいの増加率だが、おれや河合さんのように「本気」のひとは、こういう予算にありつけない。まさにここにタカリの「食育利権」の構図がある。この予算の大部分は、食育にたかる虚業家たちの手に落ちるにちがいない。

じつは、2007/06/10「『季刊 うかたま』で、ボンヤリ「食」と「農」のゆくえを懸念」で、「食の検定」に名前をつらねている人たちを書いておいたのは、あとで「だました」「だまされた」が問題になったときに、個人責任をはっきりできるようにするためだ。食育の「資格」は、そういう問題になる可能性が大きい。そのためには、情報社会という虚業の時代は、なにもかも闇の中で決まっていく時代とちがい、見えやすい部分があるのはよいことだ。

そのへんよくわかっていないで、どこかの学校や団体の役員だからとか、著名な人間だから、テレビで活躍しているから、本を書いている人間だからと、これまでの感覚でイイカゲンなことをいったりやったりすると、すぐ見えて、こういうところで責任を追及される。ま、それでも、ご当人たちは、痛くも痒くもない位置にはいるのだが、でも、しだいにそうは好き勝手できないようになっていくにはちがいない。

漫画屋の塩の字こと塩山芳明さんは、漫画屋BBSの「下々の者へ(その793) 投稿者:塩の字 投稿日:2007年 6月10日(日)15時30分10秒 」に以下のようなことを書いている。……

大事な事を忘れていた。「広報とみおか」6月号に驚愕の記事が。俺の富岡高校在学中(69~71年)のハンドボール部顧問、小林進(現在71歳。市内七日市在住)と言えば、極め付けの気違い低能暴力狂師、いや教師として、無数の生徒に平然とリンチを加え、新聞沙汰にもとは、拙著を読んだ人はかすかに記憶してるかも。群馬県教育界の極右派のボスで、当時の富高校長だった藤生宣明(数年前死去)の庇護があったからとはいえ、この糞ゲロドチンピラ、ゴロツキ、ゴマの蝿、人間のクズの類いが、帰郷後に知人から某高校の校長になったと聞き、深く苦い長い目眩を覚えた。が、今度は何と県総合表賞、教育・文化功労者に、白痴ゲロゴロツキ、つまり小林進が選ばれたのだと。群馬県教育界恐るべし。懲りずに生徒を血の海に沈めていれば、校長にもなれるし、退職金、年金もバッチリ。更には勲章もどきまで。ヤクザ、ゴロツキ、チンピラ、ゴマの蝿、生糞の銀蠅が、教育者になるなら絶対に群馬県。この調子なら、小林の三下で俺が暴力に抗議した祭、「オメーにだけはしねえよ!」とウソぶいた、脳みそゼロの日体大出(ゴロツキ小林も)の低能白痴便所虫、宇佐美某も来年は表賞か?党派の域をを越えた、圧倒的に秀でた詩人で富岡市議だった高瀬豊二(日本共産党)は、戦時中激しくリンチされた富岡署の特高刑事、小林金蔵を自著で必ずフルネームで登場させ、絶対に許さなかった。僣越ながら俺も小林進(市内七日市在住71歳)に関しては、それに倣う。小林は“教育者”として、自らの行動に一生責任を負うべきなのだ(可愛い孫の微笑みに包まれながら)。日本に生息する人間としての、それが最低限の道徳心だ。日本国万歳!!

……以上。権力を嵩にきた連中のもとで、一個人が泣き寝入りのまま、モダエ死ぬのではなく、このように発言できるチャンスがあるのはよいことだと思う。コトの是非はともかく、「だまされない」ためには、このような積み重ねが、これから選挙以上に、日常のこととして大事になると思う。

日常といえば、みそ汁ぶっかけめしとカレーライスだ。『汁かけめし快食學』の実質本文の最初にあたる第2章に「なぜ、人びとは、かくもネコまんまに興奮するのか?」を書いたのは、われわれはわれわれ自身の日常、その習慣について意外に「自覚」していないからだ。そこからイロイロな問題が発生する。「だまされる」原因の根本には、自分のことが、よくわかっていないことがある。

親も親の親も食べていなかったかめったに食べる機会がなかった懐石料理を日本料理の伝統と誇ることはできても、たかだかみそ汁ぶっかけめしについて知らない、誇りがもてないどころか、卑しめる。「ネコまんまに興奮する」歴史より、誰かが情報としてつくりあげた、「想像でしかない事実」による循環論法のなかで、「カレーライス伝来説」に簡単に飛びついてしまう。それと「食育」や「中国投資」にだまされる根は、おなじなのだ。

でははははは、ずいぶん関係なさそうなことを関連づけたなあ。落語の三題噺みたいだ。しかし、そうなのだ。虚業の時代だから、だますだまされる「虚」はつねに存在するのであり、情報を発信するにも受け取るにも個人責任がつきまとう。「個人」、ワタシは、なにものなのか。なのだ。一つ、「ネコまんまに興奮する」歴史を持った人間である。

あとで「だまされた」と騒がなくてすむために。どこかのブログで知ったのだが、どなたのブログが紹介していたかわからなくなってしまった。すみません。この内容に必ずしも全面的に賛成ではないのだが、この虚業の時代だからこそ大切なことだと思う。青空文庫「伊丹万作 戦争責任者の問題」…クリック地獄

食育問題にしろカレーライスの歴史にしろ、いまスゴクはびこっている「想像でしかない事実」による循環論法については、ザ大衆食のサイトのコチラで、ちょっとだけ触れている。…クリック地獄

イイカゲン大好きだが。紳士淑女づらのイイカゲンな権力と権威には、トコトンからみます。
それから、お調子者の成り上がり小市民たち、調子にのりすぎないように。

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2007/06/11

文京区駒込のたぬき食堂が再開の朗報!

昨日のエントリーに、下記コメントをいただいた。近年まれなる朗報。とり急ぎ、報告。たぬき食堂さんは、ご家族がたくさんいたし、お子さんも近所にいたから、どなたか継いで再開したのだろうか。とにかく、うれしい。


わたくし、初めてコメントさせて頂きます、yanchamonoと申します。
エンテツさんはすでにご存知かもしれませんが、駒込の「たぬき食堂」が本日6/11_PM5:00から再開するそうです。
日曜日に散歩していて「たぬき食堂」の前を通りかかったら、張り紙がしてあったので、確かな情報だと思われます。
息子さん?娘さん?が再開させたのでしょうか?
以上、情報まででした。


ザ大衆食「文京区駒込 たぬき食堂」…クリック地獄

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2007/06/10

『季刊 うかたま』で、ボンヤリ「食」と「農」のゆくえを懸念

『季刊 うかたま』という雑誌がある。農文協(社団法人 農山漁村文化協会)が発行する、比較的新しい雑誌だ(手元にあるのが今年の4月1日発行の通巻6号)。「食べることは暮すこと」というキャッチフレーズがついている。

チョイと部分的にだが、気のせいか、ヴィジュアルが『ku:nel(クウネル)』を思わせる。A4変形、130ページで780円だから、おれのような貧乏人は買わないだろう。おれは、高給取りの某一流大企業社員から借りているのだ。

その芯にあるものを問わなければ、編集表現的には、いいつくりの雑誌だと思うし、このあたりが、イマドキの都会派知的小市民の「食べることは暮すこと」憧れ優越意識に合うのだろうとナットクできる。

版元の農文協というのは農水省の外郭団体というのかな、そのPR部門のようなというか、そういうふうにみえる団体だ。この団体の活動ぶりをみると、国民に奉仕すべき農水省と巨大とはいえ一経済産業団体にすぎない農協の癒着ぶりが、じつに鮮明なのだ。

もちろん、おれはむかしから農文協に強いシンパシーを感じてきたし、拙著のためにも、農文協の図書は大いに役に立っている。それに、みなさんトシをとられたので付き合いもなくなったが、かつては仕事も一緒にし、よく楽しく酒を飲んだ、尊敬する先輩方もいる。ほんとうに農山漁村文化のために活躍してほしいと願っている。

ところで、この団体は、こんな理念らしきものを掲げている。……

 近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。
 農文協は、農と食・健康・教育を軸心として「いのちの流れ」を呼びおこし、都市と農村の関係を変え、自然と人間の調和した社会を形成することをめざして、総合的活動を展開する文化団体です。

……以上「農文協のご案内」から 

ここで、おれが気になるのは、「近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。」という部分なのだ。この認識は正しいのだろうか。これでいいのだろうか。

そういう認識で「自然と人間の調和した社会を形成する」ことは可能だろうか、そもそも「都市と農村の関係を変え」とは、どういうことなのか、と疑問がわく。こういう理念が、国民に奉仕すべき農水省と巨大とはいえ一経済産業団体にすぎない農協の癒着のなかで機能することに、ある種の懸念がある。

ま、今日は、そのことではない。とにかく、そのような団体の雑誌だから、食育基本法推進に熱心であり、農協や全農の全ページ広告があるのはトウゼンだ。また、それでなければ経営的に成り立たないだろう。その広告が、全体的にシンプルな美しいビジュアルのなかに野暮ったくあって、農文協の自己主張がうかがえるのもほほえましい。

Ukatama画像を見て欲しい。

左側は、“カップヌードルで「おめでとう!」”の、これは、広告ではない。いや、最初は広告かと思ったが、本文つまり記事なのだ。「gohan×mukashi」のvolume2であり、広告でいえばボディコピーにあたる文章は、こうだ。“昭和49年(1974)のお誕生会。東京都江戸川区。メインディッシュは3年前に発売されて大ヒットしたカップヌードル。インスタントラーメンが1袋20円ぐらいの時代にデパートで売り出され、1個100円の高額商品だった。食卓にはホールの苺ケーキとプリンとプラッシー。手作り料理一切ナシがこのころの贅沢。”

そして右側に、“三つ子からおとなまで「食育」の手引書”の広告が。『子どもは和食で育てなさい』なんていう本もある。そして最下段は、「食の検定 食農3級」公式テキスト。

いやだからさ、なにを言いたいかというと、このように記事と広告がならぶ現実から、モノゴトを考えなくてはならないのではないか、ということなのだ。「近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。」という見方で、この現実を正しく認識あるいは理解することができるのだろうか。

ついでにいえば、カップヌードルは近代化を象徴するものだと思うが、その材料には農作物が大量につかわれている。農作物の消費チャンスの拡大に大いに貢献してきたと思われる。もっとも、農文協の理念からすれば、それは「自然と人間の関係を敵対的」に変えるものだろうから、それならばそういう近代化のメーカーには原料となる農作物を売らない、自らの立場を明確にする啓蒙でも運動でもやればよいのだ。それとも、カップヌードルは、そういうものではないのだろうか。だとしたら、「自然と人間の関係を敵対的」の基準は、どのへんにあるのだろうか。

ま、今日は、そのことではない。その広告の「食の検定 食農3級」公式テキストに、“食と農のオーソリティが監修・執筆”と紹介されている面々の名前を、ここに列挙しておきたいのだ。

総合監修 吉田企世子 女子栄養大学名誉教授。
監修(食) 岩間範子 女子栄養大学短期大学部助教授。
監修(農) 高橋久光 東京農業大学教授。
監修(農)夏秋啓子 東京農業大学教授、食と農の博物館館長。
部分監修 津志田藤二郎 (独)農研機構 食品総合研究所 食品機能研究領域長。
       服部幸應 (学)服部栄養学園 服部栄養専門学校 理事長 校長。
コラム執筆 吉田企世子。中村靖彦 東京農業大学客員教授、農政ジャーナリスト。津志田藤二郎。村田吉弘 料亭菊乃井主人。 

以上。

しかし、食育を推進するひとの大部分は善意だと思うが、一方では2006/09/08「「食育利権集団ができつつあるようだ」とな」に書いたような利権集団がはびこっているのも確かのようだ。「食育」に便乗の資格商法などは、もはや役に立たないものを売りつける悪徳商法なみだ。

これが「利権」ぐらいならまだしも、いやそれだってよくないにきまっているが、さらに、「法」をたてに、権力と権威をふりかざし、ある種の自分たちに都合のよい傾向だけを受け入れ推進し、ある種の傾向は排除していくような「翼賛運動」になる懸念が強まっているような気がしてならない。それは、食文化のためにも農山漁村文化のためにもならないだろう。

雑誌の『季刊 うかたま』は、そういう懸念に関係なく、なかなか意欲的なよい雑誌だと思うが。そうそう、この号には、当ブログ左サイドバーのアステアエンテツ犬のイラストを描いた内澤旬子さんの売れている近著『世界屠畜紀行』が紹介されている。それから、小鹿野町のシイタケづくりに誠実に取り組んでいる田嶋敏男さんの仕事ぶりがタップリ紹介されている。

季刊 うかたま…クリック地獄 
食の検定協会…クリック地獄 

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2007/06/09

「ミシュラン東京2008」便乗商法アイデア

はてさて貧乏人のみなさん。田舎者のみなさん。今夜の、まもなく午前1時の、酔いどれ深夜便は、すごいですよ。みなさまに特別に儲かるアイデアを恵みます。ここでばらしてしまいます。今夜、ここをご覧になったかたは、幸運コとしかいいようがありません。

「ミシュランガイド東京2008」の発売なんか関係ないと思っているアナタ。えっ、そんな話も知らないって。こまるなあ。高級な生活をしながら貧乏なフリをする生活を楽しむ当ブログの読者に、ホントウの貧乏人がいるなんて。

あのね、これは、今年の11月に発売予定のアジアで初めてのミシュランガイドですよ。ウソじゃありませんよ。こちら、クリック地獄

2008年は北京オリンピックってこともありますしね、この発売は、もういまから、ワイセツとセクハラで女なんか女としか思っていない頽廃のマスコミを先頭にしたバカ騒ぎがじゅうぶん予想されます。

そこで、ビンボウなあたなは、と、もう能書きはメンドウだ、ようするにコバンザメ便乗商法だよね。どんどん、なんでも「ミシュラン」でやるのですよ。そのアイデアを、今夜は酔った勢いで、タダで提供する。

まず、『恨ミシュラン』という、どのていど売れているか知らないが、けっこう売れたタイトルを思い出してほしい。このタイトルのカンジンなところは、「恨み」と「ミシュラン」を足したところだ。これが、たとえば「エンテツ」と「ミシュラン」を足しただけなら、「エンテツミシュラン」で、どうってことない。けっこうそういうつまらない名前がおおい。たいがい内容も貧困だ。しかも「ミシュラン」の名前の違法の使用で、めんどうなことになるかも知れない。

そこで、まずは、『恨ミシュラン』のように、語尾の「ミ」を使えるアイデアを考えてみよう。

まずイチオシなのが、「メグミ」をつかう「メグミシュラン」シリーズだ。「恵み」だね。これは、いいよ。好感度バツグンでしょう。ああ、メグミちゃーん、愛しているよ~、ねえ飲みましょうよ、ダメ?あっ、そう、と、愛をこめて、「メグミシュラン」シリーズ。

その1、「自然の恵ミシュラン」→これ、どういう内容のガイドになるか、このタイトルで思い浮かばないヤツは、もうダメ。「ミシュランガイド東京2008」から外れることまちがいない、地方の田舎は、これで便乗商法をやろう。そうだねえ、南魚沼市の〔万盛庵〕とか、魚沼市の覚張さんの〔魚野川〕とか、小鹿野町のわらじカツ丼とか、もう自然の恵みが貧乏になるほどありすぎの地域は、これを考えよう。

その2、「愛の恵ミシュラン」→これ、すぐわからないひとはダメ。ようするに東京でも、「ミシュランガイド東京2008」には、決して載ることがない、愛のソープやホストクラブですね。あと、ハントスポットとかね。

その3、「神の恵ミシュラン」→そりゃもう、神社ですよ神社。その前のそば屋とかも含めて、いいねえ。諏訪大社の門前のトコロテン、うまかったねえ。

ま、とか、いろいろ思いつくだろう。省略。ようするに、ナントカのメグミ、というふうに考えればよい。

つぎは、「富士見」だね。毛唐が日本に描くイメージ、フジヤマ、ゲイシャガール(女ならなんでもいい)のうちの、富士見だ。「富士ミシュラン」から思いつくことは、富士山が見える飲食店、ほかいろいろ考えられますね。

つぎは、えーと、酔っているので、なんだかめんどうになってきたな。えーと、なんだっけな、たくさん思いついたのだが、えーと、眠い、トツゼン、やめた。

もう、いまから取り掛からないと、乗り遅れるよ。われわれド平民の手による「ミシュラン」で、「ミシュランガイド東京2008」なんか、笑い飛ばしてやろう。

ああ、タダでアイデアを恵んでしまった。愛しのメグミは、どうなるのだろうか。おれにメグミを。でれでれでれ、どろどろどろ。

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2007/06/08

もっと自信をもってやったらどうかと思う

はあ、なんとか、書いた。原稿のためにこんなに疲れるなんて、めったにないことだ。脳を搾りきって、カラカラなかんじ。アルコールを口経由でなく、いきなり脳に注入したい。

今日しめきりの書評のメルマガの原稿。きのう書いたように『食卓の歴史』を取りあげた。いつもホボ自分なりに本の内容を消化したなという感触を持って書くのだが、今回は、かなり以前から何回も読んでいるにもかかわらず、若干消化不良だなあという思いが残ったまま書いたかんじだ。だから、疲れたのだろう。

しかし、この本は、いろいろ考えさせられる、いい本だ。服部ナントカだのといった、食育だのなんだのと大声をあげているやつらは、こういう本をキチンと読んでいるのかね。ちかごろ「ニセ科学」が問題になっているが、食については「ニセ」が多すぎる。ま、またまたイイカゲンな食育論者を痛めつけるネタができた。慣れ親しんだ手づくりや自然のナマの味は、普遍的にイチバンうまいという、根拠のない「信仰」をからかうこともできるぞ。楽しみだなあ。

それにしても、日本は、バブルのころからB級グルメがはびこり、「ラーメン評論家」をはじめ、いろいろな「評論家」が跋扈することになった。これは、「大衆文化状況」として考えると、どういうことかというと、ようするに、自分に自信のないひとが増えたということなんだな。

こういうときにこそ昭和を思い出すべきで、昭和のころには、「評論家」なんてのは、口先だけでなにもできない能無しの見本みたいなもので、大衆は「けっ、評論家なんざあ」という気概や自信があった。その状況が変わり、評論家を奉り群がるようになったのは、バブルとバブルの崩壊を経過してからなのだ。いったいそこに、なにがあったのか、あるのか。

みんなが、もっと自分に自信を持っていいのではないか。そういうことまで、考えさせられた。ま、みな、けっこう口先だけは自信がありそうなんだけど、「簡潔な美しい文章」みたいに洗練された整った環境の中でのことだからねえ。荒野の中でのガイドのない生き方めしの食い方でしょう、モンダイは。

組むにメンドウな一冊の本と格闘したあとは、とりわけそう思う。この本は、翻訳本としては読みやすいほうだと思うけど、おれの脳にあったこれまでの「常識」のいくつかを破壊する作用があって、それを納得あるいは理解するのに自己変革のようなエネルギーが必要だった。もしかしたら、自信というのは、オイシイ好みのものだけを選ぶのではなく、マズイ異質なものに取り組むことによって育つのかもしれない。となれば、あのバブルから、なにが自信を失わせたか、想像つくだろう。

うーむ、おれは強くなったぞ。って、もうこれ以上強くなる必要はないか。酒。

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2007/06/07

食卓の歴史

人生は、しょせん自己満足、自分の満足だ。そんなことは、ワザワザいう必要はないと思うが、こうして書いてみた。

モンダイは、満足の「評価基準」だろう。どういう立場か、なんのためかによって、その基準は異なるはずだ。

「学力」だって、そのように異なる。ま、学力のことは、話がズレそうだからやめておく。でも、やはり、関係あるのだなあ。

先日来話題にしている、村上春樹訳のフィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』だが、「フィッツジェラルド体験」で、村上春樹さんは、こう述べている。

“実在とは何か?人の意志がそこを彷徨(ほうこう)し、試され、打ちのめされ、変革を強いられる広大な荒野である。”(実在に傍点)。

むかし『ノルウェイの森』にガッカリし、あれ以来、村上春樹をキライになったが、やはり、村上春樹さんは、簡単に「甘さと風俗」に流れて実在を捨てるひとじゃないらしい、そのように見直すことにした。

けっきょく「変革を強いられる広大な荒野」があっても、(自己変革も含めた)変革など必要なく生きていけるところがある。実在の稀薄な、いつだってバブリーな頭で徘徊できる東京、その東京をモデルにしている都市が、そうだ。

そこでは、甘さと風俗に流れながら、たいしたことない栄光の物語、小市民的サクセスストーリーに満足しひたり、その陰に失敗や悲惨をふせることで変革など意識せずに、すごせる。いまのところは。「変革」の言葉が踊るときは、実在など関係ない、観念的な大言壮語ばかり。

ま、下町ブームだの、昭和レトロだのと、さまざまな「古き良き」過去の遺産蒐集ブームは、そういう象徴だろう。そういうものにゴロニャン群がって生きていける大勢が、メディアを中心にある。

「変革を強いられる広大な荒野」で、実在など考えずに、ゆえに変革も考えずに生きる立場と、実在を考え変革を追求する立場では、トウゼン自己満足の基準は異なる。

いまのところ大勢は前者で、そのことはここで何度か「東京最終荒野論」みたいなのをふりまわしてきた。ようするに、実在を考えるどころか、現実を直視することも避け、摩擦の少なさそうな居心地のよさそうな甘さと風俗(流行やブーム)に身をゆだねる。ま、それだって、過ぎてみれば、意志の一つの彷徨にすぎないのかもしれないのだが。

過去の遺産があるうちに自ら変わるのではなく、また過去の遺産を変革のために活用するのではなく、大震災や大空襲敗戦なみの「大崩壊」を目の前にしないと変革に向かわない。そういう、どん詰まりの「変革を強いられる広大な荒野」が、「東京最終荒野」なのだ。

そんなことを考えながら、スティーブン・メネルの『食卓の歴史』(北代美和子訳、中央公論社1989年)を読んでいる。

明日締め切りの、書評のメルマガに連載の「食の本つまみぐい」に、これを載せようと思っている。この連載では、翻訳本は一冊だけ、ジャン=フランソワ・ルヴェル著、福永淑子・鈴木晶訳『美食の文化史 ヨーロッパにおける味覚の変遷』(筑摩書房、1989年)を扱った。

そのとき、「日本の「知性」な問題と自画自賛」というタイトルで、“かりに日本の食文化本から、日本の知性をおしはかった場合、ほんの一握りをのぞいて、アワレ近代以前の状態であるといえるだろう。それは、本書をはじめ、89年の『食卓の歴史』(スティーブン・メネル著、北代美和子訳、中央公論社)、96年の『美食の歴史』(アントニー・ローリー著、池上俊一監修、富樫瓔子訳、創元社)、97年の『食の文化史』(ジャック・バロー著、山内昶訳、筑摩書房)など、ほかにも代表作があるが、近年の翻訳モノをみると歴然で、日本の精神の貧困そしてだからこその食文化ブームやグルメブームどんちゃん騒ぎにゾッとする思いだ。結論を急げば、知識の量は膨張したかも知れないが、合理的精神や論理性に欠けるということにつきる。” と、この『食卓の歴史』の名前だけは紹介している。詳細は、こちらザ大衆食のサイト。…クリック地獄

一度、以前に、この本を取り上げようとしたのだが、うまく原稿を書けなかった。この本は、すごい労作で、すごくよい本だし、訳もわかりやすい。ただ、構造主義の限界を指摘し「発達論的アプローチ」をしているあたりが、おれの知識と低脳では評価が難しく、必読オススメの翻訳食文化本ではあるのに、イザとなると、なかなか原稿が書けない。今回も、ああ、なんで日本には、こういう食文化本が登場しないのだろうか、食道楽本みたいなのばっかで。やはり生きている実在を考える力がヨワイからかなあと考えてしまった。

とにかく、今回は、書けるか。はたして?

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恋と料理

めずらしく「おはようございます」という時間に書く。気になることを調べていたら、こんな時間。朝7時過ぎ。

食糧は戦争をもたらすことがあるが、料理は平和をもたらす。カネの切れ目が縁の切れ目というが、料理は縁をとりもつ。……こんなことばがあるかどうか、いま思いついて書いた。

グーグルで「初めての料理」を検索すると、二番目に、「教えて!goo 彼氏に作る初めての料理?」ってのがある。

“彼氏に作る初めての料理?”というタイトルで。質問は、こんなぐあい。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1693628

最近彼氏ができました。
前の彼氏と別れて、ようやく新しい一歩。
そんな彼氏に、料理を作ってと頼まれました♪

肉料理がいいと言われました、
彼は24歳ですが、普段外食ばかりで何だか体に悪そう。

肉料理だとどんな料理が喜ばれるでしょうか?
私は普段から多少料理をするので気合を入れたいのですが・・・。

みなさんの意見聞かせてください。
お願い致します。

…以上。質問投稿日時:05/10/05 13:25

これに対して、回答がけっこうあって、これが、なかなかオモシロイ。

おれが気になったのは、質問者が「彼氏に、料理を作ってと頼まれました」と、けっこうよろこんでいる様子だ。そして、これで彼のハートをガッチリつかみたいと意欲マンマンなことだ。彼女は、彼に惚れこんでいるらしい。

もちろん実際は、わからない。彼女のほうが、話の中で料理自慢をし、それならと彼がのってきたのかもしれない。

しかし、どうも、この話は、なぜか気になる。なにが気になるか、はっきりしないのだが、なぜか気になる。なので、忘れないように、こうして書いておく。

質問が一年半前なので、この恋の結果は、すでに出ているかもしれない。どうも、この女性は、料理以前にモンダイがあるようで、恋についてだけ言えば、料理も身体も食べられてオシマイというかんじがするのだが。でも、男と女のことは、ワカラナイ。おれが気になるのは、そのことではない、料理のことなのだ。料理の「機能」というか。

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2007/06/06

アサリがうまいねえ、アサリのリンク集

なんだか今年のアサリがうまいのは気のせいなのか。身のつき方もよいような気がするが。とにかくアサリがうまい。これで酒がすすむ、めしもガツンと食べられる。アサリを食べようということで、アサリを調べてみた。

例によって、あまりあてにならない、Wikipediaのアサリ…クリック地獄

例によって、市場を歩いて情報を集め、信頼がおけるぼうずコンニャクさんの「市場魚貝類図鑑」アサリ…クリック地獄

ごく平均的というか。「好きなアサリを使った料理ランキング」なんてのがあったぞ。ちゃんと深川丼もベストテンに入っている。…クリック地獄

潮干狩りにはまっているひともいる。「気の向くままに アサリ」…クリック地獄

「史上最強の潮干狩り超人の獲れすぎたアサリの保存方法」なんてのもある。…クリック地獄

「あさり貝の味噌汁は水から?お湯から?」といった論争?もあるようで。…クリック地獄

当ブログでは、おれが好きな「アサリ大根鍋ぶっかけ」2006/09/01…クリック地獄

アサリ鍋は亀戸大根でないと、という店もありますよ。…クリック地獄

「好きな酒の肴3 大根とあさり鍋 しあわせの一人鍋」っていう人も。…クリック地獄

アスパラの季節でもあるから。「happy-hiropon*わたしのお気に入り あさりとアスパラのパスタ」…クリック地獄

ぐふふふっ、むかし、ときどき、横浜は関内の「カサ・デ・フジモリ」でアサリ料理を食べたなあ。もちろん、一人じゃないね。…クリック地獄

以上、おもいつくままテキトウ。きりがないから、このへんで。あとで足すかもしれない。
さあ、今晩も、アサリを食べよ、っと。


ついでに、夏をのりきるために。

2005/06/27「夏をのりきる「冷や汁」リンク特集」…クリック地獄

2005/07/10「夏をのりきる「卵かけごはん」リンク特集」…クリック地獄

ザ大衆食「〔スタミナ奴〕そしてスタミナ料理はオモシロイ」 …クリック地獄

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アルコールの中で

やばい。村上春樹のおかげで、すっかり「アルコールもの」にはまってしまった。

最近、訳者の村上春樹が「アル中もの」というカーヴァーの『ぼくが電話をかけている場所』を再読した。なぜ、これを再読したのか、ここで先日書いているような気がするが、いま酔っているので思い出せない。とにかく、それはアル中だったカーヴァーの体験がもとになっている。カーヴァーの父もアルコールに溺れアル中だった。

半月すぎて半分ぐらいしか読んでない厚くて重い、村上春樹訳のチャンドラーの『ロング・グッドバイ』のあとがきにあるように、『ロング・グッドバイ』はアルコールに溺れる男たちの話でもあり、その登場人物はアルコールに溺れ若くして栄光と敗残の道を歩んだフィッツジェラルドに重なる。

で、おれは、村上春樹訳のフィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』を読みたくなった。これは中公文庫版を持っているはずなので小さな部屋の中を探したのだが、ほかのフィッツジェラルドものはあったのにこれだけ見つからず、きのう中野へ行く途中、新宿の紀伊国屋書店で求めようとした。

ところが、中公文庫版はなく、中央公論新社の「村上春樹翻訳ライブラリー」ってやつのなかに『マイ・ロスト・シティー』のタイトルがあった。ははん、商売上手のあのやろうが、またその手か(前にも何かでやっている)、新しい訳を出して文庫版を絶版にしやがったのだな。しゃくなやつと思ったが、買ってしまった。あいつの商売戦略にはかなわない。

そして、まずは、『マイ・ロスト・シティー』を読んだ。で、ところが、まだ読んでないのだが、もくじを見たら、『アルコールの中で』という、原題は「An Alcohlic Cace」という、すごいタイトルの短編が収まっているのだ。すごいタイトルだなあ、タイトルからしてアルコールに溺れているよ。今夜は、これから、これを読むのだ。

「アルコールもの」といえば。ときどき当ブログに引用するマイク・ロイコ。彼はアル中ではないらしいが、「人生を酒場で学んだ」とのことだし、枝川公一さんに言わせれば、マイク・ロイコの「信念」の一つは「酒飲みは信頼できる」だろうと。

とにかく、そうだ、「酒飲みは信頼できる」
そうじゃねえのか、酒飲みたち。
アルコールの中で、おれは、そう思いながら……、でも酒飲みに裏切られることもあるなと思うのだった。そのばあいは、やはり、酒飲みでない紳士淑女に裏切られるのとちがってサミシイな、と思うのだった。
でも、自分が、信頼するかどうかなのだ。自分の問題なのだ。
「酒飲みは信頼できる」、信頼しよう、信頼するならば……アルコールの中で。

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2007/06/05

変わるラスベガス、アメリカの「変身力」か

先ほど書いたきのうの飲みーてぃんぐで、ギャンブル都市トップの座がラスベガスからマカオになった話をしていたのだが、繊研新聞の「コラム めてみみ」2007/06/01に、こんな話があるのを見つけた。
http://www.senken.co.jp/column/index.htm

“ ラスベガスは「カジノ」の代名詞のような印象が強いが、全米では最も人口増加率が高く、急速にレジャー・ファッションタウンへと変化している。1、2年後には必見のスポットになりそうだ。”

“ 最近は観光客のお土産買いではなく、ニューヨークなどのショップで買うのと同じ感覚で、ショッピングし、自宅に配送を頼む客が目立つようだ。ギャンブルの街から、ファッションを買う街に変わりつつある。”

このコラムによれば、ラスベガス自身が「ギャンブルの街」から変身しつつあるようだ。このへんの「変身力」は、いかにもアメリカらしい。

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北京オリンピックまで

Tatamiきのうは夕方になっても体調が完璧に回復しなかった。身体の芯にアルコールが沈殿している感じのまま、中野へむかう。

例によって、6時半、中野駅北口。WGの、今回は決算。いつものメンバーだが、トシさんは海外出張でいない。では、少し落ち着いたところでと、「魚民」なんぞに。

決算報告書をみながらアレコレ。よくがんばりましたマーク。45番街の動きと当方の策。客や経済の動向アレコレ。けっきょく、「勝ち組」「負け組」というわけかたをしたら、もう日本は完全な負け組に組み込まれたね。実態は、そういうこと。大本営発表はちがうけど、あんなの信じていたら、密かに離婚の準備をしている女房を信じて老後の計画を考えている中年オヤジや団塊世代の男たちになってしまう。なんとか北京オリンピックまでだな。北京も上海も台湾マネーの動きが激しいようだし。でも北京オリンピックまでは、もたせるだろう。ワレワレはヤミ市屋台かつぎや的スモールビジネスの精神でやりましょう。現金商売を中心にし、稼いだ金は、やはり国内におかないほうが安全かもね。もっとファンドを利用してとか。これからは「国」じゃなくて、どの「マネー」にぶらさがるかだよ。とにかく北京オリンピックまでに、これから1年。てなことだったかね。

体調は良好とはいえなかったし、酒は押さえ目にし、アボットチョイスに寄るのもガマンし、めずらしく10時半ごろにしめる。おかげで、今日は朝から快調で、グビッグビッとビールを飲んで、そりゃっ。ああ、もう夕方じゃねえか。ああ、ビールがうまそうな天気だなあ。

画像の畳に鼻を近づけてみましょう。

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2007/06/04

酔っぱらいは何ひとつ学ばない

“酔っぱらいは何ひとつ学ばない。酔っぱらいはただずるずる崩壊していくだけさ。その崩壊の過程のある部分は、なかなか愉快なものだ。しかしそれ以外の部分はとんでもなくおぞましいものだ。”

正気のときだって、ミスをする。村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー、早川書房)を買ったときがそうだった。5月15日だったかな、大宮駅で新幹線に乗り換えるのに時間があった。コンコースの本屋の前に立った。目の前にはベストセラーが積まれてあった。なんの気なしに『ロング・グッドバイ』を手にとった。パラッとあとがきを見た。「チャンドラーとフィッツジェラルド」という見出しが目にとまった。村上春樹らしいあとがきだと思い、パラパラと見る。そしてなんの気なしに、その本をレヂにもっていき、カネを払った。店の外へ出て、本をバッグに入れようとしてシマッタと思った。こんなに厚くて重い本を、これから出かけようというときに買わなくてもよいじゃないか、これを担いで歩かなくてはならないんだぜ。遅かった。

たぶん、うっかり買ってしまったのは、「チャンドラーとフィッツジェラルド」のところにあった、上に引用した文章が気になったからだと思う。

本文中で、作家のロジャー・ウェイドが、酒を控えるように忠告するマーロウに向かってこのように述べる。そして村上春樹は、この引用のあと、こう続ける。

“ウェイドの言う「崩壊(disintegration)」の感覚は、晩年の(といってもまだ四十歳を過ぎたばかりなのだが)フィッツジェラルドが描いた「崩壊(cracked-up)」のそれと見事なまでに呼応している。フィッツジェラルドはすでに割れてしまった美しい皿の中に、自らの敗退と幻滅のイメージを見いだし、それを自虐的なまでに克明に、しかしあくまで美しく描写した。ロジャー・ウェイドも、テリー・レノックスも、オールを失ったボートに乗り、崩壊という巨大な瀑布に向けて川を流されている。”

おれは、ああよかった、おれは酔っぱらいをやっているけど、こういう感覚はないねと思う。ヤケクソになって自棄酒を飲むこともないし、自分はたいした人間だと思っていないから自己嫌悪や自己憐憫とも縁がない。なにしろ、左サイドバーのイラストの下に書いてあるように「それゆけ30~50点人生」だからねえ。“深い罪悪感を心に背負い込み、そのせいで酒に溺れ”なんてこともない。楽しいうまいから、楽しくうまく飲むだけ。

ま、でも、「酔っぱらいは何ひとつ学ばない」ってのは、たしかのような気もする。いいじゃないの、ほかでいろんなこと学んでいるから。

しかし、この『ロング・グッドバイ』だが、買ってから半月以上たつのに、まだ半分ぐらいしか読んでない。重くて持ち歩けないから、枕元において、寝酒がわりに読んでいるだけ。だけど酔っ払って寝ちゃうことがおおいから、なかなかすすまないのだ。やはり「酔っぱらいは何ひとつ学ばない」

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批評精神が泥酔状態の二日酔いだから

(追記)おれが好きで聴く落語家は、正雀と雲助と喜多八だよ。

きのうは、大宮まで仕事をしにきていた吸うさんと、5時にいづみやで待ち合わせて、よれよれになるほど飲んだ。やはり、覚えているといったけど、覚えていない。おかしいな、飲んでいるときは、覚えているつもりなんだけど。

いま昼12時半すぎ。まだ酒がぬけきってない。でも、やらねばならぬ。そして今夜も飲まねばならぬ。

もうオワリだね、きみの姿が小さくみえる……女のことじゃなく、マツオカセンセイのこと。やはりこれで幕引きだ。もうすぐみんな忘れるさ。おれは忘れない、女のこと。

おお、そうそう思い出したぞ。女にふられた。別れ。ぶっかけ。だ。キーワードね。覚えていたぞ。日暮里のいづみやにも、テーブル席があるのだった。

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2007/06/03

批評精神のない食文化なんか腐った食品とおなじだ

2007/04/07「不機嫌な一日の機嫌なワタクシ 書評のメルマガ発行」に、“そうそう、2007/03/05「街、食べる飲む、語る。こだまひろしさんに拍手」に書いた「こだまひろし」さんだが、この「食べログ」をやめて、mixiに引っ越すのだそうだ。”と紹介したが、きょう見たら「日記の再開を検討中」とあり、きのうの日付で「レビューガイド遵守試文 」を書いている。なかなかおもしろい。…クリック地獄

前にも書いたように、こういう試みは、どんどん増えてほしいと願っている。レビューは、「教科書」や「指導要綱」とはちがうのだ。もちろん通信簿でもなければ、通信簿のコメントとも違う。「レビュー」なのだ。考え、表現を練ることが、料理文化や食文化の成長のために必要だ。それこそ批評精神というものだろう。しかも料理文化や食文化は、あらゆる文化の結節点になるのだから、もっとも精神の自由が息づいていなくてはならない。どこのゴミ箱(グルメ雑誌のたぐいなど)にもころがっているような、型押しのスカな言葉が並ぶ「レビュー」なんて、冷めてまずいコンビニ弁当のようなものだ。と不肖エンテツは思い、自由闊達を推進したいわけであります。

ま、「少数派」が不利なのはトウゼンだから、と、こだまひろしさんを勝手に「少数派」にしてしまうが、いろいろ迷いながらも、したたかに生きていくことをしなくてはならない。おれとしては、キライなmixiに引っ越されるより、いまのまま続けていただいたほうがうれしい。

「少数派」といえば、おれのような、食育批判、食育反対のものは、孤立した少数になりそうだ。いまや「食育国民運動」は、もっとも批評精神を失った「食育翼賛運動」になっている。食文化の腐敗、ここにきわまれり、といったアリサマだ。腐りきった食品を、それがわからないように、「美しい」が毒だらけの調味料で過剰にくるみ、国民みなで食べようという運動だ。どんなニセモノ食品より悪い。

しかし、こうしてブログを書いていると、2007/06/02「やっぱり、ないよりマシというのはマチガイの「食育」」に、河合知子さんから初めてのコメントをいただいたりと、励みになるうれしいことがある。

河合知子さんのブログのことは、2006/12/29「本気で考える「好食」」で、「なかなか頼もしいブログをみつけた」と紹介している。…クリック地獄
また河合さんは、昨年『問われる食育と栄養士』(筑波書房)という本を共著で出版されている。

おれが正しいと主張したいわけではない。批評精神を大切に、自由闊達に、しぶとくやりたい。ということなのだ。それ以外にないというか。

文章は元気よいが、ここんとこ、チト疲れているおれ。

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めったに思い出さないことを思い出したこと

Yamani_nabeyoko地下鉄丸の内線中野坂上と新中野のへんをウロウロした。もちろん古い大衆食堂にも入った。たぶん10年前ぐらいに入ったことがある。そのときすでに、このゲタばきマンションの一階におさまっていた。だが、ここは、そう、この暖簾の文字のレトロ感に表れていると思うが、古い食堂なのだ。

いま書きたいのは、そのことではない。新宿まで行く乗換えのために、京浜東北線に乗って赤羽へ向かっている最中のことだ。乗降口のドアのところで、ぼんやり空を見ていたときだ。青空だった。

男が、おれの右側を追い越しながら、おれを見ることもしないで、疾駆しながら左腕を上にあげ、ひらひら振った。おれは走っていた。彼も走っていた。

そして、また男が、おれの右側を追い越した。彼は、追い越しながら、おれのほうに顔をむけ、頭をさげた。そのとき、彼の顔は、ニッコリともいえない、ニヤニヤともいえない、笑っていた。

それは高校3年のときだった。毎年、5月末だったか、6月初めごろだったか、とにかく周囲の山が鮮やかな緑のころに行なわれる、10キロロードレースだった。または1万メートルロード走。1年生から3年生の全男子生徒が一緒に走り競う。たしか4百数十人ではなかったかと思う。女子生徒は、なにをしていたのか知らない。とにかく、男子生徒は、10キロを走る。

高校のグラウンドを号砲で駆け出し、校門を出て道路、同じ道を折り返す。おれは、1年生のときは、たしか140位台だった。2年生のときは40位台だった。30位以上が入賞で、賞状がもらえる。だけど、その位置になると、簡単には上位へいけない。まず陸上競技部の連中がいる、それからバスケット部の連中あたりが強かった。

そのころから、あまり競争心も向上心も強くなかったおれは、山岳部で月曜日から金曜日は、毎日10キロ以上は走り、筋肉トレーニングをやる日々ではあったが、それが好きでやっているだけで、より速くより強くという意識はなかった。

高校は山岳部へ行っていたようなものだった。教室に出ない日はあっても部室へ行かない日はなかったし、トレーニングを休んだことは、たぶん、一日もなかった。毎週、土曜日は、岩登りのトレーニングで岩場へ行くので走りこみはなかった。日曜日は、ほとんど山行だった。

体力や走力や持久力に自信はついていたが、スピードは自信がない。判断できない。その日は、これで高校最後だし、30位以内に入れたらうれしいな、ぐらいの気分はあったと思う。

そうなのだ、あの日は、ちょうど今日(もう昨日か)のような陽気だった。晴れわたり、陽射しは汗ばむほど強かったが、風が爽やかだった。

折り返し点で、先頭集団や、それに続く集団とすれちがうから、自分の位置が判断できた。先頭集団の数名のグループに、マサオクンことマサオがいて、手をふった。マサオはバスケット部で、その位置にいてもおかしくない。彼は真面目な努力家だった。おれは、そのとき、40位ぐらいに位置していたのがわかった。意外に上位だなと思った。まだそんなに疲れていないし、もしかすると30位以内入賞できるかと思った。

ペチャことヒサオは、陸上部だった。ミッチャンことミツオは柔道部。そしておれは山岳部。それにマサオ。4人は、中学のころから、何かと行動を共にするようになった。マサオとミツオとおれは、おなじ町内で、おなじ道路上で100メートルぐらいのあいだに住んでいた。ヒサオは別の町内だったが、そこから3分ぐらいだった。おれたちは、中学生のころから、一緒に銭湯へ行った。夕飯がすんでから、神社の境内で、遅くまでオシャベリした。ヒサオの家で、ヒサオの兄貴からマージャンを教えてもらい、よくやった。おれの家で酒を飲んだ。レコードを聴いた。マサオとは、よく一緒に登山もし、これで最後になるかもしれないと、ザ大衆食「坂戸山」に書いた登山もした。

10キロロードレースのコースは、ゴールになる高校のグラウンドに入る前、町の市街地を抜けると校門までは、一直線の登りが200メートルばかり続く。ゴールへの「心臓やぶり」の登りだ。

その一直線に入る曲がり角のところで、疾駆しながら左腕を上にあげ、ひらひら振って、おれを抜いていったのはヒサオだった。おれは、彼が、おれの後ろにいたことが意外だった。ということは、もしかすると、10位以内にいるのかなと思った。ヒサオは、陸上部で速いのだから。

そして、校門まであと100メートルとないところだった。おれを追い越しながら、おれのほうに顔をむけ、頭をさげたのは、バスケット部の2年生の男だった。つまり彼は、おれに笑顔でアイサツしながら抜いたのだ。色の黒い、2年生だが、おれとおなじくらいの背丈はあった。おれは、あれっ、おまえ、ここでおれを抜くのか、と言いたいところだったが、その声は出ず、クソッと抜き返そうと走るが、思うように足は出ず、彼のうしろ姿は遠ざかるばかりだった。

けっきょく、おれは、12位だったか13位だった。おれを抜いたバスケの2年生は9位だったと思う。ヒサオとマサオは、5位前後だった。柔道部のミツオは、がに股でドタドタ走るわりには速かったが、30位入賞以内にはいなかったのではないか。

あとで、ヒサオに、どうしてあそこまでおれの後ろにいたのだと聞いたら、彼はよく横腹が痛むたちだったが、やはりそれで、折り返しまでは、かなり後ろの団子集団にいたのだと言った。もともと800メートルぐらいが得意だった。彼は、40何歳かで死んだ。あいつが左腕を上にあげひらひらさせながら、おれを追い抜いていく姿、あいつはひょうきんな男だったが、それがあのひらひらに出ていたなあと思う。おれの記憶に残るヒサオの姿は、それが最後なのだ。

そんなことを思い出したのだった。
酔って書き出したが、酔いが醒めそう。違うか。ああっ。午前2時過ぎ。なぜなのだ。

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2007/06/02

やっぱり、ないよりマシというのはマチガイの「食育」

最近は「食育」についてあまり書いてない。食育基本法が施行され、あきらめというか、「食育」という動きのなかで議論すればよいかなという気分にもなっていた。ようするに、「食育」はないよりマシという考えに妥協したようなアンバイだった。

だけど、それはやはり、マチガイだね。今回の緑資源問題これは巨大な「農水省利権」とか「農業利権」とか言われる一角だと思うが、言い換えれば、食を左右する利権なのだ。本来、そこに日本の食の多くの問題がある。

そもそも、食育基本法に反対するおれの主張は、「食育ナンダロアヤシゲ」に書いたように、

"「食育」を叫んでいる関係者の声を集めてみると、とりわけ農水省は食育推進班まで設け熱心なのだが、確かに食についてはいろいろ問題があるにせよ、だからといって「食育」というのは、短絡しているということなのだ。
  そもそも関係者が「食の乱れ」と騒ぎ立てる問題は、食育の欠落が原因なのか。安全性にせよ、自給率の低下にせよ、食事や料理にゆとりのない生活にせよ、ほとんどは政府と与党の政策によるものである。個別の政策で解決を図るべきことがたくさんある。消費者をダラク者あつかいして、食育でカタをつけようなんて、スジ違いではないか。"

ということだった。

農業利権のほとんどは農協利権であることは、すでに知られている。農業は農協がすべてではないけど、農協が大部分を支配してきた。そして、世間に露呈した農協や全農の事件だけでも数多く、それが生産者不信をつのらせていた。ところが、食育基本法は、そういう生産者に対して「感謝の念」を持てと説くのだ。これは、どういうことだろうか。

その前に、農協みずから、感謝されるような自主的な努力をしているのかと問いたいようなことが、たくさんある。たとえば、ここに農水省の「「農協のあり方についての研究会」報告書の概要」なるものがある。
pdf版…クリック地獄 
html版…クリック地獄 

これを読んだだけでも、「食育」以前の問題が多いことがわかるし、またよく読めば、その一つ一つに利権がからんでの綱引きが想像される。よくこんなアリサマで、ひとを「食育」するようなことをいえるものだ、自分のエリを正す方が先だろうと言いたくなる。

そもそもだよ、なぜ、農水省に「あり方」を研究してもらわなくてはならないのだ。自分のことではないか、自分のあり方は自分たちで考えるべきだろう。ま、そのへんからしてすでに、農水省と農協の癒着利権構造がみえる。

ま、とにかく、このあたりをご覧なったことのない方はご覧いただきたい。「食育」以前の個別政策で解決すべき問題がこんなにあるのだ。たとえば、「食育」が主張する「地産地消」を困難にしているのは、消費者が「洋風かぶれ」だからではなく、戦前から戦後の食糧難時代の配給流通体制を、引き継いできたからだ。それが簡単に変えられないのは、コメの流通のように、さまざまな既得利権がからんでいるからにほかならない。

農協のあり方についての研究会

農水省 審議会等情報

きょうは、簡単にしたいので、あと一つ。「食育」は、「給食利権」つまり言い方をかえれば「栄養利権」と密接だ。すでに「栄養教諭議員連盟」なーんてのまで出来ている。このことは、また後日ふれよう。

ついでに、どんな呼称の利権があるか調べてみた。ほんの一部分だが……同和利権、ニート利権、警察利権、石油利権、埋め立て利権、著作利権、電波利権、砂利利権、電通利権、ものづくり利権、沖縄利権、タミフル利権、活字利権、メディア利権、米軍利権、年金利権、牛肉利権、給食利権、食肉利権、……。

なかでも農業利権は、土木、建築、肥料、農薬、機械などに限らない広範な農業関連産業まで関わる巨大なものなのだ。その結節点に農協がいる。

もちろん、すでに当ブログで紹介しているように、こうした利権的な農業から自立して、尊敬と感謝にふさわしい農業を、コツコツやっている方もいる。

ところで、6月は「食育月間」ですよ。食育に反対する月間にするか。「食育」に対する関心やエネルギーやカネを、もっと個別の根本的な政策に向けるべきだ。みんながマツオカさんにならないように。

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赤城農相が正式就任、緑資源機構の廃止を表明 だって

いやはや。ここまで国民がなめられているとは。それとも、御用マスコミがなめられているのか。両方かもな。過去の「疑獄」の例のように真相も解明されないうちに。ようするに、国民の知らないところで、知らされないところで、何兆円といわれる「緑資源」に関わる利権争いが行なわれているということではないか。これ、食糧問題に関わることだよ。いいのか「食育推進者」たち。

当ブログ関連
2007/05/29「緑資源」をどうするのだろう、どうなるのだろう…クリック地獄


赤城農相が正式就任、緑資源機構の廃止を表明
6月1日21時23分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070601-00000113-yom-pol

赤城徳彦衆院議員は1日、皇居での認証式を経て農相に正式就任し、記者会見した。

 赤城農相は、官製談合の舞台となった独立行政法人、緑資源機構について「廃止の方向で検討するよう事務方に指示した」と述べ、機構の廃止を農林水産省として事実上、決めたことを明らかにした。

 農相は、機構廃止の理由について「発注側がかかわった談合で、決して許されない。これだけの問題を起こしたものが存続という訳にはいかない」と述べ、「(安倍)総理からも根本的に直すよう指示があった」ことも明らかにした。

 機構の約700人を超える職員の処遇や主要事業の処置について、農相は「組織の人材や事業の問題は、どうするか詰めないといけない」と述べ、今後、検討する考えを示した。

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2007/06/01

ありそうだが…、一休で考えた

うまいね。
うん、うまいね。

おいしいっ。
うん、おいしいっ。

おなじようなはやさで飲み、
おなじようなはやさで食べ、
たのしく会話ができる。

こういう関係は貴重で、
なかなか得がたい。

そうはおもわんか。
そうおもう、それはどんな美食より優る。

一人で食べながら自問自答。
そうそう、おれのばあいは、
おなじようなはやさで酔っ払うってのもあったほうがいいな。

一休という古い食堂でめしを食べた。
4卓+物置化した1卓。
片づいていない茶の間のように落ち着く小さな空間。
60歳ぐらいの夫妻がやっている。
体形や雰囲気もよく似ている。
味の好みも似ているのだろうかと気になった。
料理は亭主がつくっていた。
漬物は自家製にちがいなかった。
漬物も亭主が漬けるのだろうか。

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1月から6か月、3月から3か月

扉は閉まったままだ。その前に立ち続けている。

考えていることが、たくさんある。迷っていることが、たくさんある。切ないことが、たくさんある。→ブログに書くこと、書きたいことがたくさんある。書けないこともある。→自由であるが、思い通りにいかないこともある。

とりあえず、本にする原稿は書かなくてはならない。書き出している。
と、書いておけば、重いトツゼンの悲しみを背負ってふんばっている編集さんはアンシンするだろう。

こういう短いのも、ときには、よいか。
なに、酒が入っていないから、ながく書かないだけだ。たぶん。

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