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2007/06/03

めったに思い出さないことを思い出したこと

Yamani_nabeyoko地下鉄丸の内線中野坂上と新中野のへんをウロウロした。もちろん古い大衆食堂にも入った。たぶん10年前ぐらいに入ったことがある。そのときすでに、このゲタばきマンションの一階におさまっていた。だが、ここは、そう、この暖簾の文字のレトロ感に表れていると思うが、古い食堂なのだ。

いま書きたいのは、そのことではない。新宿まで行く乗換えのために、京浜東北線に乗って赤羽へ向かっている最中のことだ。乗降口のドアのところで、ぼんやり空を見ていたときだ。青空だった。

男が、おれの右側を追い越しながら、おれを見ることもしないで、疾駆しながら左腕を上にあげ、ひらひら振った。おれは走っていた。彼も走っていた。

そして、また男が、おれの右側を追い越した。彼は、追い越しながら、おれのほうに顔をむけ、頭をさげた。そのとき、彼の顔は、ニッコリともいえない、ニヤニヤともいえない、笑っていた。

それは高校3年のときだった。毎年、5月末だったか、6月初めごろだったか、とにかく周囲の山が鮮やかな緑のころに行なわれる、10キロロードレースだった。または1万メートルロード走。1年生から3年生の全男子生徒が一緒に走り競う。たしか4百数十人ではなかったかと思う。女子生徒は、なにをしていたのか知らない。とにかく、男子生徒は、10キロを走る。

高校のグラウンドを号砲で駆け出し、校門を出て道路、同じ道を折り返す。おれは、1年生のときは、たしか140位台だった。2年生のときは40位台だった。30位以上が入賞で、賞状がもらえる。だけど、その位置になると、簡単には上位へいけない。まず陸上競技部の連中がいる、それからバスケット部の連中あたりが強かった。

そのころから、あまり競争心も向上心も強くなかったおれは、山岳部で月曜日から金曜日は、毎日10キロ以上は走り、筋肉トレーニングをやる日々ではあったが、それが好きでやっているだけで、より速くより強くという意識はなかった。

高校は山岳部へ行っていたようなものだった。教室に出ない日はあっても部室へ行かない日はなかったし、トレーニングを休んだことは、たぶん、一日もなかった。毎週、土曜日は、岩登りのトレーニングで岩場へ行くので走りこみはなかった。日曜日は、ほとんど山行だった。

体力や走力や持久力に自信はついていたが、スピードは自信がない。判断できない。その日は、これで高校最後だし、30位以内に入れたらうれしいな、ぐらいの気分はあったと思う。

そうなのだ、あの日は、ちょうど今日(もう昨日か)のような陽気だった。晴れわたり、陽射しは汗ばむほど強かったが、風が爽やかだった。

折り返し点で、先頭集団や、それに続く集団とすれちがうから、自分の位置が判断できた。先頭集団の数名のグループに、マサオクンことマサオがいて、手をふった。マサオはバスケット部で、その位置にいてもおかしくない。彼は真面目な努力家だった。おれは、そのとき、40位ぐらいに位置していたのがわかった。意外に上位だなと思った。まだそんなに疲れていないし、もしかすると30位以内入賞できるかと思った。

ペチャことヒサオは、陸上部だった。ミッチャンことミツオは柔道部。そしておれは山岳部。それにマサオ。4人は、中学のころから、何かと行動を共にするようになった。マサオとミツオとおれは、おなじ町内で、おなじ道路上で100メートルぐらいのあいだに住んでいた。ヒサオは別の町内だったが、そこから3分ぐらいだった。おれたちは、中学生のころから、一緒に銭湯へ行った。夕飯がすんでから、神社の境内で、遅くまでオシャベリした。ヒサオの家で、ヒサオの兄貴からマージャンを教えてもらい、よくやった。おれの家で酒を飲んだ。レコードを聴いた。マサオとは、よく一緒に登山もし、これで最後になるかもしれないと、ザ大衆食「坂戸山」に書いた登山もした。

10キロロードレースのコースは、ゴールになる高校のグラウンドに入る前、町の市街地を抜けると校門までは、一直線の登りが200メートルばかり続く。ゴールへの「心臓やぶり」の登りだ。

その一直線に入る曲がり角のところで、疾駆しながら左腕を上にあげ、ひらひら振って、おれを抜いていったのはヒサオだった。おれは、彼が、おれの後ろにいたことが意外だった。ということは、もしかすると、10位以内にいるのかなと思った。ヒサオは、陸上部で速いのだから。

そして、校門まであと100メートルとないところだった。おれを追い越しながら、おれのほうに顔をむけ、頭をさげたのは、バスケット部の2年生の男だった。つまり彼は、おれに笑顔でアイサツしながら抜いたのだ。色の黒い、2年生だが、おれとおなじくらいの背丈はあった。おれは、あれっ、おまえ、ここでおれを抜くのか、と言いたいところだったが、その声は出ず、クソッと抜き返そうと走るが、思うように足は出ず、彼のうしろ姿は遠ざかるばかりだった。

けっきょく、おれは、12位だったか13位だった。おれを抜いたバスケの2年生は9位だったと思う。ヒサオとマサオは、5位前後だった。柔道部のミツオは、がに股でドタドタ走るわりには速かったが、30位入賞以内にはいなかったのではないか。

あとで、ヒサオに、どうしてあそこまでおれの後ろにいたのだと聞いたら、彼はよく横腹が痛むたちだったが、やはりそれで、折り返しまでは、かなり後ろの団子集団にいたのだと言った。もともと800メートルぐらいが得意だった。彼は、40何歳かで死んだ。あいつが左腕を上にあげひらひらさせながら、おれを追い抜いていく姿、あいつはひょうきんな男だったが、それがあのひらひらに出ていたなあと思う。おれの記憶に残るヒサオの姿は、それが最後なのだ。

そんなことを思い出したのだった。
酔って書き出したが、酔いが醒めそう。違うか。ああっ。午前2時過ぎ。なぜなのだ。

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