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2007/06/15

タマネギとジャガイモ

Yasai書こうと思って書くのを忘れていたが、2007/05/17「頑張れ日本の農業ビジネス はすみふぁーむのアスパラガス」に紹介したアスパラガスを注文して、もう食べおわってしまった。

いつも庭のオオバなどをいただいている一階の大家さんにもあげようと、多めに頼んだのだが、着いたのをスグ食べたら、うまくてうまくてみな自分で食べちゃおうと気が変わり、ついにあげなかった。一週間ぐらい、毎日、そのアスパラを食べていた。すみません、大家さん、けっしていつもマズイ残りものをあげているわけじゃありません。

画像は、一昨日あたり届いたタマネギとジャガイモだ。これは田舎人からタダでもらった。たくさんとれた、おすそわけ。箱の底が見えないほど入っていたのだが、見えるようになってホッとしている。

タマネギは、2007/06/13「暑くなったから、夏バテ時のためのサラダ」にある「玉ねぎトマトレモン唐辛子漬け」をやるので、いくらあってもよいのだが、ジャガイモは、これ大きいし、一度に何個も食べられない。もちろんうまいにはうまいのだが、しだいに格闘している気分になる。おれの場合、ウチにいれば、毎日ではなく毎食、これを食べることになる。きのうの肉じゃがは、まだあまっていて、今朝は汁ごとめしにかけて食べた。サラダ、ポトフ、肉じゃがとやってきて、なんとか、ここまで減らした。ま、「格闘している」といっても、うれしい「格闘」だから、タダなら、いくら送ってもらってもよいのだが。

それそのものがうまいものであっても、毎日のことになると、それだけでは食べられない。やはり料理がものをいう。それが保存法も含めて農業社会で料理術が成長した一つの理由だろうと思う。とにかく、素材か料理かといったふうに、ニ項を対立的に考えるのは現実的でない。

ところが、マスコミや「言論人」「評論家」などは、ニ項対立をぶちあげ、「どちらがよいか」「女だから、男だから」といった話題づくりをよくやる。「サッカーか、野球か」なんて、まるで比較することすら無理なものを平気で比べる。すると人びとは、どちらか選んでしまう。

画像の箱のなかの野菜、タマネギかジャガイモ、どちらでも一つだけ好きなほうを選んでくださいと持ちかけられたら、たいがいの人が、イヤおれは別に好きな野菜があるからイラナイとはいわないだろう。どちらかを選ぶ。するとマスコミは、日本人のあいだではタマネギが支持されているとか、ジャガイモが支持されているとか報道する。そして、その報道をもとに例の循環論法が展開される。どんどん現実から思考が離れる。世の中、そういうカラクリだらけだ。

えーと、また話がそれたようだな。なんの話か。ま、いいや流れにまかせよう。

ニ項対立といえば、男と女。ある小説では、男は女を裏切るから信用ならないとあり、ある小説では、女は男を裏切るから信用ならないとある。そういう二つの傾向があったとしたら、これは、どちらが正しいかではなく、ようするにひとはひとを裏切るから信用ならないし、だからまた信用すべきだということにすぎない。小説は話をおもしろくするために、人間のことを男と女におきかえる。すると、そのニ項対立が実態として普遍的なことのように錯覚し、あるいは幻想し、そこで男と女の循環論法が成り立つ。しかし、そもそも世の中、男と女だけじゃない。

おお、そうそう思い出した、味覚のことだ。

味覚の仕組は、わかっていないことのほうが多い。それをどれぐらいわかって味覚について話しているか、カンジンではないかと思う。どうしても知っていることを話したい自慢したい、それは仕方ないとして、その一方で、その知っていることは、たいしたことではないと、どこかで自覚しているかどうかだ。そもそも世の中、男と女だけじゃないといったが、それをどれぐらいわかりながら、男と女について話しているか。そのことに似ている。男か女かの議論は、人間から議論がそれてしまう。野球かサッカーかの話が、スポーツからそれるように。

男と女、出生したとき、なにを根拠にわけるか、染色体検査をして決めるのか。おれが知っているのは、チンポがついていれば男だ。生まれつきの味覚、つまり生得的とか普遍的といわれる「差」は、そのていどのもので、あとは、ほとんど「学習」で決まる。「男らしさ」「女らしさ」は、ほぼ百パーセント「学習」であるらしい。そして「学習」は味覚のばあい、たいがい、自然的環境、それから社会的文化的環境が影響を及ぼすとみられている。

「自然的環境」と、アイマイな書き方をしたのは、おれは、人間のほうからそれを見るかぎり、「地理的環境」といったほうがよいように思うからだ。たとえば、農村的環境は、自然的環境に近いが、自然環境とはいえないし、農村は都市と密接に成り立っている、また都市は農村と疎遠であったとしても無縁で成り立っているわけじゃない。なにより農村でも都市でもない生活がある。そういう環境を考えると「地理的環境」と表現したほうがよいかなと思っている。

そうそう、なんでこんなことを書いているか思い出した。それは2007/06/10「『季刊 うかたま』で、ボンヤリ「食」と「農」のゆくえを懸念」に引用した、農文協の理念のようなものが気になるからだ。おれもシツコイね。

“ 近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。
 農文協は、農と食・健康・教育を軸心として「いのちの流れ」を呼びおこし、都市と農村の関係を変え、自然と人間の調和した社会を形成することをめざして、総合的活動を展開する文化団体です。近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。”

“自然と人間の調和した社会”って、どんな社会だろう。農民が農協に頼っていれば楽できる社会ってことじゃないよね。でも「都市と農村の関係を変え」なんて書いてあると、「力」バランスを変えること「力の均衡」のようで、そりゃ文化じゃなく政治のモンダイじゃないかと思ってしまう。

ここに見られる、二項対立の考え方、見方は妥当なのか、ってことが気になるのだな。そういうふうに「敵対的」に「学習」してしまった、そこに問題はありゃしないかと気になる。

たぶん、それは味覚や料理の考え方にも関係する、たとえば「粗食」か「美食」かといった。また「男」「女」にも関係するようにも思われる。

なにしろおれのばあいは「美食も粗食も贅沢も清貧もふみこえて、庶民の快食を追求。」だからね。ニ項対立なんかふみこえのりこえちゃうのだ。

ま、そのように、ボンヤリ考えている。考えているだけで、結論はない。はっきりしていることは、今日もまた、ジャガイモを食べたし、食べるのだ。

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