« 「ふだんの顔」「ふだんの生活の場」からまちづくり | トップページ | コンビニって、なんじゃらほい »

2007/10/28

愚直に

Kumonoue5_anzen『雲のうえ』5号を手にして、アッと思った。なるほど、これが「アリヤママジック」なのか。いや、「アリヤママジック」という言い方は、チトなんだけど、そう思ったぐらい、色校とはちがう仕上がりだった。写真の表現の微妙なコントロールが、色校と比べるとハッキリわかった。このへんが、この雑誌の決め手にちがいない。ナルホド、なのだ。

「アリヤマ」とは、アートディレクションを担当している有山達也さんのことだ。今回初対面で初めて一緒に仕事をした。ほかの仕事は、ほとんど知らないのだが、『雲のうえ』と『クウネル』を見るかぎりでは、有山さんのアートディレクションは、いわゆる世間でいうところのシンプルなんだけど、写真の表現がものをいうし、牧野さんにきいたところでは、そのあたりで有山さんは一つのムーブを生んだものであるらしい。それが、アナログカメラで撮影した写真をもとにどう行われるかを、東京八重洲北口の「ふくべ」で燗酒を飲みながらきいたのだが、大半は酔って覚えていない。だけど、いくつかは覚えていて、ナルホド、だった。アナログ技術とデジタル技術の出合いのような話で、とても興味あるものだった。

とにかく、その写真は齋藤圭吾さんが撮影した。齋藤さんとも初対面で初めて一緒に仕事をした。彼のことは簡単だが、すでに書いた。詳しくないのでまちがっているかもしれないが、たしか使用したカメラは6×7のアサヒペンタックス、フィルムはエクタクロームではなかったかと思う。ライトは、いっさい使わない。しかも大部分がフリーハンドで、何気なげに撮影する。

じつは、7月のロケハンの段階では、カメラマンは決まっていなかった。おれは、トウゼン決まっているものと思っていたが、そうではない。そのへんにも、この雑誌のつくりかたの特徴がありそうだ。いっさい、実績や過去にしばられず、カタチにはまらず、カタチにはめず、というかんじの「自由」が、編集の信条なのだな。それは、表紙が毎号ちがっていることにも象徴的にあらわれている。また本文と写真の関係は、よくあるようなおなじページでの処理にしばられない、それはそれなりの意図があってやっているのだが。

6月27日水曜日が、この仕事の初めての打ち合わせだった。新宿の「らんぶる」で、編集の大谷道子さんと絵を担当しながら北九州出身者として編集に関わる牧野伊三夫さんと会った。大谷さんとは初対面だった。

牧野さんは、何度も当ブログに登場している。一緒に銭湯へ行ったり、『四月と十月』の古墳部で旅したりはあっても、なぜか気が合うだけの基本的に飲酒な関係。お互いに仕事のことなど、アウトラインだけで、ほとんどしらなかった。牧野さん宅に泊まって泥酔談話しても、だいたい、いくら酒飲んでも仕事の話などほとんどしたことがなかった。ときどき牧野さんから送られてくる作品を見て、ああこういうことをしているひとなのか、ていど。牧野さんにいたっては、おれを「独身」と思っていたらしく、おれのことをそう紹介したことがあるらしく、おかげでおれは女に言い寄られて大変だった、ってこたあねえが。ま、そういうことはどうだってよいという関係が、とてもよくて続いていたように思う。そんな調子だった。

で、その打ち合わせで、大谷さんがなんども言って、そのあとも、ことあるたびにいっていたのが、この雑誌はなんの決まりもカタチもないのです、毎号新しい雑誌をつくるつもりでやっています、だから……ということだった。

ロケハンをやってからカメラマンを決める、おれのようなライターがロケハンから参加するというやり方は初めてだそうだけど、だからこそありえた。

牧野さんは、一秒あとの行動や言動の予測もつかないぐらいのひとであることはしっていたが、有山さんは有山さんで、カタにはまることもはめることも嫌いなひとだ、なんていうのかな野生馬のようなところがある。既成概念クサイ言葉を口にすると、すかさず突っ込んでくる。しかし、編集の大谷さんは、けっこう大変なのだ。

と、人物評が目的なのではない。おもしろかったこと、もう長くなって書くのがイヤになってきているから、一つだけ書こう。

編集制作関係者というのは、「いいものつくりましょう」ということを口癖のようにいう。このあいだも、原稿を頼まれて打ち合わせしたあとに、「いい原稿書いてくださいね」といわれた。もう時候の挨拶のようにいう。むかしは、「いい仕事しましょう」とかいうやつがいると、「いい仕事とは、どういう仕事だ」とかちゃかして、よく喧嘩になったが、ちかごろは人間が丸くなったというより、なにもかもあきらめて期待していないから、そういうことをイチイチいわない。「いいものつくりましょう」なんて、本人たちは「妥協のない仕事」のつもりかもしれないが、なれあいの空気のなかでのそんな言葉は、ほとんど意味をもたない。朝の「おはようございます」の挨拶ほどの気休めにもならない。

ところが、この『雲のうえ』の関係者は、だれも最初から最後まで、そういう言葉は口にしなかった。「楽しみながら」とか「アソビゴコロ」とか、そういうクサイことは、もちんろ口にしない。ただひたすら、黙々と対象にむかい、そこに何かを感じ何かを読み、自分がなんのために何をしなくてはならないかを理解し、必要な短い会話をかわし必要なことをやり、あとは男と女のこと飲み食いのことバカ話も含め関係ない話、それもなかなか味な。

きのう「「ふだんの顔」「ふだんの生活の場」からまちづくり」を書いたが、じつは「ふだんの顔」や「ふだんの生活の場」を見せたがらない習性が強い。であるから上手な見せ方も知らないし、見られ方も知らない。テレビをはじめ、あまりにも演出されたものごとにひたりすぎ、自分たち自身のふだんに魅力を発見できなくなっているようだ。

PRの雑誌の写真になる人物が、下着姿でめしをくっていてはイケナイと思われたり。高い実績のある人、話題の人、知識人や文化人、名やいわれのある建物、珍奇なモノやコト、スタイリストがいて見栄えのよいようにセットされているがゆえに「おいしそう」に見える料理、そういうモノやコトに頼った「表現」を要領よくやることが評価される。

ところが、今回は、「料理研究家」や「味覚評論家」や、そのエセのたぐいまで含めて、彼らならまちがいなくはずすだろう店を入れたり、食べ物の写真は、ふだんの営業のときに訪ね、店の人がつくって出したものを、そのまま撮影している。下着姿でめしくうひともいる。とくに店内は、取材があるというとキレイに片づけされちゃうことがあるので、そういうことがないよう念をいれた。

Kitakyusyu_aezenirihune_2そして、その「ふだんの現場」から、表現を考えるのだ。「「ふだんの顔」「ふだんの生活の場」からまちづくり」をやろうと思ったら、ふまなくてはならないことを、そのままやっている。

大谷さんは「愚直に正直にやるだけです」といっていたけど、大谷さんのように才能のあるひとがそういうと、やけに重みを持つのだった。世間的には才能や能力や作品が高く評価されている有山さんや牧野さんも、じつに愚直そのものに対象にむかっていた。まあなんていうか謙虚そのもので、おれは、少なからずおどろいた。最初に述べた、「アリヤママジック」もそういうものであり、「マジック」なんていってはならないことなのだ。

おれも、少しは愚直のクスリをもらえたかな。

画像、上は、本誌に登場の門司港にある「安全入船食堂」。朝定食が300円。下は、おれがロケハンのときに撮影した、その外観。詳しくは本誌をごらんください。

|

« 「ふだんの顔」「ふだんの生活の場」からまちづくり | トップページ | コンビニって、なんじゃらほい »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「ふだんの顔」「ふだんの生活の場」からまちづくり | トップページ | コンビニって、なんじゃらほい »