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2007/11/14

カネとコトバ

思い立つと身体が動く、という自然の法則により、六日町まで酒を飲みに行ったりした。どうも今日は忙しいなあと考えたら、先日は一泊二日で森林再生機構の活動もやっている。新しい企画が二つばかり目の前にあるのに、ナントカナルダロウと、ほったらかしていたのに気がついた。

お楽しみのあとのツケ。でも、先に楽しんでから、あとでツケを払うほうがゼッタイよいね。ま、ツケといっても、自分の身体をつかって払う範囲のことだけど。でも、そうやって今日まで生きてきたが、実際のところ、それがよい人生だったかどうかなんか、わからんな。だいたい、おれの人生の目的に「よい人生」なんてコトバは、ない。

よくおれぐらいのトシになるといるし、もっと若いひとにもいて驚くが、自分はよい生活や人生を送ってきたから、そのよさを知らない若いひとたちにも伝えたいなんていう、おれから見ると自信にあふれたオセッカイな仲人のようなことを熱心にするひともいる。ま、そうやってカネを上手に稼ぐひともいるのだけど。たいがい、自分は「成功」した「よい人生を得た」と思っている人たちだ。そのように自分の生活や人生に自惚れするぐらいのズウズウしさがないと、崩れゆく日本の「情報社会」で「成功」することは難しいかもしれない。でも、「成功」しなくてもね、ウフフフとすごしていける人生があるんだなあ。ただ、気どらず力強くめしをくわなくてはいけないけどね。条件といえば、それだけ。

ああ、そうだ、そのことには、まったく関係ないようだが、タイトルを「カネとコトバ」にしたのだった。

高橋源一郎さんが『文學界』に「ニッポンの小説」を連載している。7月号に、こんなことが書いてあった。ここんとこだけ、ひっぱりだすのはイケナイけど、ここんとこだけは、共感できた。……

 ぼくたちは、この世界と「直接」関係を結ぶことはできない。言葉を通して、関係を結ぶのである。
 それは、ちょうど、ぼくたちが、「貨幣」を通じて、物質的世界を手に入れるのに似ている。言葉と「貨幣」は、世界を手に入れるために、人間が作り出した最高の武器なのだ。

……引用、おわり。

そのわりには、日本の言葉をつかうところの日本文化の担い手であるところの(こういうときだけ、このように持ち上げるのだが)日本の文学は、貨幣や経済に関する理解が浅いと思った。それはもう、アメリカあたりと比べたら雲泥の差で、いささかプラグマチックすぎるかんじがしないでもないけど、アメリカのビジネスマンや「アメリカ流仕込み」といわれる日本人ビジネスマンには、けっこう魅力的な文化の持ち主がいる。

知り合いに40歳そこそこのオフィス用機器の営業マンがいるが、もちろん幹部社員だけど、彼なんかそうだ。言葉や人間に関する造詣は深く、スポーツも近頃は衰えたがラグビー、このひとの指導下にある人たちは、生き生きと働いている。もしかすると、カネが欲しいくせに金銭や経済から学ぼうとしない、「高尚」「道楽」な文化や文学は、それを「奴隷のような姿」とみるかも知れないが、だとしたら、そこがそもそもオカシイのだ。いま、生きるためカネを得るために働く姿を「美しい」と思えなくなった文学や文化は、退廃というものだろう。

きのう書いた、アメリカのビッグなレストランチェーンの副社長をしているカツトシにしてもそうだ。彼は優秀なビジネスマンであり、「文化人」なのだ。あらためて、そう思った。このばあいの「文化」は、日本の「文化の日」というような、あるいは「出版は文化である」というような、それとは、かなりちがうだろう。一つには、いまアメリカ社会は200種ぐらいの人種がいるらしいけど、カネを稼ぐビジネスの現場は、つねに異なる人たち異なる文化、異なる言葉が日常だということに関係しているようだ。そして、最近のマネジメントは、もうそのレベルを超えて、人間は一人ひとり異なる存在だということから始まる。そこが出発点なのだ。「みんなちがって みんないい」なんていう悟りのような結論に沈殿しているのとはちがう。

そういえば、やどやプロジェクトのWGなども、ボスは日本人だがアメリカビジネス界で生きてきた男だし、核になっているマネジメント手法はアメリカ生まれだな。そこに、「ワレワレ流」をからめている、というか。やはり、なんてのか、ふだんの会話でも、ちがうね。できるだけ状況や考えていることを、ていねいに伝えようとするなど。自律的な「個」の尊重が基本になっている。そういうことなのだ。そもそも「アメリカ型」だの「日本型」だのといったパターン化は、日本人が好きなだけだ。

日本は、あいかわらず、お仲間なかよしなれあいご都合主義のコトバ関係。難しい人間関係や厳しい現実やカネがからめば、たちまち崩壊。異なる人間が集まると生まれる不合理や理不尽にヨワイ。したがって小さく気心の知れたもの同士でまとまろうとする。派閥だらけ。安倍内閣の「官邸崩壊」も、そのような「自分に都合のいい人間だけを周囲に侍らせた」結果ともいわれるが、実際の経営の現場でも、取り巻きや仲間ファンに囲まれた「長」のつくひとが、かえって倒産や閉店をはやめるという例も少なくない。このとき、こういうことはよくあるのだけど、当の取り巻きや仲間ファンは、自分の責任など考えない。彼らがいるために、そのやりかたによって、どれだけの離反者が出たかは、考えない。自分は、つねに「よい子」。倒産閉店があっても、感傷で片付けて、オシマイ。時代か社会か、他者の責任にして、オシマイ。そして、また同じことが繰りかえされる。ま、そういうことは、もう改めようというひとも増えてはいるようだが……。

日本の労働の現場は、とくに飲食業はそうだけど、確実に外国人労働者がふえている。そこで、労働の現場に無関心を増大させてきた、日本のコトバと、とくにその活字文化がつくってきた尊大な文化が、どれほど有効であるか。

なんだか話が、わからなくなったので、これでおわり。

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