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2007/12/06

週刊文春の椎名誠さんによる「雲のうえ」評を読んだ。

一昨日12/04「今週の「週刊文春」で椎名誠が「雲のうえ」5号のことを」の、椎名誠さんのエッセイ「風まかせ赤マント」だが、「雲の上の妖しい衝撃」というタイトルで、全体の半分もつかって書いている。うーむ、かなり、これは、うふふふふふの妖しい衝撃の内容だ。

「スターフライヤーという航空会社のヒコーキに初めて乗った。」…「なかなかいいんだなあ。」から始まる。

「 子供の落書きのような絵をバックに子供のクレヨン文字みたいなので「雲のうえ めし大盛にしとって!」と大きく書いてある。特集は「はたらく食堂。」。連載は「街のうた5/ちゃんどん恋歌」。目次だけではなんだかわからない。パラパラやっているうちに、それが北九州市の情報誌かつこの航空会社の機内誌としても使っているものらしいということがわかった。妖しい衝撃が走る。」

『雲のうえ』は「情報誌」とよばれるが、先日も書いたように、素材=対象が持つ情報的価値に頼るのではなく、素材と写真と絵と文などの関係が、なんてのかな、お互いに拘束されることなく自律的に、その魅力を出し合い、かつ共鳴しあって、効果をあげる。ま、ようするに本来の「雑誌」としての価値を損なわないように編集された情報誌であるといえるか。

いかにも情報誌なつくりかたならば、パラパラ見なくても表紙から、一目でコンテンツがわかるかイメージできる。そして、コンテンツからジャンプして目的のページに跳べるデジタルなインターネットのサイトのように、目次から必要な情報へ直行しやすいようになっている。

だけど、『雲のうえ』は、そうではない。表紙の「子供の落書のような絵」からパラパラ見る気分なのだ。パラパラ見ていると「妖しい衝撃が走る」、なかに引きずりこまれる。

「 フロントページに「えだや食堂」というどこにあるかわからない定食屋の豪華定食写真。」

そうなのだ、フツウの情報誌なら写真に付く文(キャプション)は、住所や電話や写っている食べ物に関する情報がのる。ところが、どのキャプションも、不肖エンテツの文だが、そういう情報は、ほとんどない。

椎名さんの文は続く。「サバの味噌煮らしきものに冷や奴、ゆでたまごを半分に切ったやつ。豆腐とワカメの味噌汁なんかが並んでいる。全部で六百八十円ぐらいなものだな。でもやたらうまそうだ。次のページは「まんなおし食堂」でその次が「エビス屋昼夜食堂」と続いて、いいんだなあこれらの文章も写真も。」

まさに情報的価値を拾うのではなく雑誌的に楽しんでいる。うふふふふふ、いいでしょ、文章も写真も、とおれはニンマリしたくなる。でも、雑誌的に楽しんでいると、そこへ、北九州の大衆食堂へ行ってみたくなる。となれば、必要な情報もちゃんとのっている。

続く文を読めば、そのことが一層はっきりする。「八幡とか門司とか戸畑とか小倉の、つまりは北九州一帯の大衆食堂の特集だということがやがてわかる。全部で二十七店紹介していて空港を降りたらすぐさまかけつけたくなった。「小腹食堂」というタイトルで甘味屋さんなどを小特集しているのも楽しい。全体的にセンスがいいのだ。」

さらに、段落をかえて、こう続く。

「 機内誌というとJALでもANAでも「この世のものか」と思うような美しい写真が満載で、どうも全体的に嘘っぽくていまの時代にはあまりにも陳腐なのだが、機内誌というのはそういうものなんだろう、と思っていたのでいやはやこれには感動しました。『雲のうえ』というのがこの機内誌の題名なのであった。」

多くのひとが情報誌なれして、雑誌と見れば情報的な「読み方」をしようとする。あるいは、ホントウの雑誌となると、美しいというか豪華というかハッタリというかストイックというか「高級感」だ。そういう「型」にはまった文章や写真が、あるいは全体のつくりが、「よい」と評価されやすい。

そんな傾向が強いなかで、いかに雑誌らしく気軽に楽しんでもらいながら、伝えたい情報を伝えるか。そのあたりが、けっこう編集上のキモだったと思う。

いや、おれは編集委員じゃないし、「雑誌」とはどういうものか専門的に知っているわけじゃないから、そうは断言してはいけないのかもしれないが、そうだと思ってよいことが、編集委員との会話の中で何度かあった。たとえば、構成上のことで、ああでもないこうでもないと意見をかわしていたとき、おれが言った案に有山さんが、「いや、それは、かえって情報誌のようになってしまうんじゃないのかな」と疑問を出したりした。それでおれは、ナルホドと思ったものだ。

そのようにつくられた『雲のうえ』を、椎名誠さんが「雑誌」を楽しむように楽しんでいる感じが、このエッセイには、よく出ている。そう思った。

この特集は、先ほどのキャプションも、いわゆる情報誌のそれとはちがうし、写真と本文の位置は、必ずしも同じページに関係づけてレイアウトされているとはかぎらない。一見どうってことない、食堂のなかの洗面台の写真が載っていたりする。写真と文は、どこかでからみ合っているのだけど、おたがいにシバリはない。おれも、ここまで「自由」なのは初めてだった。

そのことによって、かえって写真や文章や絵が独自の力を発揮し共鳴しあい、イメージが広がる効果があるようだ。もっともそのへんは、それぞれの表現力のうえに、アートディレクターである有山達也さんの力が大きく結果を決めていると思うが。それが「感動」につながるのではないか。それは情報的な刺激による興奮とはちがう。タダで、このページ数とは思えない充実感があるのも、そのためかも知れない。

おれたちは知らず知らずのうち、情報的な「読み方」になれてしまっている。雑誌をほんとうに楽しんでいないし、情報を追いかけて、雑誌の楽しみ方すら忘れようとしている。それは、つくる側にもいえるのではないだろうか。

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