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2007/12/18

賢者の贈りもの

先日書いたように、山口瞳『酒呑みの自己弁護』からO・ヘンリーの『失われた混合酒』へ転がった。それが収まっている『O・ヘンリ短編集(二)』(新潮文庫)の最初に、『賢者の贈りもの』がある。ちょうどクリスマスの時期だし、ついでにそれも読んだ。

欧米の文学には、コラムなども含め、クリスマスにちなんだよい作品がある。日本は、これだけクリスマスどんちゃん騒ぎやるが、記憶に残る作品は一つもない。それはクリスマスの歴史が浅いためかと思っていたが、いままた『賢者の贈りもの』を読んでどうもそうではないような気がした。

私小説的タワゴトを形式美のなかに昇華したような作品をヨシとする、閉鎖的なブンガク的風土そのものが、こういう作品を生まないのではないか。そういう想像力の欠如した土壌では、せいぜい年末に『いっぱいのかけそば』なんてのがヒットし忘れられていくていどだ。

おれの記憶にあるクリスマスプレゼントは、朝目が覚めたら、枕元に小学館の『小学○年生』という雑誌があったことだ。低学年のことで、いつのことか正確な記憶はない。一応、サンタクロースがやってきて置いていったという親の説明を半信半疑、とにかく貰えたから誰が置いていったのかなんぞ関心ではなかった。そのサンタクロースも、小学校高学年になると来なくなった。

しだいにモノを贈るという行為そのものがしらじらしく自ら拒む気持が強くなり、クリスマスプレゼントのやったり貰ったりは、ほとんど記憶にない。

クリスマスプレゼントといえばサンタクロースであり、それ以上のことは大人になっても、しばらく知らなかった。関心がなかった。

そして、いくつのときだったか、もう30歳になろうというころだったような気がする、この『賢者の贈りもの』を読んで、初めてそれが東方の賢者の贈り物から始まっている、その意味を知った。そして、その意味を、現代風の物語に創造した作者の力におどろいたのだった。

この小説は、自分の年が加算されるごとに、だんだん深く読めるような気がするのがうれしい。もしかすると、おれはまだ成長しているのかと思ってしまう。

いまの親たちが、子どもたちに、この物語をかいつまんで話すプレゼントができたら、どんなによいだろうと思う。かいつまんで話す行為は、この小説を読み取ることでもある。毎年、そのかいつまむ内容が、自分の読みと共に深まるにちがいないだろうし、それが一年の年輪を経た親と子どもの成長の証にもなるような気がする。

かつてはそんなことを考えたこともなかったが、今回読んで、そう思った。

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