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2008/01/21

鉄橋のむこう。昭和な商店街に女の思い出は夢かうつつか。

01113時ごろの京浜東北線にのり王子へむかった。電車は川口駅を出て荒川の鉄橋をわたると東京都北区にはいる。北区は東京の北の端だが、埼玉県の大宮や浦和からは、いちばん近い東京だ。高崎線や宇都宮線の上りを利用しても、赤羽が東京の最初の停車駅になる。

新幹線ができる前は、長野や新潟や東北の青森からも、いちばん近い東京だった。わたしが上京した1962年もそうだった。荒川をわたるころに車内放送が、まもなく赤羽駅に着くことを告げる。その放送と荒川の鉄橋をわたる列車の音を聞くと、「ああ、東京に着いた」と思った。うれしくも悲しくもなかったが、うれしくも悲しくもあった。なんどか、それを繰り返した。

まさか東京で暮らし、60過ぎても電車に乗って荒川の鉄橋を行き来するようになるとは思っていなかった。

東京で暮らすイメージはなかった。固い意志ではなくバクゼンとだが、大学を出たら故郷にもどり、そこで一生が終わると思っていた。ほかのイメージが描けなかった。それが違ったふうに転がったのは、実家の家業が破産し、家も人手に渡り、両親も夜逃げのように身ひとつで東京に転がり込んできたからだった。おれたち家族は貧乏な田舎で落ちぶれて、東京で暮らすことになったのだ。

荒川の鉄橋をわたる電車のドアーに寄りかかり、外を眺めながら、そのことを思った。流れ流れて大都会のジャンク者。見下ろせば、真っ赤なライフジャケットを着た若い女を3人ほど乗せた大型のモーターボートが弧を描きターンするところだった。荒川から風景はかわり東京になる。

所要時間20分ぐらいで王子駅についた。都電王子駅前駅乗り換え口に出る。改札口から右手、都電の線路のうえを横切り、国立印刷局王子展示室の前をすぎる。その先は、明治通りを道なりに右へ行く。堀船公園を左へ曲がる。堀船小学校をすぎた最初の通りを右へ入る。道は梶原銀座商店街につながる。

わたしが高校卒業まですごした田舎町の商店街のように、ナショナルブランドな看板がない商店街。スーパーも地元だ。

パン屋に「ヤマザキ」の赤い看板があるのを見て、それが地元のパン屋をくいつぶすように進出を広げたのはいつごろのことだろうかと考えたが思い出せなかった。「ヤマザキ」のブランドには、たとえば「Pasco」や「神戸屋」のような都会のイメージを感じることはなかった。それだけに知らず知らずのうちに浸透したのかもしれない。

梶原銀座商店街は都電の梶原駅をすぎたところで明治通りに出る。明治通りを横断した先は上中里商店街になる。上中里商店街は高崎線と宇都宮線の踏み切りを渡ったあたりから、しだいに商店街の面立ちを崩す。だけど、道は京浜東北線をこえて上中里駅にいたり、そこから平塚神社に沿って本郷通りへつながっている。本郷通りにでたところにはクラシックなエキゾチズムの殿堂と申しましょうか旧古河庭園があり、その塀に沿って本郷通りを駒込駅のほうへむかうと、霜降銀座商店街の入り口にいたる。そこを入れば、その先は、染井銀座商店街、西ヶ原商店街とつながる。

わたしは梶原銀座商店街から、霜降銀座商店街、染井銀座商店街、西ヶ原商店街を続けて歩く予定だった。

梶原駅をすぎ明治通りを渡り、上中里商店街で商店の時計を見ると14時だった。急がないまでも、普通のはやさで歩いていたことになる。日曜日のことで、2軒の食堂もそうだったが、定休日のところが多かった。わたしは食事をすることにした。

あいていたトンカツ屋に入った。4人がけテーブル3台、4人分ぐらいのカウンター。先客は、幼子2人の夫婦、赤ら顔のオヤジが酎ハイらしいグラスを傾けていた。わたしはカウンターにすわり、50代と思われる白髪の多い疲れた表情の主に、650円均一のサービスランチの中からミックスフライを注文した。

ビールといいかけて、やめた。まだ全行程の4分の1も歩いてない。わたしは、北区の観光をテーマにした原稿を書くために、あれこれ思案しながら歩きたいと思っていた。それに西ヶ原のあたりは道が複雑で、以前ちがう方角から行ったところへうまく出られるかどうか自信がなかった。飲むのは歩きおわってからにしよう。

ミックスフライは、串カツとエビフライとイカフライの盛り合わせだった。その大きさもめしの量も、ギリギリやっている苦労がにじみ出ていた。めしも上手に炊け、ナメコのみそ汁もうまかった。新聞は産経新聞だった。

平塚神社の境内に入るのは初めてだったが、偉そうなこけおどしの高さがなく、普通の平屋のような高さで、質実そのもの、好きなタイプの神社だった。本郷通りで信号をわたり、旧古河庭園の塀を右手に沿いながら右へ曲がろうとして、交差点の左手のビルを何気なく見た。そこには「滝野川会館」の名前があった。わたしが高校のときから大学1年の間ぐらい付き合っていた女が結婚の披露をしたところだ。

あれは、何年のことか。わたしはすでに大学をやめ臨時雇用の仕事を転々としたすえに、やっと正社員のくちをみつけたころだった。まだ独身だった。彼女は、大学を卒業してすぐだったはずだ。

そのとき、初めて「滝野川」という地名を記憶したのだけど、あの日は、別の結婚式もあって、先にこちらに出席して途中退席したのだった。会場を去る前、新婚の2人の席に近づき挨拶した。それは、彼女と別れてあと、初めてかわす言葉だった。

彼女は、何年か前に離婚し、そして数年前に死んだ。彼女は東京を離れ、ある地方の寒村に一人で住んでいた。すい臓がんが発見されたときには手遅れで半月もたなかったとのことだった。彼女が死んでから、そのことを知らされた。

彼女も荒川の鉄橋をわたって、東京に入ったのだ。1962年5月、わたしと彼女は有楽町の映画館で「ウエストサイド物語」を見ていた。

彼女と最後に会ったのは、1982年ごろだろうか。滝野川会館以来のことだった。彼女は、冗談まじりに「離婚したい気分」を話した。わたしは離婚が決まっていたけど、言えずにさよならした。

あの日、滝野川会館を中途で退席して行った結婚式の新郎は当時の会社の先輩だったが、彼は、もっと早くに死んだ。もう20年ぐらい前のことになるだろう。わたしより2歳ほど上で、やはりガンだった。彼は西のひとだから、多摩川の六郷の鉄橋をわたったにちがいない。

わたしは霜降商店街の角をまがるころには、彼女との「はじまり」を思い出していた。少しひりひりするかんじの冷たい空気がほおをうった。ときどき学校で言葉をかわすようになった彼女が、初めてトツゼンわたしの家にあらわれた日も、そうだった。雪国のことで、11月の末だったが、いまにも雪が鉛色の空から落ちてきそうな日だった。彼女は、わたしの家の店の土間に立って、「きちゃった」と言った。「つぎの列車まで…」と言った。彼女は列車通学だった。男子生徒は長髪禁止で、男女の交際などは「不良」のようにみられていた高校だった。とにかくわたしの部屋に通した。第九が聴きたいというので、そのレコードをかけた。けっきょく、次の次の列車になり、わたしは駅まで送っていった。女の唐突で大胆な行動を考えた。それから「文通」が始まった。手にさえ簡単にふれられない時代のことだ。

わたしは霜降商店街を無意識のうちに半分以上すぎ、染井商店街が見えたところで、霜降商店街がおわりそうなのに気がついた。正確には、染井銀座商店街だけは、豊島区になるが、北区との境界線に沿って近い位置にある。

013西ヶ原で、やはり方向を失った。むかしの都電の線路と停留所が道路になっているあたりへ行きたかったのだが、なかなか出られない。そこに移転前の東京外大の学生が多く利用していた大衆食堂のようなトンカツ屋があって東京外大生と食べに行ったことがあった。そこがどうなったか知りたかったのだが、探せば探すほど方向を失った。うろうろしているうちに狭い路地に入り、道は階段になった。

ふいに都電の線路に出た。沿って歩いていると西ヶ原の駅に出た。王子方面へ向かい、明治通りに出た。あとは王子駅へむかうだけだった。

「エンドウさん、なによ、酔ったの、寝言いって、うたいなさいよ」
カウンターに突っ伏していた顔をあげると、ババアの顔が前にあった。
ほかの客はいなくなっていた。
「寝言って」
「だれか女のひとの名前じゃないの。いいから一曲うたいなさいよ」
「寝言で女の名前か」
わたしは、見ていた夢を思った。まさかね。
「よーし、じゃあ、うたうか、青春時代だ」
メロディが流れる。
「ちがう、これはちがう、銀杏BOYZじゃねえ」
「なによ、青春時代といえば、これじゃないの」
「ちがうんだよ、銀杏BOYZだ、銀杏BOYZをだせ」
「これっきゃないの、うちは、むかしのレーザーディスクなんだから」
「貧乏酒場はいやだね」
「フン、なにさ、貧乏人が」
ババアが、その青春時代をうたいだした。けつくらえ。
青春も青春時代も女も昭和な商店街も、げどろげどろに混濁していた。

そして荒川の鉄橋をわたって帰還したのだった。

なにが本当か、わからない。

悪川文学賞受賞の作品でした。

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