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2008/01/08

現実的な鍋料理。そして、あまりにも情緒的=文学的な「めし」。

すばらしい主食、ご飯……。
日本人にとってご飯にまさるご馳走があるでしょうか。「めしがうまければ胡麻塩だけでよい」と断言する美食家のこころは、そのまま豊葦原瑞穂国に住むもの全ての『喫飯』のよろこびであると思います。
ここに紹介するのは、グルメの間で評判のお店のご飯ばかりです。

……と、「めしの美学」というタイトルのリード文だ。
コレ、いつのものかというと、『文藝春秋デラックス』1976年2月号だ。いまから30年ちょっと前。全特集「美味探求 世界の味 日本の味」。

いまでも、このテの「めしの美学」は、まるで模写複写の手形の乱発のように、いくらでも見受けられる。まるで30年間何も考えてこなかったかのように。ここに高級感と格調が漂う豪華グラビア写真で紹介されているのは、「ぶぶやのご飯」「与太呂のご飯」「柳茶屋のご飯」「まつ井のご飯」。

「まつ井のご飯」には、「実家が新潟で寿司屋をしていたという、「まつ井」の女将の炊飯考です」なるオコトバが紹介されている。「いつもいうのは、米は人をみる、ということ。同じコシヒカリでも炊いた人間によってこうも味が違うのかと驚くほど、うまいまずいができるものなのよね。」

こういう表現まわしも、コンニチ的グルメな雑誌で、いくらでも見受けられる。「同じコシヒカリでも炊いた人間によってこうも味が違うのか」というのは、ないことではないからヨシとして、それが「米は人をみる」という論理に変換されちゃう。よくありますなあ、こういう論理のゴマカシが。そして、食は、なにやら神秘的な情緒的の世界のことになるのであった。それを成り立たせてきたのは、現実ではなく、このような「文学的」表現だった、といえるだろう。

ところで、この同じ号に、筑波常治さんの文がある。「味覚と東西文化」のタイトル。「一般庶民の鍋料理」の小見出しで始まる。以下引用………

 「日本料理」とか「中国料理」とか「フランス料理」とかいったいいかたをすると、いかにも国によってだけ食物の内容がちがうように感じられてしまう。じっさいはひとくちに日本料理とよんでも、時代により地域によりずいぶん変化に富んでいるのでないか。よその国にかんしてもそのとおりだと思う。
 一方かつての一般庶民の食生活は、あんがいどこの国の作りかたも似ていたのではないか。材料を選別するゼイタクはゆるされなかった。食べられる物なら何でも、ありあわせの材料を投げ込んで煮る――いわゆる鍋料理、ゴッタ煮の系統が世界的にひろくゆきわたっていたと考えられる。そのたぐいのものは日本にも多い。…(略)…「手当たりしだいに材料をいれると、どうしても身ぢかで入手しやすい物にかたよる。結果的にみてそれぞれ国ごとに地方ごとに、特色ある鍋料理が出現したということになろう。
 現在、各国別の特徴ある料理というと、鍋料理以外のものが注目される。だがそれはほんらい、ある程度以上のゆとりある生活を前提につくりだされたものではないか。「家庭料理」と銘うっていても、中流以上の家庭の食事が原型になっている。日本の近ごろ流行の「おふくろの味」にしてもそうで、握り飯だの茶漬けだのと米だけを主体に食べることじたい、かつては相当なぜいたくであった。

………引用おわり。
同じ雑誌に載った、この筑波さんの文章と「めしの美学」を並べてみるとオモシロイ。当時、こんなことをいうのは、筑波さんと江原恵さんぐらいだったろう。30年過ぎて、どうなのだろうか。ま、それまでの長い歴史を考えれば、30年ぐらいじゃ、そうは簡単に変わらないのだ。

筑波さんとは、この数年後、おれと江原さんが生活料理研究所を立ち上げた直後ぐらいに、2回ほど飲んだことがある。日本の食文化について考えていること、いろいろ接点があった。気鋭にして奔放というか闊達の印象があった。『米食・肉食の文明』は、もっと評価されるべきだろう。

いいかげんに、情緒的=文学的な「めしの美学」から脱却し、「キモめしの美学」を目指したいものだ。
「くず米」を食べる現実のなかで。

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