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2008/02/29

「いのち=身体」の記号化とグルメの誕生。

時間があまりないし、思いついたままを忘れないようにメモ。未完。

2008/02/22「料理は味覚を失ったのか?「いのちをいただく」お粗末。」に書いた「いのちをいただく」なんていう言い方のことだ。なぜ、こんなことになったか、不思議なので考えている。

たしか、ここ10年ぐらいのうちだが、ラジオを聴いているときに、「いのちの大切さ」について語っているタレントがいた。彼の子供が5歳ぐらいだったと思う。その子供に、自分はどうやって「いのちの大切さ」を教えているかということだったと記憶する。

それは、虫や昆虫などを好きなように殺させることだった。いや、なにもワザワザ捕獲してきて、「殺せ」と子供に与えているのではない。虫や昆虫がいる庭のある家に住んでいる。子供が好きなように虫や昆虫を殺している、それを見て「いのちが大切だから殺してはいけない」というようなことはいわない。なぜなら、自分は子供のころに虫や昆虫を殺す遊びをしながら、「いのちの大切さ」について知ったからだ。というような話だった。

つまり彼は、いまのひとたちは子供のころ遊びで虫や昆虫を殺すような経験をしてない、だから「いのちの大切さ」を知らない、だから簡単にひとを殺すのである。という考えを持っているようだった。

それを聞いて、おれは、なんだか不気味な違和感をもった。

それより、もう何年か前、1990年ごろ、おれはあるプロジェクトの関係で、農業法人組織をつくるプランをたて実現に向けて動いていた。その農業法人の名前に、「いのちの産業」という名前をつけた。

ふりかえってみると、「いのち」という言葉が、やや神秘的に、そしてやや生身の肉体から離れた記号として使われだしたのは、そのころからだったように思う。大雑把な言い方をすれば、80年代を通して、「いのち」という言葉が、なにか特別な響きを持った言葉として使われるようになった。

いつから殺人事件が起きると、「いのちの大切さ」を知らないことが原因とみなされるようになったのだろうか。それは、たぶん、「おたく」といわれた宮崎某の事件や、サカキバラの事件あたりからではないかと思う。たぶん、その犯罪が、その動機が、あまりにも世俗的な常識からみて理解をこえていたがゆえに、「いのちの大切さ」を知らないからだと決めつけられたのではないか。

まだ、おかしなことがあった。なぜか、人が死んだり、ガンになったりすると、「いのち」やその大切さに気づき、そうでもないと、いのちはまるで日常的に認識されてないかのようなバカ騒ぎが、とくに有名人がガンになったり死んだりすると繰り広げられた。まるでガン患者や死んだものの近親者だけが「いのちの大切さ」を知っているかのように。

おれは、それを、ようするに想像力の不足だろうと思っていた。いのちを抱えた自分の生身の肉体があるのに、誰かが死んだりガンにでもならなければ「いのち」がわからないなんて、想像力の不足だよと思っていた。

しかし、どうも想像力の問題だけじゃないらしい。たしかに、とくに大都会の日常では、生身の「いのち」を認識することが困難になっているのだ。

なぜなら、消費社会のなかで、「いのち」すら記号化されてしまったからだ。それは「身体」の記号化と同時にすすんだにちがいない。

食や料理が、生活から切り離されて記号化されたように。そして80年代に誕生し今日まで続くグルメは、食と料理と「いのち」の記号化をすすめた。

いま「いのちをいただく」という言葉が、なにかしら深い意味があるようにつかわれるのは、そういうことの結果なのではないか。記号化された消費主義的な「いのち」の流れであり、それゆえイマイチ現実的なひびきがない。

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うたは大事。うたのオベンキョウ。

ここんとこパンクだのなんだのと書いていたが、うたのオベンキョウになった。24時をまわったから、きのうのことだ。

大悪魔作戦は、大都会の片隅で誰にも知られず花を育てるようなもので、内容を詳しく公開できるものではない。自分の備忘録として、ここに関係者だけがわかる記録をしながら、ウフフ楽しんでいる。

なんでもプランつまり先の目標や目的があって進んでいるとは限らない。ほんとうは、そういうことのほうが多いし、たいがいは偶然の産物なのだ。偶然の産物であっても、「関係性」だけは必要だ。ま、たとえれば恋愛だが、たいがいプランなしで生まれる。んで、デイトしましょう、結婚しましょう、家を建てましょうプランになったりする。でも、「関係性」が壊れたら、それはチャラになってしまう。そのようなことが、この世には、たくさんあるわけだ。だから、プランはないが関係性だけを築く「作戦」が存在しうる。人間はプランだけでは生きられない。あたりまえ。そしてプランがなくても関係性さえあれば生きられることがある。一緒に何かを食べる関係性とかね。

ま、飲み人の会もそれにちかい。それぞれが、その関係性の在り方を考えることで、基本が成り立つ。お互いの関係性をよりよく保つことを考えなくなったらおわる。そういうことは、いくらでもあるが、とかく「組織」「集団」で何かをやっていると、忘れがちだ。大事なのは「関係性」なのだ。その一部分がプラン化されるにすぎない。

関係性に紆余曲折があるのは当然だ。言ってみてやってみて、言いすぎてやりすぎて、いけないところは改め直す。なんでもそうだが、人間なんかお粗末な動物だから、失敗があるのは当然で、むしろ失敗のあとの対処で人間の価値は決まる。

なーんてことで、「関係性」は、やはりうただってことで、国には国歌、学校には校歌、部に部歌があるように、「関係歌」あるいは「作戦歌」のオベンキョウになった。プランがなくても、うたで関係しうる関係に関するうたのオベンキョウ。って、また何を書いているかわからなくなったな。

新宿下層労働者のキモ男がいる近くの焼肉屋で、しこたま焼肉を食べて飲んだ。うたのオベンキョウ。カラオケルームへ行ったわけじゃない。歌手もうたも9割は知らなかった。だからオベンキョウなのだ。よい楽しいオベンキョウになった。この成果は、これからどうあらわれるか楽しみだ。そうなのだ、何かを生みだそうと思ったら、プランよりうたが大事なこともある。戦争だって平和だって、プランじゃなく、うたなのだ。とつぜん思い出したが、CMつくる連中は、いろんなうたを知っているな。うたが大事なのだ。とくに歌詞が大事だな、そういう話だったな、たしかに。

一つ気がかりなことが。心配だ。作戦メンバーの一人が、身体のぐあいが、あまりよくない状態らしい。忙しくしていて手遅れにならないよう、まずは、はやく医者に診てもらうことだ。うたがあるのだから。うたを続けよう、うたを。

コメント欄のpfaelzerweinさんのブログ「Wein, Weib und Gesang」には、 「ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)」のオコトバが掲げられている。…クリック地獄

おれ、どれも愛しんでいます。でも馬鹿のまま。

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2008/02/28

知識は豊富だが知性は貧しい。

Makehenということが、カトさんと飲んだあとの結論だった。考えたら、けっこうメンドウな問題をヨツパライやりながら話していたな。

「改革」「改革」といわれて10年以上たつけど、カトさんの見解でもあるし、おれもそれぐらいだろうとは思うが、東京=中央が歴史的に不当に握りしめてきて、地方自治にもどすべきこと(そのカネと権力)の1割も解決してない。カトさんの「試算」では5パーセントぐらいじゃないかということだったな。その極端な中央集権=東京一極集中が、日本の農業の衰退に大いに関係している。しかし、そのハッキリ行き詰まりをみせている体制が、なぜこのように保たれているのか。あら不思議な。

中央の政治家と官僚と中央紙(「全国紙」ではなく「中央紙」とよぶべき)を頂点とするマスコミ、そこにむらがる「知識人」ってな連中のユルイうんこな退廃。その退廃ぶりも、近頃は、じつに堂々としていて、完全に判断力を失っているとしか思えない。この人たち、みな高学歴なのだ。いまや大学院卒なんてのは、めずらしくない。だけど、その醜態。

宮崎県の東国原知事は、大学院卒ではなくて、お笑い系?「宮崎に高速道路は不可欠。道路特定財源・暫定税率は維持せよ」といったらしい。カトさんは、あまり納得していないようだったが、おれはあるていど理解できるといった。東京の世田谷あたりで環境だのエコだの「いのちをいただく」とかいっているひとたちにとっては、高速道路など、これ以上いらないということになるだろう。もうじゅうぶん発達した交通網の恩恵をこうむっているからだ。

たとえば、世田谷の中流意識家庭のテーブルの自然の彩りを演出する花は、宮崎の奥地で生産され、航空機で東京に運ばれているかもしれない。その産地では、東京に出荷する以外、生きていく市場がない。九州の大消費地である福岡へ出荷するより、東京へ出荷するほうがうまくいく交通運輸市場体系になっている。たかがカーネーション一本でも、そうなのだ。そして世田谷の児童の医療費はタダになるらしいが、宮崎じゃどうだろうか。

宮崎だけではなく九州全域の交通網の整備は、九州の広域経済のためには必要のように思う。東京市場に頼らない、それこそ足腰の強い「地産地消」の農業のためにも、必要のように思う。

モンダイは、そのために国の道路特定財源に頼らざるを得ないということなのだ。考えてみれば、宮崎県一地方のために道路特定財源あるのではない。あれはね、中央=東京のためにあるのです。そして、東京=中央の世田谷あたりに住んでいれば、そんなものはいらない、もう十分だ、エコの流れに逆行するということになる。だけど、東京一極集中を改めないかぎり、地方と地方に抱えられた自然は荒廃を深めるだけなのだ。

ま、東国原知事も土建会社のめんどうをみて支持基盤を固めるためにも、高速道が必要だと、それが本音かもしれないが。極端な東京一極集中を改めることを先延ばしにしてきたツケは、どうなるのだろうか。中央の官僚と政治家と中央紙を頂点とするマスコミのユルイうんこは、いつまで続くのだろうか。

そうそう、アノ防衛のモリヤの事件。たしか高級官僚の家族の親睦会みたいなのが問題になって、モリヤの妻も、どうなったか、とにかくああいうのね、知っているひとは知っているだろうけど、ようするにダンナの名刺をですよ、持って歩いている妻たちがいるのだな。ダンナの肩書を家族が利用する。有力者や有名人の妻や夫であるだけで利得にありつける構造は、どこの国にでもあるのだけど、中央集権一極集中が強いほど中央では、それはやりやすい。大きい利得だろうが小さい利得だろうが、やっている本人も、それはアタリマエの感覚だ。むかしは、たしか、もしかすると間違っているかも知れないが、経済一流、政治は二流、文化は三流といわれた日本だが、いまじゃ、経済も政治も文化も仲良く三流。

おれが新聞をとらなくなったのは、1980年代の後半からだったと思う。そのころから新聞は大変つまらなくなった。いまクソマジメに読んでいる人たちを不思議に思う。最近の環境だの食だの騒動は、まんま、コメディだよ。でも、きっと、みなさまがたは、おもしろいツマラナイではなく、もっと高度なお考えがあってのことなのでしょうね。テレビもあまり見なかったが、10年前ぐらいに壊れてからは、ない。どれもいらないと言うつもりはないが、それらはもう三流のユルイうんこの存在証明でしかない。

かくいうおれは五流なので、三流なんか用はないのだ。そこで「まけへんで」なんですわ。

いやあ、しかし、この「まけへんで」には負けました。ニオイ、アジ、もうウグググググッと大変きたえられる。もう怖いものなしだ。

この甲類焼酎、前から近所の、おれがD級スーパーというところのボックスストアで、3リットル入りぐらいのペットボトルがどかんと並んでいて、どんなもんだろうかと気になっていた。んで、べつのスーパーに、このワンカップがあるのを見つけた。思わず買って、わくわくキャップをあけ、鼻を近づけた。ウグッ。

原材料の表示を見ると、「糖蜜」「タピオカ」だ。この「糖蜜」には、まいったね。砂糖の製造工程では「廃糖蜜」といわれているのに、工業製品の原料表示のばあいは「糖蜜」に変わってしまう。そりゃまあ、いかにも「廃糖蜜」では、売りにくい。しかし、これ、ユルイうんこたちにのませてやりたい。そういうニオイとアジなのだ。肉体が、どかん、ブルブルびしっとしますです。

なにを書いているか、わかりません。おおっ、24時半だ。早く寝て明日に備えなくては。

ぼくはもうつかれきってしまってね~
歩いて飲んで「まけへんで」

ひらきなおってカモメをかいた
ひらきなおっても、なかなか飲めない「まけへんで」

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2008/02/26

酒が抜けきらない頭で兵庫のおじさんキャバクラ立国がはは。

けっきょく、17時をまわっても、まだ肉体に酒が宿っているかんじだ。頭がデレッとしている。それでも、なんとか今日中のシゴトは片付けた。

須田泰成さんが、最新作「兵庫のおじさんのキャバクラ立国論」を知らせてきたので、見て笑う。これ、このあいだマイコメ用の撮影で、鶯谷の信濃路へ行ったときに、須田さんとしていた話だ。

あのラブホと風俗の鶯谷周辺を「風俗特区」にして、東洋一いや世界一の風俗観光地にしてしまおう。日本は、政治家も官僚もマスコミも、温室育ちのエリートや二世ばかりで、現実を知らないし、腰の座った交渉力もなく、諸外国にやられっぱなしだ。その状態で、経済と平和を維持するには、「風俗立国」しかない。ここでサミットでも六カ国やFTA交渉、なんでもやれば、劣悪高学歴エリートの日本でも、相手をとろかしてうまくやれる。なーんてことを話していた。

きのう送別呑みをしたカトさんは、会社は銀座で渋谷経由の通勤だから、日暮里も初めて鶯谷も知らないというので、そのラブホ街のなか、デリ嬢が行き交い、立ちんぼがいるなかをぐるり歩き、「風俗情報センター」がある側の入り口から信濃路に入った。カトさんとは、地方経済それと密接な農業と食をどうするかという高度かつ複雑なテーマで語り合いながら、そのあいだに「風俗立国」の話もしていた。

ま、とにかく、「兵庫のおじさんのキャバクラ立国論」をご笑覧あれ。…クリック地獄

それから、わめぞイベント、「酒とつまみ」編集発行人の大竹聡さんとおれの呑みながらトークショーの予約受付の方法が、わめぞブログに発表になっている。3月1日受付開始。よろしく~…クリック地獄

ああ、頭がだるい。

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『雲のうえ』5号届く。しばらく会えない男を送る。

ここのところ出かけることが多く、留守のあいだに、ゆうメールの不在連絡票が郵便受けにあった。なんだろうと思って、きのう配達してもらったら、うれしいことに『雲のうえ』5号が20部。1月31日のエントリーで、もう在庫切れになったのを知って、おれの手元の残部も少ないと書いたのを見た大谷さんが手配してくれたようだ。大谷さん、忙しいひとなのに、やさしい、ありがとう。

5号は、ほんとに底をついたのだそうだ。食がテーマだと関心が高いということもあるのだろう。

そういえば、このブログで「大谷讃歌」を書くといいながら、まだ書いてないな。イザとなると、なかなか書けないものだ。なので、とりあえず、ちょっとだけ。

「北九州ライターズネットワーク」のブログの2月21日「■[報告]第8回 市民プロデューサー講座に参加して」で、「第8回 市民プロデューサー講座「モノ・コトを起こす」『雲のうえ』の仕事:現在フリーペーパー(ミニコミ)事情 2月15日18:00~ AIM8F KIT大ホールにて」の報告をしている。そこに大谷さんの発言も、いくつか紹介されている。そして報告者は、「緻密で的確なコンセプト設定、作り手の姿勢と、ゆるぎない信念、モノづくりを心底面白がれるセンスと度胸…。」と書く。これは、まさに大谷さんそのものだ。アイドル、マドンナ、女王様。

さてそれで、きのうは夕方から、3月1日付で札幌へ異動になるカトさんと、トコトン飲んだ。日暮里いづみや、のち鶯谷の信濃路。2年から3年で転勤のリーマン生活に本人は馴れきっているが、子供は3人になったし、いちばん上の子は小学生になったし、たいへんだなあと思う。ま、とにかく、飲みまくって、泥酔帰宅。今朝は、そんなに激しくはないが頭痛。今日中にやらなくてはならないことがあるのに、なかなかエンジンがかからない。

どうも、まだ調子がでない。これぐらいで。

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2008/02/25

パンクな。

Takarajimaきのう書いたおけいさんはブログを見てもらえばわかるが、パンクにパンクなひとだ。それが、まあ、チョイと会ってみたいなと思った一つのワケでもある。

べつにおれは音楽のことなど、「わからない」。でも、音楽ってのは、「わかる」ものでもないと思っている。パンクには、むかし、ピンとくるものがあった。ひかれるものがあった。グチャグチャいうな、おけいさんともチョイとだけ、むかしの雑誌『宝島』の話になった。話はアチコチにとんだので、チョイとだけだったが。

んで、いま、25時をすぎたわけだけど、画像の『宝島』を探し出した。1990年5月9日号。これはもう、ロックがんがん晩期の『宝島』で、このころが最後の華という感じだったと思うけど。この特集、画像でわかるかな、「パンク・ロック革命史」なのだ。「パンクが変えた80年代世界ロック史」だ。これを手にしたときのコウフンは、いまでも覚えている。

ああ、グチャグチャ書くのめんどうだ。おれの『大衆食堂の研究』の文章、あれがダダだのデカダンだの、小沢昭一調だの、あとなんだ椎名誠調だとか、坂口安吾調だとか、いろいろいわれた。そうかも知れない。そう言われてもよい。だけどね、それは、活字とかブンガクの世界のことなのだ。文章表現の上っ面のことだ。

感性ってのは、活字やブンガクのスタイルだけじゃねえよ。つまりさ、『大衆食堂の研究』も『汁かけめし快食學』も、スタイルはちがっても、ココロはパンクなんだよ。ってことでいうと、東京の、いい出版社の会社員をやめて、有機栽培の百姓になった藤田さんだって、パンクな生き方だ。幼子が2人もいるのに、そんな、パンクな不良オヤジだよ。な、そうだろ。

それらのことが、近頃いろいろ考えていたことに交差する。

2007/11/29「いい連中だ、いい歌だ。」の銀杏boyzだって、関係あるぞ。

もちろん、モンティ・パイソンだって、大いに関係する。

それは80年代前半、つまりバブル前夜に関係する。あのころを頂点に、そして最後に、しだいに失われていったが、たぶん、けっして、失われないもの。もし未来があるとしたら、そこからだろうと思われる、パンクなココロ。そのいろいろが、いま、おれの頭のなかで錯綜し、酔っているのだ。

今夜は、これから、この『宝島』を見て寝よ。熱くなって、眠れるか。そうだ、ナイトキャップを呑もう。

パンクにやろう。それを食文化に体現するなら、「気どるな、力強くめしをくえ」ってことだよ。そういうことなのだ。「正しい」「よい」人間になろうとする必要はない。力強くめしをくって力強く生きることなのだ。

画像、チトぼけている。酔って撮影したからな。でも、ボケているのがわかる。もしかすると寝ておきて撮影しなおすかもしれない。クソッタレ。

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2008/02/24

やれやれ、荒天に忙。疲れるときもある。

きのう、池袋18時。80年代後半のバブルのころには、まだ10歳の少年で、巣鴨地蔵通りあたりが遊び場だったおけいさんと飲んでゴキゲン。詳しくはおけいさんのブログ「いつもあるんだココロにパンク」。…クリック地獄

なんだか、ゆっくりパソコンの前に腰を落ち着けていることが少なかった一週間だった。なにがまあ、そんなに出たり入ったり忙しかったのか。けっこう飲みにも出かけたが。おまけに天気が悪くて。なんだか疲れた。おれだって、疲れるときもある。

きょうは今日とて荒天のなかを出かけ。もどって、やれやれとパソコンの前にすわり、たまっていたメールなどに返信など。チョイと生きているかどうか気になるやつにもメールしてみたり。しかし、メールもためすぎると、返信書くの、けっこう大変だな、なかなか片付かない。すみません。でも、急ぎじゃないから、いいよね。と、自分で勝手に決め。

まだ明日までの校正が一つ残っている。けっしてキチョウメンな性格ではないのに、約束を守りたがるおれ。

忙しくて疲れると柔軟性がなくなるよな。身体もココロも。よくないことだ。大らかに。黒い冗談で黒い笑いを。

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2008/02/23

知人が百姓になっていた。

リンクをたどって、わかった。数年前に2度ほど親しく話しをした、藤田敏さん。たしか、都内の名の知れた実力ある出版社にいたはずだ。それが、えっ、「38歳からの百姓志願~実践編。 霊峰・石鎚を仰ぎ、瀬戸内の陽光を望む愛媛県西条市、「有機菜園 藤田家族」無農薬・無化学肥料の野菜と暮らし 」というブログをやっていた。きのう22日、「エンテツさん、これでなきゃ!」を書いている。びっくり感動。さすが、すごい、すばらしい。応援しよう。…クリック地獄

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ナイトキャップってコンドームのこと?

005世間的には、マッカランは、高級酒とはいえない。かといって、大衆酒ともいえないだろう。文化的には、死語となった「中間小説」、あるいは、チャンドラーの小説のような位置になるか。おれが愛飲泥酔する安酒とはちがう。やはり、わが家的には、サンゼンと輝く高級酒である。

安酒ばかりの日常というのは「安き=易き」に流れ「しまり」つまり「緊張」を失いがちだ。ゆるみっぱなしの「緩和」のみだ。そこにチョイとだけ、こういう酒があると、ほどよく緊張と緩和がバランスされる。緩和8に緊張2ぐらいのバランスになる気分。一日の生活にほどよい「しまり」を持つことは、おれのようなフリーのばあい、必要だと思っている。

マッカランを初めて飲んだのは、5年ぐらい前のことだ。ようするにシングルモルト・ブームが盛り上がっていくころ。そのブームに一役買った土屋守さんがいる。彼が光文社新書から『シングルモルトを愉しむ』を刊行したのが2002年11月。そのころ、土屋さんがプロデュースして開店したての、西麻布のスコッチバーでお会いした。いろいろなシングルモルトを試飲しながら話を聞いた。意識的に飲みだしたのは、それからだ。おそらく、土屋さんに好感が持てたのも、大きな要因だったと思う。

いちばんポピュラーでとっつきやすいのがマッカランだった。ま、このブームでシングルモルトを飲むようになった人たちの、ごく平凡な道だな。

それから少したって、20歳なかばの女と話をしているとき、「マッカランはナイトキャップにいいかもな」てなことをおれが言った。そのときも、とあるバーでマッカランを飲んでいた。すると女が「ナイトキャップって、コンドームのことでしょ、なぜ?」といったのだ。おれは、アのゼンとした。が、これは、冗談だった。それにしても、なんという。

その女は、それから結婚し、最近わかれた。スレチガイ離婚?というのか、ようするにお互いに仕事が忙しくてスレチガイばかりで、なんだか疲れてしまった。ということらしい。その話を聞きながら、そういえば、きょねん、周辺で同じような離婚の話を2件聞いたのを思い出した。

会う努力が足りないからだろうと言いたくなったが、わかれたばかりにそのようなことを言っては酷だ。それに、たしかに近頃の忙しさは異常だ。とくに30歳前後ということもあるようだ。航空機の離発着時の事故が多いのは、そのときの情報処理の量が集中的に増え、つまり情報過多の状態になり、情報処理機能の一部に組み込まれてしまった人間機械様が、対応しきれなくなることが一因らしいが、なんだかそれに似ている。忙しさの背景に、情報過多の社会があり、その処理=仕事に追われ、迷走状態に陥る。そして失墜、というわけだな。

それにしてもスレチガイでわかれとは、チト悲しいとも思った。ようするにスレチガイをやっているうちに「気力=愛?」が失せたということらしいが、切ないことだ。

そういうわけで、そんなわけは関係なく、たまたまだが、どういうわけか、近頃このマッカランをナイトキャップにしている。これを寝る前に、小さなグラスでグィッと肉体に流しこむ。夫婦であろうがなかろうが、スレチガイで会えないまま縁がきれるなんていやだねえ、と思いながら。

酒のマーケティングは、腰をすえてやったことがない。1970年代、バーボンが市場を形成していたころ、よく組んで仕事をしていたコンサルタントが、酒市場に絡んだ仕事をしていた。彼に、チョイ手伝ってといわれて、揺籃期のバーボン市場に、少し首を突っ込んだていどだ。70年代の前半、サントリーが新宿歌舞伎町に、アンテナショップ「バーボンハウス」というパブのような店を出した。そこでは、よく飲んだ。バーボンやシングルモルトでもクセのあるやつは、どうも寝る前に飲む気がしない。芳醇だけど軽いクセのないやつがよい。

あっ、なんの話だ。そうそう、マッカランをナイトキャップにしていても、泥酔記憶喪失帰宅が多いから、寝たのも記憶にないほどなので、ナイトキャップなんていう気どったものは必要ないのだな。つまり実態は「しまり」のない日々なのだ。

なので、なかなか減らない。かといって、貧乏性だから、これだけグイグイ飲むのもモッタイナイ。あれこれ考えつつ、今朝は、これを飲んで書いている。いま午前9時半すぎ。

きのうのエントリー「料理は味覚を失ったのか?「いのちをいただく」お粗末」にアクセスが多い。なぜかなと思ったら、「はてな」が関係しているらしい。はてな。

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2008/02/22

料理は味覚を失ったのか?「いのちをいただく」お粗末。

ちかごろ料理雑誌などに「いのちをいただく」という言い方がたびたび登場するのに、おどろいている。

それを、しかも料理人も口にする。いったいどうしたのだ。いつからそういうことを料理人がのたまうようになったのか。坊主ならともかく、料理人や、フツウのひとが料理や食べ物を語るときに「いのちをいただく」なんていう言い方は、おかしい。かつては一般的ではなかったはずだ。歴史でも伝統でもない。

料理をつくったり、食べたりするときに「いのちをいただく」なんていう、そんな御託宣なんざ聞きたくない。そもそも、フツウにうまく食べられるように料理をつくれば、きれいに食べるのだ。それでこそいのちもむくわれるというものだろう。そういうものとして料理や味覚はあったのではなかったか。

さらに、それ以上に、牛がエサを食べてクソしているところをイメージしながら食べよというのか。それなら、「いのちをいただく」なんていう御託宣をたれる飲食店じゃ、牛のエサとフンを店内の装飾にすればよい。ホウレンソウにつかう肥料や農薬を飲食店の床にばらまいておけばよい。

「いのちをいただく」なんていうと、いかにもマズイ料理を、でもね、これはね、牛さんやホウレンソウさんやゴキブリさん(たぶんクジラのいのちを大切に思うひとはゴキブリのいのちも大切に思うだろうからね)の大切ないのちをいただくのですから、どんなにまずくてもガマンして食べなさい、きれいにくわねぇやつはいのちを大切にしないやつだ!といわれているようで、よい気分がしない。食事がまずくなる、残したくなる。

こういう御託宣は、料理のウンチクよりたちが悪い。料理のウンチクは、まだ料理や味覚の向上に役立つこともあるが、「いのちをいただく」では、料理や味覚の後退だろう。

マズイ給食を児童に食べさせて、残すと「いのちの大切さ」を知らないからだと、児童や父母に難癖をつける栄養士たち食育論者の無責任とおなじだ。料理人が、そういうことでよいのだろうか。料理人は、もっと、うまい料理をつくる職人に徹するべきじゃないだろうかと思うのだ。

いやいや、ま、しかし、これは、優雅な中流意識のキレイゴトをくすぐるハヤリ言葉のようだな。いまじゃ「スローフード」なんていう言葉を聞くこともなくなって、そのかわりだ。「環境」を口にしないと中流意識のキレイゴトの流行遅れであるかのような。そういうことでしょう。あいかわらずの思考停止症候群ってことだ。そんなハヤリ言葉をつかって料理を語らなくてはならないんて、どうかしている。すでに言葉づかいからして「いのち」を粗末に消費している証明ではないか。味覚の貧困であり、生活と料理の退廃だな。底が抜けているよ。

んなことより、自分たちのいのちが大切にされていないことに対策すべきだろう。アスベストをほうりだしたままで、なにが環境だ、「いのちをいただく」だ。

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1980年は、未来に幻想を持てた最後の時代なんですよね。

002北区まちづくり公社で「街よ!元気になれ」の編集会議。19時から。東十条駅北口そばの本屋で『東京生活』の昨年12月号、赤羽根・王子特集を買う。この本屋、意外に雑誌が揃っていて、ついでに飲食店関係の専門誌を立ち読み。コップにカップ酒のカップを使っている立ち食いそばで、天ぷらそば。

編集会議は、1回出席できなかったが3回目の出席。今回の特集「観光」の9割ぐらいがカタチになった。おれは「ごく私的な手づくり観光への誘い」を書いている。

プロの編集者はいない、まったくの素人集団だから、まさに住民の手づくりの冊子。手づくりの街づくりを地でいっているようなものだ。時間的には効率がよいとはいえないが、それはまあ「プロの論理」であって、これにはこれのよさがある。

東十条駅から公社へ行く途中に、東十条病院という大きな建物があったのだが、そこが真っ暗で、1階部分が鉄板で囲まれている。閉鎖のようだ。聞くと、医師不足によるものだとか。

それより前から気になっていたのは、画像。公社の前の、夜だと黒いコンクリートのカタマリでしかない建物。まったく人気はない。これは「飯田家」という看板がついたままの元料亭なのだ。こんなところに、こんな大きな料亭があったのもオドロキだが、王子の扇屋、十条の名前忘れたナントカ、そして東十条のここは、むかしから北区の割烹料亭の三指だったそうだ。それが、バブル崩壊後、全部こけた。その廃墟というわけだ。王子の扇屋は、料亭の営業はやめたが、卵焼きだけは有名で残っている。

「カタチあるものは滅びる」といわれ、それは魂の不滅をいいたいがためのコトバだろうが、現実は、そんなものじゃない。魂だの愛だのも不在なのだ。つくろうつなげようとしなければ消えるものもあるし、そうしようとしても崩壊するものもある。「1980年は、未来に幻想を持てた最後の時代なんですよね」というコトバを実感した。これは、出かける前にパララ見ていたパイソン本で、KERAことケラリーノ・サンドロヴィッチさんがいっていたことだ。

バブル崩壊によって生まれた、この黒いカタマリ。そしてその後の不況と、マスコミが「好況」と報じるところのイマ生まれた、東十条病院の、この元料亭の何倍もある黒いカタマリが、人間のナンセンスな営みのように思えた。そこで、どれだけのクソマジメな「芝居」が行われていたかを想像すると笑わずにはいられない。いや、まだ、クソマジメな「芝居」を続けているのだ。

そして、東十条の安い居酒屋へ行って飲みましたとさ。10時までといいながら、11時過ぎまで。これが、現実なのだ。

しかし、幻想とわかっていても幻想せずにいられない、信じがたい愛だけど愛さずにはいられない、むなしく終わるのがわかっていても希望を持たずにはいられない、そんな人間という生き物だから、さまざまな悲喜劇が生まれるのだな。街は、幻想と現実がせめぎあうところ。「ラーメンのうまさ」について談義しながら、そんなことをチラチラ考えていた。ラーメン。

画像は、1月17日の撮影。まもなく午前5時半。

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2008/02/21

またまたモンティ・パイソン、須田×KERAほかインタビューも刺激的。

きょうはきょうとて。二日酔い? 仕事せっせ。のあいまに、またまた、すでに何度か書いている『空飛ぶモンティ・パイソン 第1シリーズ』(イースト・プレス)をパラパラパラ。もう激しく刺激的で、影響うけまくり。こまった、こまった。

空飛ぶモンティ・パイソン第1シリーズのシナリオ集なのだけど、後ろに、監修の須田泰成さんの「パイソニアン・インタビュー」ってのがあって、これがまたおもしろい。なんだか、須田さんが、なぜおれに目をつけたのか、そのココロが少し読めたような。

登場するパイソニアンは、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、松尾貴史、桑原茂一、吉田照幸、田口重雄。それぞれ、「年代的」特徴もあって、とくにバブル前、80年前半ごろの「空気」を思い出した。須田さん1968年生まれ、KERAさん1963年生まれ、松尾さん1960年生まれ、桑原さん1950年生まれ、……。松尾さんとは、昨年暮れの須田さんの忘年会で会った。KERAさんは、最近の映画「グミ・チョコレート・パイン」の監督だね。吉田さんは、NHKにも、こういうひとがいるんだ。田口さんは、須田さんと『空飛ぶモンティ・パイソン〝日本語吹替復活〟DVD BOX』(ソニー・ピクチャーズエンタテイメント)の日本語字幕版監修をしている。

このパイソニアンたち、「オタク」「マニア」とはちがう。パイソンもすごいけど、このひとたちもすごい。イヤハヤ。でも、きょうは時間に追われながら、アレコレ片付けなくてはならない。これで、おしまい。

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2008/02/20

dankaiパンチマクドナルド雲のうえ安全入船食堂。

午後3時というのに、まだナントナク酔っているかんじだ。自分の身体が放つ酒のにおいで、部屋のなかが酒くさいのが自分でもわかる。仕事の集中がすぐ切れるので、そのあいだに、一か月ほど前に送られてきた『dankaiパンチ』2月号をパラパラみる。いまどきのリッチの贅沢である「ミニマリズム」が特集だ。ユトリある連中が、ミニマリズムについて御託を並べている。

「ミニマリズム大国・デンマークに豊かさを学ぶ」に、コペンのマックが「静かなM」のタイトルで写真が載っている。そのコピーに「日本では、大阪万博で登場して以来、赤と黄色のカラーで全国を席巻したマクドナルド。だがここデンマークの「M」はひと味違う。コペンハーゲンいちの繁華街である歩行者天国にしてこの抑制の利いたデザイン」とある。

これ、おかしいよ。このコピー書いたひとは、おれのように北浦和あたりの田舎に住んでいるのかな。マクドナルドは、都心部から、「抑制の利いた」同じデザインに変わっているよ。大宮あたりでも変わっている。新宿の歌舞伎町あたりのマックだって、この「抑制の利いた」デザインだから、目立たなくて気づかないのかな。

ついでに、昨夏ごろ「クイックジャパン」からこちらに移った森山裕之さんが、dankaiパンチブログを書いている。…クリック地獄

ついでに思い出したので忘れないうちに。先日、祖師谷へ行ったとき、駅そばの赤い看板の牛丼チェーンのカウンターのなかを黒人(女)がやっていた。初めてみた。上は、さらに上をめざし、下は、さらに下をつくり、はてしなき泥沼、どんどん変わるのだなあ。

話題かわって。きのうあたりから、おなじリンクから2007/10/28「愚直に」へのアクセスがおおい。たどったら、「SWEET AIR-Dairy Report-」の2008年2月19日「地域に生きる人々の生活の息づかいを感じた朝」というエントリー。…クリック地獄

去る1月26日北九州市へ行き、泊まったホテルで『雲のうえ』5号をごらんになり、翌朝、ホテルから小倉へ向かう途中、門司の安全入船食堂で朝食を食べたことを書かれている。群馬の前橋の方だ。

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「めし大盛りにしとって!」
タイトルにそう書かれていたその冊子は北九州市が発行しているという情報誌「雲の上」。
重工業を中心として発展してきたこのエリアの「はたらく人たち」を長年に渡って支え続けてきた
古くからある大衆食堂を特集したこの冊子はドキュメントも写真も非常にインパクトがあるもので
ひとり酒を飲みながら、思わずその冊子に見入ってしまったほどであった。
誰もが行くような観光地をあまり好まず
地域に生きる人たちの生活の息づかいを感じることができるような場所に行くのが大好きな私にとって
そんな場所に興味が湧いて来ないはずもなく…
翌日の朝は競輪場に入る前にぜひここに掲載されている食堂に行って、せめてもの旅気分を味わってみることにしようと思い
この日は眠りに落ちることとしたのだった。
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安全入船食堂については、このように書いている。入り口のガラスに水滴がついている画像もあって、いかにも寒そう。夏の取材のときに、冬は朝の3時からの仕込みが、寒くて厳しいと言っていたあるじを思い出した。北九州は、裏日本=日本海側だから、しかも安全入船食堂は海のそばだから、冬の冷たい季節風にさらされる。でも、この文章から、あそこの雰囲気が生き生きと感じられ、すぐにもあるじ夫妻に会いに行きたくなった。
……………………………………………………
コンテナを加工して作ったようなその建物には一応ガラス戸が入れられていたのだが
水滴がついていて外からでは全く中の様子を窺い知ることはできない。
この手の店と言うのは入っていくのに結構勇気がいるものだが…
実際に中に入ってみるとそこは地元の人ばかりが集まる場所であったものの
なぜか溶け込みやすいような不思議な空気を持った空間が広がっていた。

朝定食300円。
この日はごはん+みそ汁にとろろ、ベーコンエッグ、漬物
そして九州特有の甘い醤油を使って煮込んだ煮物がついていた。
やってきた常連客とおぼしき人の中には「朝まで飲み明かしていた」と言っていた人もいたが
そんな人の胃にもやさしいメニュー。
食べ終わったあとは、厨房の入り口の手前にある棚に自分で食べ終わった食器を返しに行くのが
この店のローカルルールであるようだ。
地域の人の生活の息づかいを感じる食堂で地域の人が普通に食べている朝ごはんを食べて一日のスタートを切る朝。
わずか300円で、味だけでなく五感で門司という土地の空気を感じられるこの食堂は
もしかするとどこの観光地にも勝る最高の観光スポットなのかもしれない。
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待つわ。

「[書評]のメルマガ」2008.2.19発行、堀内恭さんの「入谷コピー文庫 しみじみ通信」は、「待つわ」のタイトルで、このようなことを書いている。

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 年末の紅白歌合戦を毎年観ている友達は、周囲にはあまりいないのですが、
僕は必ず観る方です。今回も視聴率はよくなかったようですが、昨年の紅白は
近年になくユニークで面白かったと思います。

(略)

 歌手の中では、中村中とあみんが印象的でした。友人のお兄さんがいいよと
ススメてくれていた話題の歌手・中村中は初めて聴いたのですが、背筋がぞっ
としました。一度でファンになりました。

 学生時代に耳がくさるほど街中でかかっていた、あみんの「待つわ」。その
歌が時を超えて、人生の皺を重ねた二人が歌うと、何とも味わい深いものでした

「待つわ」というタイトルも、情報社会で待つことの少なくなった人の心にこ
そ響きます。その「待つわ」ですが、この「入谷コピー文庫」でも創刊当時か
ら、実は3年間ずーっと待っている「待つわ」原稿があるのです。

そのタイトルだけでも紹介しましょう。
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ドキッとして、そのタイトルに、おれが待たせている原稿が含まれていないので、ホッとする。おれより前、創刊のときから待たせているひとがいたのだ。おれは一昨年夏の「現代日本料理「野菜炒め」考」以来だから、まだ待たせてよいようだ。「マカロニサラダ」考、そのつぎに「サバ味噌煮」考の「三部作」の予定なのだが、まったく手をつけてないとおなじ状態。すまんねえ。

それにしても、「「待つわ」というタイトルも、情報社会で待つことの少なくなった人の心にこそ響きます。」とは、いかにも堀内さんらしい感性だ。おれも反省して、いつまでも待つとしよう。

なにを待つかって、きまってるでしょ。待ってるよ~。おまけに今回の号のタイトルは、[ また会いましょう 号]だ。というわけだな。

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ついに、やはり、王子の福助閉店。

3zengoku京浜東北線の飲み屋の三婆といえば、王子の福助婆、リーベ婆、鶯谷のおせん婆だ。いずれも大正生まれ。80すぎて、店をやっている。が、ついに福助は閉店。しかたないだろう。85歳すぎて、腰がまがって、のれんをかけられなくなっても、やっていたのだから。

きのう。18時、王子駅で吸うさんと。串の介、三千石、さくら新道のリーベ。串の介のあと福助へ行ったが、閉まっていた。三千石は碁会所のようになっていた。リーベで婆から福助の閉店を知らされる。

泥酔記憶喪失ヨレヨレ帰宅。早朝書いている。気持悪くはないが、心地よい酔いが残っている。どんなに泥酔するほど呑んでも、もう数十年、たぶん30歳ぐらいが最後か、吐くことはない。しかし、いささか気が弱くなったようにおもう。そのほうがよいかもしれないが。未練とか、思い切りよく、捨てよう。どうせ、いつかは、なにもかもおわるのだ。

福助婆と会ったのは、いつが最後だったかな。あぐさん、よくやった。ありがとう。

ザ大衆食「柳小路の福助」…クリック地獄

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2008/02/19

おもいを抱いて書評のメルマガ「東京の味」。

010朝、書いている。「食の本つまみぐい」連載の「書評のメルマガ」が発行になった。今回は、「「古き良き」道楽者の時代の最後を飾る」のタイトルで、添田知道編『新訂 東京の味』保育社カラーブックス1968年を紹介している。

おれとしては、めずらしく、編著者である添田知道さんの「おもい」に添いながら書いている。文章の調子も、これまでと少しちがうはずだ。おれだって、こういうふうに書くこともある。この本は、しみじみよい本だ。何回読んでもよい。添田さんの東京に対するおもい、あたたかさがしみじみ伝わる。

こういうあたたかさやおもいは持ち続けたい。近頃の食べ歩き飲み歩き、あるいはレトロだの昭和だの東京の街歩きだのといったものには、それがない。流行を追いかけているだけだからだろう。流行を追いかけるにしても、ココロのおきかたというものがあってよいと思うのだが、そんなことは考えないのが、コンニチ的なのかもしれない。そういう流行、つまり消費主義的な流行の潮流は、この本の時代に始まる。添田さんは、それを見ながら、このおれのようにあからさまに非難することはなく、そっと舌打ちしながらも、あたたかく東京へのおもいをこめて見守る。その姿がまた、たまらなく、渋く、よい。ガイドブックなのだけど、東京の味を語り、そして東京の味を語ることで東京の街を語っている。

もう2月も下旬に突入。けっきょく、今月は、このままおわるか。まぼろしのような大悪魔へのおもいを抱き続けて。ってなことで。おもいは野に捨てず、抱えていることで、あたたかくなる。ようだ。

『新訂 東京の味』について書いた書評のメルマガは、こちら…クリック地獄
これまで掲載のぶんは、こちらから…クリック地獄

わがプロデュサー須田泰成さん監修の『空飛ぶモンティ・パイソン 第1シリーズ』(イースト・プレス)、ほんと、おもしろい。刺激的で、つぎつぎアイデアやヒントが湧くし。手から離せない。

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2008/02/18

こんなもんだろうか、チョイと練習。黒と白。

男A=この黒いコメなんですがね。

男B=どこが黒なんだ、白じゃないか。

男A=いえ、だから、この黒いコメなんですが。

男B=どこが黒いんだ、白じゃないか。このあいだの朝読新聞で有名な評論家の口出魔化瀬氏も書いていたじゃないか、このコメは白だって。ボクは、それを見てうれしかったよ。あのひとは芥直賞もとった作家だし、日本中のコメを食べたひとだよ、そのひとが、このコメは白だといっているんだよ。

男A=いえ、だから、このコメは黒だと思うんですが。

男B=なにを言っているんだキミは、フランスのマテドシランデュー高等シュエフ学院を優秀な成績で卒業して、朝読テレビのメイン評論番組のチーフキャスターをつとめるハッタリ肝臓氏が、朝読新聞に書いていたんだよ、このコメは白だって。

男A=はあ、でも、このコメは黒なんですよ。

男B=だから、ちがうんだ、きみは何もわかっていないんだな。いいか、神田神保町の本屋のすみからすみまで、いいか、本屋の本棚のすみからすみまでだぞ、ぜんぶ読んだことがある東亡大をトップの成績で卒業した、日本コメ料理一筋流家元第45代で藤原鎌足以来の藤原家の血をひくツヨガリ心臓氏、おまえだって知っているだろ、あの心臓の強い男が、明治大社の神前で皇居のほうを向いて、このコメは白だといった、という記事が朝読新聞にのっていたじゃないか。

男A=でも、このコメは黒ですよ、だいたいあなたは新聞ばかり見ていて、この現物を見てないじゃないですか。

男B=なにをいうんだ、新聞にそう書いてあるんだよ、おまえの目より新聞が正しいんだよ。そんなアタリマエのことがわからないのか。入学試験だって入社試験だって、新聞に書いてあることが正解なんだよ。だから、黒じゃなくて白なんだよ。

男A=その手にもっている新聞、さかさまですよ。

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雪のたより酒友やうらないのこと。

Img_0004いまは朝。きのうのことを書く。細かいことをいろいろ片付ける。その間にメールや電話あり。異動と卒業新入シーズン。北海道と大阪に転勤になる男から行く前の。大学院卒業、某社に入社の女から研修と続いて2年か3年ばかり地方勤務になるので、その前に。3年前に結婚した女、離婚した。などで会って呑もう話が連続。わかれの季節なのだなあ。それぞれ今月末から来月前半に会う予定をする。

来月発売の某誌からアンケートのメール。呑み代ぐらいくれるということなので回答を送る。そのなかに「どのような死に方が望ましいですか?」という質問があり、20年ほど前の占いを思い出す。よくあたるので評判の占い師がいた。見料がかなり高いのでも評判だった。その家族のめんどうを片付けてやったら、タダで占ってくれた。占いなんぞはマッタク信じないのだが、おれの二回目の離婚を、しかもまだ二回目の結婚が始まって間もないのに見立てたので、チト記憶に残っている。その占いによると、おれは60歳なかば以後に事故死ということになっている。もうその時期になっているわけだ。そのことを思い出して、アンケートに書いた。この占い師は、すでに亡くなっている。自分の寿命と死に方は、あたったのだろうか。

その20年前ごろから、ただ呑むだけのつきあいの祖師谷のエル宅で、夕方から呑み。18時からと思い込んで出かけたが、着いたら17時からだそうで、みな揃って始まっていた。考えたら、昨年の正月の呑み以来だ。エルだんなとヨシダとタロウ。いつもの顔ぶれ。料理誌編集の関係もあり料理得意のエルの料理をひさしぶりに食べ、サッカー日本対北朝鮮戦をチラチラ見ながらビール、赤ワイン、ポン酒、大いに飲む。以前は、ときどき、エルとエルだんなヨシダとおれでサッカー観戦に行った。しかし、この顔ぶれの呑み、まったく仕事など関係ないし、ふだんは会うこともないのに、よく続いている。23時すぎまで呑み、ヨシダ、タロウと退出。午前1時ごろ帰宅、祖師谷は遠い。

画像。エル宅へ行く前に、故郷のクボシュンさんからメールで送られてきた。こちら関東が晴れて北風が強いときは、あちらは雪のわけで、ここ数日いやになるほどよく雪が降っているそうだ。まったく、写真を見るだけでいやになる雪の降り方だ。以前は、こんなに雪が降るなかでも山に登っていた自分が信じられない。ましてや、若いときは登山などしていなかったのに、年とってからみながやるからと登山をし雪山へも行き遭難するひとがいるなんて、どうかしていると思う。

そうそう、ナンダロウさんからメールがあって、北九州へ行って、「雲のうえ」編集委員のトークショーの司会をし、帰りに門司で梅月のやきうどんを食べたそうだ。北九州へ行きたくなった。春になったら、盛岡へも行きたいな。旅心がうずく。

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2008/02/16

「酒とつまみ」編集発行人の大竹聡さんと呑みながらトークショー。

010銭湯で、裸でトークショーか。このブログでも勝手に応援しつづけている「わめぞ」だが、こんどは、なにが飛び出すか。おれも登場。しかも、あの大竹さんとトーク。って、大竹さんと酒場で呑んでいる場面を、人様の前で再現するだけじゃないか。恥をさらしながら生きる動物であります。


「第1回 月の湯古本まつり ~銭湯で古本浴~」

月の湯は昭和8年創業。木造破風造り建築で、浴場には富士山のペンキ絵、床は今ではめずらしい六角形のタイルを使ってある昔ながらのたたずまいの銭湯です。現在は週3日の営業。そんな定休日の銭湯をまるまるお借りして、古本市とトークショーを開催。カフェスペースもご用意いたします。

■日時
4月5日(土)11:00時~18時30分 雨天決行
■会場
月の湯 東京都文京区目白台3-15-7
http://www.bunny.co.jp/zousi/shop/04.7_15tukino.html
JR目白駅改札を出て左方向すぐの交番前信号を渡ったところに
あるバス停から、都バス「新宿駅西口」行き(白61系統)乗車、
5つめの「目白台三丁目」下車徒歩1分。

◎古本市(場所:女湯 風呂場、脱衣所)

■参加者
火星の庭(仙台)http://www.kaseinoniwa.com/
古書ほうろう(千駄木)http://www.yanesen.net/horo/
オヨヨ書林(根津)https://www.oyoyoshorin.jp/
古本オコリオヤジ(林哲夫)http://sumus.exblog.jp/
善行堂(山本善行)http://d.hatena.ne.jp/zenkoh/
ふしあな書店(扉野良人)
岡崎武志堂(岡崎武志)http://d.hatena.ne.jp/okatake/
古本けものみち(南陀楼綾繁)http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/
文壇高円寺(荻原魚雷)http://gyorai.blogspot.com/

▼わめぞオールスターズ
古書現世/立石書店/藤井書店/m.r.factory(武藤良子)/
旅猫雑貨店/リコシェ/ブックギャラリーポポタム/bukuぶっくす
退屈文庫/琉璃屋コレクション ほか

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◎トークショー(場所:男湯 風呂場)

■第1部 14:00~15:00
岡崎武志さん「坂を登れば文学がわかる」
「坂」が出てくる小説を通して岡崎武志さんが文学をわかりやすく
レクチャーします。 定員30名。

■第2部 16:00~17:00
大竹聡さん、遠藤哲夫さん「酒とつまみと男と男」
「酒とつまみ」編集発行人の大竹聡さんと、「大衆酒場の詩人」の
異名を持つ『汁かけめし快食学』(ちくま文庫)の著者である
遠藤哲夫さんの酒飲み話。公開飲み会です。 定員30名。

▼予約受付は3月1日(土)から。予約方法は「わめぞブログ」
にて改めて発表します。3月1~2日に開催の古書往来座外市でも
受付いたします。 http://d.hatena.ne.jp/wamezo/
入場料は銭湯と同じ、430円。
      
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◎カフェ(場所:男湯 脱衣所)

チキンライス 萬福亭(古書ほうろう)
焼き菓子 mws a point(ムーズアポワン・目白)
ソフトドリンク各種、ビール、酒類の販売もあり

●主催:わめぞ http://d.hatena.ne.jp/wamezo/


以上、よろしく~。銭湯だけど、風呂には入れません。裸で入場しないように。念のため。

わめぞボス男 古書現世のセドローくんのブログにも、詳しい「解説」が…クリック地獄


画像は、2008/02/02「エンテツの大衆食道とモンティ・パイソン。」に告知の須田泰成さん監修の『空飛ぶモンティ・パイソン 第1シリーズ』(イースト・プレス)。いよいよ発売。昨夜、寝る前に読んでいたら、おもしろくて眠れなくなった。一人で爆笑したり、クスッと笑ったり……。須田さんのまえがき、「コメディとはコモンズである」にもナットク。


今日は忙しいので、いずれも、詳しいことは明日以降に。おっと、明日も忙しいから、明後日以降だ。来週、昼間は、わりと自由になるんだが……。

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2008/02/15

「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い。

一言でいえば、「こういうことがあるんだ」と、感激おどろいた。

拙著『大衆食堂の研究』は1995年に出版されて10年以上たつ。例によって、おれの本は受けが悪く売れゆきが悪いこともあって、その後、レトロブームなどにのって出た受けのよい大衆食堂の本のかげに埋もれてしまった感じだ。知る人も少ないだろう。ところが、こんなアンバイに使われている。うれしい。

「宮沢賢治の詩の世界」というブログがある。おれは不勉強なので、どなたのブログか見当がつかないのだが、かなり緻密な考証をする研究者の印象だ。もしかすると高名の方かもしれない。でも、遠慮なく書かせてもらうけど。

そのブログに、

2008年2月 8日 「公衆食堂(須田町)」について(1)
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/02/1_37.htm
2008年2月10日 大正期東京市の「公衆食堂」
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/02/post_525.htm
2008年2月14日 「公衆食堂(須田町)」について(2)
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/02/2_40.htm

という3回連続のエントリーがある。

宮沢賢治の「「東京」ノート」に記されていた、「公衆食堂(須田町)」と題された作品について、その舞台となった「公衆食堂(須田町)」はどこか、気になって調べて書いている。それは詩の解釈にもかかわることなのだな。

なるほど、詩の研究は、そこまでやるのかという感じで、大変おもしろい。

そこに『大衆食堂の研究』が登場する。

おれは、タブン、控えめな人間なので、あまり自慢話はしないのだが、この『大衆食堂の研究』の調べは、かなりキチンとやっている。とくに歴史的根拠については、かなりしつこく資料にあたり、自信を持って書いている。それは、『汁かけめし快食學』も、そうなんだけど、食べれば消えてしまう食の歴史は、論理的な根拠が大事だからね。それに、ものを書く上で、誠実な調べは、基本だろうと思う。

ところが、食文化本の世界というのは、論理的な根拠など、一番いいかげんなのだ。ハッタリの文章表現で決まるのだな。気どっているだけで内容のないブンガク的食文化本が横行している。で、おれは、そういうおかしな現象をあざわらうように、確かな内容の外側を、軽薄猥雑下品でオヒョヒョな表現の衣で仕上げている。で、なんどか書いたが、自分の書棚に置くのもケガラワシイと怒って、本を送り返してきたひともいるぐらいだ。いや、ま、怒る気持もわからんではないが、チト潔癖すぎる。大衆食堂の本を読むのなら、もっと大らかなんでもありの大衆食堂に見習ってほしい。

しかし、そういうひとばかりではないのだな。しかも、このように念入りに利用されている。おれは、トウゼン、こういう方こそ、真に本を読む力がある方であると思う。

近頃は、本の作りだの表現だの細かい技巧にはしり、それもコギレイならよく、なにか書くことについてカンジンなところがおかしくなっている。ま、リアリティについて、思考理解不能に陥っているのだな。実態や現実に対してインポなのだ。実態や現実はテキトウにして、本の中のオシャベリだけ。いま「活躍」の「評論家」たちをみれば、よくわかる。

それはともかく、『大衆食堂の研究』では、大衆食堂の歴史を考えるうえで、ゼッタイはずせないだろうと思われる資料を、いくつかあげ引用している。「宮沢賢治の詩の世界」の筆者は、おどろいたことに、おそらく国会図書館でだろう、その資料の原本のコピーまで入手されている。その画像も載っている。

ものを書く上で、誠実な調べは、基本だろうと思うが、そのように誠実なシゴトをするひとは、なかなか学者研究者でも少なくなっていると思う。ほんと、おどろいた。って、感激おどろいたってこと。いいかげんな食文化本、カレーライス伝来説の歴史なんか書いている、学者研究者はツメの垢を直接たべてほしい。

食文化本なんか、ヒドイものだ。「元祖」だ「本家」だのといったハッタリ言い回しでごまかしていることが多い。言葉そのものからして、イイカゲン。でも、なぜか、こういう言葉を使うとよろこばれて信用され、おれのような書き方は信用されないんだよね。近頃は、イイカゲンが好きな連中が、本を買うんだな。

『大衆食堂の研究』を書いたころは、おれなんかまだインターネットも知らなかった。やっとパソコン通信の時代か? コツコツ図書館で調べ、根拠となりうる資料を求めて、最後にたどりついたのが、日比谷にある東京市政調査会の図書館だった。あまり利用者がいなくて閑散としているそこへ、何日も通った。ただ昔からの資料を保管してあるだけという感じで、レファレンスのサービスなどなく、山のようにある図書カードを見ながら、カンで資料を探し出さなくてはならなかった。しかも、コピーサービスもなく、資料の持ち出しもできないから、手書きで写さなくてはならない。

もちろん国会図書館へ行くことも考えたが、あそこじゃ、なにか最初に手がかりがあれば別だが、こういうふうに図書カードをかきまわすように調べられないし、第一、待たされてかなわない。これらの資料は、戦前は飲食店を管轄していた警視庁の資料からあたってみれば、何か分かるだろうと思って、手探りでたどりついたのだ。

それらが、少しはお役に立ったらしい。

おもしろいのは、「公衆食堂(須田町)」は、どこかということだ。

聚楽の前身である須田町食堂という説があるらしのだが、このブログの筆者は、それに疑問を持って調べている。そして、須田町食堂説については、「公衆食堂(須田町)」に書かれた詩の雰囲気ではない、「総体として私が感じるのは、これは現代に移し変えてみると、「大衆食堂」というよりも「ファミリーレストラン」に近い存在だったのではないか」と述べている。それを、その宮沢賢治の詩との関係からも、結論しているのだな。

であるから、その舞台は、須田町食堂ではなく、須田町周辺の公衆食堂あろうと。この論考の過程が、とてもおもしろく、そこでわが『大衆食堂の研究』も活躍なのだ。拍手、拍手、拍手。

須田町食堂に関する筆者の考えは、おれとほぼ同じだ。当ブログのどこかでも、そのことについてふれているし、下記の関連のリンクでも、少しふれている。

須田町食堂は、神谷バーやヤマニバーなど、明治の西洋料理店の廉価化が、大正期に勃興するサラリーマン中産階級に広がる流れのものだとおれは考えている。戦前の階級社会を考慮入れたら、それが大衆の日常の食事の場として「大衆食堂化」するのは戦後になってからだろう。その根拠は、ほかにもいくつかあるが、そのうち大衆食堂の本を出版する機会が、もしあったら、詳しくふれるとしよう。

聚楽の前身である須田町食堂といえば、おれの本よりはるかに売れているらしい大衆食堂の本では、大衆食堂の「元祖」ということになっているが、それはかなり、おかしいんじゃないの、疑問符。資料をちゃんと調べたの、といいたい。だいたい歴史の方法としても疑問符だよ。という感じのものだ。

いまのところ、資料を厳密に検討すれば、そういうことになるだろうと思う。宮沢賢治の詩が、さらに文学的にリアルに、それを裏付けている。素晴らしい。

ひとを見かけでしか判断しないように、本の内容を表現の上っ面でしか判断できないオリコウさんたちは、よく考えて欲しいね。おれって、見かけは悪いけど、中味はイイ男なんだよね。おれの本もおなじ。いまの消費主義の世の中、外観に誤魔化されてはいけないよ。うふふふふふ……。

でも、女には蹴られっぱなし、チョコは一個もなく、チョコなんざ欲しくはないが、同居のツマに「バレンタイン・デーなのに女から誘いがないの」とバカにされたのがグヤジイィィィィィ始末だった。上っ面の華やかさを横目に見ながら、老兵は、ふふん、酒呑みながら去り行くのみ。賢治さ~~ん。

宮沢賢治の、この詩の舞台は、「大衆食堂」の呼称が生まれようとしていた時代だ。

関連
ザ大衆食「上野駅前 上野百貨店の聚楽台と西郷丼」…クリック地獄
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小麦値上げのジレンマ。

先日も書いたが、最近の食品の値上げの激しさは、ここ数十年なかったことだ。30数年ほどまえのそれは、まだ経済が虚像にせよインフレ右肩上がりの成長だったが、今回は、「失われた10年」どころか不況からの脱出口は見えていない中でのことで、その影響の予測はつきにくい。

しかも、政府はまたもや、小麦価格を30%値上げするようだ。一挙に3割だ。この値上げ幅の大きさは、昨年2度にわたる値上げのあとのことだけに、どう取り繕っても取り繕いようがない経済破綻の広がりを感じる。

「食生活を支えているものは、(1)栄養、(2)嗜好、(3)経済である」(2005/02/01「社会を考えられなくなった末の栄養、グルメ談義」参照)とする理論にもとづくなら、その「経済」の大きな変動であり、食生活の動向になんらかの影響をおよぼすことになる。

一部では、すでに「生活防衛的」自炊の拡大、つまり外食の切り詰めがみられるらしい。また「コメ回帰」の現象も、たぶんに期待的観測のように思うが、あるらしい。

この小麦価格は、以前からいわれていたことだけど、大変な矛盾を含んでいる。下記の読売の記事は、サラリと「政府は市場価格に、国内農家への補助金の財源分などを上乗せして、製粉会社に売り渡す」と書いているが、つまりある種の「統制経済」であり、その矛盾は、もし小麦値上げの影響が小麦製品の消費の縮小へむかうと、「国内農家への補助金の財源分」への影響まで懸念されるジレンマな構造だ。もちろん、小麦製品の値上げで、需要がコメに傾けば、米作への補助金の財源の軽減がはかられるかもしれず、そこで吸収バランスされる、という考えも成り立つだろう。

でも、それほど、コメにとってシアワセな事態でもないのだ。食品販売の現場からすれば、コメの販売価格は、もう限度ギリギリ、前にも書いたように一部では「クズ米」が炊飯用に売られている事態だ。食費トータルの膨らみはありえないなかでの、財布のうばいあいが激化している。

すでに「新値ごろ感づくり」なる言葉もうまれ、コスト高への対応がすすんでいる。「新値ごろ感」は、あからさまな言い方をすれば、値上げしても「お得感」の演出でカバーしたり、売価をすえおいて材料の変更や削減で利益確保をしても消費者にはマイナスを感じさせないナミダグマシイ演出など、ある種の新たな「虚構」づくりだ。

いずれにせよ、のんきな緊張感のないリッチと、イライラな展望のないプアのみぞを埋めていた、大衆的な「グルメ」は、そろそろ限界をむかえるだろう。平和でモノはあふれているのに買えない、多数を占める貧乏人たちは、どこへ向かい、どんなマーケットが生まれるのだろうか。

大衆的な「グルメ」マーケットは、「グルメ」というが、たぶんに食料価格の動向が背景にあってのことで、「嗜好」のことより実態は「経済」だった。となれば、ますます、コスト高を吸収しやすい経営力やチェーン店を舞台にした「グルメ」になるだろうと想像がつく。さあ、「グルメ評論家」たち、さらに経営力やチェーン力にむらがれ。ま、ラーメンだうどんだといっても、政府から小麦を購入する大会社の力によるもので、彼らの販売促進の手のひらで遊ばせてもらっているにすぎなかったのだ。

しかし、農水省って、ほんと、いらないな。…2008/01/23「農水省がなくなればよくなる。」

輸入小麦価格30%値上げ方針、パン・めん類に波及か
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20080215-OYT1T00091.htm?from=top
 農林水産省は14日、政府が製粉会社に売り渡す輸入小麦の価格を、4月から現在より30%引き上げる方針を固めた。

 自民党の了承を得たうえ、15日に正式決定する。世界的な小麦価格の高騰に伴い、値上げ幅としては、農水省に記録がある1970年以降、73年12月の35%に次ぐ2番目の水準になる。

 小麦の売り渡し価格は、2007年4月、10月にも値上げされた。パンやめん類など小麦粉を主な原料に使う食品メーカーは昨年末以降、製品値上げに踏み切っているが、再値上げの可能性が高くなった。

 日本は小麦需要量の約9割を輸入小麦に依存している。政府がほぼ全量を輸入している。政府は市場価格に、国内農家への補助金の財源分などを上乗せして、製粉会社に売り渡す。今回の値上げは、価格を算定する対象期間(07年6月~08年1月)に、海外の小麦相場が約60%上昇したことを反映した。

 この間、政府が輸入した小麦(主要5銘柄)の価格の加重平均をもとに価格を算定すると、4月からの売り渡し価格は40%弱値上げされる計算だが、農水省は、影響を緩和するため値上げ幅を30%に抑える。

(2008年2月15日03時01分 読売新聞)

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2008/02/14

いい酒いい店って? ゴキゲンが大事。

某誌の編集者と仕事の件でメールのやりとりをしながら、ついでに、こんなムダ話をした。

編集者…………………………………………

こんにちは。また飲みましょう。安くてまずい店なんて遠藤さんと以外いけませんね。池袋北口からまっすぐ行った(エロ映画の15メートルぐらい先だったと思います)酒屋みたいな立ち飲み屋知ってますか? トイレからションベンのにおいがぷんぷんして店のアンちゃんも普通でなく無愛想で客もおかしい。あんなにまずい酒はあまり記憶にありません。ウーロンハイもめちゃくちゃ濃い。もちろん清●の日本酒もまずいですが、世界が違います。遠藤さんはたまにはうまい酒を飲んでいるのですか?

おれの返信……………………………………

池袋の、その立ち飲み知りませんね。そのあたり、ときどき行くけど、あるのも知らなかった。こんど行きましょう。

> 遠藤さんはたまにはうまい酒を飲んでいるのですか?

それはもう、このばあいの「うまい酒」って、高いよい酒ということでしょうが、清酒でもワインでもウイスキーでも、おれは嫌でも向こうから近づいてきますからね。イヤイヤ呑むわけです。とくに外酒のばあいは、高いよい酒を飲ませる店というのは、だいたい店の雰囲気が、肌にあわないですね。酒はよくても、ゴキゲンになれない。ゴキゲンになれなければ、酒呑んだことにならない。

編集者…………………………………………

いい飲み屋ってなんですかね。まずい飲み屋はめったにない分、記憶に残りのちのち楽しい記憶に熟成したりしますし、笑いながら名店に認定でしたりしますね。
私はもともとつまみは何もなくて大丈夫なので、つまみのうまい店なんて興味ありません。
寒い店は行きたくない、醤油差しやブルドックソースがべとべとになってるような店は嫌ですね。
頭悪い店主と話すのも優越感に浸れていいわけですし、そもそも飲み屋のオヤジに知性なんてもとめていない
自分が不快な思いさえしなければだいたいいい店です。

今度安い店で議論しましょう。

…………………………………………

こういうムダな会話をやりながらできる仕事は楽しい。たいがい、よい仕事ができる。なので、考えてみた。

飲食で大事なのは、ゴキゲンになれるかどうかだと思う。

2008/02/08「肉で盛岡の肉を思い出す。」に書いた『ミーツ・リージョナル』2月号肉特集だが、編集肉姫様が編集前記のタイトルで「すべての肉はゴキゲンに続く…」といったワケは、その本文にある。

つまり彼女が取材で訪れた焼肉屋で、「「肉は切り方も大事なんですよね」という私に「そんな薀蓄なんてゴキゲンの前では何の意味も持たへんねや」とお母さんから〝肉パンチ〟をズドンと食らわされた。/ どんな美味しい肉も、その場にゴキゲンがなければ2度目はない。」

飲食の本質ではないだろうかと思う。

関係ないかも知れないが。たくさんの飲食店を食べ飲み歩くほど、2つの対極にむかって、言うことがわかれるようだ。

一つは、これが一番おおいように見受けられるが、おれはたくさん食べ歩いているから、いい店うまい店を知っているゾ、あそこが聖地だ、ここが一番だ、ここを知らなきゃバカだクソだ……とのたまう。もう一つの対極は、あまり見かけないが、あそこにはこれがある、こっちにはこれがある、おれはこんなに知っているぞという感じで、序列はつけずに、それぞれについて能書きを開陳する。

もちろん、この両方をやるひともいるし、まったくちがう軸もあるのだけど、よく見受けられるこれらは、どちらも一つのことの表裏だ。つまり、おれはたくさん食べ飲み歩いているということを「正しさ」の根拠や権威にして、述べている。

本質を考えていない点は共通する。本質と向かい合うには、アイデンティティが必要だ。

日経朝日読売の「三強」が恥じも外聞もなく手を組んで始めた「新s あらたにす」に08年02月11日の「編集局から」の読売の欄には、「最近のミシュラン騒ぎもそうでしたが、日本人はランキングが大好き。文化面の企画「平成を歩く」は今回、この現象を考えてみました」とある。

「日本人はランキングが大好き」とのことだが、ランキングというよりは序列が好きで優劣感が強い、という感じではないかと思う。その結果がランキングになる。

自分と同じ人間はいない、自分は1人しかいない日本の人口1億数千分の1人であると、想像するだけで不安になる。地球上に数十億人いても、みなちがうのだというところから想像をスタートできない。みなと何か共通するところからスタートしようとする。「単一民族幻想」と似ている。

ある種のグルーピングとランキングのなかにおさまっていないと不安である。うまいもの好きというグルーピング、あるいはラーメン好きとか、おでん好きとか、下町酒場、立ち飲み、大衆食堂まで……。そのなかの自分は何軒知る人間であるとか、「聖地」を知る人間であるとか、「正統」を知る人間であるとか、そういう自己認識の方法なのだ。そしてアイデンティティが不在のゆえに、情報にヨワイ。とりわけ流行の「グルメ」には、そういう傾向の人たちが群がりやすいようだ。

自分がゴキゲンならいいんだよとか、自分がどうゴキゲンになれるかだよとか、さきのお母さんのように「そんな薀蓄なんてゴキゲンの前では何の意味も持たへんねや」と、なかなか言い切れないし、そこから、なかなかスタートできない。

いい店ってなんであるか。こんど安い店で議論しましょう。

ところで、この「持たへんねや」だが、これを文節にして一括変換できない。関西のひとが使うワープロソフトは、どうなっているのだろうか。肉姫様、こんど焼肉くいながら教えてください。

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2008/02/13

おれには春はないが、とにかく春が来るらしい。檻の中の女性客の周りを猛獣が。

あまり楽しくない気分の日である。冷たい風も吹いている。だけど、大家の庭の梅の花が咲いた。2008/02/03「酒がない」に掲載の、雪をかむった梅だ。毎年このあたりで一番はやく咲く。夕刻の薄日のなかで撮影。

Ume

山崎邦紀さんのブログを見たら、「檻の中の女性客の周りを猛獣が~大宮オークラ特集上映」のタイトルで、先日のピンク映画と呑み会の、詳細な報告をしている。あらためて、ズイブンおもしろいことがあり、ズイブンいろいろなひとが来ていたのだなあと思う。画像も何枚かあり、おれがきわめてゴキゲンな顔で写っている。しかも2枚のうち1枚は単独で、なかなかよいゴキゲン顔だ。この写真をみると、ゴキゲンではあるけど泥酔の様子ではない。ところが、まったく記憶がない。でも、おれなのだ。不思議な気分だ。ほかにも、なんと、飲み人の会の野暮ったい独身男2人が、ちゃんと若い女優と写っているではないか。こいつら抜け目のないやつだ。いや、ま、30そこそこなのだから、それぐらいはふつうだろう。画像だけでもオモシロイからご覧あれ。…クリック地獄

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仕事と消費と愛と幻想。

ここ数日、2007/06/07「恋と料理」への検索によるアクセスが増えている。バレンタインの関係だろうと推測される。

『昭和・平成家庭史年表』河出書房新社をひらくと、昭和33年(1958)の2月14日に、「メリーチョコレート、東京・新宿の伊勢丹でバレンタイン用チョコを初めて発売。1枚170~200円」とある。そして昭和48年(1973)の同日には「バレンタインデーのチョコレート騒ぎが過熱気味で問題となる」、昭和54年(1979)1月には「サントリー、バレンタインデー用ギフトに洋酒のミニボトルを発売」。

2008/02/11「トラブルトラブルよく壊れるなかで書評のメルマガは「東京の味」。」に書いたように、1967年発行の『東京いい店うまい店』文藝春秋、1968年の『新訂 東京の味』保育社カラーブックス、同じ保育社カラーブックスから1973年『続 東京の味』のあいだには消費主義の台頭がみてとれる。それは、この年表の昭和48年(1973)の記述とも重なる。消費主義がもたらす加熱。

この時期は、まだ台頭期で、流行に敏感な都会の若者たちを中心にした現象だったといえる。そして、あくまでもチョコレート市場のことだった。それが、若者とチョコレートをこえる風俗になったのが、昭和54年(1979)ごろ。こうして消費主義は、「愛」を、ほぼ完全に手中におさめた。

いまや消費主義は、モノからサービス、さらに、この「恋と料理」へのアクセスでもわかるように、情報の消費へと拡大した。とくに大都会では、消費主義は、もはや空気のようなものだ。「生活」と「消費」の区別すらつかなくなっている。

生活と消費の関係は混迷を深めている。マスコミ利用においてはタレント能力がありそうだが、あまりオリコウとは思えない大阪府知事は、新聞報道によれば、このように発言している。

「会見で橋下知事は「生活に直接影響するものは計上する」としながらも「一部事業が継続できないこともあり得る」と断言。「府民にも一定の迷惑を掛けるが、大改革のためには必要なプロセスだ」と理解を求めた。」

「職員へのあいさつで「大阪は破産状態」と強調。「破産会社の従業員」と認識し、行財政改革に全力を挙げるよう指示した。」

地方自治体は、消費を対象としている会社とはちがう。行政は生活を対象としている、ということが正確に認識されていないことがわかる。そこには、もっと困ったことに、税金は生活のためにつかうものだという意識はなく、行政サイドの「おれの税金」という意識が見え隠れしている。役人が「おれの予算」というのと同じだ。

自治体の収入は、職員のサービスによる売上げではない。人びとの義務として課した税収によるものであり、それは人びとの生活のためにつかわれるのが当然なのだという、ごく基本的なことすら理解していないように思える。

自治体に会社の論理を持ち込むのなら、まず人びとの生活のために何をして、その対価としての税金をどう得るかという論理でなくてはおかしい。収入は自治体の論理、支出は会社の論理というつかいわけは、いかにも無能なものが場当たり的に振り回す、ご都合主義だ。

会社は、モノやサービスを売って売上げを得る、それは会社のカネだ。ワンマン社長が、それを「おれのカネだ」といって支出を決める例はあるけど、それでもそれなりの会社経営の「公益性」のルールにしたがわなくてはならない。ましてや自治体ではないか。

だけど、そのちがいは、「生活」と「消費」の区別がつかなくなった人びとのあいだでも混乱しているようでもある。

「仕事」と「消費」が「生活」になってしまった、大都会の「消費社会」。

「消費主義とは」についても、いろいろ議論のあるところだが、とりあえず「消費が自己目的化された消費」という大まかな理解でよいだろう。

つまり、みなが買うものは買っておく、みなが行くところは行っておく、アレも持っているコレも持っている、あそこも行ったここも行った、アレも知っているコレも知っている、この本も読んだあの本も読んだ、あれも食べたことがあるこれも食べたことがある……などを目的とし、時間やカネを消費する。

宮台真司さんは、かつてブログで、「「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」しかないという思い込みをやめよ」を掲載している(2005-03-27)。

いささか学者的な強引な単純化と、最後に「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」がもたらす不幸の解決には、「生活世界に固執する意欲のみならず、システム全体を観察して塩梅する周到なエリートが必要になります」と、けっきょく、新しいタイプのエリートに頼らざるを得ないと説くあたりがカナシイが、仕事主義と消費主義の関係は、それなりにわかる。

「消費での自己実現」しかなくなった、華やかな消費主義のどんづまり。生活ではなくなった食、近年の食べ歩き飲み歩きブームの姿でもある。

仕事の能力と消費の能力だけで、人間や人間関係を評価する考え。仕事