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2008/03/09

「グルメ」と80年代を読む。

Hon_otaku近頃アレコレ書いていることは、80年代の消費主義の台頭というか台風にかかわる。こんにち、「グルメ」ではないものがグルメといわれ、消費にすぎないことが生活のように語られ、マーケティングや市場や商圏にすぎないことが社会や町や街として語られる。そういうユガミあるいは錯覚は、その時代あたりから濃厚になってきた。

で、このブログを読んでいる知人から、それならこの本を読んでみたらというオススメがあった。『「おたく」の精神史 1980年代論』大塚英志、講談社現代新書だ。さっそく買って、読んでいる。

読むのが大変な本だ。というのも、これ著者の「個人史」のようなもので、それはよいのだが、わが日本的私小説の悪いところをかき集めたような書き方で、そういうのがダイキライなおれには、とても読みにくい。でも、「おたく」(のちの「オタク」とはちがう)としての著者の80年代の体験が語られていて、大変おもしろい。

まだ読み終わらないうちに、関連する本を探し出して、めくっているから、余計すすまない。おかげで忘れていた本を思い出して探し出した。こんな本は、もう捨てようかと思っていたのに、捨てなくてよかった。ほんとは、あと2冊か3冊あるはずだが、見つからない。

博報堂生活総合研究所著・発行の生活予報
'88-'89『ほのじかけ 時代は艶へ』(88年1月)、
'89-'90『感動ホルモン 飽和社会の新活力』(89年1月)、
'90年代生活予報1『社会性消費 ひろがる社会 かかわる社会』(90年1月)。

当時、仕事のクライアントの関係で、日本マーケティング協会で毎年開催される、博報堂生活総合研究所の生活予報発表会のようなものに、3年連続で参加した。本は1冊5千円だし、会員企業でも高い参加費をとられる。正確にいえば、あまりにばかばかしい内容なので、最後の年は部下のマーケティングなんか関心のないアニメキャラ風ブリッコの女のコを行かせて資料だけ手に入れた。

その協会もそうだし、その発表会に集まるメンバーも、メジャーな新聞や雑誌、広告代理店、そして大企業の広告宣伝担当で、ようするに主要な「仕掛け」側の、高学歴高偏差値のひとたちだ。

生活に消費的意味づけを与え、社会や町や街にマーケティング的市場的商圏的意味づけを与えながら、人びとのあらゆる営みを産業と消費にとりこもうという「頭脳」の集まりなのだ。

これらの資料を見ると、当時それがどう行われたか、どう行われようとしていたかを思い出す。この発表会で、いちばんおもしろかったのは、最初の『ほのじかけ 時代は艶へ』のときだった。

その序は、つぎのように始まる。

いま、時代は、艶へと向かっている。
色気。味わい。品。魅力。粋。ときめき。
社会が熟していくとき、つねに浮上するのが、艶だ。
九十年代を間近にして、日本は、その段階に到達した。

…と、このときは、まだバブルまっさかりの87年の末だったはずだが、企業側の担当者と博報堂側と、かなり激しい議論になった。ま、議論というか、なんといっても企業は広告代理店のスポンサー様であるから、企業側担当者から、かなりクレームがついたのだな。ちょっと現実の把握が足りないのではないか、なにを浮ついたことをいっているんだ、こんなアマイことをいってビジネスになると思っているのか、といったような意見が続出したのだった。メディアあんど広告代理店と、企業側の「ギャップ」がクッキリ出た。

ま、それら、詳しいことは、のちのちぼちぼちふれることにして、きょうのネットに、「尚子すべての人に勇気与える走りを」という見出しのニュースがあった。記事を見ると、マラソンの高橋尚子が、「私の走りを見て、生活の中で“頑張るぞ”って思いを持ってもらえるようなレースをしたい」と言ったことが、このように表現されたらしい。

3月9日7時8分配信 スポーツニッポン
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080309-00000042-spn-spo

マラソンが、競技をこえてドラマチックに脚色され、なにか生きる生活に意味ありげに位置づいていく。それは、マラソン自体の変質でもあるし、生活の変質でもある。「いま、時代は、艶へと向かっている。/色気。味わい。品。魅力。粋。ときめき。」、マラソンですら、そうなっているではないか。博報堂、ばかではなかったのだなあ。

「生きる勇気を与える」「生きる勇気をいただく」といった関係は、この80年代につくられた。何軒食べ歩いても飲み歩いても、そのこと自体には意味はないのに、さもさも意味があるかのように意味が与えられたのも、「一億総グルメ」が流行語になる、おなじ時代だ。それは、実体験ではなく、メディア体験によって与えられた。このマラソンのように。

そして人びとは、誰かに、何かをいただきながら(「いのち」まで!もちろんカネを払って!)、生きる動物になったのだな。テレビも新聞も見なければ、マラソンはマラソンであり、そんなものから勇気を与えてもらうことはない。ほんとうは、生活そのものに、生きる源、勇気の源がある。

そんなことを考えながら、安ワインなんぞを呑みながら、読みにくい『「おたく」の精神史 1980年代論』を読んでいます。あなたは、どうしてますか。

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