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2008/07/20

「郷愁」とはなんじゃ。ヘタで珍しい揮毫をどうぞ。

けっきょく、あとであとでと過ぎてゆく。まさか、このまま終わることはねえだろうと、タカをくくっていると、このまま終わることもある。彼女とおれの関係は、そうあってほしくはないのだが、書かないでいれば、なんだか書くのも調子がのらず、いたずらに、でもないが、何かに忙殺され時はすぎる。

と、いうわけで、彼女とおれの関係ではなく、2008/07/17「ふるさとひと、ジャーナル。俺が住んでいた家は消滅した。」の続きが、なかなか書けないでいるうちに、いまさら続きを書くのもなあ、という気分に傾斜している。でも、たぶん、そのうちに書くだろう。

「俺が住んでいた家は消滅した。」とタイトルに入れたのは、2008/07/15「早朝、故郷から電話。新潟日報の記事。」に書いた、その朝、故郷の同級生のクボシュンさんが教えてくれたのは、おれの記事が大きく載っているということだけではなく、おれが小学校6年生ごろから高校を卒業するまで住んでいて、20歳のころ差し押さえられ競売にかけられ人手に渡ったが、でもそのままつい最近まで残っていた家が、横を流れる川の改修工事のため、あとかたもなく取り壊されたということだった。その前、生まれてから10歳ぐらいまで、父が稼業に失敗し父母が離婚するまで住んでいた家は、とうの昔に人手に渡り、あとかたもない。

ちょうど、新潟日報の記事には、「思い出のスクリーン」というコーナーがあって、2008/07/17の画像を見てもらえばわかるが、左上に写真が一枚ある。これは、記者に聞かれ、即座に「坂戸山」と答えた、その山の写真だ。この写真を見て、クボシュンさんの知らせを思い出し、ひともひとがつくったものも消えるが、山や川は残るのだなあと思ったことであるよ。

坂戸山のことは、ザ大衆食のサイトをつくった早い時期に書いている。当時は、わりと好評で、ほかに掲示板などで紹介され、けっこう読まれた。2001年12月1日の掲載になっているが、これは、その11月に新潟日報から一年間週一回の連載の打診があり、越後湯沢で担当の記者と会って打ち合わせしたあと、ひさしぶりに六日町に立ち寄ったとき、思い出したことを書いた。

ザ大衆食「坂戸山」…クリック地獄
新潟日報02年1月7日から03年2月10日まで連載「食べればしみじみ故郷」…クリック地獄

先日届いた、「dankaiパンチ」8月号の特集は「スタジオジブリ大研究」で、こう、これでもか!というぐらい「郷愁」攻めだ。7、8割は、郷愁の押し売りのように見えるが、仔細に見ると、かならずしもそうではない。そのへん、近頃の編集は「巧妙」というか「ズルイ」というか「したたか」というか。

メイン記事は、浅羽通明さんが「宮崎駿、郷愁の秘密」を書いている。つまりは「評論家浅羽流」で宮崎駿さんの「郷愁」を解剖している。ちょっと、なんだなあ、読者サービスと「論」と、ちぐはぐ無理があるなあと思いながら、でも、「郷愁とは何か」について、「懐かしさ」について、それなりに解剖してみせてくれていて、「読みごたえがある」とはいえないが、考えるヒントにはなっておもしろい。とくに、別の記事「高畑勲が昭和を描く理由」というのがあって、それと合わせてみると、なかなか考えさせられる。

高畑さんの記事は、サブの見出しに「過去を振り返ることを快感にはしたくない」という本人の言葉があり、記事中でも本人は、「『三丁目の夕日』なんて映画を、あの時代を生々しく生きてきた世代が、涙眼で観てるなんてのは不思議で仕方ない」と語っている。

そりゃそうと、2008/07/17「ふるさとひと、ジャーナル。俺が住んでいた家は消滅した。」にも書いたように、その記事にも、大見出しには、「郷愁」という言葉が使われているが、これはたぶん新聞社の「慣例」あるいは「職務分担」で、整理部がつけたものだろう。見出しは、やはり読者を意識して、そのようにベタなものになる。が、内容は、ジャーナルな姿勢がつらぬかれていて、淡々というか、伝えるべきことを正確に伝えようという文章であり、「郷愁」を煽るような書き方ではない。

この記事の最後は、このように終わる。この終わり方、おれは、とても気に入っている。

「故郷を離れて四十年以上がたつ。故郷を思い出す普通の味はと尋ねると、遠藤さんは「大崎菜、木の芽…」と指を折った後に、「あ、ジャムとマーガリンを塗った食パン」と笑った。高校時代によく、学校近くのパン屋で食べた味だと言う。「別に特産でもないのにね。でも、たまに無性に食いたくなるんだよな」

過去の定型的な「郷愁」「ふるさと」「懐かしさ」ベタベタならば、この文章は、「遠藤さんは「大崎菜、木の芽…」と指を折った」というあたりで終わるだろう。そこが、そうではない。

これらのことから、いくつか考えたことがあるが、それはそのうちに、書くかどうか。

Happo_isiharaおっと、タイトルに書いて忘れるところだった。先日、古墳部の旅の帰り一人で白馬に寄ったとき、めずらしい石碑の写真を撮ってきた。この石碑がここにあるのは、前から知っていたのだが、なにがめずらしいって、石原慎太郎さんの揮毫だ。このひとは、何かに書いてあったが、「書」がヘタなのを自覚していて、なかなか揮毫などを寄せないのだそうだ。しかし、このときは、環境大臣ということもあって、逃げ切れなかったらしい。この石碑は、八方の通りを普通に歩いていても目にとまらない、しかし「公共的」な場所である、かなり微妙な場所に立っている。イチオウ背後に、白馬三山が鎮座しているのではあるけど。

この書、「ヘタ」というより、いや、おれは書の見方や性格判断など興味はないのだが、なんだか未熟な狭量な性格を表しているようで、かわいらしい印象を受けた。政治家は書じゃない、気にするな。なんちゃって。

ああ、郷愁。

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