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2008/10/17

あいでんてぃてぃな30代の終わりのない結末。

選ぶということは捨てるということであり、捨てるということは選ぶことであり、捨てないということは選ばないことでもある。なーんて調子で、どんどん捨てまくっている。引っ越し業者に見積もりをしてもらったら、持って行くものより捨てるものが多く量もあり、捨てるためのトラックのほうが大きく料金もかかることになった。とにかく、本や資料も捨てまくっている。そしてまた、「発掘品」だ。おーあいでんてぃてぃな30代を振り返る数少ない生き残り資料。

30歳になったばかりの1973年後半に江原恵さんと出会い、その著書『庖丁文化論』を読んだりして、ますます「日本料理とは何か」と考え深げにしていたころ、同時に「アイデンティティって何さ」状態にあった。いわゆる「CI(コーポレート・アイデンティティ)」なるものに、プランナー稼業として取り組むことになったからだ。

2003/02/20「漢字とひらがなとカタカナ」に少し書いたが、71年に『DECOMAS(デコマス)―経営戦略としてのデザイン統合』という本がでて、この「デコマス」がのちにCIといわれるようになるのだが、その本には、「CI(コーポレート・アイデンティティ)」という言葉は、チョロとしか出てこない。でも、それが、仕事になってしまった。

いまじゃ、アイデンティティなんて言葉は、ガキでもつかっているが、当時は、まだほんの一部のビジネス界で話題になっていたていどだった。

ま、そういうわけで、日本料理モンダイとアイデンティティもんだいが、俺の肉体のなかで絡んでもつれアハンウフン状態になった。そのまま突っ込み突き進んでいるうちに30代の終わりに、ここに射精するに至った。

すでに何度か書いているが、江原生活料理研究所は、1980年10月の開設で83年まで活動した。その間、82年に「経営理念研究センター準備会」なるものをつくり、PRもかねて『企業と理念』という冊子を発行した。83年1月の創刊、季刊で、その年の12月4号で終わった。

ちょうど俺は40になったころだった。この二つのプロジェクトは、俺の役回りとしてはプロデューサー役が主で、一部プランナー業務をするという立場だった。ま、ようするにカネをにぎっていたのだ。そして、あいでんてぃてぃな俺の30代は、この二つのプロジェクトで、花火大会最後の大スターマインのように、思い切り噴火し爆発して果てた。

うまいことに、「日本料理とは何か」と「アイデンティティって何さ」は、おおいに関係がある。日本人の深い部分で、絡み合っている。俺としては、日本料理モンダイとアイデンティティもんだいについて、体験的かつ実践的に、そして理論的には少々、あるていど確信と核心になる結論というか方向性を得た。それだけを握って、それまでの仕事の舞台を捨て、すたこらさっさ不倫で貧しい新しい分野の混沌な展開を選択したのだが、そのことは、いいや。この発掘品だ。

経営理念研究センター準備会は、2008/09/27「玉城素さん、9月14日に亡くなっていた。」に書いた、玉城素さんとやった仕事だ。玉城さんは、俺のために取締役を解任されたあとだった。そして、玉城さんのおかげで、早稲田大学商学部教授の鳥羽欽一郎さんに、代表になってもらうことができた。

Siryo_rineken02鳥羽さんは、商学部長だったときに入試をめぐってだったかスキャンダルがあり、その責任をとるカタチで教授に退いていた。よく売れた『もう一つの韓国』(1976年)の著書があるなど、玉城さんとは韓国つながりが濃い、「経営史研究」の権威だった。ってことで、早大の経営史研究室の資料だけではなく、ウエイティングドクターで助手をしていた浅野俊光さんにも協力してもらえることになった。

『企業と理念』の取材や原稿作成は、ほとんど、玉城さんと浅野さんにやってもらった。おれは1号の「編集室より」を書いただけ。あとは、主にアンケート調査をまとめていた。

この経営理念研究センター準備会が受けた仕事に、都内に本社がある某私鉄大手の社是改訂コンサルティング業務があった。たしか83年の4月ごろ受注し、84年の6月に作業レベルは終わった。これはプランニングが関係する作業なので、俺はプランナーとプロジェクトの責任者という立場だった。全作業を、玉城さんと浅野さんと共にやった。ボトムアップ型の意見集約をやり、KJ法でまとめることをしたのだが、これだけ大規模なKJ法のまとめは初めてだった。

Siryo_rineken01俺は終わるころには、もうこの分野はアキタということでもないが、たいしたおもしろいチャレンジはないし説教くさい辛気くさいという感じで、チョイと別のことがやりたくなっていた。以前から仕事の付き合いがあった某大手ゼネコンから社史の編纂の話があって引き受けたが、そっくり玉城さんにわたし、玉城さんは浅野さんと作業をすすめた。

浅野さんは、30歳後半になっていたであろう、やっと念願の大学の先生に就職できたのに、数年もしないうちに病気で急逝された。1991年ごろだったと記憶している。つまり、『企業と理念』と社是改訂作業に関わった、玉城さんと浅野さんは、すでにこの世の人ではない。黙祷。

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