« ケツの穴に向かって撃て。 | トップページ | なんて奇怪な平和の中のアヤシイ日本料理なんだろう。 »

2008/10/06

俺にだって明日はないッス。

それでまあ、前と前のエントリーの続きのようなものなんだけど。

2008/09/30「『ミーツ・リージョナル』11月号が届く。「ザ・めし」特集の10月号は、もう「品切」。」に、「まいど、担当編集者の含蓄のある文が載る、編集前記が楽しみだ。今回は、半井裕子さんが書いている。かなり、大切なことだなあと思うところを突いている。いま、忙しいから、あらためて取り上げて考えるとしよう」と書いた、そのこと。

そこで半井さんは、特集のような「自腹レストラン」は、ハードルがあるようだけど、「けど、街の店は自動販売機やマニュアルの店とは違う生身の存在で、だから、それ相応のコミュニケーションがいる、それだけのことだ」「そ、レストランは何も難しくなんてないのですよ」という。そこがカンジンなところで、そのとおりだと思う。

だけどモンダイは、きょうの酒、じゃなくて、「それだけのこと」なんだけど、それがわかってないか、なかなかできない人たちが「ブロガー」や「食べ歩きグルメ」にはいる。

なぜかな~と考えてみると。街の店は生身の存在であるにもかかわらず、「ブロガー」や「食べ歩きグルメ」は、生身のニンゲンとして、店へ行くのではない。もちろん、全部じゃないが、そういうひとがかなりいるようだ。

「私は」立ち飲み通よ~ナントカ通よ~通よ通よ粋なのよ、「私は」有能な調査員よチェック屋よ、「私は」辛口評論グルメよ~、「私は」うまいものを知っているの詳しいのよ~、「私は」「私は」……というかんじの「私語り」や「自分語り」を持参するのだ。一時はやって、いまでもいるが、店へ「勝負」しに行くのだな。

ともすると、もっとも多いのは、こういう人たちかもしれない。つまり、テレビや本や雑誌などの有名人の発言を鵜呑みにして、店の選択から店までの行き方も料理や酒類の選択も、頭のなかはすっかり、情報でマニュアル化されて臨むひとたち。

店が生身なのに、このひとたちは生身ではなく、「達人」たちがオスススメのカラーに染まっている。その態度やココロや思考法やものいいまで、生身の店に持ち込む。だから、みな同業界人のように、おなじ感じになり、「来た瞬間分かります」ということになるのではあるまいか。『ミーツ・リージョナル』のような、いかに生身のニンゲンとして街場で楽しく生きるかといったテーマは、彼らにはない。「ブログ愛」であり「自分愛」なのだ。

であるから、店に対して構えてしまって、自然なコミュニケーションが難しくなる。前々回のエントリーで引用した座談会で、店の現場のひとが、「要は店を楽しもうというスタンスかどうか」「要はコミュニケーションなのだ」というのも、そういう背景があるからだろう。

いまや、こういうことがメディアを通して増幅されているようだ。俺はコミュニケーションがへたなのか、酒場などで、こういう人たちに話しかけられるとガマンできない、すぐ露骨に嫌な顔をするか、「俺は、そういう話をしたくてこの店に来ているわけじゃないんでね」というようなことを相手の様子をみながら、ときにはソフトに、ときにはハードにいって、すぐケリをつけてしまうが、店のひとたちは、そうはいかない。

そこへ、いくと、トツゼンだけど、東海林さだおさんは楽しくてよいね~。だいたい「私語り」「自分語り」がないもの。そして、ときには、よい店は外を見ただけでわかるなんていう「私語り」「自分語り」を皮肉る。「ドーダの人々」では、「私語り」「自分語り」の会話を、切り刻み笑いとばす。

食べ歩き以前、グルメ以前、文章以前に、ニンゲンとして大事なことがあるとおもう。「よい店よい酒よい料理にこだわることなく、楽しく飲む人間をみがく」

だけど、こんなことをいっていると、ライター稼業は失業しちゃうな。かといって、東海林さだおさんにはなれないし。

|

« ケツの穴に向かって撃て。 | トップページ | なんて奇怪な平和の中のアヤシイ日本料理なんだろう。 »

コメント

う~ん、おれたち、ホモか?

投稿: エンテツ | 2008/10/07 08:44

う〜ん、さすがエンテツのとっつぁんだぜぇ!
痒いところに手が届くような、おいらの言いたいことを巧いこと言い当ててる文だな。
痩せても枯れてもアル中でも文章で飯喰らってるだけのことはあるぜ。

て、またコメント欄が二人だけの文通欄になる?

投稿: 吸う | 2008/10/07 02:09

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ケツの穴に向かって撃て。 | トップページ | なんて奇怪な平和の中のアヤシイ日本料理なんだろう。 »