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2008/10/05

ああ、かなしき「ブログ愛」「自分愛」。

先日9月30日にチョロっと書いた、「自腹レストラン」特集の『ミーツ・リージョナル』11月号に、「[覆面座談会]現場によるホンネトーク ホントはどーよ?レストラン」がある。司会・進行は寺下光彦さん、レストランの現場の出席者6人。5ページあって、なかなか突っ込んだトークで、おもしろい。

「ぶっちゃけ、ブロガーってどうなんすか!?」という見出し。司会「ところで、ブロガーってすぐに分かりますか?」C「来た瞬間分かります」で始まる。

C「究極のところを言えば、ブロガーはレストランを楽しみに来ていない。自分のブログラブ、ひいては自分ラブ。」
A「ブロガー同士が一緒に来てても別々やもんね。会話が噛み合ってない。」
司「コミュニケーションできない…?
D「だから…、ってことでしょ。」

こんな会話をして、一同笑う。この「…」は、想像つく。
こんな発言もある。

B「基本的に食事やワインとか店の雰囲気を楽しめないってお客さんはアウト。」
司「ブロガーだから嫌いなんじゃなく、ワインとか食事を楽しまない客が嫌い、と。」

D「ブログの匿名性は気に入らない。」
司「ブロガーは書いていることに責任取れへんわけですね。」
C「落書きやからね。」
E「店やってる人間はリスクを負ってるし、文章書く人でも記名じゃないですか。その責任を負わないところが嫌なんです。
司「逆に「アリ」なブロガーって?
A「ウチのお客さんはウチの記事を書く場合、「載せるで」って見せてくれる。」
D「それちゃう? 断りなく、隠し撮りみたいに撮っていく人おるもんねえ。」
A「美味しくなさそうな写真やったら嫌やん。見せてくれたらコメントできるし。」
C「ヘタは撮るなってこと?」
A「それを見て「料理しょぼ」と思われたらイヤ。あるブログでウチのうずらが異常に茶色で、そりゃないで、って。見る側もその記事の信憑性を疑ってほしい。」
E「そうそう。鵜呑みにしてほしくない。」

部分的に引用した。太文字は、本文中で太文字のところ。

前から大衆食堂のオヤジなどに聞いているし、先日も一年に一回ぐらいは「通う」ラーメン屋のオヤジにいわれた。ブロガーもちろん、「一見でも、なにかを見て来た客や、食べ歩きの客はすぐわかる」らしい。ま、おれだって、酒場や食堂で、そういう客に遭遇すると、話をしなくてもわかるときがある。とくに「ラーメンフリーク」と「居酒屋フリーク」は、わかりやすい。最近は、そのテの客が増えて店の雰囲気がかわってしまった酒場には行かなくなった。

たまに行く、都内のやきとり屋がある。そこはオヤジが入り口のところで、やきとりをやりながらがんばっている。そのテの客が来ると、「だめだめ」といって入れない。たしか開店が5時ごろだと思うが、50人ぐらいの客席があって、まだガラガラでおれたち男2人のほかに1人の男だけだったのに、入れないことがあった。大きなビル街が近く、焼酎を一升瓶ボトルでキープし毎日のように来る常連の多い店で、7時過ぎぐらいには一杯になる。常連のために席を確保しておくということもあるかも知れないが、ネットの掲示板を見ると、入店を断られた客は、けっこういるようだ。そういうひとが、掲示板でモンクをいったり、あるいは、笑っちゃうのは、ほかのひとにどうやったらその酒場に入れるかアドバイスを受けていることだ。

おれだって、そのオヤジに顔を覚えられているわけじゃない。ただ、そこに入るときは、チョイとした「呼吸」が必要だというのはわかっている。これは、ある種、店との無言のコミュニケーションであり、それは自分が肉体から発するオーラやエナジー、もろもろだろうと思う。そして、まさに、店のひとは、そこから「ブロガー」的「食べ歩き」的オーラやエナジーを感じ、避けることがあるのではないか。

ともあれ、この座談会で、本質を突いていて、おもしろいと思ったのは、「自分のブログラブ、ひいては自分ラブ」というところだ。これは、無名のブロガーか、有名の文章家か、に関係ないだろう。

何度もここで書いている、近代日本の背骨ともいえる、「日本的私小説的」文学(文章に書かれたものという意味で)の影響だろうとおもう。食という「気軽」な分野には、その影響はでやすく、みな気軽に書けるもんだから、たいがいのひとは書くのだけど、オヤッこのひとが食のことになるとこんなことを書くのかとおもうほど「気軽」に無責任なことを書く。その無責任は、つきつめると「私語り」「自分語り」の文学に原因がある。と、おれはみている。

ほとんどのひとは「ものを書く」とき、近代日本の文学の影響から離れては存在しない、書くことはできない。それは、いまを生きるおれたちの思考やら行動に、強い影響を及ぼす「環境」ともいえる。「日本的私小説的」文学特有の、「私語り」「自分語り」を警戒しながらでないと、「ブログ愛」「自分愛」に流れやすいのではないだろうか。

「客」の立場からすれば、店の意向をくんで書く必要はない(店の意向を気にして書く「評論家」が少なくないが)。だけど、「客」の立場は、いつも問われている。書いて、それを「露出」するとなると、広く問われることになる。客が「神様」なのは、カネを払うときだけなのだ。

とどのつまり、読まれるものを書くということは、そこに「ジャーナル」が発生する。「ジャーナル」はジャーナリストのものではなく、生きているかぎり何かを表現しているのだし、書くとなれば表現そのものだから、そこに「ジャーナル」は切り離しがたく「在る」はずのものではないか。それを見失わせる「力」が、「日本的私小説的」文学にはあって、近代日本はそれで成り立ってきた面があるようだし、その文脈にはまると、「私語り」「自分語り」の虜になるような気がする。最近おさわがせの中山ナントカという「5日大臣」の発言などにも、それは色濃くでているようにおもった。

自分が生きている風土だから、ひたすら自戒と警戒をもって接するのが第一だと、おれは自分に言い聞かせている。

グルメ以前、食べ歩き以前、文章以前、「食を楽しむ」ことについては何度も書いてきた。右欄→カテゴリーの2007/03/20「飲み人の会に登録ご希望のかた」には、「よい店よい酒よい料理にこだわることなく、楽しく飲む人間をみがく」と書いているが、それは「生きる」キホンであるし、「私語り」「自分語り」の文脈から脱出の一つの方法だろうとおもっている。

マットウな食生活のためには、「私語り」「自分語り」の克服が不可欠だ。「ブログ愛」は「書物愛」や「活字愛」に置き換えられる。「愛」は、かなしい。表現以前のことだろう。


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コメント

こういう話は何度も書いていて、もうアキラメ状態なんだけど、やっぱり書いてしまうんだよなあ。

雑誌あたりじゃ「常連になりたい酒場」なんていう特集をやっているし。

自分ひけらかしの連中が、ますます増えているようで、まいっちまうな。いい趣味しているワタシ、いい店や酒や味を知っているワタシ、いい人間のワタシ…、いいウンコしているワタシ。ブログでやる分には自分で勝手に恥をさらしているだけだからよいけど、酒場でやられると雰囲気は壊れるし、そんなやつらに話しかけられたりしたら迷惑で、おれの飲み代を払えといいたくなる。

投稿: エンテツ | 2008/10/05 18:22

はははは!
座談会の「基本的に食事やワインとか店の雰囲気を楽しめないってお客さんはアウト。」「ブロガーだから嫌いなんじゃなく、ワインとか食事を楽しまない客が嫌い、と。」ってのは凄く分かるなぁ。
ご案内の通り、現在おいらのブログが滞ってんのは、いくつかの店の馴染み客達から「変な客が来るから吸うさん書かないでよ〜」と何度か言われたからなんすよね。ホント最近はブログネタの為に呑み歩くような変な客多いよな〜。前にも言ったけど、そういうのは「趣味」であって「生活」ではない。だから「生活」として呑みに来てる馴染み客達なんかには凄く違和感があるんだよね。

投稿: 吸う | 2008/10/05 15:35

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