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2008/10/27

いつまで続く「アンビテンデンツ」。

1987年、バブルの真っ最中、野田正彰さんは、中央公論10月号に「新・都鄙問答のすすめ」を寄稿している。じつは、これ、おれの「ネタ論」なのだ。ネタばらしをしておこう。「グルメ批判」も「食育批判」も、あるいは「旅人文化」やら「まちづくり」なるものに首を突っ込むのも、あるいは「東京荒野論」の、根っこは、この「アンビテンデンツ」モンダイなのだ。

リード文には、こうある。

「アンビテンデンツ――自らは本当には望まない生き方を、洗練し、効率よく人々に提供する矛盾した感情傾向。これをエネルギーとして動く社会をつくり上げてきた私たちは今これに頼らない別の生き方を、地方の視点で考えてみよう」

この一文に劇的刺激を受けた俺は、なんでも体験にもとづいて考える「流儀」にしたがい、ついに熊本の奥地まで行ってしまうことになるのだが、それはともかく、アンビテンデンツについて、野田さんは具体例をあげる。

たとえば「金融に携わる人は、情報によって金が飛びかい、生産と遊離した金融が膨大な利益を生むことにおぞましい思いを抱いている。抱きながら、報酬やゲームの魅力に惹かれて仕事を続ける。サービス業に係わる人も同じである。こんなに遠くに出かけ、こんなホテルに泊り、食事をし、これほどまでに専門化されたサービスを受けて、客は本当に幸せなのか。ひとり安らぎを感じ、情の通った対人関係をもち、自然と調和した時間にひたるのに比べ、豊かになっているのかどうか疑問をもっている」

「産業化されたサービスに応じて、人の生活や遊びがあるようである。もはや、生活や遊びを手伝うサービスではなくなっている」

「挙げていけばきりがない。結局、物もサービスも過剰な社会は、働く人々にアンビテンデンツを強いている」「自らは本当に望まない生き方を、より洗練し、効率を上げて人々に提供する。過剰な流通、情報、サービス業に携わることによって、人は自分の時間を失い、そこから得た経済報酬を、かつて望んだ自分らしい生活の充実にあてるよりも、すでにサービス産業によってセットにされた消費生活のいくつかを選びとるために使うにすぎない。このような生活を心の底では否定しつつ、なお一層社会的に押し進めるために働き続ける。いつの間に、これほどアンビテンデンツを落差のエネルギーとして動く社会になってしまったのだろうか」

いまや、「趣味」といふものまで、細分化され、ここに組み込まれてしまった。食べ歩き飲み歩きのグルメな食など、この坩堝にあって、過剰な情報にふりまわされながら、なんともあわただしい。そして、なんでも過剰のようでいて、なにか大切なことが欠落というか不足している。ふだんの食生活は不安と混沌、ごくアタリマエの生活のためのカンジンなことが欠けている。

テナところで、きょうは、オシマイ。

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