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2008/11/05

知識はあれど想像力は、ナシ。

いわゆる「グルメ」系の文章には、「こだわり」や「厳選」という言葉が、ゴミの投げ捨てのように使われている。そんなものがありがたみがあるのかと思うのだが、十年一日のごとく続いていて、けっこう「本好き」「本読み」で知識が豊富なひと、あるいは物書きとしてアチコチに書いているようなひとでも、いとも無造作に使っている例が、めずらしくないようだ。いや、むしろ、そういう言葉を使うのが、「常識」であるかのようだ。

伊丹十三さんの『ヨーロッパ退屈日記』に「想像力」という見出しの話がある。「さてニコラ・バタイユの演出を見ていつも思うのだけど、演出、とは結局想像力ですね」ということなのだが、俺はニコラ・バタイユの演出を見たこともないのだけど、文章も写真も絵も、ま、会話にせよ、なんにせよ、ニンゲンは想像力の動物だと思っている。

想像力で生きている。ウンコをするためには、めしをくうためほどの想像力はいらないような気がするが、それでも、温水シャワーのようなものがケツの穴めがけて噴射するような便器をつくってしまうのは、やはり想像力のなせるワザと思わざるをえない。

と、いきなり話がズレそうだ。

伊丹十三さんは、そこで「例をあげれば判りやすいと思うのですが」と、とある映画の「若い夫婦が初めて観客に紹介されるシーン」をあげる。「およそ「この二人は若い夫婦ですよ」といって作者が観客に示すやり方は一万とおりもあるでしょう。ところがこの映画で作者がその一万とおりの中からえらんだのはこんな方法です。

 すなわち、若妻がエプロンを掛けて台所で働いています。そこへ外から帰ってきた夫が現われ二人は接吻(せっぷん)する、というのです」

そのことについて、伊丹十三さんは、こう書く。

「これは一体どういうことでしょう。むろんこの責任の大半は脚本にあるわけですが、これ以上安易で、投げやりな想像があるのでしょうか」

いま、「こだわり」や「厳選」という言葉を、いとも無造作に使う表現は、まさに、「これ以上安易で、投げやりな想像があるのでしょうか」ってなことじゃないかと思う。

が、伊丹十三さんのスゴイところは、最後にこう書くところなんだなあ。

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 現在の映画が、撮影所製のだんどり芝居の域を抜け出て「実在性」を取り戻そうとするなら、わたくしの場合、その推進の軸となるものは「日常性」においてないと思います。
 そしてまた、作家の想像力が一番あらわな形で出る場、というのも日常性の創造をおいてないと思うのです。

…………………………………………………………………………

たとえば、大衆食や大衆食堂、日常性を書くことは、じつに想像力がいる。非日常や特別、特殊なことは、それだけでネタになるから、マニアックな薀蓄を傾けていれば、たいして想像力は問われない。

なのに日常性を「こだわり」だの「厳選」という言葉で片づけてしまっていては、「安易で、投げやりな想像」しか残らないことになる。そういうものが売れて読まれていく世間では、日常の生活から、ますます想像が失われ、「だんどり生活の域」で日々が過ぎていくことになるのではあるまいか。そして、そういう生活に疑問を持たないから、また「こだわり」や「厳選」が無造作に使われる悪循環のようだ。

一万とおりの中から一つを選ぶ表現とまでいかなくても、十とおりやそこらは簡単に想像つくはずだと思うが……。なんかやたら、安直な紋切り型や教条がはびこって、想像力は墓場送りになりそうだ。

「想像力」なんていうと、また難しいことを専門的にマニアックに語るひとがいる。難しいことはない。玄関にホコリがなければ、誰かが掃除をしているからホコリがないのであって、掃除をしなければ玄関とは限らずホコリはたまるものであり、誰かが掃除をしているからホコリがないのだ、ということが理解できるていどの想像が、あるかないかのような気がする。

とりあえず「こだわり」や「厳選」という言葉を使わないことであり、そういう言葉を使って書いているひとの文章や姿勢は、疑ってかかったほうがよいようだ。

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