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2008/11/16

虚実皮膜の間、表現以前、神様になりたいのか人間でいたいのか。

下北沢「スローコメディファクトリー」をオープンしたばかりの須田泰成さんからのメール「スロコメ通信」に、「虚実皮膜系のビジネス・サバイバル本。中丸謙一朗さんとの「大物講座」(講談社)も、よろしくお願いいたします」とあって、笑った。この「大物講座」は、まだ買ってないのだが、「虚実皮膜系のビジネス・サバイバル本」ってのが気に入った。

「虚実皮膜」って言葉は、近頃このブログでもよく使う。国語的権威である『広辞苑』第五版は、その語について、こう説明している。

まず「虚実」について。
「①無いことと有ること。空虚と充実。②うそとまこと。③防備の有無。種々の策略を用いること。」
そして「虚実皮膜」について。
「(近松門左衛門の語。「難波土産」に見える。「皮膜」はヒニクとも読む)芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実と虚構との中間に芸術の真実があるとする論。」

とくに情報社会といわれる近年は、「芸」や「芸術」は、まだ旧来のように床の間に飾っておがむように鑑賞する「特別」のものと思っているひとも少なくないが、日々のウンコのようなコミュニケーション活動のあらゆる場面に見られる「表現」だとみてよい。と、俺は思っている。なにしろ、嫌でも、誰かが「表現」したものが目に入るし、またそれが無くては、たとえばテレビやパソコンゲームや本などが無くては、すぐ死んでしまいそうな人たちも少なくないようだ。

須田さんのように「コメディライター&プロデューサー」という肩書、俺も近頃は「ライター」かつては「プランナー」という肩書、中原蒼二さんも「プロデューサー」という肩書、そういやこのあいだ逮捕された「大物」音楽プロデューサーのジケンは、まさに「虚実皮膜の間」を思わせるものがあるが、もっともアヤシイ虚実皮膜系なのだ。

うまくいってアタリマエ、成功しても誰かがあとでシャシャリ出てきて、そいつが自分の手柄にするためにこちらは悪者役にされたり、失敗すればペテン師サギ師よばわり。そんなことを気にしちゃやってらんない、虚実皮膜の間をジッと見据え、「種々の策略を用い」「人生は冗談死ぬのはジョーク」ってな感じで生きている。ま、須田さんや中原さんは、どう思っているかわからんが。生きているかぎりは人間みな嘘をついているのさ、ってなことをいったのは、太宰治だったか坂口安吾だったか、それともほかの誰かか、あるいは俺が思いついたのか。

きのうのエントリーがらみ。山口瞳さんは「ここで公正を期するために、また、嘘(うそ)を書くのが厭(いや)なので言っておく」と書いている。その「嘘を書くのが厭」ってのは、もちろん書くレベルのことだろう。だけど「嘘」にも、「事実」レベルのこともあれば「真実」レベルのこともある。さまざまなレベルを考え出すと、「生活」レベルもあれば「国家」レベルもある。そもそも「国家」なんてのは存在自体が「嘘」じゃないかという話もある。大きな嘘ほど、人びとは騙されやすい、ともいわれるな。

山口瞳さんは、『酒食生活』の「金沢 つる幸(こう)の鰯(いわし)の摘入(つみ)れ」、これは『行きつけの店』に収録されていたものだが、そこで「それから、食べさせてくれるものに親切味があった。これも曖昧な言い方だが、そうとしか言いようがない。絶大の安心感があった」と、その味覚を語っている。なるほど「親切味」という言い方は「味」の表現としては曖昧だが、でも読むと、著者が何を伝えたかったのかは、わかる。

山口瞳さんが「曖昧な言い方」を避けようとしているのは、「嘘を書くのが厭」に通じるところがあるようだが、書く表現以前に、対象に迫ろう、実態や物事から出発して表現を構成しようという姿勢もうかがえる。

「こだわり」や「珠玉」「厳選」「絶品」「名店」などの曖昧な言い方である「印籠語」も、実態や物事から出発して表現を構成しようと対象に迫った苦労なり思考があれば、それなりに自ずと文章に内容がともなうと思う。

だけど、たいがいそういう言葉を無造作につかうひとは、自分が裁きを下す「味覚の神様」とカンチガイしているからか、対象に迫ることもしてなければ、よく考えていない。根拠が曖昧なまま「印籠語」を用い、内容のなさを文章の技巧や、「うまいもの好き」「全国何か所食べ歩いた」といった「権威づけ」のハッタリ言語で、自分の「正しさ」を主張し逃げようとしているようにみえる。

俺は、「嘘を書くのが厭」とか「嘘も方便」とか、そういうレベルのことは、あまり真剣に考えたことがない。強いていえば、この世は、虚虚実実なのだ。だけど、だから、2008/04/15「そこに、なにが、どのようにあるか。なぜ、それが、そこにそのようにあるのか」のように、たびたび書いているが、「そこに、なにが、どのようにあるか。なぜ、それが、そこにそのようにあるのか」見て考え、自分の伝えたいことを文章にしているだけなのだな。

食べればなくなる料理。それでいて人間の生命にかかわる。これほど虚実皮膜の間にあるモノはない。それをまた虚実のカタマリのような人間の味覚が判断する。なんとまあデタラメのことだろう。そこが、おもしろい。そのことに気づいていない、「うまいもの好き」食べ歩き飲み歩きなんて、飲食や料理のオイシイところを知らないにひとしい。

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