汲みつくせない潤いが身近な暮らしに転がっている、と思ってしまう青森県弘前の『TEKUTEKU(てくてく)』。
『雲のうえ』5号を見た何人かのひとから、「あんたがクウネルの人たちと仕事するとは意外」というような反応があった。ひとによって若干ニュアンスがちがうようだが、ようするに、「クウネルの人たち」は有名な実績のある「一流」の人たち、おれはたいした実績のない無名の「三流」以下のフリーライター、能力もセンスもまるでちがう、それが一緒に仕事できるなんてオカシイ、てな感じだ。まるで場末のクラブでうたっている大根役者がひのき舞台に登場したかのような意外性だったのか。
それは、おれの能力とセンスを見る目がねえからだろう、と、おれは反論するほどの根拠もなく、そうかもなあ風のイタズラだろうとおもいながら、ただ、その「クウネルのひとたち」という言い方がオモシロイと気になった。
いうまでもなく、「クウネル」とは、マガジンハウスから出版の雑誌『ku:nel』のことだ。『雲のうえ』の編集委員でアートディレクションを担当する有山達也さんは、『ku:nel』のアートディレクターだし、おなじく編集委員の牧野伊三夫さんも大谷道子さんも、『ku:nel』で活躍している。おれと一緒に取材撮影した写真の齋藤圭吾さんも、そうだ。
そして『ku:nel』といえば、なんといったらよいか、いわゆる、いまどきのハイクオリティ誌とはちがうとおもうが、たとえばかつての『暮らしの手帖』のようなクオリティの高さと人気である。
有山達也さんも、牧野伊三夫さんも、大谷道子さんも、『ku:nel』以外でも大活躍しているのに、「クウネルのひとたち」というぐあいに「カラー化」「記号化」されているのだな。「クウネルのひとたち」という言い方はないだろうとおもうが、それほど『ku:nel』が影響力のある雑誌だということだろう。
『雲のうえ』をパラパラと見るや、「『ku:nel』みたい」という反応もあった。たいがい好感なのだが、あまり好まないひともいて『ku:nel』みたいでイマイチだねというひともいた。いずれにせよ、出版系や、クリエイター系の人たちだ。
だけど、『ku:nel』を知らない人たちも多い。こちらのほうが多いとおもう。そのなかの一人は、『雲のうえ』をパラパラと見て、「わあ~なんだか教科書みたい、懐かしい」というようなことをいった。彼女は30歳なかばぐらいだとおもうが、『ku:nel』も有山達也という名前も知らない。
じつは、おれも『雲のうえ』創刊号を初めてパラパラ見たときに、おなじ印象を持った。写真と文字を、単純に「割り付けた」だけの、むかしの教科書(いまの教科書は知らない)。そして、おれも、『ku:nel』という雑誌は知らないにひとしかった。
おれは「カラー化」「記号化」された「クウネル」ではない、写真と文字を単純に「割り付けた」だけのように見える、むかしの教科書のように見える「クウネルのようなもの」とは何かを、ときどき考えた。いまでも、考えている。それは、よく「シンプル」だの「フツウ」だのといわれたりするが、それではカンジンなところが欠けている気がしていた。
それを、いまとりあえず整理してみると、「そこにあるモノゴトや暮らしに寄り添いながら潤いを発見するような表現」てな感じになるようだ。そして、これまで「豊かさ」といわれてきたことは「潤い」と表現したほうがよさそうだとおもっている。
ということまで考えすすんだのは、この青森県弘前市のタウン誌『TEKUTEKU(てくてく)』を見てのことだ。
『TEKUTEKU(てくてく)』は、見た目は『ku:nel』とは、かなりちがう。だけど、全体を通していえるのは、「表現者」の押し付けがましさがないことだ。とくに文章についていえば、おれが最近「印籠語」などといって揶揄する、「こだわり」「絶品」「厳選」といった表現も、ごくたまに使われはするが、ハッタリの技巧というより自然である。あくまでも、「そこにあるモノゴトや暮らしに寄り添いながら潤いを発見するような表現」といえるし、よく見れば、汲みつくせない潤いが身近な暮らしに転がっている、のだな。
「クウネルのひとたち」であろうとなかろうと、「クウネルのようなもの」であろうとなかろうと、まちと暮らしを「素直」に、あるいは「愚直」にみることから始まる表現、ということになるだろうか。わたしは「うまいもの好きよ」「まち歩きの達人よ」あるいは「ナントカ評論家よ」なんていう「構え」は必要ない。
おっととと、カンジンな『TEKUTEKU(てくてく)』の紹介にならないうちに、書くのがメンドウになった。また近々ということにしよう。
「お仕事ランチ×休日ランチ」のリード文は、こんなぐあいだ。

ランチは楽しい。
たとえそれが一時間しかないお昼休みであっても、
女性たちはうきうきランチへと足を運ぶ。
そして休日ともなると、日頃のうっぷんを晴らすかのように、
リッチなお食事にたっぷりと時間をかけて、
極上のランチタイムを過ごすのだ。
あぁ、この幸せは男たちには判るまい。
関連
2008/11/30
紹介したい雑誌が、たまっている。
『TEKUTEKU(てくてく)』のサイトはこちら…クリック地獄
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それゆけ30~50点人生。

コメント
宮川さま。はじめまして、コメントありがとうございます。まだ、TEKUTEKUについては書き足りない、もっとちゃんと紹介したいと思いながら、できていません。こんな半端な紹介の仕方ですみません。編集後記を拝見すると苦労して作られているようですが、うらやましいような苦労で、こんなふうにまちの雑誌を作れるなんて素晴らしいと感嘆しています。
次号も楽しみにしています。ご活躍ください。弘前は、昨年もですが、いつも市外をかすめるように通っているだけで、市内をゆっくり歩いたことはありません。こんどは、まっすぐ弘前へ行きたいとおもっています。
投稿: エンテツ | 2008/12/18 17:15
はじめまして。
TEKUTEKU編集部 宮川と申します。
まさかこんな形でTEKUTEKUのお話に出会うとは正直ビックリしております。
素人の思いつき出始めた“TEKUTEKU”も11月“Vol5.5”発刊で6年が経ちました。ただ今でも市民視線(読者視線)を忘れずやっていこうと思っております。
ありがとうございます。
投稿: 宮川 | 2008/12/18 11:37
おおっ、男藤本の力強いオコトバ。味覚もそうだけど、視点も、あえてローカル化してこそ、見逃してきたオタカラを発見できそうな気がしています。それから、この雑誌で感じるのは、「シロウト」の可能性。「プロ」は自ら「プロ」のなかに閉塞しやすい。そのカラを打ち破る「シロウト」の存在。だけど東京あたりじゃ日常的な接点を持ちにくい。地方の場合は、いつもすぐ隣にいる感じ。この違いは大きいのではないかと。関西で大いに気を吐いてください。それはともかく、またイッパイやりたいですね。
投稿: エンテツ | 2008/12/05 11:36
クリエーター諸兄の視点は世界基準の地方に向いている、そんな同時多発的に各地で起こっている動きには本当に刺激を受けます。イチ地方誌で糊口を凌ぐものとしては嬉しい限りですが、たまの上京の折にも実感としてあることで、パラダイムシフトするタイミングであると四股をチカラ強くこの関西で踏む次第。取り寄せて読もうと思います。
投稿: 藤本男 | 2008/12/04 23:16