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2009/01/11

わめぞ、残飯本、再び東大宮-蓮田「都鄙臨界地帯」で農と食と暮らしグチャグチャを考える。

きのう強い寒風のなか池袋。ジュンク堂で五十嵐泰正さんが「グローバル化とパブリック・スペース――上野公園の九〇年代」というおもしろいことを書いている、『戦後日本スタディーズ3 「80・90年代」』(岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一[編著]、紀伊国屋書店)を買う。ぶらぶら歩いて古書往来座で、きのうきょう開催の「わめぞ外市」へ。往来座の往来に並んだ本棚の古本を見ていると、レジにいた武藤良子さんが近寄ってきて「梅酒かバーボンの湯割り飲みます?」と。最初は、まさかイキナリ酒をすすめられるとは思っていなかったので、聞きなおすとそういうことだった。バーボンの湯割りを頼む。これが、冬山のような寒さの往来で飲んだら、うまかった。いや、きっと、どこで飲んでもうまいのだろうが。すまん、「もう一杯!」と大竹聡さんの本のタイトルを言う。

で、その本棚に、『残ぱん東京』(佐竹俊充著、食糧問題研究所)があるじゃないか。これ発売されたころ読んで、また読んで確認したいことがあったのだ。サブタイトルというか表紙の惹句が「一千万都民の胃袋からはみ出た一二五〇億円の裏側」。1975年8月発行。初めてといってよいだろう、正面から残飯モンダイに挑んだ。著者はあとがきで言う。「たしかに「食糧自給」とか「食糧備蓄構想」とかの施策論は、一見前向きの響きをもつし訴求力がある。「節約は美徳」などと謳いあげてみたところで、消極的なイメージを免れないだろう。が、こと食糧に関する限り、もっと地道な思想があって然るべきではないか。人間一人一人の生きるための糧は、一人一人が自からの日常生活の中でとらえるべき問題とおもわれるからである」。

「捨てない哲学」をとなえて精神論的ではあるが、食糧問題研究所所長らしく、説得力のあるデータが背景になっている。まだ「消費文化」は話題になっても「消費主義」については意識されていなかった時代だから、精神論的になるのは、やむをえない。が、いま、状況は、もっと「進化」している。しかし、あいかわらず、以前にこのブログでも書いたが、「食糧自給」だけ論議になって、残飯モンダイは議論にならない片手落ち。「食育」だって、「ビジネスチャンス」のエサ。「使いまわし」の吉兆は閉業に追い込まれたが、「残す」ほうは問題にならない。そして、派手な消費主義が大手をふっている。

「不況」にも、かかわらず、派手な消費主義が大手をふっている背景には、また景気は「以前のようによくなる」という期待が見え隠れする。

だけど、昨年の11月がピークだったという「景気の拡大」の恩恵を実感したひとが、どれだけいるだろう。いまよりましだったかも知れないが、あのバブル崩壊後の「失われた10年」から続いてる「不況感」のなかで暮らしてきた人たちのほうが多いはずだ。500円玉一個のワンコイングルメ、それですら高すぎると牛丼チェーンなどがもてはやされたり。そして、なんだかもう「終わり」なのだ、いい時代はもうこない、これからは質素につつましくやらなくてはならない、なんていう声もある。

このゴタゴタの根本には、なにがあるのだろうか。いつから、何が終わり、何が始まっているのか。

なーんて、大論文のようになりそうだな。ま、きょうのところは、おととい9日の「東大宮-蓮田、東北本線「都鄙臨界地帯」と麦味噌」の続きな感じで書いておこう。

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東京都心から「家並み街並み」続きが押し寄せている、その波の一つの突端部分の画像だ。上の最初の画像は、そこがコンクリートで仕切られ、すぐ手前はすでに荒地と化し、その手前から田畑が広がる。

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最初の画像を撮影したのとほぼ同じ位置で、カメラを右にふって撮影したのが、上の画像。「東京」が押し寄せているさまが田畑の奥に見える。みな、比較的新しい家だ。おそらく建って2、3年以内だろう。右端に、このあたりの古い農家と思われる屋敷があり、その裏手には下の3番目の画像。「とれたて野菜自動販売装置」であるが、売れ残りで新鮮さはない。こんなに近くに住宅ができたのに、野菜の買い手はつかないらしい。

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下の4番目の画像は、ここから少し離れている。こちらのほうが東大宮駅に近い。すでにまわりじゅう住宅に囲まれているが、農家が耕す畑と貸し農園になっている畑がある。おれのウチは、ここではなく1950年代ぐらいに宅地になったところで、ウチなりの考えがあり中古の住宅付を買って更地に戻して建てた。つまり宅地の再利用で、それだと費用が余計にかかる。このへんの農地を宅地に転換したところに建てたら、おなじカネで、もっと広い敷地に建てられる。より大きな家を求め、こちらを選ぶのが人情だろう。

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かくのごとく、どんどん「東京」が押し寄せ広がっている。逆に、わかりやすく、農地は減っている。前に書いたように、農地の減少は農産品生産の減少を意味しない。だけど、生産方式の変更と、栽培種の変更はもたらす。そのことは、きょうは詳しくふれない。

モンダイは、なぜこんなに簡単に農地が宅地になり、家に消費されるのか。実体経済は、そんなによいはずじゃない。実体経済でいえば、論者によって多少時期が異なるが、遅くとも1980年前後でピークをこえたようだ。では、あとは、どうやって日本の経済は「成長」したのか。いや、誰も、「成長」したなんて言ってない。「低成長」である「不確実」であり「成熟」であり、もろもろなのだな。なのに、ほらほらグルメもそうだが、いいものなら人びとはカネをだす…と。

さかのぼれば、田中首相のアレだ、あの「列島改造」から土地ころがしが盛んになり、国策になり自治体まで不動産屋のようになり、、工業生産なんかどうであろうと、不動産屋と金融屋が手を組んで、んで、転がせ転がせ、まさに濡れ手で粟のバブル経済。それが浮かんだり沈んだり、もう20年から30年やっている。日本のばあい、ここに、農協さんと農協さんを通して農家のカネをかき集めた巨大資金を握る農林中金がいる。

そう、2008/12/07「農地消え、アートな農協栄える?」に、チョイとだけ書いた。そこには五十嵐泰正さんに、こんなコメントをいただいている。


深いですねぇ。根深いですねぇ。
いろんなシステムの無理が凝縮されちゃった風景のように、直感的に思います。
全然どうしたらいいかとかわかんないですが、サイアクなことを回避する、ぐらいなことはできたらいいんですけどね。いや、そんなこともかなり困難か。
ともかくも、いろいろ考えてみたい風景ですね。


「いろんなシステムの無理が凝縮されちゃった風景のように、直感的に思います」と。まったく、日本のいろんなシステムの無理が凝縮されている。たしかに、「サイアクなことを回避する、ぐらいなことはできたらいい」、そうしたい。どうしたらいいのだろう。

いまの「不況」、アメリカのサブプライムローンや新自由主義ばかり悪者あつかいだが、日本だって、住宅ローンは証券化されているし、それを熱心に買い込んでいるのが農林中金なのだ。農林中金は、もちろん、前に書いたようにアメリカのサブプライムローンにも手を出している。

このオカシイ構造、すぐ頭に入るだろうか。土地も持っている農家、そのカネを預かる農協、そのカネを集めて投資運用する農林中金が、農家の土地を宅地に転用した住宅のローンを証券化した商品を買い集める、だから地価は維持されたり上がったりで土地を持っている農家は売れば儲かる、売ったカネは農協が預かり、そのカネを集めて…って、この、まさに実体がともなわない自作自演デキレースのようなバブルな循環…。これは、もうコメディですね。

とにかく、この件については、とりあえず、この2008年07月25日の「サブプライム問題と証券化商品の関係 ~ 関係あるのか、ないのか? ~」から引用しよう。…クリック地獄
そこでは、日本の場合は「裏付資産とする住宅ローン債務者の平均年収が概ね600~700万円であり、米国で問題となった低所得者向けローンとは程遠いものである」と、まあ、これ例のリーマン破綻の前だけど、心配ないとおっしゃっているが、同時に、こうも述べている。「長期固定金利型住宅ローンのおかげでバブル期に比べ住宅取得コストは三分の一になった。住宅ローンは証券化されて農林中金などに売却されその資金でまた住宅ローンを貸し出すというサブプライムと同じことが日本で起こっている。これが地価を押し上げてきた。金利が正常化されるとこのシステムが行き詰まる。もともと低い金利に下げる余地がないので米国のように金利を下げて対応すると言うことも出来ない。破産する人が増えよう。最終的には国民の負担となる」

これ、つまり、「これが地価を押し上げてきた」ってことが大問題なのだ。実勢の経済を反映しない土地価格、飲食店もそうだが、その地価のために不要な付加価値をつけて商売しなくてはならない。その不要な付加価値のために、「逸品」だの「絶品」だの「究極」だの「名店」だの「達人」だのと、「星印」を印籠のごとくかざし御託をたれ、それをありがたがる消費主義が横行することになる。

このバブルな循環は「欲望循環」ともいうべきか、多くの消費者の欲望が深くからんでいるからこそ、「サイアクなことを回避する」政策は難しい。そこに、精神論がつけいりやすいのだが、精神論というのは、現実を嘆いたり悲憤慷慨ばかりで、自らどうすべきかが欠けやすい。それ以上に、未来の展望が見えない流行にふりまわされる。ブログ界を見渡してもわかるが、未来の展望のない流行をつくるのに、食っていくためだろう、熱心なひとも少なくない。結果、「欲望循環」の仕組みを動かしているほうは安泰だ。

「質素」「つましい暮らし」でも、解決しない。それは解決策ではなく、大多数の庶民は、そうならざるを得ない現実だ。昔から、そうだったが。チョイとバブリーなイイ思いをしたことがあるひとが、「質素」「つましい暮らし」を言うのではないだろうか。

日本の農家の農業経営が困難なのは、安い輸入農産物のせいだけではない。また、安い輸入農産物のせいにしていても、解決しない。

「安全・安心・健康」は、いまや、この「欲望循環」を支える消費主義の骨格になりそうだ。貸し農園など、そんなふうに見えないこともない。

ま、残飯モンダイあたりを考えてみるのも、何かの手がかりになるかも知れない。料理をやるなら後片付けもやるように、「うまいもの好き」なら食いっぱなしじゃなく、後も考えるべきだろう。

どのみち、このシステムは行き詰まり「破産する人が増えよう。最終的には国民の負担となる」のだ。メディアにのって浮ついた連中の言うことなどより、じっくり自分の暮らしと向かい合いながら考えよう。急いで結論を出す必要はない。出そうとすると傷を大きくする方向になるだろう。いまの状況、いま自分がいるところを、理解しておくことだ。

「一人一人が自からの日常生活の中でとらえるべき問題」

ちなみに、東北本線東大宮駅は1964年(昭和39年)3月 開業。東大宮の隣、大宮のあいだに土呂駅があるが、ここは、1983年(昭和58年)10月の 開業だ。この間に、日本は、コンニチにいたる大きな舵をきったといえるか。 ともかく、この間に、東大宮と土呂の周辺の農地は宅地化され、東京と「まち」続きになった。

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