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2009/01/04

「行列は作らず」の「共同炊事」を考える。

Ueno_kyodosuiji009彼女の発見なのか、それとも誰かの発見を紹介したのかは覚えていないが、だいぶ前に、「人類は腰紐のようなものを着けて自然から文化に移行した」というようなことを上野千鶴子さんが述べた。そして、日本の女がパンツをはくのがフツウになったのは戦後の新しいことだというようなことを言った。

ま、とにかく、人間は「文化」というやつで他の動物と区別されるという考えは、わりと一般的だ。その意味では、腰紐だけじゃなく、料理をつくること、食事を楽しむことなども、あげられる。

拙著『汁かけめし快食學』では、『料理人』(ハリークレッシング著、一ノ瀬直二訳、ハヤカワ文庫)の最初の扉にある箴言を引用している。

人間とは料理をする動物である。
         <古い料理書>
人間とは食事を楽しむ動物である。
         <古い料理書>

石毛直道さんのばあいは、「人間は料理をする動物である」「人間は共食する動物である」という表現になるのだが、この二つの「テーゼ」を、とても気に入っていると、「抵抗食の会(仮)」の方が、『オルタ』08年11-12月号に書いている。

すでに2008/12/15「抵抗食。」に、ちょっとだけ書いたが、「コレクティブ・キッチン」という考えあるいは方法があるらしい。

ようするに、「家族や地域社会など人間の生活を固定していたコミュニティが不安定になって、個人はずっとバラバラになり、食べるために皆が一堂に会することは少なくなってきた」「ところがそんな常識を覆し、現代都市生活のど真ん中で、日常的に人びとが寄り合い、食べ物を集め、料理し、分け合って食べている人たちがいたのです」と、ヨーロッパの「グローバル・ジャスティス運動世代のアクティビストたちが、「コレクティブ・キッチン」と呼んでいる実践」を紹介している。

日本の食育論者が「弧食」を問題視し「食育基本法」を推進しようというのとは、かなり視点からしてちがう取り組みだ。いわば、消費主義によって消費する動物にされ、「文化」を失った「食」を、自らの「文化」としてとりもどそうという実践というか。

きのうのエントリーに書いた上野公園噴水前のもちつきや、そこにあった看板の、山谷センター前の「共同炊事」だが、これは、従来の「炊き出し」とは、やり方は似たようなものなのかも知れないが、めざすところや試み方がちがうようにおもわれた。

「みんなで作って、みんなで食べる、それが共同炊事」と看板にある。

おれは「行列を作らず」に考えさせられた。そこには「自律性」の尊重が含まれるだろう。そして食べるために並ぶ、あるいは並ばされる不自然を、あらためておもった。

すでにコミュニティの「崩壊」はいわれていることだが、食のばあい、ひとりだろうと、友人同士だろうと、家族だろうと、親族だろうと、「ともに作り、ともにわかちあう」精神が、消費主義にとってかわられていることが、大きいモンダイのような気がする。

「共同炊事」には、消費主義によって失われた、なにがしかの食の文化の可能性があるかもしれない。

2008/12/29「書評のメルマガに、津村喬『ひとり暮らし料理の技術』。」に関係するが、日本で、料理を生活の技術として考えるようになったのは、著作物としても新しいことで、石毛直道さんや江原恵さんの『庖丁文化論』が登場する1970年代以後だ。女のパンツの歴史より浅く、女のパンツほどの広がりもない。そのあたりに、生命と生活と料理や食事がお粗末にされる何かが、あるのかも知れない。

考えてみると、生命を科学として考えるようになったのも、日本のばあい、おなじていどの歴史だろう。生命も料理も文化も、観念的や文学的だった歴史のほうが、はるかに長い。のだな。

ちょっと、タイトルからはずれた。いつものことだ。

共同炊事、なんだか魅力的だ。山岳部を思い出すが、それがアタリマエではない大都会のど真ん中でやることに意義があるのだろうな。

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