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2009/02/12

みんなで農業、いのちと〝農〟の論理。

みんなで農業を語る。いいだろう。だけど、たいがいのブームはそうだが、そこにいたる歴史的過程や失われた歴史をとびこえて、時代や思想や未来を要約し「トレンド」としてインスタント食品のようにしてしまう。そんな広告屋的仕掛人的わけ知り顔のオシャベリがのさばる。すると、ようするに話題を追いかけ、メディアをにぎわすだけの、「あたらしもの好き」のブームで終わってしまう。

せっかく農業に関心を持ったら、まず、この本を読むことをオススメしたい。かつて、この本で、おれは「農」と「農業」のちがいを知り、「農」と「有機農業」と「まちづくり(当時は「まちおこし」「村おこし」だったが)」の可能性について展望を持つようになった。そして、ついには、このブログで何度か書いて、まだ書きつくしてはないが、1990年前後、バブルな東京を横目に田舎へ、農村や有機栽培農家と関わりのある仕事へ向かった。

この本の影響は大きかった。「農」や「有機農業」、あるいは「農業」が担ってきた地域経済の、新たなあるべき方向への関心が高まった。といえる。サブタイトルに「都市化と産業化を超えて」とあるとおり、これは農業だけの展望ではない、そして「論理」とあるように政策的な視点を持ったケーススタディのまとめだった。だから、ま、「プランナー」の肩書で、なんだか「有機栽培なんか宗教運動や思想運動っぽいだけじゃないの」と斜めに見ていたおれのようなヘリクツこきにも説得力があった。といえる。ついでにいえば、この方向一つで、日本の農業と食の問題の全てが解決するというものではないし、そういうことを述べているのではない。

きのうエントリーに引用した、藤田敏さんの指摘「すべての人にとって農は暮らしの一部として身近にあるべきで、この何十年かはそれが離れすぎていた、それがいま少しずつ取り戻されようとしているのではないか」は、これから引用するところに関係する。たぶん、この本の提言から始まった、さまざまな取り組みの流れのなかで、藤田さんは就農のチャンスを得たにちがいないと思われる。だからまた、藤田さんは体験として実感しているのだと思う。20年以上すぎたが、この本で編著者がまとめたことは着実に実践に移され進展している。

『いのちと〝農〟の論理 都市化と産業化を超えて』(玉野井芳郎・坂本慶一・中村尚司編著、学陽書房1984年)の「序にかえて」から。これは、玉野井芳郎さん、坂本慶一さん、中村尚司さんの連名による。

玉野井さんは、本書が刊行された翌85年に亡くなられた。亡くなられる数か月前だったか、あるいはもっと前だったか、とにかく一年以内だったと思う、仕事仲間が機会をつくってくれてお会いできることになったのだが、かなわないまま伏せられ帰らぬひとになられた。黙祷。

とくに後半の、都市生活者の農業や農村への無関心は「なぜであろうか」述べている点は重要とおもう。「食育基本法」なんぞでは解決しない。そして、ほんの少しずつだけど法改正などによって、「農家の子どもだけが農業を営むことになっている現実は」変ってきている。最近の農業への関心の高まりは、それも関係するだろう。最後に目次も掲載しておく…………


 農業は私たちの生存を支えている。それゆえ、農業を農民の世界にとじこめてしまうことはできない。農村もまた、農業者だけの世界ではない。農村は、農業を基礎としながら、林業、畜産業、水産業、醸造業などの地域産業を生み、食品加工業、窯業、木材加工業、織物業などの地場産業を育てている。
 そればかりではない。農業は都市の用水を供給し、電源開発の用地を提供し、部品工場などの下請産業を引き受けている。基幹産業に季節労働者を送ったり、巨大ビルや地下鉄の建設作業員を派遣したりして、都市化を助ける一方、景気変動による労働力調節のクッション役ともなってきた。ところによっては、都市の産業廃棄物の処理場まで、押しつけられているのである。
 都市の住民もまた、根からの都市生活者ではない。多くは農村出身者であったり、その子孫である。わが日本では、お盆や正月の帰省ラッシュをみると、農村とのつながりが切れていないこともよくわかる。実にさまざまな形で、農業や農村のあり方が、都市の募らしをも決定しているのである。現代社会において農業問題が大切なのは、農業部門や農村地域にとじこめることができないからであり、都市に住むすべての人間を含めて、私たちひとりひとりの生き方を問いかけてくるからである。
 ところが、どういうわけか多くの都市住民は、農業や農村の現実についてあまりにも無関心でありすぎるように思われる。ときには、農業や農村について考えることを、意識的に避けたり拒否したりする人にも出会うほどである。都市住民の暮らしが農業と具体的な接点をもたなくなった、という意見もある。日常的に都市の生活者が、農業の成果を見たり手にしたりするのは、スーパーマーケットの食品売場ぐらいのものかもしれない。もしそうなら、自分たちの食料である穀物、肉類、果実などが、はるか太平洋の彼方からスーパーに運ばれようが近郊農村からとどけられようが大差ない、という人が出ても不思議ではない。
 日本がすぐれた工業製品を諸外国に輸出できれば農業や農村は不要である、と考える人もいる。農産物はすべて輸入すればよいというのである。一八八五年に「脱亜論」を書き、日本がアジアから技け出すべきであると主張した福沢諭吉は、このような「脱農業論」をも説いていた。一〇〇年に及ぶ近代化の体験を経た今日、私たちはあらためて福沢諭吉の理念と格闘しなければならないようである。一九八五年に日本通貨の最高額紙幣は、福沢の肖像で飾られている。なぜ農業を捨てなければならないのか、なぜアジアを捨てなければならないのか。私たちが日本銀行券に問いかけられる時代は、近代化を果たした都市の暮らしを根底的に再検討する好機であるともいえよう。
 本当は農業や農村に支えられ、深いつながりをもっているにもかかわらず、都市生活者の多くは農村に対して無関心である。なぜであろうか。その第一の理由は、都市では所得さえあれば生活のニーズが表面的には都市の中で満たされるからである。第二は、農村側で都市生活者の営農を受け入れるしくみが備わっていないからである。
 スーパーで働く人の子どもだけがスーパーの店員になり、弁護士の子どもだけが弁護士になり、公務員の子どもだけが公務員になる、と決められていれば、都外者たちはスーパーの営業や法律家の仕事や諸官庁の行政に強い関心をもてないであろう。むしろ、無関心であろうと努力するにちがいない。残念ながら、しかし、農家の子どもだけが農業を営むことになっている現実は、誰の眼にも明らかである。農家人口が減少し、農家のあとつぎ問題がいかに深刻化しても、それは農家だけの問題である。農外部門で働く人びとの、農業への新規参入の道は、閉ざされているのである。
 農地法による法的な制約がある。農業委員会による行政上の制約もある。しかし、それ以上に大きな制約は、都市住民が農村に住み、農業を始めるための手がかりがまったくみつからないことである。農業への道が都市生活者には閉ざされているのである。このような閉塞的な状況から抜け出し、誰もが希望すれば農業を選ぶことができる道をつくろう、と考えたのが本書の出発点である。
 本書は、したがって、都市で暮らし、農業に関心をもとうと思ってもその手だてがみつからないという、農外生活者のために用意されたのである。さまざまの農学書や農業政策に関する書物が刊行されるなかで、農業や農村に縁がないと思いながらも、身の廻りの生活を通じて食物の生産される場の問題に関心をもちはじめた、都市住民に読まれることをめざしているのである。

序にかえて 玉野井芳郎+坂本慶一+中村尚司

第Ⅰ部●産業化を超えて

1 生命系の世界を開くために  玉野井芳郎
2 生存のための農業  坂本慶一

第Ⅱ部●等身大と″農″の世界を求めて

1 〝国家大〟の発想から〝等身大〟の発想へ  多辺田政弘
2 もうひとつの日本農業  渡辺善次郎
3 日本の有機農業運動  古沢広祐
4 有機農業の技術的基礎  宇田川武俊
5 アニマル・フアクトリーから有畜農業へ  田中学
6 協同組合の再発見  丸山茂樹

第Ⅲ部●〝農〟をめぐる実践

1 農村社会は変わったか(新潟県月潟村)  中村尚司
2 一〇年目をむかえた有機農業(山形県高畠町) 根本悦子
3 ムラとイエのあいだ(愛知県鳳来町) 足立真理子
4 ボクたちの農学校ができる(愛知県設楽町) 湯本裕和

あとがき

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