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2009/10/24

「ミシュラン」の黄昏 3。「自分流」の台頭。

世の中には、さまざまな「ランキング」や「ランキングビジネス」がある。公的機関によるランキング以外は、たいがいビジネスだ。芥川賞や直木賞にしたって、出版不況の関係もあってか、その販促的色彩は濃厚になるばかり。

それに、公的機関によるランキングにしても、公的機関がめざす目的や基準などがあっての評価だから、それをやる政府や役所の都合や考え方で評価はちがってくる。現に政権が変って、公共機関の事業など、いろいろな評価が変っている。公的機関のランキングだから「厳正」で「公平」あるとはいえない。ましてや、ビジネスのことでは。それでも格付会社やビジネス誌がやる、銀行や企業の業績評価などのランキングは、「ミシュラン」と比べたら、まだ基準はハッキリしているほうだ。

「ミシュラン」は、なんのランキングをしているのだろう? 味のランキング? 味覚のランキング? 食事の満足度のランキング? 味覚の幸福度? それとも、ああだこうだ。といったところで、料理が対象であるかぎり、じつに主観的主情的なものにちがいない。ま、どこまでいっても「ミシュラン流」のランキングなのだ。それは、とうぜん、「ミシュラン」のビジネスやマーケティングの継続が前提になっているはずだ。

日本で「ミシュラン」を根本からゆさぶるような流れが目だってきたのは、バブルのころからとみることができる。なんだかんだ選択肢がふえた。あのバブルの時代に、グルメの先陣をきったのは、確かにフラメシだったが、すぐさまイタメシが並び、エスニックも大都会を中心に人気を得た。さらに、ラーメン、カレーライスなどのB級単品グルメのブーム。バブルは崩壊したが、グローバリゼーションと続く世界同時貧困化のなかでも、選択肢は増え続けている。

そこに見えるのは「自分流」ってことだろう。そう、あのバブルが残した、前進面といえば、日本人にとっては「自分」の発見だった。「自分探し」なんていう流行もあった。なんだか日本人は、「自己」を主張するようになった。それを「自己中」「自分勝手」と認識し、教育改革で道徳修身を徹底すべきといった議論まで盛んになった。ああ、「自分」、どのみちやっかいなもの。それが底流にある。

「なになには、どこそこにかぎる」式の単一の権威を頂点とした評価そのものが、そもそも食文化とはなじまない。それが成り立ってきたのは、強大な権力と権威を頂くなかに安定を求める「帝国」が存在してきたからだろう。そこでは、「なになには、どこそこにかぎる」式権威の構造のなかにしか、「自分」は存在できなかった。「名品」「名店」「一流」に寄りそっていれば、「自分」は安心だった。

たしかに、マスコミは「ミシュラン」で騒いでいる。しかし、あんなものに踊らされて「自分不足」じゃねえの、おれは誰がなんといおうと、この店がイチバンなんだよ、というものを持っているひとのほうが、多いのじゃあるまいか。ビジネスとしては必要でも、趣味としては、さほどのことじゃないといった傾向もある。そもそも、フランス旅行アコガレも、かつてほど熱をおびてない。それぞれが「自分流」を知ってきている。ま、いわゆる「アンチ・ミシュラン」には、自分が信じる権威以外は認めたくないというひともいるのだが、それはこの際問題にしない。

たまたま手近にあって、パラッとめくった本。編集的には、かなりイマイチな本だが、かき集められた、それぞれの文章の中には、いくつか光るものがある『どの酒を飲むか』(山本祥一朗、三一書房1995年)の第一章の「酒を選ぶ」の最初の項は「自分流」だ。

そこでは、まだ、こう書いている。これは「幻の酒」騒動についてだが。「酒呑みたる者、少しは自分の舌を信用したらどうか、といいたい。人が騒ぐなら、それにむしろ反発して、自分の好みの酒くらいは自分からすすんで探すことで、他人のあまり飲んでいない酒を求めるくらいの気概があってもいいのではないか」「要は、自分の嗜好に忠実な酒選びである」

このころと比べたら状況は変ってきたようにおもう。ほかに、作者は「居酒屋のモノサシ ――寛容できる限度」「味の表現考」など、おもしろいことを書いている。店情報や商品情報のことばかりじゃなく、こういう話に関心を持つ「自分流」は、これからまだ広がるだろう。ようするに、「多様化」は、これから、本格的になるだろうってこと。「多様化」というか、「帝国」の権威とタガが崩壊するのだな。

そもそも、「ミシュラン」の「海外進出」は、フランス旅行アコガレに依存していたのではフランスへの旅行客は減少先細りになるほど、観光趣味が多様化したからではなかったか。「ミシュラン」の御威光ビジネスは、自分の嗜好にあまり忠実でない人たちへのプロモーションとして、利用価値が継続するのだろう。

きょうは、こんなところで。

2009/10/21
「ミシュラン」の黄昏 2。権威の盛衰。

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コメント

いやあ、ははは、フランス料理のシェフの方によろこんでいただけるなんて、うれし恐縮です。

学校の成績の評価のしかたも、すいずん変って、いまはどうなのか知りませんが、テストの結果で「学力」なんていうけど、あれは「テスト力」とか「記憶力」とか「対教師服従力」とか表現してほしいですね。

かくいう私のライター力は、売れるか売れないかで評価されるので下の下です。

でも、ジローさんがワイン何本あけられるかを基準に、がんばってみます。

投稿: エンテツ | 2009/10/25 08:23

あははあははははは。エンテツさん・最高です。
自分で文字にできない分・・・・・
すごい尊敬・・・いやうらやましいです。
自分もその文章力がほしいです。
生涯の中で、国語は、5しか取ったことが無く、
(そのランキングもいらないですね。)
結構好きな方ですが、エンテツさんの言霊を見てると、
もっと勉強したくなります。
自分の戯言や、悩みがふっとんでしまいます。
生きた言葉ですね。
エンテツさんの言葉をみて、
ますますフランス料理・・・・がんばります。
エンテツさんのブログで、
ワインボトル2本目です。

投稿: giraud | 2009/10/25 01:38

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