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2009/10/21

「ミシュラン」の黄昏 2。権威の盛衰。

061a_209/10/19「白金の憂鬱、「ミシュラン」の黄昏」のつづき、ということでもないが、「「ミシュラン」の黄昏」の2回目だ。

きのうのエントリーに書いた、「スソアキコのフィールドワーク 八ヶ岳、五千年前のふつうの家の器です」が載っている『クウネル』を入手して見ていたら、「高橋みどりの伝言レシピ」に気になる記述があった。

「とうふめし」ってのがあって、作り方は、「1、ごはんを炊く。」「2、炊きたてホカホカごはんを器に盛り、とうふをその上にのせる。」「3、しょうゆをたらし、ガツガツ食らう。」と。

そのあとに「ポイントは、薬味や味つけなどの工夫をしないこと!それによって、たとえコンビニのとうふでも〝とうふめし"のうまさがわかるんです」と千さんの弁」とあるのだ。その下に、「教えてくれた人 石田千サン」「作家の石田千さんが手紙でこのレシピを教えてくれました。薬味なしのしょうゆたらりで、とうふの味がよくわかる。」

おれは、これを読んで、妙に腑に落ちない気分になった。いや、べつに、めしに豆腐をのせ、しょうゆをかけるだけのめしは、おれもやっているし、それはそれでよいのだが、そこに「ポイントは、薬味や味つけなどの工夫をしないこと!それによって、たとえコンビニのとうふでも〝とうふめし"のうまさがわかるんです」というリクツをつけているところが、どうにも腑に落ちないのだ。悩ましい。いったい、何をいわんとしているのか。

「たとえコンビニのとうふでも」という言い方から察するに、おそらく、コンビニのとうふはとうふのなかでもマズイたぐいのものなのであろう、そのマズイとうふでさえも薬味や味つけなどの工夫をしなかったら、とうふめしのうまさがわかる。スナオに考えるなら、こういう「ポイント」ってことになるだろう。

しかし、これは料理的には、どうなのだろうか。とうふめしのうまさを知るために、まずは、コンビニのとうふを買って、このようにやってみましょうという話なら、わからんでもない。が、この「ポイント」では、とうふめしには、薬味や味つけの工夫などいらないということになってしまう。ま、それならそれでよい、とうふめしにはしょうゆさえあればよい、そういう言い切りもあるだろう。それに、「薬味なしのしょうゆたらりで、とうふの味がよくわかる」ということなら、「とうふめし」なんぞわざわざやる必要はない。「とうふめし」であるならば、「とうふ」と「めし」を別々に食べるのとはちがう味わいを、そこに求めるのがフツウだとおもう。

問題は、薬味や味つけを、どう考えるかではないか。その考えがないから、こういう「ポイント」の言い回しになったにちがいない。とまでいうつもりはないが、こういう「ポイント」の説明は、料理的には、無用だし味覚に関する混乱を招きやすい「レトリック」のようにおもう。

とかく「文章家」は、こういう「レトリック」をつかい、味覚や料理に影響をおよぼしてきた。

かつて、たくさんの料理の話を文芸的に書いた「日本料理の大家」が、そばの「真味」を味わうには種ものではだめで、かけそばだかもりだかに限るというようなことをいった。ほかにも、そばや天ぷらは、その「ほんとうの味」を知るには、塩だけで食べるのがよいといった話もある。それがいつしか、そばや天ぷらの「正しい」「うまい」「通」な食べ方になってしまう。文章のレトリックにはまって、騙されるひとは、けっこういる。たいがい世の中は、誤解やカンチガイで成り立っているのだから、こういうレトリックを駆使した文芸が活躍するのだろう。

日本で、料理や味覚とりわけ「うまいもの」のことで、強い影響力を持ってきたのは「文芸」だった。なかでも、「文士」だの「作家」だのというひとたちだ。「文芸性」は、料理や味覚に限らず、あらゆる分野で、絶大な権威だった。「作家のナントカさんがこういった」というだけで、信用され受け入れられてしまう。「作家のナントカさん」にほめられただけで、ハクがつき、客が押しかける。

その作家や文士を頂点にしたヒエラルキーに、ゆさぶりをかけたのが、わかりやすい個人名をあげれば、山本益博さんということになるだろう。かれは、どういうふうに、それを崩したかというと、「フランス料理店300店を食べ歩いた」といった風ないいまわしや、「20歳のころまでに東京中のうまいものは食べ尽くしてきたつもりでいた」といった風なものいいで、権威を確立していった。この傾向は、B級グルメにまで広がり、「作家」の肩書なんぞなくても、「チャンピオン」になったり「何軒くいたおした」でいけちゃうひとたちが続出する。

そのことについては、以前に、[書評]のメルマガ2005年8月13日発行 vol.225 食の本つまみぐい(13)で、山本益博著『東京味のグランプリ1985』(講談社、1985年)を取り上げたときに、2回にわたって簡単にふれている。 タイトルは「「文士風」との別れ」だ。

そのころを境に、「文芸性」の権威は、衰退へむかう。かわって「ミシュラン」をモデルとした動きが活発になる。

公平にみて、そして当然だとおもうが、作家や文士たちの食談義より、料理関係の評論家のたぐい、どういう肩書でもよいが、山本益博さんもほかのひとたちも、どことなくいかがわしく、イマイチ、文芸な香りに欠けるのだが、料理や味覚については、それなりに真剣で正確であるようにおもう。薬味や味つけの工夫についても、それなりの考えを持って、料理や味覚にのぞんでいるようにおもう。

では、「ミシュラン」あるいは「ミシュラン・モデル」って、なんなのさってことになると、それは、ようするに一つの「ビジネス」であり「ビジネスモデル」にすぎない。その意味では、「ミシュラン」も山本益博さんもほかも、ここ数十年のあいだに成長した外食産業を舞台にした「ニュービジネス」としての成功と権威で、食文化的には、どうだろうかという問題は残る。

きょうは、ここまで。つづく。

参考=ザ大衆食のサイト
「食の本つまみぐい(13)「文士風」との別れ その1」…クリック地獄
「食の本つまみぐい(14)「文士風」との別れ その2」…クリック地獄

2009/10/19
「ミシュラン」の黄昏 1。白金の憂鬱。

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コメント

ギャッ!大変失礼致しました。昭和の芸人さんにしてしまいましたね。

投稿: しゃんだお | 2009/10/25 00:33

あっ、酔ってますね、「エンタツ」だなんて、「エンテツ」ですよ。どっちでもいいですが。

確かに東京はノッペラボウになりつつあるけど、ノッペラボウの街にはない磁力が、まだあちこちにあります。

投稿: エンテツ | 2009/10/24 01:16

はい。自宅に帰り着く迄に満身創痍です(笑)

店が発する引力は、エンタツさん偏愛の『信濃路』レベルの店ともなると非常に強力ですね。JRに乗っていて一瞬見える看板が気になったのをきっかけに、飲みに行くようになってしまいましたから。

投稿: しゃんだお | 2009/10/24 00:59

好きなタレントが行った店に行ってみたいということはあるだろうけど、そこが「うまい」とは限らないし、タレントのいうことが「正確」とは限らないですよね。そのあたりは自明のことだと思うのだが、なかなかどうして。ま、有名人というのは「広告塔」のような効果があるのは確か。それを「権威」にしてしまうと、おかしな「教条」や「盲従」が生まれますね。

通りすがりにピンときたら入ってみる感覚は、日頃そうしてないと、なかなかできないのかも知れない。押上あたりは、「磁力」だらけで、無事に通りぬけるのが大変でありましょう。

投稿: エンテツ | 2009/10/23 07:51

最近多いのは"タレントの×××お薦めの店"という類でしょうか。自分としては、味の好みは人それぞれだし、いちタレントが誉めているからといって美味しいとは限らないでしょ、と思うのですが、それで客が押し寄せるんですよねぇ・・・。
店を決める基準が「通りがかりにその店に"呼ばれた"から」という自分には理解し難い現象です。
いい店、自分と合う店って、「さぁ、いらっしゃい」という抗し難い磁力みたいなものを発しているんですよね、本当に!

投稿: しゃんだお | 2009/10/22 23:31

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