コツコツ、資料を整理している。まだしばらく整理は続く。
自分は優れている、人より上でありたい、人の上に立ちたいというのは、どうしてそういうことになるか、仕組みはよくわからないが、そのネタを食べ物に求めるのは、なんとも貧しい精神を感じる。
人は、それぞれの生活に応じて、いろいろなものを食べて生きているものなのに、自分や自分たちが食べているものが優れていると、主張してやまない。自慢するだけでなく、他を見下し、ときによっては、これを「悪」と決めつけバカにする。
「B級グルメでまちおこし」なるものが盛んだが、そこに優劣競争意識が強く入り込んできているようだ。ま、競うのは、そんなに悪いことではないと思うが、なにをもって競うかだろう。
そもそも「B級グルメ」というのは、たいがい大衆食のものであり、生活のものではないか。味覚の、差違で競うのすら、生活がちがえば味覚もちがうのだから、ばかばかしいが、「消費量」や「消費額」で競うなんて、愚の骨頂だ。
「餃子日本一」巡りしこり?浜松のまつり、宇都宮は辞退
http://www.asahi.com/national/update/1017/TKY201010170285.html
全国各地の餃子(ぎょうざ)を堪能できる「浜松餃子まつり」が23、24日、静岡県浜松市中区中央1丁目のアクト通り東ふれあい公園で開かれる。ご当地餃子がそろう中、浜松餃子の最大のライバル「宇都宮餃子」は直前になって参加を見合わせた。背景には、“両雄”の思惑や感情的なしこりがあった。
4回目を迎えるまつりでは、北海道から九州まで9地域の餃子や地元店の新作など約2万食が即売される。しかし、チラシの「販売イベント参加国」に名を連ねていた「宇都宮餃子」の文字は、開催10日前までに黒く塗られた。「1カ月を切った時点でキャンセルされた」。まつりを主催する浜松餃子学会の斎藤公誉(きみたか)会長は嘆く。
一方、宇都宮餃子会は「今年7月に参加を打診されたが断った」と話す。B級グルメが競い合う「B―1グランプリ」にも距離を置いてきた同会は、「他の餃子と競合しようという気持ちはない」との姿勢を貫いてきた。
同会によると、浜松の祭りに参加予定だった宇都宮餃子の店舗は、会としての不参加決定を知らず、個別に出店を打診され、いったんは了承したらしい。平塚康(こう)専務理事は「最終的に店側が参加しないと決めたようだ」と話す。
同会は餃子店経営者らが中心になり1993年に発足。地元の「家食」餃子に着目し、「宇都宮餃子」を全国レベルの観光資源に育てた。国の家計調査で宇都宮市が「1世帯当たりの餃子の年間購入金額日本一」 に輝き続けた経歴もPR上の強みだった。
この「先駆者」のプライドを傷つけたのが、2007年に「こちらが日本一」と名乗り出た浜松餃子だった。
浜松市が06年に行った独自調査に基づく宣言だったが、国の調査とは方法も対象数も異なるため、宇都宮サイドは「客観性がない」と静観を決めた。浜松市は政令指定都市移行後に国の調査対象となり、宇都宮市と同じ土俵に乗ったが2年連続で苦杯をなめた。
……以下略。といった記事があった。この根っこは、深い。
大衆食ではなくても、自分が食べるものなんぞは、ひとにひけらかして自慢し競うようなものではないと思う。ま、そのあたりは、「宇宙観」「世界観」の問題なのだろうが、じつに貧しい精神ではないか。おたがいに、楽しく食べ、おもしろく楽しく生きることが大事なのではないかと思う。
だけど、なんでも、どうしても人の上に立ちたい、というやつがいるものだ。
そういう貧しい精神が、たしか「B1グランプリ」にしても、楽しむ祭典だったのだが、ちかごろは、その大雑把な採点方法が問題になったりするように、優劣をつけることに関心が動いているようだ。それには、グランプリに輝くと、多額な「経済効果」があることも関係する。
そもそも、自分が食べるものごときをひとに見せびらかしたいという精神は、どういうものか。商売の人は、自分の料理を自慢するのがトウゼンだろうが、それだって、過ぎれば嫌われる。
かつて、「三種の神器」といわれたものがあった。えーと、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、だったかな? 「新三種の神器」というのもあった。えーと、クルマ、エアコン、カラーテレビ、だったかな?
いずれも、マスコミがつくりあげた、中流意識の消費をリードする言葉だった。こういうモノを持つことで、小市民的生活と「豊かな」中流意識を獲得する道へ導かれた。こういうモノを持って、ひとに見せびらかしたものである。つまり、自分がいい生活をしているということを、「自慢」あるいは知ってほしい、知ってもらって、満足できるという困った「豊かさ」。その就縛が、まだ続いているようだ。
90年ごろ、バブルの最中、「豊かさとは何か」が問い返され、モノに頼った「豊かさ」が問い直される動きがあらわれた。だけど、そうは簡単にモノ離れはできない。モノと「豊かさ」に対する執着が、あまりにも強いというべきか。
バブル崩壊後の長く続く「不況」下で、「豊かさ」に対する執着は、どうなったか。その一つは、B級グルメと「粗食のすすめ」にむかった。ようするに、なにかしら、モノが頼りなのだ。
そして、もう一つ、別のカタチでモノにとらわれたがゆえに、モノを拒否することにこだわる、カルト新宗教やスピリチュアルなるものが、盛んになった。それは、ココロの「豊かさ」と関係があるらしい。
なんにせよ、高度経済成長期をリードした「豊か」という言葉に、とらわれてしまっているのだ。
ちかごろは、「断捨離」というのがハヤリだそうだ。ま、モノを捨てる、あまりモノを持たない生活らしい。
しかし、人間、何かしら楽しみが必要だろう。その楽しみを、モノが頼りだったり、「豊かさ」が頼りだったりしたのとは違う「なにか」を獲得しなくては、「豊かさ」でバブルのようにふくれあがった脳ミソのままでは、「断捨離」は難しいのではないかと思う。そこに、「宇宙観」「世界観」のモンダイがあるわけだ。
とにかく、ちかごろは、かつての三種の神器にかわって、B級グルメや無農薬有機栽培の「粗食」や「自然食」、ナチュラルぽいアートぽい道具や小物や雑貨、といったモノが、小市民的いい生活である「豊かさ」の「神器」になっているようだ。
捨てなくてはならないのは、かつてマスコミがつくりあげた、根拠のない「豊か」という概念、それを追い求める「宇宙観」「世界観」だろう。
ま、おれは、そう見ているということなのだが。なんとか、普段の食べ物は、それぞれの生活に返してほしい。
どうしても、人の上に立ちたいなら、食べ物にせよ、すごい高価なモノで競うべきである。
不況でカネが無いからと、普段の生活の料理、大衆食レベルのネタで優劣を競うなんて、あまりにも情けなくあさましい。