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2010/11/24

「ふだん」を上手に語る『てくり』の魅力。

「『てくり』のクオリティについては、いつか書きたい。」と、2010/05/04「岩手県盛岡「てくり」と、てくりブックレット『盛岡の喫茶店』。」に書いたままだった。

この「まち雑誌」というか「タウン誌」というかの魅力は、すばらしいものがあるなあ、とおもいながら、イザそのことについて書こうとすると、なかなかうまく書けない。

001この雑誌の肩書には、「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」とあるのだが、おれがおもうに、「ふだん」を語るのは、とても難しい。

たいがい、「伝えたい」「残したい」ものは、「ふだん」「ふつう」より、なにかしら「特別」で「非日常」で「群をぬいている」ことに寄りかかって偏りがちだし、世間の「文化財」だの「職人技」だの、「まちの誇り」というものは、そういうことで伝わり残っている。

ある種、そういう「制度」があって、それに飼いならされて、メディアを受け取るほうも、それを期待している面があるとおもう。だからだろう、「名人」「名店」「名手」「逸品」「絶品」「厳選」「自然」「珠玉」「至高」「秘伝」「粋」……といった、なんどか書いたが、かざせば権威を持つかのような、だけど内容のない「印籠語」がメディアに氾濫している。

そういうメディアを無批判に受け入れている人たちは少なくなく、おれもある店を取材したとき、おれの原稿は店主にチェックされるわけだけど、商品の説明に「秘伝」をいれるよう直しが入ったことがあり、もちろんそんな大それた言葉を使うような内容ではなかったので直さなかったが、もうそういう言葉自体が何の意味もなくなるほど、ズサンに惰性的に流通している。この傾向は、飲食の分野において、とりわけ濃厚なのだ。

それは、とりもなおさず、「ふだん」「ふつう」の生活を上手に語れない、なにかしら人前で語るとなると、そこに「文化的」「芸術的」に高度な雰囲気をもたらす「言葉」が必要であるという、その結果、先のような「印籠語」がもてはやされるというのは、なんとも貧困な文化であるのだが。

それはともかく、いただいた『てくり』の最新号の特集は、「お酒とわたし。」である。これを見て、そこんとこが、はっきりしたのだが、酒などは、いちばん印籠語が活躍する舞台なのに、それに類する表現は、まったくない。

それでいて、こんな人がいる、こんな仕事や働きがある、こんな生き方がある、盛岡の暮らしっていいよね、という感じがビンビン伝わってくる。書き手が前面に出てくるような文章でなく、登場人物の具体的な言葉が、ビンビン胸にひびくのだなあ。つまり、そういう言葉を持っているひとがいるということが、盛岡の文化の魅力であり盛岡のまちの魅力だと、おもう。

もちろん、自意識過剰な編集者やライターでは、たとえそういうひとがいたとしても、その言葉を伝えきれないのだけれど。自分のことをふりかえっても、そこんとこが、なかなか難しい。そこを、『てくり』は、上手にクリアしている。

003_2「盛岡の人々に愛され続けているベアレンビール」をつくりあげた社長の木村剛さん(1968年生れ)と、木村さんが働いていたことがあり、木村さんを見守り続けてきた「ヌッフ・デュ・パプ」の伊東拓郎さん(1964年生れ)の対談。

伊東さんが、「剛くんはここで働いてお客さんと触れたりお客さんの顔を見て、ベアレンの形をまとめていったんじゃないかなと思う」という。木村さんが「そうなんです」「ここで働いて知ったのは、(お客さんが)本当においしいと思って飲んでいる時とそうでもない時とでは、表情が違うということ。それと、おいしいものというのはもう一杯手が伸びる。そういう現場を見ると、「2杯目が飲みたいな」とか「明日も飲みたいな」というのが大切なんだと感じました」という。

親父さんが倒れたのがきっかけで、サラリーマンをやめ、奥さんの純子さんと盛岡にもどって家業の酒屋をついで「良酒専門店 吟の酒 きぶんね」をやっている、村井守幸さん。「この四国の酒なんか10人いたら1人しか「うまい」って言わない個性的な味」でもうちはそれでいいと。「人間が好きなんです。だからまず蔵元に惚れて「あの人のお酒を広めたい!」ってのが先。酒の味は進化していくものだから、育てる気持ちでつき合っていきます」

もう、みなさん、リクツをふりまわさず、とことん「現場主義」というか、じつに皮膚感覚を大切にしているというか、『てくり』そのものも、そうなのだ。こういうまちには、全面的にということはありえないだろうが、きっといい人間関係があるにちがいない、いいねえ、とおもうのですね。

「みかん」の林みかんさんは、なぜ呑み屋を始めたかについて、こう語る。「店をやろうと思ったのは、わりと最近。ある日、ふっと。つれあいが亡くなって、そう頻繁に人を招いてばかりもいられないし料理欲を満たすという意味では、店をやるのがいいかなと」

002写真もすばらしく、ふだんの現場を語る。「平興商店」という酒屋さんには、「もっきり」のコーナーがある。そこで、買った酒やつまみを楽しむことができる。非立ち飲みの「角打ち」のようなものか。そのコーナーには、「平興学校」と手書きのノレン風のものが下がり、「コップ酒で語らいの店」とある。

飲食つまり生活には物語がある。それは、まちの物語と地続きであるはずだ。そこを丹念にほりおこして、まちに生きるひとの言葉で語っている、だから『てくり』は魅力的なのだとおもう。こういう文章や表現は、あまり文芸的には評価されないのだけど、とても難しい。そして、なぜか、文芸的な手練手管で読者を酔わすようなものが、「名文」として、高く評価される。どこかオカシイんじゃないの。『てくり』を読もう。

てくりのサイト
http://www.tekuri.net/

木村衣有子さんが企画と文の『北の服』も、この『てくり』と同時に発行になっている。まだ入手してないけど、『盛岡の喫茶店』に続く「てくり」のブックレット、よろしく~。

関連
2010/05/04もう一度『盛岡の喫茶店』。まちに生きる言葉、文章、表現。

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