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2011/02/19

きのうの続き。味覚と食べ物と食べる。

「食べ物」と「食べる」のあいだで、いちばん多くみられる混乱は、味覚のことだろう。これを、「食べ物」の話としてする人は、少なくない。たとえば、「ナニナニは、ドコドコ産のものが一番うまい」といった例。

ところが、味覚は「食べる」という行為によって得られるもので、人間側のことだ。食べ物側のことではない。もちろん、食べ物には味がある。近ごろは、「糖度」といったぐあいに「科学的」に計測し表現することも多くなった。

食べ物の味は、レシピなり、製造法などに関係する。が、たとえば、料理にしても、作るときは、食べるときを想定している。食べる場面を想定しないで、どうだ、おれ様の腕前を見てくれ、というのもなくはないが、普通ではないうえ、そういう人は必ず「どうだ、おれ様の腕前を見てくれ」という、能書きも含め、「食べる」場面設定をしていることが多い。商品開発やメニュー開発なら、「食べる」行為の、年齢や時間や場所など、かなり細かいところまで想定する。

なのに、「ナニナニは、ドコドコ産のものが一番うまい」といった例は、なぜ生れるのだろうか。それは、たいがい、文学的に抽象された積み重ね、それから、広告的なストーリー、によってなのだ。生活の実態からではない。「食べ物」と「食べる」の区別がついていれば、避けられる混乱だと思う。

そういうわけで、再度、2010/10/15「西江雅之さんのオコトバ。」に引用した、西江さんのオコトバである。

 もし、食べるという行為が生命を維持するためだけのものならば、人びとの腹を満たすのに必要な食料が供給できさえすれば十分なはずだ。
 しかし、人間の食べ物には文化が付きものである。世界中、如何なる人間集団の中に入っても、何を、いつ、どこで、誰と、何を使って、どのように食べるか。それによって、たとえ同じ料理でも味は大きく異なってくる。(『Tasc Monthly』8月号(財団法人たばこ総合研究センター TASC発行)、「聖なる煙に導かれて」第8回「ビンロウのこと」より)

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