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2011/03/13

ロクデナシの唄。

おれは単純な原発反対論じゃではない。そもそも「危険だから」「安全だから」という議論もクダラナイと思っている。今回の原発事故で、思い出したのだが、おれは『大衆食堂の研究』で、こんなことを書いていた。これが、大衆食堂と関係あるかといえば、あるのだが、いま、実際にこのことを考えてみるに、よい時期であるかもしれない。ぐふふふ、『大衆食堂の研究』は、じつに有意義な内容に富んでいるのだなあと、あらためて思うのだ。

これは、「煽動編*空前絶後、深い正しい東京暮らし」の「*二、深い正しい東京暮らし*」の「ロクデナシの唄」に一部で、全文は、こちらでご覧いただける。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_02.htm

 おれたち東京の電力のために、新潟の海岸に原子力発電所をつくるのはやめよう。
 やっぱり東京の世田谷あたりにつくろう。駒沢公園をつぶしてもいい。あちらでは、賛成だろうと反対だろうと、建設となれば、原発と暮らす覚悟がいるのである。その覚悟を、東京の人間だけができないというわけはない。
  東京あたりで偉そうにキレイゴトするのはいかがなもんでしょうか。

都心は、地震から「正常化」に向かいつつあるようだが、その向かうところは、いまのところ、たぶん惰性的に、地震以前の日常にもどるのが「正常化」であるような動きである。だとしたら、原発の「正常化」も避けて通れない。原発を元通りにするのである。

極端な一極集中化で、いまや、小さな店小さなイベントですら、巨大な電力頼りの交通網がなくては成り立たないほど、東京は広域システムにのっている。それはもう、「芸術的」といってよいほどの交通網であり、そこを走る電車やクルマも、「芸術的」といってよい緻密さで管理されている。そして、遠くから人を集めて、たくさん集まったと、よろこんでいる。ディズニーはディズニーなりの広域から、小さな店やイベントは小さな店やイベントなりの広域から。

歩ける範囲の地域の経済や文化というと、いまやコンビニが、まさに「芸術的」なシステムで成り立っているわけだが、そのニギリメシ一個を運ぶのにも、やはり広域システムを必要とし、とんでもない距離を運ばなくてはならない。それらが、アタリマエな感覚で、これからの原発の「正常化」や東京の日常の「正常化」は、地震前の状態をめざして、すすむのだろうか。

「節電」「節電」といわれ、おれもそれなりに節電しているが、電気製品だけじゃなく、水道もガスも下水道も電気がなくては正常に動かない。自動車交通網だって、信号がダウンしたら、これまでのようにはいかない。

ま、まだ原発事故のことが、これからどうなるかの状態であるが、一方では、普段にもどりつつあるわけで、またそうしなくてはならないわけで、しかし単純に地震前を基準にすることは、はたして、どうなのかな現実的に、そうはいかないんじゃないの、無理があるんじゃないのと、思うわけだ。

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