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2011/10/29

「場所」、そして郷土料理と家庭料理。

2011/09/29「筑摩書房PR誌『ちくま』に連載の木村衣有子「もの食う本」は、画期的。」では、「ここに紹介しようとすると、興奮でドバーッと思いと言葉があふれ、溺れそう、うぐぐぐと脳ミソがつまっちゃうのだ。とにかく、息をしずめながら、少しずつ書く」なーんて書きながら、少しずつも書いてない。

では、きょう書くのかというと、そうでもない。でも、少しだけ言うと、これまでずいぶんたくさんの食の本が出ているけれど、それに対し、ちゃんとしたレビューを書けるような「批評家」なり「書評家」がいなかった。

というのも、「文学的(文芸的)」な素養や知識は十分でも、食文化的な素養が、あまりにもなさすぎたからなのだ。かなりの「文学者(作家)」にしても、食文化については、好事家的な知識がせいぜい。この弊害は、小さくなかった。

たとえば、これだけ食の本が出ているけれど、スティーブン・メネルのような『食卓の歴史』やジャック・バローの『食の文化史』やジャン=フランソワ・ルヴェルの『美食の文化史』のような本は生まれない。一方で、例のブリア・サヴァランさんの『美味礼讃』を成功モデルにした、ガラクタからそれなりのレベルの内容に、文学的虚飾をほどこしたようなものは、あふれている。あとは、食通だのグルメだのなんだのと、高尚で文学的であるか、おもしろおかしければ、食文化的なキホンなどは、どうでもよいという感じ。それから、身体や経済のためになる料理だの栄養か。

ま、そういう話になっちゃうのだが、木村さんの「もの食う本」は、そこを越えられそうなのだ。そういう希望が持てる。それゆえ「画期的」なのだ。

料理や食事には、「場所」が大いに関係する。どんなに関係するかは、1970年代に、ファミレスやファストフードのチェーン店が登場するときのうたい文句を思い出せばよい。それらは、「いつでもどこでも、同じ、おいしい味を提供する」それゆえ安心して食べられるオペレーションがウリだった。つまり、「場所」は、問題にならない。いや、経済効果的に問題になるだけだった。

場所は、土地(地域)と人間が関係する。大衆食堂のような個人店となると、場所が大いに関係する。家庭料理となれば(大衆食堂の場合、家庭料理も多いが)、なおのこと。

この場合、アタリマエのことだが、場所が変われば、土地と人が変わり、料理や食事には差異が生じる。場所は、店でもある。あるいは、家庭でもある。その差異を無くするのが、チェーン店のオペレーションの特徴。

めんどうなのは、「郷土料理」だ。これは、文字からしてそうだが、場所といっても土地の概念が支配的だ。ついでに言えば、「家庭料理」の家庭は人の概念が支配的だろう。たいがい「おふくろ」という人間が支配的だった。

この話をするのは、『ちくま』10月号の「もの食う本」は、取り上げている本2冊のうちの1冊が、『私の作る郷土料理』(ふるさとごはん会・編)で、その終わりの方で、木村さんが「違和感」を持ったと述べていることに興味がわいたからだ。

なぜ木村さんが違和感を持ったかというと、その本の「おわりに」と題された文章に、「郷土料理といっても、全国各地でご相伴にあずかってきたのは、どれも、ふつうの家庭のおかあさん、おばちゃんが作り続けてきたふるさとの味」とあるからだ。

木村さんは「この一文には、違和感を持った。郷土料理とは〈ふつうの家庭のおかあさん、おばあちゃんが作り続けてきたふるさとの味〉に間違いないだろう。〈といっても〉などと、いったん否定する必要があるのか。なんとなく、郷土料理とは〈ふつう〉ではいけない、という思い込みが透けてみえるような、ここまでせっかく〈ふつう〉のあちこちの土地の料理を紹介してきたのにもったいないような、それは私の勘ぐり過ぎか」と書いて終わる。

これは、難しいところだ。「といっても」を、どう解釈するかによるが、一つは、単に「郷土料理といわれているけれど家庭料理なんですよ」と読めなくはない。

だけど、そうは素直に読み取れないのは、やはり「郷土料理」という言葉に含まれている伝統的な土地の観念があるからだろうと思う。

木村さんだけではなく、編者自身が、タイトルに「郷土料理」という言葉を使いながら、しっくりきていなかった可能性もある。少なくとも、「郷土料理」と「家庭料理」という言葉が持つ矛盾に、体験的に気づいていたとも推測できる。

やっかいなのは、そこから人の顔が浮かんでこない「郷土」という言葉ではないか。本来は「ナントカ地方の料理」といえば、もうそれは家庭料理であり、「ふつうの家庭のおかあさんや、おばあちゃん」の料理である。

ところが「郷土」という言葉は、敗戦まで続いた地主制度や貴族制度も関係すると思うが、土地にまつわる権威が含まれ、さらにそれは、芸術的に権威づけられた、あの「柳宗悦的民芸調」に装飾された「郷土料理」となる歴史もあったように思う。廃刊になった『銀花』という雑誌などには、それが色濃く見られたと記憶している。

てなことで、「郷土料理」という言葉は、もともと人間の顔の影はうすい上に権威的に装飾され、郷土は晴れがましく、郷土の英雄や名士はいても、ふつうの人間の顔は見えないという歴史があった。と、おれは見ている。

つまり、意識のていどの差はあれ、「郷土料理とは〈ふつう〉ではいけない、という思い込み」というか感覚は、わりと刷り込まれていたのではないか。

だから、この木村さんの違和感も当然だと思うし、また編者の「あとがき」が煮えきらないのも、そのあたりに原因がありはしないかと思うのだな。

そして、こういうところに「違和感」を持った木村さんの「もの食う本」は、やはり、期待できる。
ま、きょうのところは、そういうこと。

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