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2011/11/13

「食の哲学」を考えないと、いかんかなあ。

毎月お送りいただいている『Tasc Manthly』(財団法人たばこ総合研究センター発行)だが、近頃気になるタイムリーなテーマが多い。とくに最新号11月号は、どれをとっても、面白く有意義で、これが店売りされないのはモッタイナイ。

雑賀恵子さんの「食の哲学」。現代を生きる第15回は、宮本太郎さんが「分断社会の処方箋、信頼と寛容を柱にした「生活保障」の実現」。長老格の加藤秀俊さんは「自由の逆説」。いずれも、濃い内容で、例えば、宮本太郎さんの文章などは、これからのビジョンを見通したなかでの「生活保障」の実現であり、単なる生活保障論ではない。どれも、そういう調子なので、いろいろ考えさせられた。

でも、まずは、「食の哲学」だ。

以前から食品の汚染や偽装の問題のときに感じていたのだが、今回の「放射能汚染」をめぐる動きから、じつに鮮明になったことは、食品は最初から安全でなければならない、あるいは最初から安全であるものが食品であると思い込んでいる人が、意外に多いことだ。そして、その安全を、なにやら数値で科学的に判断がつくものと思っている人も、意外に多いらしい。

雑賀恵子さんは、こう書き出す。「いまさらながらであるが、あらためて考えてみると、食べることというのは、おそろしいことである。というのも、目の前にあるものを食べ物として平気で口に入れているけれども、それがどういうものであるか必ずしもわかっているわけではなく・・・それが安全であるという保証を、いつもきっちりとっているわけではない。・・・目の前に食べ物としてあるものは、無前提に食べ物であって、食べ物であるから食べるのだ、ということを常時平気で行っている。」

こうして雑賀さんは、「いったい、食べ物というのはなんなのだろう」と踏み込む。こういう根源的な問いこそ、哲学か。「一言では食べ物は〈わたし〉の外部にあるものである。〈わたし〉の身体からすれば、自分ではない、外部のもの、徹底して異物なのだ」

と、今日は、このことについて、紹介しようというのではない。

とくに食育基本法制定の論議あたりから、「食べること」や「食べ物」が「いのち」との関係で語られることが増えている。まるで、食べ物についても、いのちについてもわかっていますという感じで、とりわけ食育推進の関係者は発言してきた。

そこでは、「いのち」を語れば、あたかも高尚な哲学であるかのような気配も生まれている。著名な料理研究家が「いのち」と「食べ物」を語る、というより、そういう物言いによって、ただの料理研究家ではなく、哲学のある人として敬われる状態まで、つくりだされる傾向もある。そこには、生きるとは、いのちとは、食べるとは、食べ物とは、安全とは、健康とは…といった根源的な問い直しがあるわけではなく、誰も反論できないほど惰性的な常識を、なにやら教訓めかしく奥ゆかしく語るという、古くからの手法が見られるだけのことがほとんどだ。

それに、どうみても、そのまわりのみなさん、つまりその料理研究家が登場するような雑誌などを見ても、そんなに哲学に関心があるようには思えない。

つまり、「哲学」という言葉が、「芸術」という言葉と同じように、権威的な魔術的なセールスプロモーション用語として使われているようにしか見えないことが多いのだ。

また、昔からあるが、カルト的な言動も目につくようになった印象がある。

そういえば、おれがザ大衆食のサイトのトップに掲げる、生活は「生命をつなぐ活動」、料理は「生命をつなぐ技術」、食事は「生命をつなぐ祭事」、なんてのは、けっこう哲学っぽく見えなくはないですなあ。

が、しかし、「食べ物」と「いのち」への関心は、これからますます高まるだろうし、もう少し「食の哲学」について真剣に考えなくてはならなくなるだろうという予感はある。

なので、この際、ちったあ、勉強しておかないと、またぞろ食育推進大騒動のときのように、料理研究家などが時流にのってふりまく、怪しげな「哲学」にふりまわされることになりかねない。

ってことで、ネットで検索してみたら、けっこう面白い。学者先生方が、オープンにしてくださっている。こういうのをタダで読めるなんて、ありがたいことだ。とりあえず、ぜんぶリンクするのはめんどうだから、これぐらいで。べつに「正しい」からオススメということじゃない。

●山本博史さんの「食と哲学」(自己保存、排泄、生命(個体の生命)、生産、身体性、近代の両義性、再び生命について)
http://www.res.otemon.ac.jp/~yamamoto/works/Abhl2001.htm
●同じく山本さんの「主体・客体の脱構築から、食の哲学を試みる」(頭で食べる現代人——情報の過剰、記号を食べる現代人——情報の不足、主体性なき食生活——主体性の記号論的解体、食の科学——西洋近代と「主体-客体」という分裂関係、食の哲学——主体-客体の脱構築)
http://www.res.otemon.ac.jp/~yamamoto/works_2/essay_12.htm

●東北大学 シリーズ食の哲学
1、食と遺伝子 機能性食品成分や微量栄養素による抗メタボ研究・・・駒井 三千夫さん
http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi43/mm43-6.html
2、食と経済 食料と人口・経済、そして民主主義・・・柘植 徳雄さん
http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi44/mm44-6.html
3、食と文学 『随園食単(ずいえんしょくたん)』紹介・・・佐竹 保子さん
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi45/mm45-6.html
4、食と健康 緑茶と健康・・・栗山 進一さん
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi46/mm46-3.html

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コメント

ジローさま、こちらではおひさしぶりです。

食は、ますますメンドウなことになって、メンドウですね。

よーするに、ワカラナイことだらけだから、急いで結論を出すことなく、考えながら走り続けるしかないのでしょうか。

とはいえ、しょっちゅう考えているのもメンドウ。

食べるのを楽しみながら、終わりのない堂々巡りマラソン。

投稿: エンテツ | 2011/11/17 12:51

とても興味津々の内容でした。
何がほんとなのかはわかりませんが、
考えますよね。考えます。
こんな仕事してると、たまに考えます。
農家さんや、生きた魚、弾を撃ち込む猟、おそろしくまき散らす農薬、でも必要な農薬、生きるため・・食べるため・・悩む時もあります。食べていいのか毒があるのか・・神だけが知っているのか、神の挑戦しないと生きていけないのか。放射能、ダイオキシン、温暖化。
自分以外の命で自分が生かせてもらってるのか?

いままでそんなこと考えてはいましたが、
楽しく作って食べてました。最低?
さて、いいのか?悪いのか?

なんて、たまにしか考えませんけど。

ぜひ考えを見せてください。楽しみにしてます。
(あくまでも参考に・・笑)

投稿: giraud | 2011/11/16 22:47

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