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2012/04/20

「おいしい味噌汁をのみたい」

不思議なことに、味噌汁に関する、まとまった資料というのは、意外にない。ふりかえっても、この人のものを読めば、この著作を読めばといえるほどの、「味噌汁の権威」が思い当たらない。ま、汁かけめしの本を書くときに難渋したことだけど、10年たっても、状況はあまり変化してないようだ。権威は教条になるとツマラナイが、味噌汁ほどの歴史ある文化に、まっとうな権威が一人も育たなかったというのは、それはそれでサミシイ食文化ではある。

それはともかく、必要があって味噌汁に関する資料を見ていたら、『暮しの手帖』1972年秋20号に、「おいしい味噌汁をのみたい」という記事があった。見開きの扉を含め、全部で10ページ。「みそ汁のいのちはみそ」「あくまでダシは脇役」「汁の実はなんでも」「おいしい味噌汁を手軽に作る法」の見出しで記事がある。その中から、気になるところをメモ。

72年という時代を、どう見るかもあるが、リード文は、こういうことだ。

「昔、まい朝うまいみそ汁をのみたくて、それで結婚した男がいました、その男はいま、行きつけの飲み屋で、毎晩一杯のみそ汁を、複雑な表情で、すすっています、どうやら男というものは、女のひとより、ずっとみそ汁が好きなようですね、毎朝おいしいみそ汁を、どうすれば手間をかけずに作れるか、書いてみます、読んでいただけますか」

「みそ汁のいのちはみそ」の書き出し。

「ほんとうに、おいしい、よくできた味噌だったら、ダシはいらない。/あなたが、いま使っている味噌を、ためしに、お湯で溶いてみて、それを火にかけて、ぷうっと一ふきさせて、さてそれをのんでみてください。味噌の味をテストする、いちばん簡単な方法である」。

なんといってもおもしろいのが、「あくまでダシは脇役」だ。

「ダシは、なにを作るときも、カツブシがいちばん、とおもいこんでいる人が、ずいぶんいる。小さいときから、わけもわからず、そうおもいこんでいるのか、ねだんが高いから、カツブシのダシが上等だときめているのか、でなければ、料理の先生がそういうのをうのみにして信じているのか、そのへんのことは、わからない。/ダシは、カツブシもコンブも椎茸も煮干しも、それぞれ味にクセがある。そのクセを上手に生かすことが、とりもなおさず、上手なダシの使い方、ということである」

いまでもまだそういう傾向が見られるが、当時は、カツブシの権威は絶大なるものだった。カツブシのダシは、いかにして絶大の権威になったかの歴史は、近代日本の食文化史を考えるとき、とてもおもしろいと思うのだが。

当時、急成長の「だしの素」などの即席調味料についても、ふれている。じつに寛大である。

「このごろの人工調味料は、じつにすばらしいものだ。あれを最初に作りだした人には、文化賞をやるねうちがある。しかし、あれの使い方は、あくまでダシの引き立て役だ。しょう油じるに、あれだけふりこんだのでは、なるほど一応の味にはなっても、どうも表っつらきれいごとで、しん底から舌にひろがってくるうまみには乏しい」

「なるほど一応の味にはなっても、どうも表っつらきれいごとで、しん底から舌にひろがってくるうまみには乏しい」は、なんでもインターネット即席情報時代の昨今を鋭く批評する文言としても通用しそうだ。

拙著『汁かけめし快食學』では、十分な根拠がなかったが、いくつかの根拠から、古くは庶民のあいだではダシをとることはなく、味噌を溶くだけが大勢だったろうと類推している。

日本独特の醸造の文化といえば、味噌と清酒と醤油になるが、依然として味覚の「地域差」が最も激しいのは味噌のような気がする。そもそも原料から違うこともあるが、これを同じ味噌といってよいのかと思うぐらい、色からして違う。しかし、清酒のように、味噌汁にしてあれこれ比べてみるのは、簡単でない。

おれの場合、新潟の辛口赤味噌で育っている。ダシは煮干しだ。味噌汁のダシにカツブシを使うなんてのは、1962年に上京してから知った。それに、新潟の味噌といっても、「佐渡味噌」「頚城味噌」といった違いがあるのを知ったのも、1970年ごろになってからだ。おれは魚沼地方育ちだが、「魚沼味噌」は聞かない。最近は、「仙台味噌」を使うことが多い。いずれにせよ辛口赤味噌系だ。

ダシは、即席も含め、いろいろ使っている。カツブシに対しては、とくに思い入れはない。もちろん味噌汁の具によっては、ダシを使わないこともある。

大衆食堂の味噌汁は、なかなか難しい。たとえば、東京のいわゆる「東」は、あるていど特徴が見られるところがあるが、全国的に見ると、かなり平均化してきているような感じがする。ナニゴトも、変わっている方から見るか、変わっていない方から見るかによるのだが。

話は、この『暮しの手帖』の記事にもどる。ミソの表記が、「みそ」と「味噌」バラバラ、ほかにも「のむ」「飲む」など。それなりに使い分けている感じでもある。昔は、こういうことは珍しいことではなかったように思う。昨今は、知ったかぶりして、表記や表現の部分的な瑕疵ともいえない枝葉に難クセをつけ、溜飲を下げている即席調味料のような輩が目立つような気がする。ま、ダイナミズムを失った閉塞の時代とは、そういうものだ。

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