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2012/06/19

米の「洗い方」。

きのうの「研ぐ」「洗う」が気になったので、チョイと調べてみた。すると、新たな真実?

1982年発行の『元祖男の料理 復刻「軍隊調理法」』というのがある。小林完太郎さんの解説による、「昭和十二年七月二十六日陸軍省検閲済「軍隊調理法」の復刻版」だ。旧漢字や旧かなづかいを新漢字とかなづかいにしてあるが、用語はそのままで、難解なものには注釈がついている。

米の調理については、どうか。「第一章 調理一般の心得」の「第一 基本調理」、「三、洗い方」の項。そこに「野菜類のごときは叮嚀(ていねい)に洗う必要あるも、米麦、魚肉類にありては、衛生上の必要の程度にとどめ、洗い過ぎざることに注意すべし。過度に洗うときは栄養分を損失す」とある。

「研ぐ」ではなく「洗う」だ。しかし、まだある。「三、洗い方」の項の「イ、穀類」。

「精米、精麦の淘洗〔とぐこと〕は栄養分を流出すること多きをもって、なるべく洗い過ぎざることに注意すべし」といった調子だ。〔とぐこと〕が淘洗(とうせん)という言葉で使われているが、内容は、洗うことについてだ。

このあとも洗い方について述べているが、とにかく、ここでは「研ぐ」という概念は、あまり出てこない。あくまでも「洗い方」であり、「洗い」過ぎるなということを、強調している。

これは軍隊のことなので、すでに研米機で米の表面の糠をとる「研米」を終えているからだろう。だから「単に塵埃を洗い流すにとどむべし」ですむ。いずれにせよ、米を調理する、「洗う」か「研ぐ」かは、言葉の問題以前に、それはなんのための作業かの本質を知っておくことが大事なのだ。

米の乾燥法も精米法も、昔と今は大違いで、いまの米は、この軍隊の機械による研米のあとのように、あるいはそれ以上か、米の表面に付着している塵埃はもちろん、糠などは落としすぎぐらい、きれいなものが届く。

要は、自分の目で米を見て、自分の好みで、洗う程度を決めればよいのではないかと思う。なんでもそうだが、物事の本質と、自分の目で確かめた考えと判断が大切なのだ。

「研ぐ」ことに、何か、食や料理に対する特別な「魂」や「精神」や「愛情」や「伝統」が関係する、と、思いたいひとは思ってもよいだろう。だけど、それを普遍的な尺度として、料理に対する姿勢や心の持ち方として強要したり、説教したり、あるいは教育したり、ひとを裁くようなことを言うと、おかしなことになるのだなあ。

それはそうと、この本によれば、すでに洗う必要のない「完全なる「無洗米」」があったのには、おどろいた。考えれば、軍隊では、洗うことすら省く合理性が求められる環境だったといえるか。「精神主義」「伝統主義」の権化のように思われてきた陸軍においても、「研米機」といい、アンガイ合理性を追求していたようだ。いま、普及しつつある無洗米を使うと、「堕落」と言われかねない「精神主義」「伝統主義」もあるようだが。

いずれにせよ、「丁寧」な仕事による、米の大事な栄養分の流出は、気をつけよう。「丁寧」な仕事の前に、仕事の本質を理解したいものだ。

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