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2013/04/30

どうしてぼくたちはすれ違うのか ―― 社会学者が語る、震災後の断絶の乗り越え方 開沼博×五十嵐泰正。

2013/04/06「『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている」五十嵐泰正さん×おれ。」に、去る2月3日(日)、雑司が谷「みちくさ市プレイベント」で開催された、わめぞ主催の『みんなで決めた「安心」のかたち』出版記念トーク。13時半から17時まで。ホストは著者の五十嵐泰正さん。1部のゲストは開沼博さん、2部のゲストはおれだった。その内容が、『SYNODOS-シノドス-』に掲載になった。なぜか、1部はまだで、2部の五十嵐さんとおれのぶんだけだけど。と、書いた。

順序が逆になったが、今日、その1部の対談が、『SYNODOS-シノドス-』に掲載になった。タイトルは「どうしてぼくたちはすれ違うのか ―― 社会学者が語る、震災後の断絶の乗り越え方」
http://synodos.jp/fukkou/3629

いやあ、読み応えがあります。トークを聴いていた時より、より鮮明というか。とにかく、じっくり読もう。

これは、原発をどうするかの議論ではない。これまで、反対だろうと賛成だろうと、原発と暮らしてきた社会がある、その社会を、どうするかのことなのだ。

そもそも、今回の原発災害は、それ以前から、つまりは原発が出来たころから抱えていた、さまざまな問題を一挙にあからさまにした。「断絶」は、原発事故から始まったのではなく、その前からあった。そこに関わることなのだ。

だから、この対談を、原発や東電について、どう語られているかというモノサシでみると、最初から間違ってしまうだろう。

それはともかく、五十嵐さんは、どんどん「際」に踏み込んでいく、面白い人だと、あらためて思った。「書斎派」だろうと「現場派」だろうと、専門家や学者というのは、そのテリトリーを踏み出そうとはしない方が多い。そこから、弾を撃つ。自分の枠組みに合わない話は、最初から気に入らないらしい。自分の枠組みにあう根拠を提出せよと「批判」する。すでに、この五十嵐さんと開沼さんの対談に対する批判をツイッターで見ても、そういう印象がある。

原発災害は、いろいろな「際」がからむ大問題であるはずなのに、意外や、「原発どうする」「東電どうする」に短絡するのは、専門家や学者にも、めずらしくない。それは、原発災害を拡大している官僚のテリトリー主義と、たいして差はないように思う。表裏のように見える。

もちろん、原発どうする、東電どうするも、大きな課題だけど、それは自分の生活の一部であったことから考えないと「他人事」になってしまう。原発は生活の一部だったからこそ、その事故が、これほどまでに生活を脅かしているのではないのか。その生活から考えたとしても、「当事者」として当然だろう。そこを飛び越えて、ただちに「反原発」だけを叫んでいれば、自分は「当事者」であるかのような言論に、おれは違和感を感じる。

もっと、「際」に踏み込まないと、この、これだけ複雑に生活の細部に入り込んでいる問題の解決は、ますます困難になるような気がする。

五十嵐さんは、社会学者だ。面白いのは、社会学者でありながら、マーケティングに踏み込む。この逆は、割とよくある。誰と名をあげないが、著名なマーケティングの現場の「理論家」が、社会学者のような顔をする。そういう意味では、なんだかマーケティングという「実学」は、社会学より低い位置にあるという勝手なコンプレックスが見られて、カワイイ。しかし、社会学は、マーケティングほど、単純ではない。いや、それぞれ、単純な面と複雑な面が違うのだ。

そもそも違うのに、踏み込むのは、そこに「際」があるからで、自分のテリトリーだけでは、現実の浮世はどうにもならないからだろう。

はあ、酔って話しがズレている感じがするが、おれは五十嵐さんと話していて、面白いのは、この方は、社会学者なのに、気取らずにマーケティングに踏み込むということなのだ。いってみれば、純文学者が、大衆小説に踏み込むようなもの。それでいて、社会学者なのだ。

このあいだの対談も、おれとしては、五十嵐さんはマーケティングに踏み込みすぎじゃないかなと思いながら、でも、そこにあるのは、社会学もマーケティングも考えなくてはならない、どちらからも「専門外」として取り残されてきた、「際」が見えてくるのだ。

今回の五十嵐さんと開沼さんは、同じ社会学者の対談だけど、その取り残されてきた「際」に踏み込んでいる。それは「理論」と「実践」の「際」でもあるだろうし、さまざまな「断絶」にある「際」でもあると思う。

「際」は、タテ割りが硬直化し「専門バカ」が弊害視された、70年代初頭、「学際」といった言葉が流行したが、一方では、より「狭い視野」ともいえる専門化と細分化がすすんだ。それは、原発が、社会のずみずみにまで深く浸透していく過程でもあった。いま、そのことを思い出す。その弊害が、あちこちに噴出しているように思う。

その「際」を「壁」にするのではなく、「際」に踏み込みあいながら、もっと語り合うことで、すれ違いを少なくしていくこと。

最後になったけど。『SYNODOS-シノドス-』に2回にわたって掲載の文章は、トークの録音から構成したものだが、もちろん当日も会場におられた、山本菜々子さんという若い方の手による。おれの話などは、あっちこっちテキトウにとびまくり、話しているほうも何を話しているか混乱しそうなことを、うまく構成してまとめてくださった。五十嵐さんと開沼さんの対談は、高度な論争的内容で、専門用語もあったりだったけど、よく内容を把握されて、構成している。彼女のおかげで、いろいろな方に読まれるようになったと思う。あらためて、お礼を申し上げたい。

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