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2013/05/01

『上京する文學』で、上京を振り返る。

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黄金週間の前半、東京へ行ったら、おのぼりさんらしい姿も多かったけど、いかにも上京したて、という感じの若者もいた。どこで識別するかは、うまく言えないが、なんとなくわかる。間違っているかも知れないが、そういうことにして、自分が上京したころを振り返る。毎年のことだが、何度振返っても、新しい記憶の発掘はない。

今年の場合、大いに違うことになった。家に帰ってから、岡崎武志さんの『上京する文學』を読んだのだ。きょねんの10月に新日本出版社から発行になり、11月に買って、一度読んだものだ。おれは、あまり本は買わない、かなり気になる本だけ買い、気に入ると何度でも読む。

岡崎さんも上京者だし、おれも上京者だ。しかも『大衆食堂の研究』も『大衆食堂パラダイス!』も、上京が大いに関係する。

『上京する文學』は、「上京」という切り口による、近代以後の文学の読書案内といえる。「漱石から春樹まで」とあるように、斎藤茂吉、山本有三、石川啄木、夏目漱石、山本周五郎、菊池寛、室生犀星、江戸川乱歩、宮澤賢治、川端康成、林芙美子、太宰治、向田邦子、五木寛之、井上ひさし、松本清張、寺山修司、村上春樹の、その上京、あるいはその作品にある上京を、ひも解いていく。

例えば、夏目漱石では、『三四郎』の話しから、このように結ぶ。三四郎は、熊本からの上京者だが。

「繊細に揺れ動く受信機たる上京者を主人公に据えることで、漱石は変貌しつつある東京を、その底を流れる川のような東京人たちの群像を描くことができた。あまりに素っ気ないタイトルの向こうに、職業作家・夏目漱石のなみなみならぬ野心が見える」

記憶のなかで錆がまわっている『三四郎』を、新鮮な気持で読み返したくなる。それから、江戸っ子より江戸っ子らしく、東京人より東京人であろうとした、上京者の作家たちが、カワイイ。それぞれの「東京同化ストーリー」がある。

時代によって、上京の様子は、そのキッカケや交通手段も含め、異なる。読みながら、自分の上京と重ね合わせてみる。しかし、どれ一つ、重なるものがない。

そのワケは、おれは何のココロザシも動機も情熱もないまま、とりあえず東京の大学を受験し、入れたから上京した、ということだったからのようだ。どうしても東京へ出たいということはなかった。なのに、新潟市にあった新潟大学は、まったく眼中になかったのは、どういうわけだろうかと考えても、思い当たることがない。ただ、どこにいても、親から離れ、食っていかなくてはならなかった、その貧乏暮らしが、東京で始まったということだった。

そんなことを振返ってみるが、なんの新しい発見もないという繰り返しなのだ。

しかし、岡崎さんの文章は、芸があって、面白い。会って話している岡崎さん、そのままが、ってのは、大阪のお笑い芸人のような大阪人そのままの感じの話しぶりが文章に出る。映画もよく見ているようで、小説と映画の絡みも、面白い。

それに、とりわけ日本文学の空気であるような、日本的な私小説につきまとう、深刻ぶったり、ダメ人間ぶったりすることなく、ぐいぐい作家と作品にわけいる。それが、気持ちよい。

宮澤賢治の話しでは。ほとんどが貧農という岩手で冷害続きのなか、「賢治のチェロも顕微鏡もレコードも童話の出版も、上京も農民ごっこも、もっと言えば粗食も、金持ちの道楽と言われても仕方がない」と喝破するあたりは痛快でもあり、岡崎さんの誠実さに、拍手だった。なかなか、こうは言い切りにくい、文学的空気であるからねえ。

ところで、上京といえば、言葉の違いもさることながら、食べ物の違い、そのギャップに関する話しがあると思ったが、これが、そういう意味では、ほとんどない。菊池寛のところに、東京の親子丼が「実にうまかった」話だけだったのは、意外だった。

おれのように、上京して、そう、あれは黄金週間のあとだったか、どうしてもぜんまい煮が食べたくて、新宿ション横の食堂に意を決して入ったなんてのは、あまりないことなのだろうか。

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