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2013/10/20

「見る・話す・書く料理」が盛んだから、もっと食文化論や料理論が必要。

最新刊の『大衆めし 激動の戦後史』は、「食文化論」や「料理論」に、かなり寄った内容になっている。

これまで、おれの単著の本では、汁かけめしと大衆食堂の二つの系統しかないのだけど、汁かけめしの本は食事と料理を中心に食文化論や料理論寄りであり、江原恵の『庖丁文化論』のブレイクダウン版のつもりで書いている。大衆食堂の本については、料理より食事が中心で、その空間や場所に寄っている。

「作る料理」「食べる料理」のうちは、食文化論や料理論など不要といえるが、70年代以後しだいに「見る・話す・書く料理」が増え、いまやインターネット上でもあふれている。多くの人が、「見る・話す・書く料理」に関わっている。

食通やグルメや評論や研究を気取る前に、食文化や料理について、基本的な「論」ぐらい知っていないと、とんだ間違いをしてしまう。

きのう、「見る・話す・書く料理」が盛んだから、食文化論や料理論が必要だと、シミジミ思うようなことがあった。

いま配信中の、ちょくマガ「週缶!さばのゆマガジンvol015」だ。

この号は、偶然にも「ありふれたものを美味しく食べる」に関係する話がほとんどだ。缶詰博士・黒川勇士さんと春風亭昇太さんのサバ缶で作るバラ寿司の話も、松尾貴史さんのオカルい悩み相談室「彼氏が急に食通気取りに。私の料理を不味いと言って食べません」も、須田泰成さんとおれのカウンターカルチャー「自分の舌を飼いならした先に、ささやかなオアシスが」は「味覚の主体化」に関係する話、そして、知られざる経堂の魅力探訪記は、ズバリ「ありふれたものをうまく食べさせる店!」だ。
http://chokumaga.com/magazine/?mid=106

なかでも、「彼氏が急に食通気取りに。私の料理を不味いと言って食べません」は、滑稽で切ない話だ。少し前に、何新聞か忘れたが、似た話があった。このテの話は、よくある。

彼氏が、トツゼン「このパン、天然酵母使っている?」「この卵は当然ながら農家の庭先を走り回っている元気な地鶏が生んだ卵だよね?丹波篠山かな?」「この野菜は、有機栽培じゃないの?噛んでも噛んでも、野菜本来の味がしない」「食をおろそかにすると、人生がおろそかになるよ」…こんなことから、恋人や夫婦の間がビミョーになってしまうのだ。

食文化や料理をめぐっては、ゆがんだり誤った知識や情報が多い。わかりやすい例をあげると、ウィキペディアに見られるカレーライスの歴史などは、ほとんどは「カレーライスという言葉をめぐる風俗」についての歴史であり、料理の歴史とはいえないのに、料理の歴史であるかのようにまかり通っている。風俗のレベルと料理のレベルの区別さえつかない知識が「常識」なのだ。

おなじように、「有機栽培だからおいしい」「野菜本来の味」「そのものの味」などというのは、なんら味覚を語っていないのに、語っているつもりになっている。

食べ物と食事と料理と味覚の区別や、「自然食」などのことになると文明のレベルと文化のレベルの区別のついていない話も、めずらしくない。

とくに食通やグルメを気取らなくても、普通にしていると、生産者やメーカーサイドあるいは料理人からの知識や情報に取り囲まれて暮らしている。

わかりやすく言えば、農水省つまり生産のなかの料理、経産省つまりメーカーや外食ビジネスや出版やメディアやレジャー(ホビー)のなかの料理、厚生省つまり健康と栄養のなかの料理、文部省つまりしつけと教育と文学のなかの料理、こういう「専門家」からの一方的な知識や情報が、食通やグルメの「常識」にすらなっている。

環境省のなかの料理もありますなあ。いまや、いんちきくさい「フードマイレージ」なんてのまで持ち出して、農水省も環境省も、エコやスローフードに熱心のようだ。

そこには、本来、料理がもつ役割の、生活からの視点がない。専門家は、いずれかの専門に偏っていても、とうぜんだ。それを鵜呑みにしていたら、とうぜん、どれかの分野の「論」にとりこまれやすい。

食や料理への興味が、食文化や料理の成長につながらず、簡単に消費主義に回収されやすい構造がある。その結果、味覚は、産業化企業化の支配下やグローバリゼーションの支配下に陥りやすいことになる。「化学調味料ダメ」「農薬も添加物ダメ」「安全・安心」「身体と心によいもの」だの「TPP反対」だのもよいが、それ以前の「味覚の主体化」が必要なのだ。

自分の舌は自分の好みで飼いならす。どんなに有名な料理店の料理より、おれにとってはおれの料理と好みが一番うまい、と言えるぐらい、ワガママな自分の味覚を持ちたい。それが野菜炒めだってよい。生活のリアルは、個人個人にあるのであって、専門分野や専門家にあるのではないのだ。

『大衆めし 激動の戦後史』は、表のテーマが「生活料理」で裏のテーマが「味覚の主体化」それに右のテーマや左のテーマ、タテのテーマ、ヨコのテーマや、斜めのテーマもあるかな。このようにいろいろなテーマをからめてしまうのは、おれの本の特徴で、ある記者さんや書評家さんなどに言われたが、紹介するのに泣けるほどまとめにくい。でもおれは、これを「ラーメン構造」の文章とよび、おれが「フリーライター」にこだわるのと関係がある。

それはともかく、『大衆めし 激動の戦後史』に書いたけど、生活料理の根幹は「ありふれたものを美味しく食べる」だと思っている。「ありふれたものを美味しく食べる」は、料理レベルと食事レベルを含めてのことだけど、『大衆めし 激動の戦後史』では、そこまで詳しく書いていない。「生活料理入門」だから。

「生活料理」は、1970年代に江原恵によって造語された。「タマネギを主材料にした、まったく新しい料理を、一つでも編み出すことのできる人は、美味学に必要な想像力を、かなり豊かにもっている人である」というあたりに、その思想があらわれている。

よりよい食材や製品を作るのは、生産者やメーカーの役割だとして、生活や料理は何をすべきかという課題があるわけだ。そこに「味覚の主体化」が関係する。一般には、産業や企業や飲食ビジネスや生産者や料理人のために料理や味覚が存在するわけではないのだ。

なんにせよ、ここ40年ほど、「消費の充実」を「生活の充実」と誤解してきた。そういうなかで、消費にゆがんだ料理や食事の知識と情報が蔓延している。だからさ、『大衆めし 激動の戦後史』が必要なのさ。と、最後は、自著のセンデン。「もくじ」などは、こちら→クリック地獄

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