« 「理解フノー」連載11回目、画家のノート『四月と十月』29号が届いた。 | トップページ | 今月末は、大阪デーだで~。 »

2013/10/11

『サラメシ』で重松清が語る「サラメシ」に、生活のなかのめしを見る。

002001学研パブリッシングからゆうメールが届いた。縁のない出版社だ。誰かの著書をいただけるのかなと開けると、『サラメシ』が出てきた。

なぜこの本がおれに?メモが入っていた。なるほど。奥付を見る。なるほど。

編集に、解散した元東京ミーツの女子編集者2人の名前。デザインは、瀬尾幸子さんとおれの共著『みんなの大衆めし』のデザインをやってくださった、ミーツ本誌で活躍の津村正二さん。ライターと撮影に、元ミーツ現ミーツで知った面々がズラリ。いやはや、ご活躍で、けっこうなことです。

腰巻に「NHKの人気番組が待望の書籍化」とある。説明は、いらないだろう。そのうえ、上記の熟練スタッフの手で、そつなくまとまっている。

おれの目にとまったのは、特別寄稿の「「まるじゅう」の店」だ。重松清さんが書いている。

長いが、気になったところを引用しちゃう。

重松さんは、1980年代、早稲田大学の学生だったころの、学生街の定食屋の思い出を語る。おれが興味を持った、というか、うまいな~、さすが、と思ったのは、こういうところなのだ……

 その一軒一軒の思い出を語っていけばきりがないのだが、学生相手の定食屋というのは、たとえどんなに安くて美味しくて居心地の良い店であっても、どうも「サラメシ」にはそぐわない気がする。
 「サラメシ」の「サラ」とは、「サラリーマン」――もっと定義を広くとって、「働く人たち全般」を指しているのだという。「働く人たち全般」をさらに広くとらえるなら、それは「オトナ」ということになる。学生街の定食屋さんは、その部分、いわば「オトナ濃度」が物足りないのだ。
 たとえば定食に小鉢をもう一品付けるかどうか、ご飯を大盛りにするかどうかの選択も、学生なら単純な食欲やフトコロ具合の話だけである。しかし、オトナは違う。そこには午前中に大仕事を終えた、ささやかな喜びがあるのかもしれない。午後の大事な仕事を控えて「腹が減ってはイクサはできぬ」の心境かもしれない。健康や体型の問題もからんでくる。家計もつきまとう。逡巡や躊躇や煩悶を振り切ったすえの「ご飯、大盛りね」かもしれないし、食後のほうじ茶をシブく啜る眉間の皺には、コレステロール値への不安も一緒に刻まれているのかもしれない。
 学生街の定食屋さんは、青春の夢や希望や大志はあっても、そういう現実の生活のリアリティに欠けていた。「若さ」はあっても、「苦さ」が足りない、といえばいいか。

……引用おわり。

ま、学生には学生の生活があると思うが、やはり、オトナの濃度ではないということなのだろう。学生との対比で、オトナの生活のなかのめし、そこにある心のシワをうまく浮き彫りにしている。大衆食文化の深いところだ。

食や料理は、風俗や好事(趣味)や生活それに農業や食品工業などの産業との間で混沌としているのだが、生活のなかのことが大切になっていると思う。だけど、これがなかなか難しい。産業化企業化による圧倒的な消費攻勢によって、生活の輪郭がアイマイになっているというか。

近頃、食べログなどでも、CP(コストパフォーマンス)なる言葉を使って飲食店を評価する人たちがいる。それって、まったく食生活や食文化ってものを理解してないよねと、飲食店を経営するある人と話した。長いあいだ「消費の充実」を「生活の充実」とカンチガイしてきた結果は、小賢しい、学生気分のオトナ、評論家気取りのオトナなど、けっこう見受けられる。

だから、生活料理=生活のなかの料理=大衆めしについて書いた、おれの最新刊『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』を読んで、生活とめしについて深めてほしい。と、最後は、ムリヤリ自分の本の宣伝につなげるのだった。

|

« 「理解フノー」連載11回目、画家のノート『四月と十月』29号が届いた。 | トップページ | 今月末は、大阪デーだで~。 »