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2013/11/30

見沼田んぼ福祉農園を訪ねた。すごい充実した一日だった。

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25日(月)は、めったにないことが重なって、大いに刺激になり、大いに楽しかった。ほんと、こんな一日は、めったにない。

筑波大の五十嵐泰正さんのゼミが「見沼田んぼ福祉農園」を訪ねるのに便乗して、以前から気になっていたそこを訪ねることができた。

そのキッカケは、2013/11/10「<料理>という営み。」に書いた、今月8日に五十嵐さんやゼミ生の方と大統領で飲んでいるときに、何かの話から猪瀬浩平さんの話になったからだった。

猪瀬さんは、明治学院大学の教員なのだが、見沼田んぼ福祉農園の関係者であり、そこで「見沼・風の学校」など、いろいろ気になる活動をしている。

見沼田んぼ福祉農園や見沼・風の学校や猪瀬さんのことは、数年前におれが北浦和に住んでいたときに、浦和地区の見沼たんぼのことをいろいろ調べていて、インターネットで知った。そして、そのあたりの見沼田んぼを歩いている。

とにかく、五十嵐さんが25日に猪瀬さんと会うと知って、おれも一緒に連れてって~と、お願いした。

当日は、15時に武蔵野線東浦和駅集合となった。出かける前によく考えたら、五十嵐さんは、何をしに行くのかわからない。「連れてって、お願い」「いいよ~」われわれはかなりアバウトな関係なのだ。もしかすると、農作業ボランティアかも知れないと思い、イチオウ作業ズボンと上着を着て、土で汚れてもよい靴をはいて、東浦和へ行った。

以前、見沼たんぼを歩いたときは、東浦和駅を利用した。見沼たんぼは芝川沿いの両側に、見沼代用水東縁と西縁にはさまれて展開する、千代田区より広い農的大規模緑地空間だ。いまおれが住んでいるすぐそば50メートルぐらいのあたりには見沼代用水東縁が流れていて、その北限域が広がっている。行きかたはいろいろあるが、東浦和周辺が最も広大な耕作地が残っているし、江戸時代からの歴史が見えやすいところなのだ。

東浦和駅に着いて、初めて五十嵐ゼミによる訪問だとわかった。8日に大統領で一緒に飲んだ女子ゼミ生2人もいた。昨年は、やはり五十嵐ゼミの上野アメ横調査キックオフ飲み会のようなもので、朝10時から大統領で一緒に飲んだりしているし、おれは「便乗ゼミ生」のようなアンバイ。

10数名のゼミ生のほかに、柏や我孫子で新規就農の方たちが3人ほどいた。けっこう大勢じゃないか。猪瀬さんと父上の見沼田んぼ福祉農園・代表(良一さん)が迎えのクルマ2台と合わせ、クルマ6台で連なって、農園へ向かった。

農園は、芝川と加田屋川が合流する近くの加田屋川のそばにあった。つまり芝川と加田屋川が生んだY字の広大な平地なのだ。東西南北、畑地ばかりで、見渡しても家が見えない。

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1ヘクタール弱の農園を見学したあと、風の学校のボランティアで法政大の学生と東京芸大の学生も加わり、焚き火を囲んで、のち雨が降ってきたので屋根の下に移動し、質疑応答。ゼミ生たち(2年生から4年生)にとってはオベンキョウ、卒論のテーマとも関係している学生もいた。

見沼田んぼと農園ができるまで、それから現状と課題。ボランティアやネットワーク。大雑把に言えば、そういうことになるが、話は実践の結果であり具体的だった。

見沼田んぼは、江戸時代から田んぼとして開拓されたところだが、70年代からの減反政策で、畑地へ転換、そして離農と耕作放棄地遊休地の拡大と荒地化、あるいは宅地化、お決まりのコースをたどった。そのままにしておくわけにはいかない。ここを農地として確保しておくことの意味と意義があるのだが、そのうえ、見沼田んぼ福祉農園は、さまざまな障害を持った方の交流や支援のための場所でもあるのだ。

そんなわけで、「農業問題」と「障害者問題」が交差するところであり、質疑応答も、その二つの側面から入った。しだいにそこに浮かんでくるのは、農地と農業と人と人の関係なのだった。

とくに、農地と農業を公共からとらえる視点、「農業はパブリックなもの」という考えが、具体的で新鮮に感じられた。

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でこぼこの土の上をクルマ椅子で移動しやすい工夫があったり、畑地のなかに集まりなどができる芝生や焚火場があるのも、そういうあらわれだった。障害者の家族の方が、ここに来てケアされることが少なくないようだ。話しを聞いているうちに、まあ、「健常者」と言っても、なにかしら足りない、なにかしら偏ったり歪んだりしている「障害者」みたいなものなのだという気になってきた。実際、そうなのだ。

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代表の当初の構想によると「見沼田んぼの農的な環境を生かしながら、『誰もが共に』自然とふれあい、農を楽しみ、人と出会い、関係を広げていける場、そして障害をもつ人々の自立の足がかりとなりうる場というイメージでした」と(「福祉農園開園までの歩み」pdf http://www.h4.dion.ne.jp/~minukaze/daihyo1.pdf)。それで99年から、やってきた。台風の被害もあった、農機具の盗難もあった。ボランティアのメンドウもあった。そういう「負」も新しい可能性へつながっていった。

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質疑は、20時半ごろまで続いた。途中で雨が降ってきたので、発電機の電灯とハエとりリボンがぶら下がる屋根の下に移動した。

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おれにとっては、ここのところうまく考えがまとまらなかった農と食をめぐることについて、爆発噴火的なヒラメキがあった。

それから、近頃の「公共」という言い方に含まれる、おかしな面の発見にもなった。「公共」と言いながら、「公」ばかりが強調され強化され「共」がない状態を「公共」と誤って認識する過ち。公共の「共」には、誰もが参加できる人的ネットワークが不可欠、これがあっての「公共」ということなど。もう、ほんと、これは、大変な収穫だった。もっと、いろいろなヒラメキがあったのだけど、長くなるからこれでオシマイ。

見沼田んぼ福祉農園のサイトは、こちら。
http://homepage2.nifty.com/minumafarm/

いやいや。この日の出会いは、すごかった。このあいだから東電原発事故による放射能問題関連で、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターの石井秀樹さんという方が気になっていたのだが、なんと、この方が、ここにあらわれたのだ。そもそも、この日の訪問は、石井さんと五十嵐さんの出会いから始まったらしい。

聞けば、石井さんは、東大宮に4歳のときから住んでいて、猪瀬さんとは高校の同期で、農園に関わっている。おれのブログは、以前からご覧になっているとのこと。

帰りは、北浦和で打ち上げとなった。そこへ行く間、石井さんのクルマに乗って、打ち上げ会場の中華屋(中国人家族がやっている食堂で、よかった)についてからも、高校から大学、そして福島でのコンニチに至るまでのことを聞いた。

離れている東京であれこれ考えていても実態がわからない、放射線を自分で計って見なくてはと、前職をやめて福島へ行く、正確に測るための計測器は高価、金集めもやった。その後現職につけたからよかったが…すごい行動力。震災後は、チェルノブイリにも行っているのだが、その話を聞く時間は、なかった。

北浦和では、二次会で24時ごろまで猪瀬さんと石井さんと芸大生と飲んだ。石井さんはクルマなので酒も飲まずに付き合ってくださり、家まで送ってくださった。

しかし、この日の出会いの、すごさは、まだあるのだ。その二次会の酒場は、猪瀬さんのお宅からすぐ近くだった。その店が、あの「闇市路地裏派」と呼びたい、藤木TDCさんと組んで『東京裏路地〈懐〉食紀行』を刊行したブラボー川上さんが実家でやっているのだ。ここは、この夏、ナンダロウさんから聞いて行ったのだが、満席で入れなかったままになっていた。この日は、ついに川上さんとも会えて、楽しく話ができた。

石井さんに自宅前まで送っていただいて、帰宅は何時だったのだろう。24時は過ぎていたにちがいない。

まあ、しかし、こんなことがあったのも、猪瀬さんと石井さんは35歳、五十嵐さんは同じ30代だけど少し上、若く行動的な人たちが縦横無尽に活動しているおかげだね。それにお3人とも、アバウトにして繊細、繊細にしてアバウト、という感じで、だから縦横無尽が可能であるし、リアルなネットワークが、どんどん広がるようだ。そのへんのジャンルや垣根をどんどん越えていくつながり方も、大変おもしろい。

おれは70になって、疲れることが多いから、あまり自分からは打って出ないようにしようと思って、今年は控えめにやってきたのだが、大いに刺激を受け、やっぱりやんなきゃなあ、という気になっている。

また北浦和へ行って、猪瀬さんと飲みたい。一杯も飲めなかった石井さんとは、東大宮で、ゆっくり飲みたい。五十嵐さんとは、また上野でも飲みたいし、柏でも飲みたい。ようするに、飲みたい。

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