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2014/05/29

野田正彰の説いた「コスモロジー」。

前回のエントリーにある野田正彰の説いたコスモロジーは、『中央公論』87年10月号の野田の文章「新・都鄙問答のすすめ」のなかにある。

「新・都鄙問答のすすめ」のリード文には、こうあって、地方の視点から主に観光政策を検討したものだ。

「アンビテンデンツ――自らは本当には望まない生き方を、洗練し、効率よく人々に提供する矛盾した感情的傾向。これをエネルギーとして動く社会をつくり上げてきた私たちは今これに頼らない別の生き方を、地方の視点で考えてみよう」

当時、おれはプランナーとして、いくつかの地方の「町おこし村おこし」や「CI開発」の手伝いをしたあげく、都会から地方に持ち込まれる文化イベントなど(地方が東京の成功を見て積極的に導入するものも含め)が、イベントだけのにぎわいで、しかもそれが地方の負担を大きくしていることから起きる摩擦のなかにあった。困ったことだなあ、別の可能性はないものかと考えていたところで、「新・都鄙問答のすすめ」は、かなり刺激になり展望になった。この87年のあと、おれが九州の奥地のプロジェクトに積極的に参加したについても、その影響があったと思う。

それはともかく、時間がないので、野田が「コスモロジー」について書いた部分だけ、引用しておく。

「ここでいうコスモロジーとは、科学的宇宙論でもなければ、一部族の神話的・象徴的解釈にも限定しない。後者は含まれるが、それはコスモロジーの一部である。

ここでコスモロジーを、人々の存在を中心に置き、その周りに生活が、遊びが、祭りや宗教が、馴染んだ自然から荒々しい自然へ、さらには生死観や他界観が拡がり、人々がそれらと呼吸し対話している全体的な文化の秩序づけと定義しておこう。

世界観といわゆる宇宙論の中間と思われるかもしれないが、コスモロジーは世界観のように個人の自我を出発としない。」

このあと、野田は、地方には「都市のアンビテンデントな生き方と違い、確かなコスモロジーに生きる人々がいる」、これを観光政策の中心にすえるべきだとしている。

が、おれは、東京にもアンビテンデントな生き方と違い確かなコズモロジーに生きる人々がいる、と思い、コスモロジーについて、あーだこーだ考えていた。

なにはともあれ、ここで指摘されている「全体的な文化の秩序づけ」が、料理と味覚に深く関係しているのではないかということなのだ。それは、以前からあり、東電原発事故以後に広がっている食に対する「不安」を考えるとき、ますます関係ありそう、と思うのだった。

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