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2014/06/19

「日本料理」探求のためのメモ。

速水健朗さんの『フード左翼とフード右翼』に触発されたこともあるが、『大衆めし 激動の戦後史』で言及した「日本料理」について、その思想が気になっている。

もともと、「日本料理」(いまでは「懐石料理を頂点とする」といってもさしつかえなさそうな、いわゆる伝統的な「日本料理」についてだが)は、きわめて思想的政治的な存在だった。そこのところは、おれは、「生活料理」が料理として認知されることで、片付いていくことだろうと、楽観していたから、その思想性や政治性について、深く考えたことはなかった。だが、それほど単純なことではないらしい。

いまでも、その楽観は変わらないが、それはそれとして、いま、「日本料理」の思想について考えてみることは、なんだかおもしろそうと、『フード左翼とフード右翼』を読んで思ったのだ。

それで、あれやこれや資料をひっくりかえして、最近ブログに書いているように、伝統やら場所やらネットワークが気になっている。

そういうことについて、いま読んでいる『日本浪曼派批判序説』は、とても面白いし、示唆に富んでいる。

「日本料理は目で食べる」とか「日本人は目で食べる」とか「日本人は見た目を気にする」とか、日本人と料理や味覚については、いろいろいわれてきたが、それはいったいどこからくるのか、そこにある思想はどういうものか、考えるヒントになる。「日本料理」の背景にあって、いまやあらゆるところに見受けられる「自然」や「清浄」「純粋」などに関わる美意識についても(「雑味」の排除などについてもね)、大いに考えさせられる。もちろん、「美しい日本」についてもだ。

この本を読んでいると、「何かを書く」ということは、「何をしたか」に含まれるのであり、自分は、あるいはアノ人は「何を書いたか、その書かれたものはいかなる作用をもったか」つまり「書いたものが何であったか」、問われるのだということを、問われる。いたたたた、なのだ。「書く」ということは、わが身をふりかえり、そこに流れている、とくに無意識の思想を掘り起こし、検討したり反省したり学んだりすることでもあるのだな。ほとんどの日本人が無警戒に宿して、ともすると「正しい」と思っている「美意識」だの「美感覚」について。

それはともかく、今日のメモは以下。「日本料理」の含むところは、とんでもなく、日本人の生活の原理と、美意識や政治と関わっているのだ。なるほど、一官庁にすぎない農水省が、日本人の食を決めるはワレにありという感じで、「伝統」をふりかざし、人びとのこころにまで干渉してくるのも、そういうわけか、と思うのだった。


『日本浪曼派批判序説』(橋川文三、講談社文芸文庫)
 Ⅰ 日本浪曼派批判序説 ――耽美的パトリオティズムの系譜――
  七 美意識と政治 107ページから。

 しかし、わが国の精神風土において、「美」がいかにも不思議な、むしろ越権的な役割をさえ果してきたことは、少しく日本の思想史の内面に眼をそそぐならば、誰しも明かにみてとることのできる事実である。日本人の生活と思想において、あたかも西欧社会における神の観念のように、普遍的に包括するものが「美」にほかならなかったということができよう。西欧における宗教にあたるものが日本の美であったという観察は、たとえば加藤周一の文明批評の主要モチーフの一つをなしている。日本の生活と思想の内面には、政治に対する美の原理的優越ともいうべきものがみられるとさえ考えられるのである。

「西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で演じてきたのは、感覚的な〈自然〉である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された。(略)われわれが今なお人間の文明に寄与することができるかもしれない領域の一つは、依然として造形と色彩の感覚的領域だろうと思われる。日本人は生活を美化する、見た眼に美しくするためには、生活の直接の目的さえも犠牲にしたのだ。食品でないものを食事の皿の上にならべ、美しく寒い部屋でほとんど暖房のない冬を忍ぷことのできる国民は他にない。

 しかし、美のために何ごとでも忍ぶことのできた国民は、同時に観念のためには、何ごとも忍ばない国民であった。殉教も、宗教戦争もおこりようがない。超越的な神が考えられなかったように、すべての価値も人生を超越しなかった。価値の意識は常に日常生活の直接の経験から生みだされたのであり、本来感覚的な美的価値でさえも容易に生活を離れようとはしなかったのである。屏風、扇子、巻物、掛軸……日本画の伝統的な枠は、西洋画の抽象的な額ぶちではなかった。そしておそらくそのことと、たとえば個人の自由が絶対化されず、容易に家族的意識の中に解消されるということとの間には、密接な関係がある。」(「近代日本の文明史的位置」)

 このように美意識が生活原理として浸透しているところにおいては、当然にまた政治意識構造にもある著しい特徴があらわれることになる。

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