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2014/06/02

「田舎」「都会」や「むかし」「いま」、田舎や農業や都会と「暮らし」。

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2014/05/19「「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」とミニ古墳部活動、一日目。」2014/05/20「「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」とミニ古墳部活動、二日目。」に書いたように、その旅では、放置された古民家を利用しての「田舎暮らし体験ハウス」の「なかや」に泊まり、帰りは偶然に八ヶ岳南山麓の大野菜産地の中を歩いたりした。

いろいろ考えることが、多かった。

「田舎暮らし体験ハウス」の「なかや」の体験プログラムまでは体験してないので、どのようなものかわからないが、主に子供向けだろう、薪割りや竹細工などがあるようだった。古民家での宿泊は、これはおれが子供のころの昔の田舎暮らしで、いまの田舎暮らしとしては特殊だろうと思った。それでも、都会の家では体験できない「暮らし」の一端を体験できるのだろうが。NPO法人の運営とはいえ、継続のため損は出せないだろうから、お客さまが幻想する「田舎暮らし」を、いかに満足させるか、ということにならざるを得ないのではないかと思われた。

むしろ、いまの「田舎暮らし」とむかしの「田舎暮らし」が体験できる、ということのほうが、未来的によいのではないか、おれなら、そうするなあ。なんて、あれこれプランを考えてみたりした。

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その「なかや」の前に、苗代があった。こういう苗代の風景も、昔はなかった。これは、機械植えのための苗代で、ハウスをかぶせた苗代のなかで、機械にのせる育苗箱にモミをまいて育て、もう田植えも近いからハウスをとりはらったあとだろうと思われる。つまり、いまの田舎暮らしの風景なのだ。

去年だったか、田植え中の農家のひとの話では、グリーンツーリズムなどで、田舎や田植え体験に来る都会のお客さんは、手植えの田植えを体験したがる、もっとも子供たちには機械植えはできないし、といっていた。

同じ子供でも、おれが子供で田舎に住んでいた頃の田植えの手伝いは、刈り入れ収穫のよろこびのイメージにつながっていた。田植えをしたら、稲刈りもしなくては、田植えのよろこびは体験できないのではないかと思ったりした。しかし、収穫のよろこびを知れば、田植えなどひとまかせでもよいと思ってしまう可能性がなきにしもあらず。いまはびこっている消費文化というのは、そのように、結果だけを求める。いまでは、日常の管理は農園がやってくれる貸し農園まである。

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消費文化としての趣味や観光としての「農業」と、生業や生産事業としての農業は、決定的にちがう。ということを示す光景にであった。ハクサイ畑にあった、成長を記録するメモは、昔はなかった。メモには、「4月26日 ハクサイ 11枚 3/31」とあった。

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昔は、毎朝、畑を見まわって注意深く観察するのが日課だった。いまでも、たいがい無農薬有機栽培の農家は、そのようにしているのではないだろか。あるいは、この畑でも、見回りは日課になっているかも知れないが、このようにメモして管理するのは、いま風だろう。だいたい、この広大の畑を、毎朝見回るなんて、難しそうだ。

いずれにせよ、そこには「経過」の観察や体験がある。消費文化は、結果や結論だけが価値であり大事だ。

趣味や観光としての「農業」は「農」の一端を、わずかに体験できるだろうが、農業とはほど遠い。

それはともかく、「都会」と「田舎」を対立的に論じる傾向があって、たしかに矛盾もちがいもあるし、「お客様は神様」が「お客様である都会人は神様」にスライドしている面もあるが、それが「都会か」「田舎か」と対立的なものなのかどうか、かなり考えてみる必要がある。それは「いま」と「むかし」、あるいは「新しい」と「古い」の関係についてもだ。

古民家のいま風の水洗トイレで思った、おれたちは同じ水洗便所で「暮らし」ている。

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