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2014/06/13

『TASC MONTHLY』6月号は面白い、三題噺的に考えてみた。

公益財団法人たばこ総合研究センター(TASC)が発行する『TASC MONTHLY』は、毎号お送りいただいているのだが、毎号興味深い記事がある。やはり「たばこ」は、いろいろ「逆風」のなかで苦労してきているから、編集に深みが備わるのだろうか。本文30数ページの、ペラペラの雑誌だが、考えさせられる文章が載る。

おれも、以前に、「雑穀」について書いたことがあるし、TASCが発行する『談』別冊の「酒」特集にも寄稿したことがあるが、編集担当の方の依頼の文章そのものも面白かった。ついでだが、表紙は、久住昌之さんの切り絵で、表2に文章がついている。久住さんも、「散歩もの」そのものの方で、現場を歩き模索しながら作品をつくりあげるひとだから、この雑誌にふさわしいといえるだろう。

今回も、なんとタイムリーな、という記事が、3本並ぶ。簡単にメモしておこう。

随筆は、西原和久さん(成城大学教授)による「人の国際移動と公共性」。

日本は「多文化共生が語られるが、むしろ同化を強制しがちではないか」「どのように外国人に接するかがその社会の成熟度を示す。だから筆者は、一国内での「上からの公共性」や「下からの公共性」などの議論ではなく、外国人という「他者」を顧慮した国境を越える「ヨコからの公共性」の議論が必要だと論じてきた。グローバル化時代には、人と人とのトランスナショナルな新しい関係を創る公共性が求められている。」

「狭いナショナリズムが吹き荒れている北東アジアの現状を見るにつけ、外国で世代を繋いで生きてきた人々の歴史から学ぶことはまだまだ多い。東日本大地震では外国人移住者にも多くの犠牲者が出たが、このことは十分に顧みられていないのではないか。グローバル化時代、人がどの地で生活しようとも心豊かに暮らせる社会が、いま求められているのである。」

そんななかで、ケータイが普及し、手軽にツイッターやフェイスブックなどインターネットで、「今」を発信したり「今」を共有できるようになっているのだが、はたして、「トランスナショナルな新しい関係を創る公共性」のために、なっているのだろうか。

むしろ、あらかじめ自分に都合のよい情報や、共感できる情報だけをキャッチし、仲間内意識の人たちと相いれない人たちを、あらかじめ白黒つけてしまうことに使われているのではないか。インターネット上でも、排外的排他的な言論は盛んだし、ツイッターの言葉に簡単に心酔したり反発したりが日常で、直接会って話したり現場で考える前に、結論が用意されていることが多い。

と、考えていると、TASCサロンのコーナーでは、土橋臣吾さん(法政大学社会学部准教授)が、「ケータイのリズム――情報接触の高頻度化がもたらすもの」で、スマホも含むケータイネットの利用の高頻度化を分析し、みんなでテレビを見ていた時代とは違う、日常のリズムが生まれていることを指摘する。

つまりケータイネットは「マスメディアとは異なる日常のリズムを作り出していることはひとまず明らかだろう」「一言でいえばそれは、情報消費の個人化だ」。

その傾向を調べていると特徴がある。「いつでも・どこでも・あらゆる情報にアクセスできるケータイは情報接触の自由度を高めるが、その自由は、自分のメディア経験を社会的な広がりを欠いた個人的かつ断片的な経験へ切り刻んでしまう自由としても使われるうるのだ」

おれは、これは、ケータイネットだけのことではなく、とくにツイッターやフェイスブックが普及したことによる結果もあると思う。

とにかく、土橋さんは、「そもそもケータイ的な日常のリズムの浸透を食い止めるのはおそらく不可能だ、という点にある」「ケータイ的な日常のリズムが人びとの生活に定着したことを前提に、そこで何ができるか、その具体的なアイデアを考えることだろう。人びとがマスメディア的な構造から解き放たれつつある今日の状況は、社会統合という観点から見れば確かにある種の不安定さをはらむ。だが、いったん、個人化し、流動化し、バラバラになった個人をこれまでと別のかたちで繋ぎ合せることができるなら、それはそのままモバイル社会ともウエブ社会とも呼ばれる今日の社会をデザインする実践になる」という。

しかし、その場合、ますます個人の判断と責任が問われるのだろうと、おれは思う。ツイッターやフェイスブックの現実を見ると、その話題は依然として、マスメディアが流す情報が大きい比重を占めているように見えるし、それがそれぞれの都合のよいように拡大解釈され、たちまち広がることだ。

そして、「個人的かつ断片的な経験へ切り刻」まれた情報を、じぶんと親和性の高いほうへと繋ぎ合せることで、社会的な広がりのなかで生きていると錯覚する。いまでは、そこに、新たな企画が生まれ本になったり、番組になったりし、それがまた、そういう親和性のなかで評判を呼び「成功」していくという状況もある。

それは見方を変えれば、金太郎飴が長く繋がっただけで、異文化(個人個人異なる異文化も含め)との共生にも、トランスナショナルな新しい関係の創造にも繋がっていない。単なる「お仲間づくり」という面も強い。

ってことで、ようするに、土橋さんの、その実践のためには、個人の判断と責任が大きい。ワタシは、どういう社会を望み、どういう人間になるのか、なりたいのか、ということか。まさか、ワタシの思うままに動く社会、ワタシは独裁者になりたい、なーんてことでは…。

それで、特別寄稿、小林哲さん(大阪市立大学大学院教授)の「嗜好品としての大人の味」だ。

小林さんは、「若者の酒離れ」現象から、中でも「男性のビール離れ」の最近の傾向を見て、そこにある「甘いもの好きの苦いもの嫌い」を指摘する。これは味覚レベルのことであるが、とくに男性のそれは、女性と子供に近づいている。

そもそも、酒のような「嗜好品は決して美味しいものではない」「嗜好品が美味しく感じられるのは、それが経験を通じて形成される美味しさだからである」「嗜好品は、その不味さ(正確には慣れないと美味しいと思えない味)や薬にも毒にもなり得るという性質により、今、社会から排除されようとしている」「このような傾向にあるのは嗜好品だけではない。ある意味、すべての商品が嗜好品と同じような問題に直面していると言っても過言ではない」

その状況を分析して、「昨今のグローバル化の進展やインターネットの普及により、国家の秩序が及ばない世界が広がっている。そこはまさに未開の地であり、かつての共同体における成人男性がそうであったように、リスクを負いながら自らの判断で世界を切り開く必要がある」という。

嗜好品と大人への通過儀礼の密接な関係を小林さんは語り、かつて「成人男性」が担っていた、リスク(苦さ)を負う「大人」とそのコミュニティの誕生や、「グローバルな世界やインターネットの世界」で活躍する人々のために、新たな嗜好品が生まれるチャンスを期待しているようだ。

ってえことで、とにかく、リスクを排除するのではなく、つねに異なる(ときには苦い存在である)他者を顧慮し、リスクを判断し負える「成熟した大人」になれるかどうか、同化を強制しがちな「大人」から個人としての人間を尊重できるようになれるかどうか、そのへんに課題があるようだ。

とりあえず、そういうことにしておこう。

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