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2014/08/30

ゴー・ビトゥイーンズ展のち新宿で飲み。

森美術館で開催中の「ゴー・ビトゥイーンズ展」。内覧会の案内と招待券をいただきながら行けないでいるうちに、会期は8月31日までと迫っていることに気がついて、昨日行ってきた。Hさんに行くことを伝えると、それなら夜は飲みましょうとなった。

「ゴー・ビトゥイーンズ展 子どもを通して見る世界」は、インスタレーションとアニメの映像が多く、見るのに、けっこう時間がかかった。しかし、おもしろかった、というか、なかなか充実した、力のこもったよい催しものだった。

高知県立美術館の川浪千鶴さんが、学芸員レポート「ゴー・ビトゥイーンズ展──こどもを通して見る世界」に書かれている。
http://artscape.jp/report/curator/10101438_1634.html

「この展覧会は子どもをテーマにしてはいるが、子ども向けではない。可愛いわかりやすい作品満載でもなければ、昔、子どもだったおとなたちへ贈るといったノスタルジックな口上付きでもない。これは現代を生きるおとなのための展覧会、おとなが「生きる力」を取り戻すための展覧会である。東日本大震災以降の世界に暮らす私たちは、ぼんやりとした影のような不安をつねにまとっている。美術館は鑑賞教育を通じて子どもたちが「生きる力」を得ることに貢献できると私はこれまで何度も語ってきたが、いま「生きる力」は子どもだけでなく、おとなにこそ必要なのかもしれない。」

この場合の「生きる力」には、さまざまな意味が含まれるだろう。その意味そのものを、考えさせてくれた。

最近も、たかの友梨の「パワハラ」やワタミをはじめとする「ブラック企業」が、うさんくさく問題になるたびに、その経営者たちの開き直りともとれる発言は、法認識以前に、アイデンティティや世界観の所在に問題があるように感じていた。

「有名」になることや「出世」や「成功」や「金儲け」は悪いことではないが、それがアイデンティティのようになって、人間として「在る」その在り方に、なにか欠けている。そんなことは考えたことがなさそうにすら、見える。

そして、これは、彼らのような大企業や有名企業の経営者だけではない。もっと小さな成功の過程にあり、もっと小さな権力(少しでも思いのままにできる力)や権威(少しでもチヤホヤされる威力)を手に入れているか、入れようとする過程でも、よく見られることでもある。そういうことが多くなった感じがする。過剰に競争意識を煽る「新自由主義」の風潮が空気のような日常になってからは、とくに。

日本には、まだまだアイデンティティに無頓着な土壌があり、アイデンティティと組織のアイデンティティの区別もつかないし違いもわからない「大人」が、けっこういる。

ある上場をめざす企業の社長は、おれにこういった。「社員たちは、ここで(つまり「彼の」会社で)禄を食んでいるのだから、黙って私の考えや指示に従うのは当然だ」。おれは、おどろいて、彼を見た。大学院まで出た男が、何をいうのか、そんな考えで、まっとうな上場企業になれるだろうか。だけど、アンガイこういう考えがスルリと通ってしまう状況もある。いったい、こういう人たちのアイデンティティの形成は、どのように行われたか、気になっていた。

という話しは関係あるかどうかわからないが、展覧会を見ながら、そんなツマラナイことを思い出していた。

展覧会には「環境に翻弄されつつも、境界を超えることで閉塞した状況を突破する子どもたち」の姿があったわけだけど、そこには同時に、翻弄し翻弄させる大人もいたし、子どもと一緒に境界を超えることで閉塞した状況を突破する大人もいた。自分の「生きる力」は、どこに求めるべきか。という見方もできた。

それにしても、先の学芸員レポートにある、「中国が進めた一人っ子政策の結果、大勢の少女が養子縁組でアメリカに渡った。ジャン・オーの、中国人の幼い娘と白人の父親という組み合わせの家族写真を前にするとき感じる奇妙な居心地の悪さ」は、醜悪すぎて吐き気をもよおすものもあった。

「痛みと葛藤の記憶」のコーナーの展示、ストーリー・コーによるアニメ、「貧しいメキシコ移民の母と娘、アスペルガー症候群の息子と母の対話」は、素晴らしかった。やさしく鋭く現実に迫っていた。

おれは、自閉症の兄を持つ若い知人の家族を思い出した。その家族は、自閉症の兄を持ったことを、マイナスと思っていない。その兄がいるおかげで、家族は思いがけない経験をし、成長できたと思っている。実際、素敵な人たちだ。

そもそも、子供を持つことは、家庭だろうと社会だろうと「異物」を引き受けることであり、お互いに思うようにならない何かを引き受けることでもあるのだが、いわゆる「障害」を持った子供の場合は、その「異物感」は、いやがおうでも増す。それは、自分の思うままにならないことから、何かを学んで「生きる力」をつけるよい機会でもあるのだが、「成功モデル」しか頭にない人たちは、そうは考えない。おれが経営に関与していた保育園にも会社にも、「障害者」がいて、「邪魔な異物」あつかいされることから、いろいろなことがあった。

「健常者」が自分の思う通りにならないと、キゲンを悪くしたり、怒ったりし、自分の思うままに従わせようとする。近頃、モンスター消費者も含め、よく見かける。

人間的な成長がなくても、「成功モデル」を生きる理念や知識や能力や要領のよさや社交性などがあれば、「生きる力」になる。ってことになっているのだな(よくビジネス本に書かれているけどね)。

いちばん驚いた展示は、「記憶をテーマにした制作を続ける塩田千春の、3歳以下の幼児にお母さんのお腹の中にいたときや産まれたときの思い出をインタビューした《どうやってこの世にやってきたの?》」だ。

よく3歳以前の記憶は失われるといわれ、そこに怪しげなスピリチュアルがはびこったりするが、これは、そういうものではない。大人の勝手な解釈による3歳以前のことではなく、映像の中で3歳以前の子たちが、しゃべりまくるのだ。いやあ、おもしろくて、なぜか気分がスカッとした。

おれの中で、3歳以前は、どうなっているのだろう。この世にやってきたときのことなど覚えがない。いま3歳以前のお子さんがいる方は、おなじインタビューをして映像に残しておくとよいかもしれない。

「フィオナ・タンの《明日》では、大小2台のスクリーンにスウェーデンの高校生が数十人登場する」。これも、おもしろかったな。とくに、映し出された、自意識。もうおれにとって、高校生は、はるか昔のまぶしい時代のことだ。「明日」もだいぶ消費してしまって、いくらも残っていない。

とにかく、いろいろなことが思い出され、考えることの多い展覧会だった。

で、18時15分にHさんと合流、待ち合わせの新宿のイーグルへ。イーグルは、前回一杯で入れなかったところだ。そういえば、前回も新宿だったのだな。その前は、新橋で、今年に入って何回目だろう。

もう何度目か、定番メンバーはHOSTになるから、こう呼ぶことにしよう。それにスソさんも加わった、もう一人の参加予定者は来られず。まあとにかく、食べて飲んで、しゃべった。

Oさんの仲間の引っ越し騒動の話しは、おかしかったけど、笑えない。でも笑ったけど。そのことで、Oさんは1か月ほど、毎日二日酔いか二日酔いになりたい気分だったというが、Oさんのように、売れっ子で鎌倉に住んで華やかな「成功組」という感じの人や周辺にも、いろいろ不安はあるのだなあ。それに、元オリーブガールズも、これから家族のことやらなんやら、まだ面倒なことが残っているってわけだ。面倒があるたびに、思い通りにならないことを引き受けて、人間は(個人も社会も)成長する、と思えばいいさ。この展覧会を見たあとは、そういえる。

で、二軒目は、フロイデ。

いやあ、「生きる力」がついた、昼と夜だった。

スソさんの帽子展は、10月中旬とのこと。病気から回復後の、ひさしぶりの帽子展だ。楽しみだなあ。

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