« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »

2014/09/25

泥酔野暮トーク「川の社会学」をやります。

ごく少数の人しか知らない小岩の野暮酒場でやっていた「帰ってきた泥酔論トーク」あらため「泥酔野暮トーク」をやることになった。

「川の社会学」というタイトルで、スペイン語翻訳家で東京東側土着民の有馬洋平さんと語り合う。

10月18日(土)、18時スタート(酒場は、たぶん17時オープン)。投げ銭制。

この企画は、少し前に野暮酒場で飲みながら、山本周五郎の『青べか物語』のことをネタに、あーでもないこーでもないとおしゃべりしているときに、生まれた。

『青べか物語』は、「普通の庶民のことを書いて民俗的な資料価値も高い」と評価されているが、小岩がある東京・江戸川区と江戸川をはさんで千葉県側にある、いまではTDRのおかげで「東京」になってしまった浦安が舞台になっていて、川と海、水でつながる社会や民俗の話として読むこともできるのだ。

それはまた、東京が、どう成り立ってきたかのことでもあり、たとえば、かつて『青べか物語』のころとしばらくのちまでは、都心と浦安の交通は、江東区の高橋から出る通舟でつながっていた。いまでは高橋というと、どぜうやが有名なぐらいだが、高橋は水上交通の要衝だった。

先日も、dancyuで「東京の味」をテーマに取材したが、東京の味覚の歴史には「濃口醤油」が欠かせない。その濃口醤油が江戸の味覚になったのは、東京の東側の水運と深い関係にある。これはほんの一例で、千住を経由した荒川上流の川越との物流や、秋葉原にあった通称「やっちゃば」は、荒川上流の三峯神社とも深い関係にあったし、三峯神社へ行けば、そこは荒川の下流の東京の町町と深い関係にあったことがわかる。

また、川と三峯神社といえば、『オオカミの護符』(小倉美惠子)は、多摩川や荒川上流のネットワーク、社会学として読むこともできる。

それは、信仰だけではなく、そもそも、信仰というのは、だいたいなんらかの生活上の関係があるのが普通で、川の上流と下流は連絡しあい協力しあって水害を防いでいたなどの話しもある。

東京の文化、東京のダイナミズムは、「下町」といわれる東側の水運を抜きには語れない。

そういうことに関するトークを、いま、なぜ、東京の東側の小岩の野暮酒場でやるかというと、やはり、これまでの「東京」や「下町」、ひいては日本の社会や歴史は、ヒジョーに東京の「西側目線」で語られていることが多いと感じるからだ。いまどきの「ネットワーク」や「つながり」というものも、「西側目線」に偏っているという問題意識がある。

「川の社会学」は、ようするに川つながりのネットワークのことで、これは、クルマや鉄道にとってかわられてしまったのだけど、そのとってかわられようも、ずいぶん「西側的」だ。でも、「西側的大勢」は、そういうことを感じてすらいないだろう。

ま、そういうあれこれが飲みながら話題になり、今回のトークになった。

「川の社会学」というとカタイ感じだが、「泥酔野暮トーク」ですからね、うじゃじゃけながらに決まっている。そして、これは、何回も続いて、いずれは、浦安へ行ったり、フィールドワークっぽいこともやったり、「西側」でもトークをやりたいと思っている。

有馬さんは、「川の社会学」について話すとなれば、何十時間でもしゃべれるといっている。カストロのように、しゃべり続けるかも知れない。スペイン語翻訳をしているだけあって、ラテンな感じの人だからねえ、社会学についても高い関心と知識があり、情熱的。でも、ようするに飲兵衛ってことです。

よろしく~。

当ブログ関連。
2014/06/28
山本周五郎『青べか物語』を読んでいる。

|

2014/09/21

四月と十月文庫『わたしの東京風景』鈴木伸子・著、福田紀子・絵。

003002

去る8月18日に港の人から発行の四月と十月文庫は5冊目、鈴木伸子さん著/福田紀子さん絵の『わたしの東京風景』だ。

鈴木さんは、おれも「理解フノー」の連載をさせてもらっている、美術同人誌『画家のノート 四月と十月』に「東京風景」を連載している。それに加筆修正、新たな書きおろしを加え、四月と十月同人の福田さんの描きおろしの絵とで構成されたものだ。

なんとなく読みだしたのだが、連載のときと違った印象で、ハッとして、一度読んで、またスグ読み返してしまった。

いやあ、これこそ、名著、名文というものだろう。文章は平易で素直、技巧をこらした気取った膳の上の料理のような、いわゆる「名文風」ではないけれど、その平易で素直な文章のなかに、奥行きと広がりと輝きのある内容が、簡潔にギッシリ詰まっている。

しかも、対象は特別なものでなく、多くの人が比較的日常的に接している東京だ。その、どこでもいやがおうでも目に入る東京を、どれだけ「風景」として見ているだろうか。

鈴木さんはまえがき「風景を探して」で、こう述べている。

「美術同人誌「四月と十月に「東京の風景」という連載をするように言われた時は、最初にどんなことを書いていいのか考え込んだ。/「風景」とは、さすが美術を生業にする人の言うことだ。私自身は今まで茫洋と東京を眺めていた。都市を風景として捉えるには、一枚のキャンバスに描いて成立する構図と輝きが必要だろう。」「悩みながらも私は、今まで見知っている街や新たに訪ねる街で、「風景」として成立する場所を探し始めた。」

と、もっと引用したいが、長くなるのでやめておく。思考は論理的だが、肩肘を張ってないのがいい。

こうして「昼と夜」「自然と地形」「眺め」「思い出」「都市美」「街のにぎわい」「中央線の車窓から」「超高層風景」にわけられて、25の掌編が載っている。「更新」の早い東京の風景のなかにいる鈴木さんの、おどろきやよろこびやとまどい、そのトキメキまで伝わってくる。とくに「都市美」のなかの「飛行機が飛んでいく」「ヘリコプターと出会う街」は新鮮だった。

そして、鈴木さんとほぼ同じ場所かテーマの、福田さんの絵が載っている。ありふれた眺めのなかに「風景」をとらえる。これは「共演」なのか「競演」なのか、なかなかスリリングだ。

鈴木さんは生まれたときから東京の目白の高台と思われるところを住まいに、過ごしてきた。この文章は、そういう人でないと書けないものがあるような気がする。おれのような、「東京者にはなりきれなかった田舎者」を自覚するものには、とても書けない。その意味でも、これは鈴木さんの「わたしの東京風景」だろう。鈴木さんの、東京に対する、素直でやわらかい視線が、「東京」を意識しすぎるおれのような人間にも、心地よい。

ところで、「東京本」というのは、定義が難しいと思うが、なかでもイチウオ「東京歩き本」としてくくれそうなものでも、ずいぶんたくさんある。

そのなかで、おれはこれまで、木村衣有子さんの『もうひとつ別の東京』と小沢信男さんの『東京骨灰紀行』が、よいと思っていたが、これに『わたしの東京風景』が加わって、三冊になった。

三冊を眺めてみると、いずれも単なる趣味の東京お散歩本ではない。この著者じゃなきゃこうは書けないというものが、しっかりある。すると、東京のダイナミズムというものが、さまざまに見えてくる。

三冊の関係は、二次元にあるのではなく、それぞれ異なる次元にありながら、いずれも「もうひとつ別の東京」であり、だけど日常の生活の舞台でもある東京を見ているのだな。じつに面白い。

と書いていると長くなるから、やめよう。

|

2014/09/20

東京新聞「大衆食堂ランチ」23回目、有楽町・キッチン大正軒。

003

昨日は第3金曜日だったから、東京新聞に連載の大衆食堂ランチの掲載日だった。すでに東京新聞のサイトにもアップされています。今回は、有楽町駅前の東京交通会館の地下1階にある、キッチン大正軒。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2014091902000214.html

この店がある一角は、こんな大きなビルの地下に、こんな横丁のようなところがあるのか、という感じのうえ、さらにこんなところに精肉店があるんだ、と思ってしまう。

その精肉店の大正軒がやっているフライ料理の店なのだ。カウンター中心、10人ぐらいで一杯になりそうな狭い店で、おやじさんと娘さんでやっている。この親娘の感じもいいんですなあ。

東京交通会館は、1960年代中ごろ、ちょうどおれが銀座にある会社へ通いだしたころ工事が始まったのだけど、その場所には「すし屋横丁」など、戦後の闇市ゆかりの横丁が、ごちゃごちゃあった。その雰囲気を残そうとしたのかどうか、とくに入口のへんは横丁の感じがあって、なんだかうれしい。

010大正軒は、東京交通会館ができたときから、ここで営業している。

キッチン大正軒も、狭いから、行列ができていることが多いけど、この入口の角のラーメン屋はいつも行列している。この場所は、一時入れ替わりが激しかったけど、このラーメン屋になってから落ち着いたようだ。

ところで、本文には、 「煮込みハンバーグ+豚しょうが焼きを頼んだ。歯応えのあるハンバーグに旨(うま)みの効いたソース」と書いたのだが、「歯応えのあるハンバーグ」と書いたココロが通じるかどうか。近頃のハンバーグは、「ジューシー」ばかりがうまさとして強調される傾向があるように思えるけど、肉がギッシリつまっているがゆえに歯応えのあるハンバーグが少なくなっているような気がする。「ジューシー」もいいが、噛むと歯応えがあって肉の中からあふれる肉汁が「ジューシー」でないと、どうも肉を食べた気がしない。

011

|

2014/09/19

エロを忘れた「俺とエロと祭と私」トーク。

003今月は、連休のつぎに飛び石連休とあって、なかには、この二つの連休をつなげ、いまごろ「夏休み」をとるやつもいて、いろいろシワ寄せがくるわで、落ち着かなかったのだが、去る13日土曜日は、経堂のさばのゆで、フランス人フォトジャーナリストのマルイユ・ダビッドさんと「俺とエロと祭と私」トークをやったのだった。

ご参加のみなさん、ありがとうございました。

ダビさんは、スライドのほかに、短くまとめた「神輿」というタイトルのビデオも用意、じつに充実した内容だった。

18時半スタート予定が、やや遅れて始まった。ダビさんは、日本語が十分ではない。でもまあ、なんとなく話は通じるもので、やっているうちに、19時過ぎ「専属通訳」のクラちゃんが到着、調子があがった。

参加者の方が、フェイスブックで、「エンテツさんが「祭がなにゆえエロか」を語り忘れて進行されたのも愉快でしたが、なにしろダビッドさんの思いの熱さが伝わってきてこちらの頭もアルコールと一緒にぐるぐる回転する楽しい夜でした」と報告されているのだが、いや、ほんと、いきなりダビさんの神輿の写真に引き込まれ、エロ話しを忘れてしまった。

ダビさんとは何回も酒を飲んでいるが、あまり仕事の話しはしたことがなかったので、ダビさんのジャーナリストとしての仕事に対する考えや姿勢についても学ぶところが多かった。

とくに、「祭り」を、生活も含めて構造的にとらえて、フランス人にもわかるように日本の文化を伝えたい、ってあたりの話には、いかにも合理と構造のフランス人らしさを感じた。

主に下谷と湯島と神田神保町の祭りの画像が中心だったが、ダビさんの目は、下谷と湯島の地域性のちがい、祭りをめぐるヒエラルキーなどをとらえていた。これからも、取材は続いて、祭りだけではなく、神輿を担ぐ人びとの生活まで、インタビューしていくのだそうだ。

ダビさんと話すと、いつもおもうのは、やはり日本人のものごとのとらえ方や考え方は、かなり主情的であるということだ。そこをかきわけかきわけ取材するのは、なかなか難儀だろうけど、日本人では把握しきれないところまで見えてくる気がする。

日本人も「祭り」のことは、ナントナクわかっているていどで、知らないことが多いと思う。「神輿をなぜ担ぐの?」というダビさんの質問には、日本人でも、なかなか正確に回答できない。

写真は、まだたくさんあるし、これからもダビさんの取材は続くので、ダビさんの日本語の学習のためにも、そのうち第二弾をやります。

トークの当日は紹介できなかったけど、ダビさんの仕事ぶりがわかるサイトは、こちら。ビデオリポートもよいですよ。
http://davidmareuil.weebly.com/

20時半すぎに終わり、懇親飲み。21時半すぎに、ダビさん、クラちゃんと太田尻家へ。帰りは、大宮着最終になってしまい、タクシー帰宅だった。

019

|

2014/09/09

「黒い」は悪いか。

014001先週から取材してきたテーマの一つは、とくに「だしの色」に関わることだ。きのうが最後の取材で、4軒目、明治20年(1887年)創業のおでんやさん。

いやあ、たしかに「黒い」。

大阪で人気のおでんやさんの写真(下)と比べてみよう。その、だし=煮汁の色だ。煮汁が黒ければ、煮たものも黒っぽくなるのが道理。

ところが、この色が、さまざまな「偏見」を生む。たとえば、大谷晃一さんの『大阪学』(新潮文庫、1997年)では、こんな風だ。

Dscn0913001「東京のだしの色は、どす黒い。辛い。濃口の醤油そのものの味である。大阪の色は淡く味は薄い」「上方では、料理の味の濃淡で文化をうんぬんしてきた。濃い味は田舎者である」

こういうたぐいの話しは、とくに関西人からよく聞かされる。東京のうどんなんか、タールの汁みたいで、気持ち悪い、とか。

人間それぞれ色の嗜好というものがあるが、その色で「田舎者」だのなんだのという話しにまでなったりする。それで文化をウンヌンし、他を見下す。文化の多様性とか多面性とかは関係ないらしい。

また、「濃い色」の「濃い味」は、素材が持っている味を損なうというのが、一つのリクツになっているわけだが、ほんとうに、そうか。

偏見があっては、味覚を楽しむことはできない。自分の舌と感覚で楽しむのだ。いろいろなことが見えてきた。「濃い味」も「濃い色」もいろいろだ。昔の東京の味は、もっと濃かった。「辛さ」にも、「しょっ辛い」もあれば「甘辛い」もある。それも時代によって変わってきた。そこに生活がある。

それに、料理によって、東京の味であっても味の決め手がちがう、ということがあって、おもしろい発見だった。

偏見といえば、「三大ナントカ」といったぐあいに、ひとは一度権威に思い込まされると、そこに群がり、ほかのものに見向きもしなくなる、おかしさがある。そういうおかしさにもであった。こんなにうまいものがあるのに、どうして見向きもしないのだろう。

「有名」「一流」などは、時代によって変わるものなのに、味覚は多様で多面であるのに、それを楽しんでない滑稽がある。思い込みが激しすぎるのか、主体性の欠如か、教条的というか。

そんな、あれやこれやの収穫があったけど、原稿は気楽な読み物にしたいので、あまりリクツはこねない。とにかく、「黒い味」を楽しむのだ。

それにしても、「江戸の味」は、もうはるか想像のかなた、何枚も厚着を重ねた身体のうえから、身体のラインを探るようなものだな。

|

2014/09/07

大衆酒場から高級料亭まで。そして13日土曜日のトーク。

009

ロケハンやら取材やら、ウロウロ動きまわった。

1日の月曜日は、17時ごろロケハンで高円寺へ。終わって中野のゲストハウス新館の工事の様子を見に行った。
まりりんは不在、外から眺めたが、思っていたより大がかりの工事になっていた。東大宮にもどってから、どこかで飲んだような気がするが、思い出せない。

0393日は、15時から「三大もつ煮込み」で有名な大衆酒場の取材。だけど、用があったのはもつ煮込みではない。

取材が終わって、担当編集さんと、取材はしないがテーマとは関係ないわけではない、築地の食堂へ。ほろ酔いで、東大宮に帰り、テーマと関係することで気になることがあり、日本料理のことなので、ちゃぶへ。ついでに、ってわけじゃないが、帰り道だから、キッチンでワイン一杯。泥酔帰宅。

0115日、12時に浅草の料亭へ。明治5年(1872年)創業の老舗の高級料亭だ。昼食でも1万円ちょっと、夜は3万円ぐらい。もっとドーンと金を払えば、芸者さんを呼んで遊ぶこともできる。昔の料亭の饗応料理と遊びを残しているところ。これまで行ったことのある料亭でも、大きなほうだった。厨房も大きく、ひさしぶりに大きな舟型シンクのある厨房を見た。

037移動し15時からは西麻布、寛政元年(1789年)老舗の蕎麦屋。味覚の話しより、放蕩や、「更科」をめぐる、ごたごた話しが面白かった。

終わって、編集さんカメラさんたちと別れ、六本木のアボチョイでビール。千石イエスの女子と18時過ぎに待ち合わせ、新橋のビアライゼへ。この日は、暑く、ビールばかりを飲んでいた。

6日、午後、有楽町、別口のロケハンと取材。一度帰宅し、浩平先生から誘いのあった、北浦和の祭り、西口商店街にあるイッカイ!へ。

浩平先生とは北浦和クークーバードでのトーク以来だ。この間、浩平先生ご夫妻には子供が生まれたのだが、そのお子さんを抱いた、母になった元気な奥さんとも再会。福祉農園の関係者や、浩平先生の教え子、はるばる都内からやってきた酒呑番長と沖縄青年、イッカイ!で商店街を行く阿波踊りを見ながら飲んでいたが、雨が強くなり祭りは中止。酒呑番長と沖縄青年と狸穴へ避難。とにかく、よく飲んだということ。

これらウロウロの結果は、はたして、どういうアウトプットになるか。ま、楽しい話しにまとまるのではないかな。いやあ、料理と味覚の話しは、楽しいねえ。

それにしても、急にまた暑くなったり寒くなったり、その中をウロウロ歩きで、70歳の肉体はくたびれた。明日も取材がある。そして、今月は後半に毎週休日があるうえ、原稿締め切りが重なり、進行がタイトなのだ。「つかれた」なんて言っていられないが、ま、なんとかなるだろう。

さてそれで、いよいよ今週末だ!

以前告知したように、13日土曜日、さばのゆ@経堂で、「俺とエロと祭りと私」と題して、東京の祭りの写真を撮っている、フランス人フォトジャーナリストのマルイユ ダビッドさん(ダビさん)と、彼の写真を見ながらトークです。ダビさんの祭りの写真は、素晴らしいですよ。18時半スタート、投銭制。よろしくね。

021

044

|

2014/09/02

「みますや」と「三河町」。

001002

2014/08/23「都会の残酷さ。地上げと禁煙の風景。」の「みますや」のこと。

たまたま見ていた『東京出張』(永浜敬子・サコカメラ、京阪神エルマガジン社)に、載っていた。そこには、店内の写真に太田和彦さんも写っていて、こういう文章がある。

「写真にご登場いただいた居酒屋伝道師、デザイナーの太田和彦さんによると、今に残る多くの旧い居酒屋が酒屋から徐々に居酒屋スタイルへ成長していったのに対し、ここは最初から居酒屋だったという稀有な店だ」

気になって、ほかの資料を探してみた。すると、1968年発行の保育社カラーブックス『新訂 東京の味』に載っていた。この本の編者でもある添田知道が、文を書いている。そこには、こうある。

「赤い提灯と縄のれん。柳が一本。その垂れ葉をなおも青々と見せるガラス灯に「創業明治三十八年」とある。日露戦争の年である。そのころ、このあたり三河町といって、労務の人市もたった。いわゆるめしや(エンテツ注=「めしや」に傍点あり)の実質主義をいまも保って、食べるによく、飲むによく、すわるところも、椅子卓も、みないれこみの気安さ満点である。」

おお、三河町といえば、かの岡本綺堂の『半七捕物帳』で、半七親分が住んでいたところではないか。しかし、「みますや」の住所は、この本でもそうだが、いまと同じ「神田司町」だ。東京のなかでも神田は、古い地名を残している町だから、神田三河町もあるものとばかり思い込んでいたが、町名が変わっているとは珍しい。

明治が大正になる明治45年の「最新番地入 東京市全圖」を見ると、たしかに三河町があった。しかも、いまでは内神田になっている一部まで含んで外堀にまで達する、けっこう広い地域だ。

慶応が明治になる慶応4年の「東京大絵圖」にも、ほぼ同じ地域にあたる「三川丁」がある。ところが、明治8年の「東京壹大區小區分繪圖」では、「三川丁」の一部は「三河丁」になって残っているが、3分の1ぐらいは空白になって町名が入っていない。

半七親分、これをどう考えたらよいのでしょうか。

あまりあてにならないウィキペデイアによると、三河町の「町名の由来は、徳川家康が入府したさいに帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことによる。江戸でもっとも古い町の一つであり、1丁目から4丁目まであった。明治時代には東京市神田区三河町となったが、1935年(昭和10年)に1丁目が鎌倉町と、2〜4丁目が神田司町と合併したことにより町名は消失した。」とある。

つまり、徳川家康の時代からの由緒だった地域であったがために、明治維新で没落、一部は空き地となった。そしてやがて、「細民」といわれる人たちが住みつき、「労務の人市」もたつようになった。そう考えることもできそうだ。

この町名が、いつ、どのような理由でなくなったのか、まだ調べが足りなくて、わからない。

とにかく、添田知道が書いた「みますや」の縄のれんも「創業明治三十八年」とある「ガラス灯」も「みないれこみの気安さ満点」も健在だが、そもそも、「縄のれん」は江戸期から布のれんより「格下」の、労働庶民が気安く飲み食いするところだった。

「みますや」には、その労働庶民と共にある、潔さを感じる。佐藤泰志の小説に『そこのみにて光輝く』があるが、そして『男はつらいよ』の車寅次郎もそうだが、生きる「輝き」は、ヒエラルキーの「上」かどうかは関係ない。

誰だったか有名な、味覚の評論家のような人が言っていたが、A級だのB級だのC級だの…は、質の上下のことではない、ジャンルの違いにすぎないのだと。だから、B級がA級ぶることもなければ、C級がB級になろうとすることもないのだと。

そういうことを改めて考えた、小さな店の歴史が教えてくれること。

|

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »