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2014/09/02

「みますや」と「三河町」。

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2014/08/23「都会の残酷さ。地上げと禁煙の風景。」の「みますや」のこと。

たまたま見ていた『東京出張』(永浜敬子・サコカメラ、京阪神エルマガジン社)に、載っていた。そこには、店内の写真に太田和彦さんも写っていて、こういう文章がある。

「写真にご登場いただいた居酒屋伝道師、デザイナーの太田和彦さんによると、今に残る多くの旧い居酒屋が酒屋から徐々に居酒屋スタイルへ成長していったのに対し、ここは最初から居酒屋だったという稀有な店だ」

気になって、ほかの資料を探してみた。すると、1968年発行の保育社カラーブックス『新訂 東京の味』に載っていた。この本の編者でもある添田知道が、文を書いている。そこには、こうある。

「赤い提灯と縄のれん。柳が一本。その垂れ葉をなおも青々と見せるガラス灯に「創業明治三十八年」とある。日露戦争の年である。そのころ、このあたり三河町といって、労務の人市もたった。いわゆるめしや(エンテツ注=「めしや」に傍点あり)の実質主義をいまも保って、食べるによく、飲むによく、すわるところも、椅子卓も、みないれこみの気安さ満点である。」

おお、三河町といえば、かの岡本綺堂の『半七捕物帳』で、半七親分が住んでいたところではないか。しかし、「みますや」の住所は、この本でもそうだが、いまと同じ「神田司町」だ。東京のなかでも神田は、古い地名を残している町だから、神田三河町もあるものとばかり思い込んでいたが、町名が変わっているとは珍しい。

明治が大正になる明治45年の「最新番地入 東京市全圖」を見ると、たしかに三河町があった。しかも、いまでは内神田になっている一部まで含んで外堀にまで達する、けっこう広い地域だ。

慶応が明治になる慶応4年の「東京大絵圖」にも、ほぼ同じ地域にあたる「三川丁」がある。ところが、明治8年の「東京壹大區小區分繪圖」では、「三川丁」の一部は「三河丁」になって残っているが、3分の1ぐらいは空白になって町名が入っていない。

半七親分、これをどう考えたらよいのでしょうか。

あまりあてにならないウィキペデイアによると、三河町の「町名の由来は、徳川家康が入府したさいに帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことによる。江戸でもっとも古い町の一つであり、1丁目から4丁目まであった。明治時代には東京市神田区三河町となったが、1935年(昭和10年)に1丁目が鎌倉町と、2〜4丁目が神田司町と合併したことにより町名は消失した。」とある。

つまり、徳川家康の時代からの由緒だった地域であったがために、明治維新で没落、一部は空き地となった。そしてやがて、「細民」といわれる人たちが住みつき、「労務の人市」もたつようになった。そう考えることもできそうだ。

この町名が、いつ、どのような理由でなくなったのか、まだ調べが足りなくて、わからない。

とにかく、添田知道が書いた「みますや」の縄のれんも「創業明治三十八年」とある「ガラス灯」も「みないれこみの気安さ満点」も健在だが、そもそも、「縄のれん」は江戸期から布のれんより「格下」の、労働庶民が気安く飲み食いするところだった。

「みますや」には、その労働庶民と共にある、潔さを感じる。佐藤泰志の小説に『そこのみにて光輝く』があるが、そして『男はつらいよ』の車寅次郎もそうだが、生きる「輝き」は、ヒエラルキーの「上」かどうかは関係ない。

誰だったか有名な、味覚の評論家のような人が言っていたが、A級だのB級だのC級だの…は、質の上下のことではない、ジャンルの違いにすぎないのだと。だから、B級がA級ぶることもなければ、C級がB級になろうとすることもないのだと。

そういうことを改めて考えた、小さな店の歴史が教えてくれること。

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