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2015/06/29

7月11日(土)は、野暮酒場@小岩で「川の東京学」トーク。

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有馬洋平さんとの「川の東京学」は、フィールドワーク編1回、トーク編2回を経て、7月11日はトーク編第3回。

今回は、『大衆食堂の研究』発刊20周年にちなんだ(本書の発行は1995年7月31日)、「特別企画」ということであります。

『大衆食堂の研究』は、サブタイトルにある通り、「東京ジャンクライフ」物語。昔の大衆食堂の写真などもたくさん用意し、東京ジャンクライフについて、大いに語るツモリ。

本の腰巻にある「気取るな!力強くめしをくえ!」は、その後、キャッチフレーズとして流通しているけど、ほとんど目にとまることのない、そのボディコピーは、こんなぐあいだ。

「小市民化した東京大衆をののしり、オシャレとウンチクとモノグサにまみれた食生活をたたく。「グルメ本」にはない下品さ、支離滅裂・荒唐無稽…………だがね、忘れちゃいけない庶民の食堂、なつかしの昭和30年代の食堂。」

意識の高いハイカルチャーをモデルにした、キレイゴトまみれの「よい市民」生活をののしる情熱と毒は、いまも変わらず、「川の東京学」へ向かっている。と、自己総括。

大衆食堂に残る、連綿と続いている営みにも関わらず、あまり語られてこなかった、もう一つの東京生活は、川の東京学でもある。

はてさて、たぶん泥酔しながら、有馬さんに導かれ、どんなトークになりますか。楽しみ、たのしみ。

みなさん、東京の東の端の、江戸川に近い野暮酒場まで、お運びください。

『大衆食堂の研究』は、全文WEBに公開してあるので、こちらでご覧いただける。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm

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2015/06/27

大葉とセクハラ。

子供のころは、「大葉」という呼び方は無かった。少なくともおれの周辺では、記憶にない。たいがい紫蘇の葉か、青ジソだったが、それにしても、青ジソは、あまり見かけなかった。

その青ジソが、いつのまにか、たくさん出回るようになって、いろいろな料理に薬味として使われることが多くなり、気がついたら「大葉」とよばれるようになっていた。天ぷらも、うまいね。

大葉は、庭に植えておくと、どんどん増えて食べきれないほどなるが、スーパーでは10枚ぐらいが小さな輪ゴムでとめられ、ときには小さなケースに包装され、高くても100円ぐらいで売っている。いまごろが盛りだ。

その大葉が、セクハラのニュースになっていた。

YAHOO!ニュース
「実習先の農家でセクハラを受けた」 技能実習「中国人女性」が実習先と監理団体を提訴
弁護士ドットコム 6月26日(金)21時5分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00003306-bengocom-soci

「外国人技能実習生として来日した中国人女性(29)が、「実習先の農家でセクハラを受け、適切な賃金の支払いもなかった」として、茨城県の実習先農家の親子や、実習生の受け入れ監理団体(茨城県守谷市)に対して、慰謝料300万円と未払い賃金183万円の支払いなどを求める訴訟を水戸地裁に起こした。」

というものだが、読んでいくと、「女性が2013年に結んだ雇用契約では、女性が提示された時給は713円で、平日の労働時間は朝8時から夕方5時までという条件だった。」

その作業が、大葉の摘み取りなのだ。

「実際には朝8時~夕方16時に大葉を摘み取る作業があり、夕食と入浴後の17時からは、大葉を10枚ごとにゴムで束ねる作業に従事させられ、月によっては連日午前2時~3時まで続いたという。」

ところが、この大葉を10枚ごと束ねる作業は、「雇用先の農家は「これは(労働ではなく)内職だ」として、1束当たり2円しか支払わなかった」というものだ。「慣れた人でも1時間に150束程度しかできず、時給に換算すると300円程度」

これも、昨日に続く食べ物の国際問題の一つだが、「外国人技能実習」は、いまや「実習」という衣を被った、外国人労働力の導入の常態であり、この低賃金労働なくして日本の農業は語れないぐらいになっている。

それはともかく、この問題は、突き詰めていくと、人間と労働と食べ物に対する尊厳のことになると思う。

食育基本法で「感謝」を説いたりしているのであるが、けっして「尊厳」についてはふれてこなかった。そのへんにも、「感謝」の胡散臭さがあるのだが。

一方で、あいかわらずグルメな話やらはお盛んで、「よいこと」「よいもの」「よいひと」語りについては饒舌である。そこに、「よい市民」の選良意識や選良主義が潜んでいるのを感じる。

本来なら、よいもの美味しいものを愛する人は、等しく生活や人生や人びとを愛するはずだ。そうならないのは、「よいこと」「よいもの」「よいひと」語りに、「選良」の思想が潜んでいるからではないか。

キレイゴトの美味しい話しが咲き誇るのと背中あわせに、外国人労働者も含め、いわゆる「ブラック」な低賃金労働で成り立つ美味しい飲食は、空気のようになりつつある「よい市民」の選良意識や選良主義に支えられている。と、結論するのは、早すぎるかもしれないが、イヤなニオイを感じることは少なくない。

ともあれ、「よいもの」や美味しさには敏感な美意識が、人間の尊厳に対する美意識と連動しない、その断絶は、どう克服されるのだろう。

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2015/06/26

イカ天。

このあいだ、近所のスーパーの惣菜売場でイカ天が目にとまり買って食べてから、しばらく遠ざかっていたイカ天が気になりだした。

遠ざかっていたのに、理由はない。なんとなく、イカそのものをあまり食べなくなっていただけだ。

ひさしぶりに食べたイカ天は、うまかった。モンゴウイカの天ぷらだった。

それで思い出したのだが、モンゴウイカの天ぷらを初めて食べたのは、1962年に上京してからだ。いまの新宿西口の思い出横丁、昔のションベン横丁のつるかめ食堂でだった。

そのころのつるかめ食堂は、座ったカウンターの目の高さのへんに棚があって、いろいろなおかずがバットに盛られて並んでいた。そこに、イカ天は2種類あって、ふつうのたぶんスルメイカの類のものと、モンゴウイカだった。

食堂のオニイサンに「どっち」と訊かれ、なにしろ上京したての田舎者で、つるかめに入るだけでも勇気がいったのに、そんなことを訊かれて、ドギマギしていると、オニイサンがその2種類を指して教えてくれたのだ。

それで、初めてのモンゴウイカの天ぷらを食べた。

厚い身のうまさと食べごたえに感動して、それからは、いつもモンゴウイカの天ぷらを頼んだ。

上京するまえの、中学生や高校生のころ、うちではオフクロがよくイカの天ぷらを揚げた。そのイカは加工品で、スルメか、塩イカとよぶイカの一夜干しだった。

スルメの天ぷらってのは、ようするにアタリメの天ぷらで、駄菓子のようでもあり、酒の肴のようでもあるが、日常スルメを焼いておかずにすることが多かったのであり、それを天ぷらにするのは、「上等」のほうといえた。そして、それより上等なのが、一夜干しであり、一夜干しの天ぷらだった。

一夜干しのあぶったのは、スルメでは味わえない少し厚めのイカの身の甘みと塩の加減が、ちょうどよい塩梅で、あとをひくうまさだった。これを、さらに天ぷらで食べるときは、ごっつおうだった。

とにかく、スルメは安い保存食だったのだろう、厚い束が買い置きしてあった。一夜干しのほうは、たまにしか食えなかった。

考えてみると、新潟の山奥の田舎町でも、生のイカも氷詰めで無くはなかったはずと思うが、魚といえば干物が中心だったから、記憶がない。スルメは、祝い事につきものだったが、正月料理の酢のものに不可欠だった。

つるかめでは、モンゴウイカの天ぷらばかり食べていたのだろう、別の普通のイカ天のほうは、まったく覚えがない。揚げたてではなく、バットのものをそのまま皿に盛って出され、油の質も悪かったと思うのだが、とにかくうまかったということしかない。

モンゴウイカがアフリカ産であることは、いつのまにか知っていたが、70年代初めに大手水産会社の仕事をやるようになって、その会社がアフリカ西海岸に事務所を設けているのは、ほとんどモンゴウイカのためと知った。

送られてくる漁獲中の写真を見せてもらったりしたが、記憶に残っているのは、駐在員が撮影したアフリカの女性のヌード写真だけだ。独身の駐在員は、海岸まで続く広大な敷地の家に住み(その写真もあった)、メイドを数人抱えていた。いい暮らしで、日本には帰って来たくないような話しだった。そういうことばかり覚えている。ま、ありがちな南北格差の構造のなかで、モンゴウイカの天ぷらを賞味していたということだ。

いまの日本では、食べ物の何を取り出してみても、たいがいは国際関係のなかにある。だけど、それが生活レベルで日常の話題になることは少ないようだ。国際感覚なき国際消費。

10年ほど前ぐらいまでは、スルメイカやヤリイカは、いろいろに料理して食べていたが、天ぷらにしたことはない。とくに理由はないが、イカの天ぷらは、決まって、惣菜か外食で、モンゴウイカであるかどうかも気にしなくなった。

大衆魚というと、漁獲量の変動もあってか、あるいは季節感もあってか、サンマやイワシなどの青魚の系統ばかりが注目を浴びるが、イカも、かなりの消費量だ。寿司屋の安いネタの定番でもあるな。

あまりあてにならないウイキペディアには、「日本は世界第一のイカ消費国であり、その消費量は世界の年間漁獲量のほぼ2分の1(2004年現在・約68万トン)とも言われている。また、イカの一種であるスルメイカは、日本で最も多く消費される魚介類である」とある。

例によって、世界中の海からイカを獲ってきている。水揚げ高日本一の青森は八戸港で、大型のイカ釣り船を見たことがある。ちょうど入港したばかりで、一度出港すると、南米チリ沖などで、半年間漁を続け船を一杯にして帰ってくるとか。

近頃は、アジにしてもそうだが、干物のほうが高くつく感じだ。近所のスーパーの魚売り場で、ときどきイカの一夜干しを見かけるが、一枚250円以上もする。これをあぶって酒の肴にするとうまいのだがなと思いながら、なかなか手が出ない。

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2015/06/25

味の素。

先月のことだけど、「味の素」が国内生産を止め、海外へ移すニュースが流れた。

たとえば、朝日新聞DIGITALでは、こんな具合。

「味の素」国内生産に幕 操業1世紀、年内に海外へ
2015年5月13日10時43分
http://www.asahi.com/articles/ASH5D62TGH5DULFA03K.html

 味の素は、国内で売るうまみ調味料「味の素」の生産を、年内に海外へ移す方針を明らかにした。原料の一部が高騰するなか、海外での一貫生産で燃料費や人件費を抑える。

 「味の素」は、国内では1914年に操業を始めた川崎市の工場だけでつくっている。サトウキビなどから取り出した糖蜜を発酵させたグルタミン酸ナトリウムを海外の工場から輸入し、不純物を取り除く精製をしている。

 この精製の工程を年内にタイ、インドネシア、ブラジルなどの海外の工場に移す。川崎市の工場に残るのは、精製したグルタミン酸ナトリウムを別のうまみ成分でコーティングしたり、瓶に詰めたりする工程だけになる。

 「味の素」は年間で60万トンを販売。その大半は海外向けが占めるという。

……以上。

味の素は、近代日本人の味覚に大きな影響を与えてきた。直接的にだけでなく、とくに戦後の急増する人口と、それを支える食品産業の量産化は、味の素をぬきに語れないはずだ。必需の味噌や醤油、嗜好品の酒や菓子(とくにスナック菓子)など、そして、さまざまな調理半調理の加工食品。さらに、それらを使用する外食産業の成長。

おれの「味の素歴」を振り返ってみると、新潟県の田舎町で初めて、あの赤い缶から耳かきのようなものですくう味の素を見たのは、7歳ぐらいのことだ。ほとんどまわりで知る人が無かったころ、新しもの好きのおれのオヤジが、どこからか持ち込んだ。オヤジは、おれを連れて、町内を歩きまわり、みそ汁に入れて食べさせた。そのときの、大人たちの興奮と騒ぎようは、いまでも覚えている。

味の素の年表によれば、1950年に「国内販売の統制が外れ、自由販売開始(8月)」とあるから、そのころだろう。

貴重品だった赤い缶から赤いキャップの卓上の瓶に変わったのは、それからしばらくしてだった。毎日の食卓に欠かせない、白菜や胡瓜や野沢菜などの漬物に、あの白い結晶が不可欠になった。味の素の赤いキャップを見ると、なんだかワクワクした。

赤いキャップになってからでも、味噌、醤油、砂糖、塩以外の調味料などは買う習慣がなかったこともあって、味の素は節約しながら使っていた。

おれの周囲では、たいがいの料理にちょちょっとふるていどだったが、1970年ごろには、赤いキャップと白い結晶が過激なほど使用される景色が見受けられるようになった。

料理屋や酒場で、刺身を食べるのにも、刺身に白い結晶をかけたり、醤油皿の醤油の中に白い結晶を山盛りにし刺身につけて食べたり、漬物にしても表面が真っ白になるぐらいかけるのだ。

おれは、築地市場へよく仕事で行くようになったのが70年代前半で、場外の店に、業務用の透明の10キロ袋ぐらいの大きさに入った味の素が山のように積まれ売られているのを見て、ちょっとギョッとした。

そのように使用が過激のピークになるころ、「味の素は石油からつくられている」というウワサが広がったこともあって、白い結晶に、いろいろな疑惑が集まりだした。

高度経済成長も曲がり角、公害問題が世間をゆるがす。進歩と発展と成長のシンボルだった近代文明を象徴する工場と、その商品に対して、疑惑や警戒や批判が噴出しはじめた。とくに、50年代はあこがれだった石油製品に対する人びとの態度は、「意識の高い人たち」を中心に変化が生まれ、70年代前半には、自然食ブームが到来する。

いま調べたら正確には75年のようだが、三重県四日市コンビナートで大きな火災があり、そこに味の素の工場があったのが広く知られることにより、「味の素は石油からつくられている」が、ますます真実味を持って拡散した。

当時、技術的には石油たんぱくの製造が可能になって、それの食品への使用がゴーになる待機状態にあった。オイルショックもあって、進行しなかったが、「味の素は石油からつくられている」のウワサの根拠の背景にはなった。

そのあたりから、味の素の広報や広告の「苦労」ぶりが目立つようになった。えーと、味の素の原料は、トウモロコシですとか、サトウキビですとか。

そうそう、瓶の振り出し口のふたの穴を大きくすることで、一度ふるたびに出る量が増えるようにして、販売量をあげたりした。それを発案した人は出世したもので、ほかの食品会社でも、似たようなことをして出世をたくらんだ人もいる。

それから、いつのまにやら、「化学調味料」といわれていたものが、「うま味調味料」といわれるようになったな。

おれは『大衆めし 激動の戦後史』に書いた、江原生活料理研究所のころには、味の素は使わないようになっていた。味の素が「毒」だとか、健康に悪いとか、ではなくて、料理に対する考え方の変化によるものだ。「うまさ」を、どう考えるかということに関係する。味の素を否定したいわけじゃない。いまでも。

最近は、「和食」が世界文化遺産に登録されてから、だしとだしのうま味が、和食伝統文化の特徴であるかのような言説が流れている。そこに登場するのは、かつお節や昆布のだしだ。

しかし、これらが、日本人一般の「和食」文化に広がり貢献するようになったのは、味の素の歴史とたいした違いがないはずだ。それに、「ウマミ」という味と言葉を世界に知らしめたのも、かつお節や昆布ではなく、味の素の功績の方が大きいだろう。

それから、中国料理はもとより、タイ料理やインド料理などの日本への進出と普及にも、大いに貢献している。

いま国内の軍需産業を中心にキナ臭い話が多くなっているが、平和な国際交流に大いに活躍してきた国際的な商品、味の素は、もっと評価されてもよいかも知れない。

なーんて書くと、PRライターになってしまうが。

味の素の一世紀は、なかなかおもしろい。

なにしろ、戦前から「蛇からつくられている」など、なにかとワルイウワサや伝説に取り巻かれ、毀誉褒貶が激しいのだ。

また、いまどきの高齢者は、一人ひとりが、味の素の個人史を持っているのではないだろうか。それは味覚の個人史でもあるだろう。それに、年齢を問わず、多くの加工食品に潜んでいる、うまみ調味料ファンも少なくないはずだ。

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2015/06/23

30年たっても変わらないこと。

昨日は、約30年前、1980年前後に出会った人たちと、ひさしぶりに飲み会。やはり30年前と同じように、酒を飲みながら、あれやこれやの話を楽しんだ。

17時にFイさんと新宿で待ち合わせた。10数年ぶりにあう彼は、少し老けていた、それは仕方がない、おれだって老けている。

まずは鳥園で一杯。お互いの近況を話しあうが、おれは、せいぜい住所が変わったぐらいで、あまり変化がない。彼も、表参道で従業員もいて、イタリア製高級靴輸入販売とフットケアサービスのような仕事をやっていたが、事務所を閉鎖、自宅でインターネットを利用してやるシステムに切り替えたという変化ぐらい。お互い、もっとも変化の少ない10数年だったかもしれない。

18時過ぎに中野へ移動。やどやのボスと女将と合流。Fイさんとボスとは、30年ぶりぐらいの再会になる。女将は初対面だ。この春から営業のドミトリーを案内してから近くの第二力酒蔵へ。

Fイさんとおれが会ったのは、彼が大学卒業後大手商社に就職したものの1年ぐらいで辞めて筑波大学大学院に入りカナダ留学、してみたが、人種差別のひどさに嫌気がさし一年ばかりアメリカ放浪して帰って来たばかりぐらいだった。

彼をおれに紹介したのは、一時日本にいられなくなってアメリカへ逃亡、ほとぼりがさめたところで帰国、大手ゼネコンに席を置いていた、気はいいがアヤシイ男だった。

Fイさんが26歳ぐらいのときだったらしい。おれは37歳ぐらいということになるか。そのころ、おれとボスは、いろいろアメリカとの仕事に手をつけ始めていた。という感じか。アメリカと行き来していたボスは、84年頃から10年間ぐらいは、アメリカに滞在したまま…とか、昔の記憶のアイマイな部分を埋め合わせながら、あれやこれやの話をしているうるうちに、けっきょく、昨今の国際情勢の話に。

国境は低くルーズになるばかり、まるでたががはずれたよう。世界は撹拌され混沌か混乱か。ヤバイことになる可能性もあるが、そこにまた新しい仕事の可能性がありそう。それにしても、熊本は…。

おれたちの関心は昔から、ある種の文化ギャップであり、そこで商売していくことだったと、あらためて思う。

誰のために、どんな人たちのために、なにをしたいのか、そこからビジネスを考える。業界だの、業界での地位だの、業種だの職種だのは、関係なし。名声などもどうでもよいが、計算はシッカリやる。そういうことで業界などからは独立独歩やってきたし、実際のところ、いまやっていることも、そういうことだ。

しかし、おれの「フリーライター稼業」だけが、いささか業界付き合いがあるところで、しかも、仕事を自己表現と考える不健全な連中が多い、古い業界体質と接していなくては仕事ができないという、皮肉な自虐的な位置にいる。

とかまあ、あれこれ、おもしろい話をしているちうちに時間は過ぎて、22時過ぎにお開きとなった。

とりあえず、この春から稼働のドミトリーハウスは、いちおう順調な滑り出しのようなので、よしとしておこう。

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2015/06/22

津村記久子が気になっている。

昨日のエントリーで、ちょっとふれた津村記久子さんは、ちかごろイチバン気になっている作家だ。

もともと文学賞などを受賞してシュンな話題になっている作家のことなど疎いおれが、この作家を知ったのは、毎号送られてくる月刊誌『Meets Regional』でだった。

それは、「素人展覧会」という、津村さんが美術展などを巡って書く連載である。ほかにも何かインタビュー記事に登場していた。

この連載は、たしか2年ぐらい?続いていると思うが、おもしろい。なんだか、おもしろい作家がいるんだなあ、こんなふうに書く芥川賞作家がいるんだなあと気になっていた。

ふた月ほど前だったかな、北浦和クークーバードのライブへ行ったとき、古本棚に『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社、2015年)を見つけた。ミヤモトさんの古本棚で、ちょうどその日は、彼も来ていて、彼もオススメだった。

この本は、津村さんのエッセイ集第二弾で、4章に「素人展覧会(第一期)」も収録されているのだが、ほかのエッセイも、おもしろい。派手さはないのだけど、すごく新鮮なのだ。またもや、こういう芥川賞作家がいるのだ、と思った。

さっそく、東大宮駅にある本屋の文庫本棚を探したら、『ワーカーズ・ダイジェスト』があった。おれのようなトシと嗜好のものには、もっとも縁がない、集英社文庫だ。だけど、そんなことは関係ない、買った、読んだ。

ふーむ、この魅力は、なんだ。まだ模索中で、次の一冊も買って積んであるところ。まだ、その魅力の深層が、よくわからないまま書く。

『二度寝とは、遠くにありて想うもの』には、「働いて食べて活きる」というエッセイがある。そこに書いているところによると、津村さんは、「給料や立場を超えた、労働の隙間の興味深さ」が主題だという。

なるほどねえ。1978年大阪生まれの津村さんは、10年間ぐらい大阪で会社員をしている。就活で苦労して入った会社でイジメにあい、一年たたないうちに退社、食うために選んだにすぎない会社に長く留まることになった。

その体験があってか、「労働の隙間」の話が、あちこちに、ときには、生々しく顔を出す。でも、「ワーカーズ・ダイジェスト」という小説にしても、格別な盛り上がりのある物語ではない。ただのマンション施工会社の男と、しがない制作会社の女が出てきて、2人の間に何かドラマがあるのかなと思って読んでいると、たいして何もなく、それぞれの仕事と生活の日常が描かれて、スッと、おわる。しかし、なんだか味がある。

とにかく、いわゆる日本的な私小説のイヤラシサ、私語りがない。鋭い感性のワタシ、てなものもない。文章も、どちらかといえば、いまどきの日常語も使われ、平易なほうだ(いまどきは「ライト」「カジュアル」というのか)。

素人展覧会は、ほんとうに素人目線で楽しんでいる感じであり、素人目線で読んで楽しめる。よくある評論家然とした、ありがたい作家の素養や教養がタップリの「客観的」な鑑賞とは違う。作品や対象を語るようでいながら、自分の観察の鋭さや思い入れや美学を私語りと混ぜ合わせて押しつけて来ることもない。

なにより、昨日の引用もそうだが、とくに食べ物や食べることをめぐっては、高い方を向いて高いところから見るインテリ文化人の驕慢がない。

おれとしては、働くため、生きるため、といった日常を、普通の労働者感覚で語っているようで、そこがおもしろく気になっているようだ。

「「とりあえず働いたら?」はマチズモか?」では、このように書いている。

「働くこと」は、様々な人間が生きている上での行動の中で、自尊心と金銭を同時に得られる数少ない手段なのだと思う。わたしは、本当にいろいろあると思うけれども、働いていることでやっと、普通の人になっている自覚があるからこそ、「とりあえず働いたら?」というのだろう。


津村さんは、「作家」という特別な人ではなく、働く普通の人の視線の持ち主なのだ。とりあえず、そこが、魅力なのかな。

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2015/06/21

「生活の底」と「労働の底」。

「77歳の建具屋さんから聞いた言葉が忘れられない。「体だけで働くやつは労働者っていうんだ。頭と体で働くやつが技術者。頭と体と心で働く人は芸術家っていうんだ。本物の職人は芸術家じゃなきゃいけない」 」

ときどきネットで見かける。このあいだ、ツイッターでも見かけた。誰かがツイートし、RTが重なって広がっていた。たいがい、「名言」「感動した」などのコメントがついて、肯定的な反応だ。

ネットで調べると、「77歳の建具屋さんから聞いた言葉が忘れられない」という部分は変化があるようだが、そのあとの文は、ほとんどそのまま、2010年頃まで簡単に遡ることができるが、もとの出典は、わからない。

「体だけで働くやつは労働者っていうんだ。頭と体で働くやつが技術者。頭と体と心で働く人は芸術家っていうんだ。本物の職人は芸術家じゃなきゃいけない」

おれは、プッと吹き出してしまう。まさに、根拠のない循環論法の見本。しかし、このように信じ込んでいる人たちが、少なくないようだ。

もちろん、そういう人たちが、誰でも頭と体と心で働けば芸術家であるというのなら別だ。頭と体と心をフルに使わなくては食べていけるだけの営業収入をあげられないタクシードライバーを、最高の芸術家として称賛するなら別だ。

だけど、そうではないだろう。この「名言」には、「労働者」と「技術者」と「芸術家」という言葉と、「体」と「頭」と「心」という言葉を使いわけて、芸術家と心をヒエラルキーの一番上に置き、その次に技術者と頭、一番底に労働者と体を置く、思想がある。その上で、「本物の職人」を主張している。

この思想は根深く根強い。

飲食や食品の分野にも、よく見受けられ、料理は芸術でございます、なーんていう芸術家気取りの「料理職人」もいる。食の職人は、もてはやされるが、食の労働者は、かなり「底」の扱いだ。

たえず、誰かを下に置き、自分を上に置かなくては気が済まない人は、少なくないのだが、そのために利用されるのが、飲食や食品だったりする。

こういうことが、とんでもなくあって、たとえば、ブロイラーだの無精卵だのを見下す人たちがいる。それらを、心置きなく食べられるよろこびは、簡単に手に入ったものではないし、もちろん、そこに生産者もいれば労働者もいる。にも関わらず、頭も心も使わない、単なる儲け仕事の労働とみなされる。

いわゆる「グルメ」による職人気質や職人仕事礼賛の、片側の影に置き去られていることがある。

最近、津村記久子という作家が気になり、少しずつ本を読んでいる。『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社、2015年)の「お菓子の行列の足元」で、こんなことを書いている。

「ドーナツを食べたい時にスイーツを食べたいとは思わないし、スコーンを買ってきた時に、ちょっとスイーツを買ってきたとは言わない。スイーツという異様な広範囲をフォローする言葉には、何か、その菓子本来の実力を覆い隠してしまうベールのような作用がある。/そのくせ、グリコのいちごポッキーのことはスイーツとは言わないし、ブルボンのバームロールのことも、ロッテのチョコパイのことも、スイーツと言っている人は見たことがない。スーパーで特価で売られているものはスイーツではないのだろうか。どれも優秀なお菓子なのに。スイーツ選民主義なのか。」

なかなか、おもしろい。「スイーツ選民主義」は、機械仕事と量産品と労働者の蔑視にもつながりそうだ。

と、こんな影のことを書いているより、頭と体と心で働く人による食べ物を礼賛していたほうが、支持や人気を得やすい。書いたものも売れるだろう。頭と体と心で働く人の仕事を称賛することで、書き手も、芸術家らしき職人たちの仲間入りができる。そして「選民」になった気分を味わえる。確かに、そんな構造もあるようだ。

だけど。だ。

絵の仕事をしている武藤良子さんが、昨日のブログで、すごいことを書いていた。それを読んで、いま、こういうことを書いているのだが。

「生活の底」というタイトル。話をかいつまむと、こうだ。

絵の仕事が減って、「生活の底が抜け落ちるまえに金の入る当てを探さなければいけない」事態になった彼女は、近くの大学の食堂で、夕方から4時間働く仕事に就いた。

「生活の底」で就く仕事というのは、たいがい「労働の底」でもある。そこで、彼女は、体も頭も心も使い、こんな喜びを得る。

「腹を空かせた学生たちにラーメンやカレーをよそい皿を洗いながら、昼の人たちが広げた鍋や釜を洗いまた次の日に使えるよう畳んでいく仕事だ。はじめたころは悲鳴をあげていた身体がしばらくすると慣れ、湯のはった寸胴鍋を持ち上げられたときは嬉しかった。周りの人たちの仕事を見ながら効率よく動きたい。ラーメンもカレーも定食もなるべく早くうまそうによそいたい。教わったことを繰り返しのなかで覚えやり切れたときは嬉しかった。」

で、彼女は、その生活と仕事のことを、友人知人に話す。「えー学食のおばちゃんかよ。」という言葉が返ってくる。

「学食も、おばちゃんも、その通りなのだが言葉の端に侮蔑があった。もしも仕事先が本屋やレコード屋や美術館のような場所だったら、えー本屋のおばちゃんかよ、と彼らは言わないだろうと思うと可笑しかった。ただ少しだけその分野の事情にたけるだけで、扱っているものが文化的なら自分が文化的になれるわけではないことは、本屋やギャラリーで働いたことのあるわたし自身が一番身にしみていた。」

このあとの短い結びが、すごいのだが、読んでもらったほうがよい。
http://d.hatena.ne.jp/mr1016/20150620

それにしても、武藤さん、うまい文章を書くなあ。

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2015/06/20

東京新聞「大衆食堂ランチ」32回目、亀有・常盤仙食堂。

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昨日の19日は、第三金曜日、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。

今回は、葛飾区亀有は常盤仙食堂のトルコライス。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2015061902000183.html

亀有地区の大衆食堂は、1年半ほど前に、南口にあるときわ食堂を取りあげている。そのとき、ときわ食堂で食べたあと、ほぼ地元民の有馬さんの案内で行ったのが、北口にあるここだった。

どちらかというと飲みだった、とくに「酎ハイ(ホイスハイボール)」は、「川向う」で出あうことが多い、氷は入っていないが冷たいやつで、うまくて何杯も飲んだ記憶がある。その記憶と一緒に、メニューにあったトルコライスが、ずっと気になっていた。

大衆食堂でトルコライスを見るのは、ずいぶんひさしぶりだ、どんなものだろう。トルコライスは、さまざまで、とくに定型らしいものはない。昔、ときどき大衆食堂で見かけて食べた記憶があるのは、「ドライカレー」と呼ばれたカレー味の炒めごはんの上に、目玉焼きが一個と何かフライ類が一個のっているものだったが。気になってしかたなかった。

ちょうど綾瀬まで行く用があったので、チャンスとばかり訪ねてみた。

ここのトルコライスは、白いごはんの上に、カレーとメンチカツとキャベツの千切り+マカロニサラダが、きれいに盛り分けられていた。初めて見るスタイルだが、食べると、一つひとつが、うまい。

それにしても、「トルコ」って、なぜなんだろう。「泡」のほうの名前からは「トルコ」が消えてしまったが。食べても、何もわからない。ただ、うまかった。

1年半前は500円だったが、消費税増税の影響だろう、520円になっていた。それでも安い。

亀有は、「モツ煮狂い」のクドウさんの言葉だが、まさに「東京「工場郊外」」の下町だけど、いま新旧入り乱れ大変貌の最中だ。300円で安くてうまい酎ハイ(ホイスハイボール)は、「工場郊外」のフォークロアに生きているようであり、どことなく垢ぬけたうまさのトルコライスは、単独では「カフェめし」でもおかしくなく、名前は古くても、新しい顔になるのだろうか。

南口とときわ食堂は、作業着姿が多い印象だったが、北口と常盤仙食堂は、スーツ姿が多い印象。いずれにせよ、近くに中川が流れ、環七が走る、「川の東京学」の対象地域だ。

当ブログ関連
2014/01/19
東京新聞「大衆食堂ランチ」16回目、亀有・ときわ食堂。

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2015/06/18

残念! 西江雅之さん、死去の報。

西江雅之氏死去=文化人類学者、言語学者
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150618-00000079-jij-soci
時事通信 6月18日(木)15時33分配信

 西江 雅之氏(にしえ・まさゆき=文化人類学者、言語学者)14日午前2時06分、膵臓(すいぞう)がんのため東京都内の病院で死去、77歳。東京都出身。自宅は三鷹市。葬儀は近親者のみで済ませた。後日しのぶ会を開く予定。
 早稲田大大学院を修了後、米カリフォルニア大学大学院で言語学を学んだ。早稲田大や東京大、東京外語大などで教えたほか、アジア・アフリカ図書館館長などを歴任。現地生活に溶け込んで文化や言語研究を進めたことから「はだしの学者」「歩く文化人類学者」と呼ばれた。
 23歳で日本初のスワヒリ語辞典を編さんしたことでも知られ、「ヒトかサルかと問われても」「アフリカのことば」など著書多数。 


まだ、77歳。残念だ。
西江さんのオコトバは、以前このブログで引用させてもらっている。
2011/02/19
きのうの続き。味覚と食べ物と食べる。
2005/08/05
マスヒロ本、そして西江雅之

もっとたくさん引用したかった。こんな中途半端な引用で申し訳なかった。
書かれていることも刺激的で、食文化に関する、とてつもない体験と深い洞察には、かなり影響を受けた。
著作から感じる人柄が、とても魅力的だった。

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2015/06/16

『てくり』と『入谷コピー文庫』の10周年。

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先日、都内へ行ったついでに、古書ほうろうに寄ったら、『てくり』の最新20号があったので買って来た。表紙に「10th anniversary」のマークがついて、特集タイトルが「続けるひと」。10周年らしい。

そうか10年かと思いながら、家に帰ると、堀内恭さんから郵便が届いていた。開けると、中から「入谷文庫10周年記念号」のマークが入った、入谷コピー文庫の最新号だった。おお、堀内さんも10周年か。

10年が長いか短いかわからないが、あきっぽく、執着心が無さすぎるし、そもそも怠け者で、同じことを長く続けたことがないおれからすると、この2冊の10年は、とても真似できない長さだと思う。

よく続くなあ、そのエネルギーは、なに?どこからわくの?という感じ。

003001『てくり』は、すでに何度か紹介しているが、「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」がキャッチ・フレーズであり、木村敦子さん率いる「まちの編集室」の編集・発行だ。いわゆるリトルプレスだが、フリーペーパーではなく、販売している。

それで10年20号。すごいですねえ。しかも、編集もデザインもよい、内容もよい。かなり、よい。

『てくり』を初めて手にしたのは、2007年夏のことで、木村衣有子さんから彼女が表紙モデルの5号をもらってだった。そのあと、古墳部の旅で青森へ行き、帰りにサキさんのいる盛岡に寄った。そのとき、駅ビルにあった、さわや書店で、バックナンバーの3号と4号があったので買い求めた。というふうに、バックナンバーが欲しくなる本だったのだ。

そうそう、古墳部の旅で青森へ向かうとき、木村さんからもらった『てくり』を持って行って、当時話題になっていた北九州市の『雲のうえ』編集委員の牧野伊三夫さんが旅で一緒だったので見せて、「すごい」「すばらしい」「いいよね」なんて言いあったのだが、もう牧野さんは忘れているだろうな。ま、とにかく、無神経なおれが、初めて手にして、コーフンしたのは、確かだ。

今号の「「てくり」創刊のこと。」によれば、創刊の相談は2001年の夏、デザイナーやライターなどが、「何か仕事以外に主張できる冊子をつくろうと集まった」のが最初だそうだ。

はあ、おれのような怠け者は、そんなこと考えただけで面倒になり、酒飲んで寝てしまう。

入谷コピー文庫も、すでに何度か紹介した。拙著『大衆めし 激動の戦後史』に収まっている「現代日本料理野菜炒め考」は、この文庫の7冊目で、06年5月の刊行なのだ。

この文庫は、拙著『ぶっかけめしの悦楽』の編集者である堀内恭さんが、妻の和代さんと共に結成の「堀内家内工業」が発行する。この発行システムが変わっているのだ。

堀内さんから声をかけられた、厳選された著者は、ワープロソフトでA4サイズの原稿を仕上げ(つまり工程的には、編集、校正、版下作成をやり)、堀内さんに渡す。ページ数は、ホッチキスでとめられる厚さの範囲内。表紙は堀内さんのほうで制作し、10数部ほどコーピーし、製本する。配布は、堀内さんの判断で、適時厳選された人に渡る。

もう、『てくり』とは真逆の、貧乏くさい見た目であり、やりかたなのだが、これで、10年、プレ創刊を入れて61冊だそうだ。

1冊目が、安部清司さんの聞き書きによる「谷よしの映画人生 天の巻」で、以後、いろいろな愛好家が、いろいろな分野を掘り下げて、見た目からは想像できない充実した内容。資料性も高い。

004通巻60号の10周年記念号は、『ナンバー』初代編集長でミズノスポーツライター賞選考委員の岡崎満義さんによる「スポーツこぼれ話」だ。「長島茂雄さんの言葉」「輪島功一さんの観察力」など、この著者ならではの面白い話が満載。

しかし、堀内さんは、この10年間に、いろいろあった。おかあさんが倒れ、続いておとうさんが倒れ、堀内さんはフリーの編集業を介護離職状態で、郷里の高知と東京を往復する生活。そして、おとうさんが逝かれた。堀内さんも、おかあさんの介護を続けながら、体調万全ではない。そんな中で、10周年。

おれは、堀内さんから毎年年賀状いただいたり、コピー文庫を送ってもらったりしながら、返信一つ出さず。もう、対極的なだらしなさが際立つ。

てくりの木村さんも、入谷文庫の堀内さんも、すごいエネルギーというか、なんというか、なんというのだろう、「こだわり」「執着」といった安っぽいものではなく、とにかく、すごい10年だなあと思うほかない。

『てくり』創刊号の表紙モデルの女性は、もうすぐ2児の母。おれは、ただの飲んだくれで、72歳になってしまった。だらしなく過ぎているだけの、「続けないひと」のおれは、どうしたらよいの。

とにかく、未来のために、祝10年!

『てくり』御存じでない方は、是非こちらのサイトを。
http://www.tekuri.net/index.html

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2015/06/15

「モツ煮狂い」と「川の東京学」。

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2015/05/30「豚レバ刺し問題。」と2015/06/11「豚レバ刺し問題、もう一度。」は、インターネットの「闇」と「泡」な人たちに楽しんでいただけているようだ。

たいがいは、ツイッターによる「蚤のションベン」みたいなもので、予想通り。ブログのこんな短い文章すら、マットウに読めないで、すぐさま何かしら突っ込みどころを素早く見つけては、異分子叩きに走るような「キーッ」な反応で、とるにたらないもの。

しかし、お一人だけ、誠実な方がいた。

「豚レバの生食の危険は指摘されていることで、それ自体にどうのこうのはないが、リスクと禁止の措置のあいだ、それと文化の関係は、十分論議されたようには思われない」「どうもスッキリしない成り行きだった。」という、おれの文章の趣旨に、正確に応えてくださったツイートがあった。とても参考になる。

坂本隆彦_鵜住居(ウノスマイ)‏@unosumaiさんのツイート。
12:24 - 2015年6月13日
https://twitter.com/unosumai/status/609561978105786369

リスク評価とリスク管理の関係は結構複雑でちゃんと勉強しなければ理解できない。でも一応目安っぽいものはあってそれは1.0e-5という数値ね。10万人に1人が死ねば管理対象になるってこと。//豚レバ刺し問題、もう一度。 http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/06/post-0dc0.html …

に対して、最も多勢の傾向の代表的なものを、あげれば、これになる。

片瀬久美子‏@kumikokataseさん。
11:25 - 2015年6月13日
https://twitter.com/kumikokatase/status/609547140772171777

いつから東京下町の伝統文化に? (^^; RT @kuri_kurita 「東京の下町」って、「豚生食」の「習慣性が高かった」んですか???→ http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/06/post-0dc0.html …

ま、たいがいの人は、生食が騒がれ出してから注目ネタにたかって、気にくわないことにはペッとツバを吐くことで優越感を味わって通り過ぎていくような、インターネットの娯楽であり、すぐ自分がどんなことを書いたかも忘れるのだろうから、よいとしても、この例は、チョイと悪質、というほどではないが、イケナイ。

というのも、おれは「伝統文化」なんぞという言葉は、使ってない。とくに「伝統文化を守ろう」といった趣旨はキライであるから、そういう主張は批判してきた立場だということぐらいは、当ブログを以前から読んでいる方はご存知だろう。

「フォークロア」を「伝統文化」とカンチガイしたのだろうか。あえて読み換えたのか。

「「東京の下町」って、「豚生食」の「習慣性が高かった」んですか???」については、これはまあ、それほど悪質ではない。よくある、自分の都合のよいところだけ引っ張り出して、他を叩いたり無視したり否定する、例の娯楽のテなのだ。

これは、つぎの文章の、最初の、なくても話の本筋は通じるところ。

「せめて、その習慣性の高かった東京の下町の、たとえば前のエントリーでも引用した今回の措置に意見のある「かどや」などの店や、その客の調査をするとか、地域の豚生摂食率と発症率のデータを示すなど、もともと摂食の地域差が大きいはずだから、以前から摂食機会の多かった店や地域にしぼった調査により、もっと摂食実態に即したデータや根拠や判断が必要だったのではないか。そういうことは、あったのだろうか。」

カンジンなのは、「もともと摂食の地域差が大きいはずだから、以前から摂食機会の多かった店や地域にしぼった調査により、もっと摂食実態に即したデータや根拠や判断が必要だったのではないか。そういうことは、あったのだろうか。」であって、普通に読めばわかることだと思うが、「その習慣性の高かった東京の下町の」という部分に、齧りついて、そのあとについては、無視している。

これは、この方だけではなく、摂食地域に対する認識が低い現状があるので、仕方ない面がある。とも考えられる。そこから先、すぐ異なる考えに「キーッ」となるかどうかは、それぞれの人格も関係するだろう。

とりあえず、都合よく、坂本隆彦_鵜住居さんの「10万人に1人が死ねば管理対象になるってこと」にしたがって考えてみよう。

すると、やはり、リスクはあっても管理対象にいたるまでの摂食がありうるし、あってもおかしくないわけで、どのように食べられていたかという実態と、文化の介在が気になるところだ。それを知って、何の不都合があろう。むしろ、食文化的には、「リスクと禁止の措置のあいだ、それと文化の関係」は、知っておくべきなのだ。

それで思い出したのが、あのクドウヒロミさんの名著、『モツ煮狂い』だ。これは、自費出版のリトルプレスで、2006年に第一集、2007年に第二集が出た。第一集が、2002年に創刊し人気上昇快進撃中の『酒とつまみ』の表紙にソックリだったこともあって、好きな人たちのあいだで注目を浴び話題になった。

徹底してモツ煮(いわゆる「モツ煮込み」)にこだわりながら、クドウさんが目指していたのは「東京論」だ。とくに「東京の下町」を、「東の郊外」として探索することだった。ちなみに、クドウさんは東の京成沿線育ちで、当時は「西」に住んでいた。

その『モツ煮狂い』だが、たいしてない本棚を探して第二集は見つかったが、第一集がない。もしかすると、誰かに貸したままなのかも知れないから、気がついた方、知らせてちょうだい。

クドウさんの方法は、モツ煮にこだわりながら、もつ酒場からフォークロアを読み取り、フォークロアのなかに、もつ酒場やモツ煮を位置づけるというものだ。おれが、大衆食堂にフォークロアを見て、フォークロアのなかに大衆食堂を位置づけるのと共通するところがある。

それはともかく、第二集のサブタイトルが、「東京「工場郊外」のフォークロア」で、特集タイトルは、「「川向こう」は今も異世界 もつ酒場は近代化遺産だ!」である。

東向島、八広、京島の中から、クドウさんのお眼鏡にかないピックアップされただけで、16軒ある。

京成押上線と東武伊勢崎線には曳舟駅があるが、その間には、いまでは道路になった「曳舟川通り」がある。北には荒川放水路、西には隅田川。このあたりは、江戸期には江戸ではなく、したがって下町でもなかったが、近代になって工場と工場労働者の街となり、つまり「東京「工場郊外」」の下町になる。そこに、もつ酒場が集中しているのだ。

モツ煮が中心なので、モツ焼やモツ刺しの記述は少ないが、東京「工場郊外」のもつ酒場のフォークロアのなかに、モツ煮やモツ焼やモツ刺しなどが息づいている。

いま、この第二集を読み返してみると、じつに面白いし、クドウさんは貴重な仕事をしてくれた。

そのうち、「川の東京学」で、このあたりをフィールドワークしなくてはならないなと思った。

フィールドワークといえば、豚生食は禁止になったばかりだから、いまのうちに聞き取りなどして、その調理の仕方も含め、なぜどう続いてきたのか、事故はなかったのか、「安全・安心」など客と店の信頼関係は、どう成り立ってきていたのかなど、まとめておきたいものだ。

そうしないと、「異端」「異分子」のこととして片づけられ(いまでも十分異端悪者扱いだが)、「異世界」のことは、もとからなかったことにされかねない。

しかし、やはり、クドウさん、前に一度、一緒に曳舟あたりを飲み歩いて、その後、彼は大手出版社に就職したというウワサは聞いたのだが、いまこの時期だから、『もつ煮狂い』カムバックして欲しい。

もともと、肉食については、主に下層の民のものだったこともあり、たとえば、「粉河寺縁起絵巻」には、シカの生肉を親子三人で切りながら食べて「主食」とし、ほかのものは食べてない様子が描かれているが、米食至上主義のメインの文化と歴史では、あまり語られてこなかった。

今日は、これぐらいにしておこう。『モツ煮狂い』については、いろいろあらたな発見もあるから、また書こう。

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2015/06/14

九州民謡演奏会、泥酔記憶喪失帰宅。

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5月23日、小倉からスタートした「九州民謡演奏会」は、その後、日田、田川、大阪と巡って、昨日、東京でフィナーレを迎えた。会場は入谷のそら塾。2時半スタートだった。

そら塾は、入谷にある。鴬谷駅から歩いて数分。細い通りから入った路地の突き当り、古い三軒長屋の一軒。このあたりは、戦災で焼けなかった建物が、ところどころに残っているが、その一つと思われる。

会場の2階にあがる階段ハシゴは急で、建付けは、みなどこかしらゆがんで見える。そこに定員の30名。告知と同時ぐらいに予約で埋まった。

つまみと酒は会費のうち。ビールのあと清酒を飲みながら、いい気持。

007プロデューサー役の牧野伊三夫さんの挨拶のあと、主催者である大分県日田市のヤブクグリ、黒木会長の挨拶。黒木さんとは、昨年秋、日田でお世話になって以来の再会。

しかし、黒木さんの挨拶のファッションは、牧野さんの絵に日田林業の文字も大きいロングドレス?とことん遊びますねえ。

演奏は、青木隼人さんのギターで始まった。「庭の千草」の演奏中に、柳家小春さんが、歌いながら登場するという趣向。

柳家小春さんは、三味線を弾きながら、得意の「江戸の粋曲」を何曲か。そして、正調炭坑節(田川民謡)、コツコツ節(日田民謡)、小倉節(小倉民謡)とすすむ。正調炭坑節は、盆踊りのそれとは違って、静かで、小春さんが唄うせいか小粋な調子。

最後に、石田千さんが作詞、小春さんが作曲の「日田の盆唄」を、小春さんの三味線と唄、青木さんのギターで。青木さんが、ブルースの調子でというようなことを言って始まった。もう呼吸もピッタリ。

012終わって、奏者2人の挨拶のときの青木さんの笑顔が、無事に巡業を終えたせいもあってか、とてもうれしそうだった。

おどろいたことに、やはり昨年秋に日田へ行ったときにお世話になった、寶屋のおかみさんが、いまや日田の名物となった「きこり弁当」を6個持って駆け付けた。しかも、演奏会のあと、すぐ帰るスケジュール。ほんと、おかみさんには、いつも頭がさがる。

懇親会までに1時間ほど時間があるので、そら塾の方に教えてもらった、近くの銭湯へ。「快哉湯」というのだが、築80年とか。いい銭湯だった。

18時すぎ懇親会。よく食べ、よく飲み、よくしゃべった。

九州民謡演奏会は、東京スタートではなく、九州をスタートにしたのがよかった。しかも、東京の会場が、一番コジンマリ小さいのだそうだ。ほかは、70人とか100人の会場で、満員御礼。いかにも牧野さんらしい発想で、楽しい。

民謡といっても、「伝統を守る」なんて、古臭いままを懐かしがっているのはツマラナイ、そうじゃなく、イマに生きる民謡をということ。こんどは、北海道の夕張から、いわきや秋田を巡って、なーんて話しもしていたな。

21時過ぎに閉会。荷物を宅急便で送るという黒木さんとコンビニへ行っているあいだに、ほかの人たちの姿が見えなくなった。ならばと、鴬谷に出て、信濃路へ。ギャオギャオ話しながら、飲む。まだまだヤブクグリは楽しくなりそう、日田もおもしろくなりそう。

もう飲めない、黒木さんも疲れて眠い。新宿のホテルに帰る黒木さんをホームでバイバイ、そのあとはどう帰って来たか、わからない。

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2015/06/12

「川の東京学」トーク編3回目は、7月11日(土)。

とり急ぎ、告知。

おれの出版デビュー作『大衆食堂の研究』の発行日は、20年前、1995年7月31日だ。

というわけで、今回の「川の東京学」トーク編は「『大衆食堂の研究』刊行20周年特別企画!」。

7月11日(土)。場所は、いつものように、東京の東の端、江戸川に近い小岩の野暮酒場。詳細は、あらためて告知するけど、たぶん17時ごろか18時ごろのスタートになるでしょう。

すでに何度か書いたように、『大衆食堂の研究』は、サブタイトルが「東京ジャンクライフ」で、当時は「川の東京学」といったことは思いつかなかったが、とても「川の東京学」な内容なのだ。

はて、どのようなトークになるか。

当ブログ関連
2015/05/13
『川の東京学』トーク編2回目は、いろいろ面白い発見があった。

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2015/06/11

豚レバ刺し問題、もう一度。

豚レバ刺しなど豚肉の生食が禁止になるというので、昨日までは、この話題が激しい消費の対象になって、ずいぶんにぎやかだったが、今日はもう遠い昔のことのようにキレイサッパリ忘れられたようだ。

でも、この話を蒸し返すと、またもや「キーッ」なひとが騒ぐだろうか。でも、まあ、事後検討ということで。

というわけで、2015/05/30「豚レバ刺し問題。」の続きを、忘れないように書き残しておきたい。

そこでは、最後に「豚レバの生食の危険は指摘されていることで、それ自体にどうのこうのはないが、リスクと禁止の措置のあいだ、それと文化の関係は、十分論議されたようには思われない」と書いたのだが、どうもスッキリしない成り行きだった。

その一つは、そのものが持つ危険性と、リスク対応の関係だ。

食品の放射能汚染問題では、大いに話題になったリスクだが、ちょっとでも放射能(あるいは放射線とか)はイケナイ、ゼロでなくてはいけないという「1か0」に対して、「1か0」ではなく、リスクを正確に判断する重要性とリスクの数値が議論になった。

そのことで、ま、あいかわらず、ゼロでなきゃいけません「キーッ」というひとはいるし、そういう不安は無くならないと思うが、「1か0」ではなく、リスクを正確に判断する重要性とリスクの数値が議論になったことは、いろいろな理解を深め考え方を掘り起こすうえで、よかったと思う。

ところが、今回は、「1か0」で、簡単に、ゼッタイいけませんということになってしまった。放射能汚染問題では、リスクを正しく判断しようと言っていたひとまで、「1か0」で、ゼロ回答なのだ。

とにかく、「E型肝炎ウイルスに感染するリスク」「サルモネラ属菌、カンピロバクター・ジェジュニ/コリ等の食中毒のリスク」「世界では、豚からの有鉤条虫、旋毛虫等の寄生虫への感染の報告がある」ということなのだが、では、そのリスクの数値は、どのように議論になっていたか。

というと、ほとんど、議論になっていない。なにやらの報告にもとづき、危険があるからイケナイ、リスク即禁止、リスクは無くす、というやり方なのだ。

これでは、前回も書いたように、豚生食を土地(場所)のフォークロアとして生きてきた人たちに対して、まったく無理解で乱暴なやり方だし、文化的なアプローチとしては、かなりの手落ち手抜き強引な決め方だと思う。

せめて、その習慣性の高かった東京の下町の、たとえば前のエントリーでも引用した今回の措置に意見のある「かどや」などの店や、その客の調査をするとか、地域の豚生摂食率と発症率のデータを示すなど、もともと摂食の地域差が大きいはずだから、以前から摂食機会の多かった店や地域にしぼった調査により、もっと摂食実態に即したデータや根拠や判断が必要だったのではないか。そういうことは、あったのだろうか。

そもそも、報道によっても、今回の禁止措置は、個体固有の感染や発症のリスクの高さではなく、牛レバ刺しを禁止にしたことによって豚レバ刺しの需要が広がったことによる。つまり、摂食機会の増大による、措置なのだ。食べる機会が少なければ法的措置など必要ないし、そういうリスクなど、ほかにもいろいろある。こう書くと、それでは、いわゆる「ジビエ」についても禁止措置を、と官僚たちがよろこびそうだが。

ほかの策もあると思うのだが、議論にならず、いちばん官僚たちが頭を悩まさず、やりやすい措置に決まっていく。それに世間も簡単に同調する。「嫌煙ファシズム」を思い出してしまった。

特定の地域やことであれ、人びとによろこばれ、続いていた文化が、いとも簡単に破壊され、忘れられる。もともとそこにどんな文化があったかも、関心がないのだから、いまでは、そこにどんな文化があったかも気にするひとはいないのではないか。

万事がこういう調子で進むようになったら、未来は暗い。憂鬱で、豚レバ刺し食って死にたくなる。でも、死ぬ確率が低すぎるが。

関連→2015/06/15「モツ煮狂い」と「川の東京学」。

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2015/06/10

「生活」とは、なんじゃらほい。

おれは、『大衆めし 激動の戦後史』でも、一章で「生活料理」という言葉が生まれるまでを書いたり、食は「芸術」なんぞではなく「生活」よ、という立場で、ああでもないこうでもない言ってきたのだが、この「生活」という言葉は、世間的にもよく使われながら、「定義」がはっきりしていない言葉なのだ。

ま、おれは、「定義」なんてのは、しょせん「定義」することで成り立つ学術業界のことで、生活においては、関係ねえよと思っているのだが、定義がない、定義する学術業界がない、というのは、これはこれでおもしろい。

ちなみに、おれは、ザ大衆食のサイトには、つぎのように書いている。

生活は「生命をつなぐ活動」
料理は「生命をつなぐ技術」
食事は「生命をつなぐ祭事」

さらにちなみに、天下の広辞苑によると、「生活」は、「①生存して活動すること。生きながらえること。②世の中で暮らしてゆくこと。また、そのてだて。くちすぎ。すぎわい。生計。」である。念のため、「すぎわ」は「生業」のことだ。

広辞苑は、言葉の意味であって、必ずしも概念を包括してない。

ところで、生活学会というのはある。かなり、マイナーな学会であり、学者さんというのは生活への関心が低いと想像できる。

1972年に、生活学より考現学で名高い、今和次郎さんが中心になって発足した。

日本生活学会設立趣意書は、以下のとおり。
http://www.lifology.jp/

人間のいるところ、かならず生活がある。
人間の歴史は、生活の歴史であった。しかし、今日人間の生活は危機に直面してい る。思うに生活というもののもつ、自明の日常性のゆえに、われわれは、それを対象化し、体系的な知的探求の主題とすることは、まれであったのではなかろうか。 われわれの提唱する生活学とは、まさしく生活を客体化し、理論化しようとするこころみにほかならない。そのかぎりで、生活学は生活の研究批判の学である。しかし、同時に、われわれは生活の中で展開される人間の可能性に、かぎりなき信頼と愛情とをもちつづけたい。その意味では、生活学は生活擁護の運動とつながるであろう。生活のなかで人間を発見し、人間を通して、生活を見つめ、そのことによって、人間にとっての「生きる」ことの意味を探求すること-それが「生活学」の立場なのである。
このような趣旨により、われわれは既成の学にとらわれない新しい学問の場としての「日本生活学会」を設立するものである。

……以上。

見てのとおり、「生活」そのものについては、定義をしてない。

おれが江原恵さんと生活料理研究所をつくった1980年ごろ、江原さんは生活学会に参加していたので、当時の会長の川添登さんや、ほかの会員の方々と飲む機会があった。研究所の試食会や、渋谷に出店した「しる一」などに来ていただいたりしたからだ。

そういうとき、あれこれ話しながら、この学会は、普通の学会とちがって、あまり定義をしたがらない、定義をしないで自由にアプローチする、そういうことが好きな方たちの集まりのように思われた。たまたま、おれが会った方たちが、そういう方たちだったのかも知れないが。「既成の学にとらわれない」と述べているとおり、たぶん、あのころのハヤリ言葉でいえば、「学際的」だったのだな。

実際に、生活というのは、この世の有象無象が混沌と混ざり合っているルツボであり、境界の線引きなんかできない。

上のリンクから「学会誌「生活学論叢」一覧 」を見ると、Vol.23には、「第40回研究発表大会 公開シンポジウム報告 2013「“生活”学研究への多様なアプローチとその特徴」」とあって、

民族学的観点からの“生活”アプローチ、

家政学的観点からの“生活”へのアプローチ、

社会人類学的視点からの“生活”へのアプローチ、

生活学的観点からの“生活”へのアプローチ、

というアンバイだ。

実際には、もっとたくさんの「学」からのアプローチがあるはずだと思う。

それにしても、ここに「生活学的観点からの“生活”へのアプローチ」ってのがある。この「生活学的観点」が、すごく気になっている。

食事や料理について、もっと「それを対象化し、体系的な知的探求の主題」になってもよいのではないかと思う。おれはフリーライターなので、「体系的」には興味はないが、ここがシッカリしないと、あっちにフラフラ、こっちにヘロヘロ、いつまでたっても消費の流行から自立できない。腰の定まらない、生産や食料の政策が続く一因でもあるね。高度な知識を持ったオトナが多いはずなのに、生活のことになると、けっこうガキ並の単なる消費者。

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2015/06/08

北浦和スウィングフェスティバルのち「川の東京学」的散歩、蕨で泥酔。

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昨日は北浦和スウィングフェスティバルの日だった。

「川の東京学」トークの相棒、有馬さんが、次回のトークの打ち合わせのため、こちらまで来てくれるというので、前回の打ち合わせも北浦和で飲みながらだったし、ではついでに、フェスティバル参加プログラムである、野笛とタイヂのライブを古本酒場・狸穴で一緒に聴きましょうかと、14時半に狸穴で待ち合わせた。

北浦和スウィングフェスティバルは、「北浦和」の西口商店街と参加店で開催され、今年は10年10回目。街角や店内から音が鳴っている通りをゆくと、「イッカイ」の会場近くで、猪瀬さんと会った。ひさしぶりだ。奥さんも昨年生まれた、7か月の娘さんを乳母車に乗せて。みな元気そうで、めでたし。

001イッカイの斜め前では、猪瀬さんの説明によると、見沼農園のメンバー2人による、この日のために、この日結成し、この日演奏が終わったら解散という「超人アミーゴ」が演奏していた。解散するのは、モッタイナイ。

古本酒場狸穴での、野笛とタイヂのライブは、いい感じだった。野笛さんのコミカルな歌詞のフォークに、たびたび笑いが起きる。野笛さんタイジさんは、北浦和クークーバードでの猪瀬さんとおれのトークに来てくださったり、何度か会っているが、ライブは都内でやることが多いので、初めてだった。壁に古本が詰まった小さなハコの古本酒場の雰囲気にもピッタリ。またやって欲しいねえ。

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北浦和のあとは、有馬さんと川口へ。荒川土手や芝川沿いを「川の東京学」的散歩。キューポラのある街から、「美しいきれいな」消費都市への変貌を象徴する、タワーマンションや、新住民のマンションに押されながらも、まだ残っている鋳物工場を眺めたり、1時間ほどウロウロした。

川沿いは、工場、労働者の街だったのだねえ。

川口駅前の銅像は、鋳物工場の労働者。台座に「働く歓び」の文字。芸術や文化を上に貴び、肉体労働を下におき蔑む、イカレタ思想の対極でもあるし、川辺の「働く歓び」を搾取してきた「東京」の構造にも思い当たる。一切合財を飲みこんで、川は流れ、時代は移るか。

川口のあとは、蕨へ行って、2軒ハシゴ。イチオウ、次回の「川の東京学」トークの打ち合わせのはずで、有馬さんは『大衆食堂の研究』まで持ってきていたのだが、打ち合わせになったのだろうか。ただただ泥酔。

次回のトークは、『大衆食堂の研究』発刊20年の来月。この本を書いた当時は、「川の東京学」という言葉は頭になかったが、じつに川の東京学的な内容なのだ。そのあたりは、トークのときに。

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2015/06/06

生きることが批評である生き方、『小さくて強い農業をつくる』久松達央。

001本書のタイトル『小さくて強い農業をつくる』だけを見れば、近年は農業に対する関心が高まっているようだけれど、なにかしら農業に関心があるひとでなければ、あまり興味がわかないかもしれない。

それに、本書は、晶文社の「就職しないで生きるには21」のシリーズの一冊で、「これから」がある若い人たちのための本のようでもあるのだ。

ところが、この本は、トテツもない本で、「これから」がない72歳のおれのようなものが読んでも、大いにおもしろく刺激になる。フリーランスや、仕事を引退してフリーになっている人たちの、「生き方」にも関わる内容だ。

大いに刺激になり、また自分がしてきた仕事と関係することが多く、「うーむ」「ふーむ」「そうかなあ」と、いちいち考えて咀嚼を繰り返しているうちに、ただでさえ読書スピードは遅いのに、読み切るのに時間がかかってしまった。

昨年11月30日発行のころ、編集者が柳瀬徹さんということがあってだろう頂戴した。じつに、内容の濃い厚い本を何冊分も読んだ、充実した気分。うん、これでおれの死ぬまでの人生は、ますます楽しくなる、ツモリでいる。

プロフィールなどによれば、著者の久松達央さんは、1970年茨城県生まれ、慶応大学経済学部卒業後、帝人株式会社に入社、工業用機械の輸出営業の仕事のち、1998年農業研修を経て、独立就農。現在、7名のスタッフのいる株式会社久松農園、代表取締役。年間50品目以上の旬の有機野菜を栽培し、ソーシャル時代の新しい有機農業を展開している。

ということだが、久松さんは、新しいタイプの「社会革命家」なのだ。「ソーシャル時代の新しい有機農業を展開」という表現にも一端がうかがえると思うが、本文の最後は、こう結ばれている。

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 僕が提唱する小さくて強い農業が、各県で100軒、日本全体で5000軒くらいになると、そのシェアは全体の1%に達します。農業者の1%が小さくて強い農業に変わったとき、農業全体が少しずつ動き出します。そうして雪崩を打ったように日本の農業が大きく変わっていく姿を生きているうちに見るのが、僕の密かで意地の悪い夢です。

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なかなかすばらしい明快なビジョンだと思う。新しい革命家は、何かを倒そうとするより、「変態」といわれてもいい、自分が「グッと」くるものを追及し築きあげようとする。

本書の帯には「自由に生きるための農業入門」とあるが、自由に生きるためには、明快なビジョンを持つことが、必要だ。それと自由な批評精神。

著者の略歴からすれば、いちおうエリート・コースからのスタートだった。しかし、「第一章 一流企業サラリーマン、華麗に道を踏みはずす」であり、この「華麗に」は、もしかすると編集さんのシゴトかもしれない、久松さんの「合理」な本文には似つかわしくないカッコつけたところがあるが、とにかく、道を踏みはずし、「なんとなく農業」に転がり、「第二章 新人農家「農家に向いていない」ことを思い知る」というアンバイで、「君は農業に向いていない」と言われ、そういう批判を受け入れたところから、久松さんらしい農業への取り組みが始まる。農業が好きだし、やりたかったし、負けたくなかったからだ。

そして、「第三章 言葉で耕し、言葉で蒔く。チームで動く久松農園の毎日」、つまり小さくて強い農業の実践が生まれ、育っていく。このあたりに、久松さんのトテツもなさが、いかんなく発揮される。

「農作業の言語化・数値化は、体で覚えるセンスのない自分が、苦肉の策として始めたものです」

「仕事が言葉に落とし込めている=属人化させない仕組みがあることによって、仕事が「人」ではなく「機能」で見えるようになるのです。ある目的が達成されるためには、どんな条件が満たされなければならないかがはっきりしていると、誰かのせいにして終わり、になりにくいのです」

「逆に「人」をブラックボックス化してしまって、「機能」に切り分けないと、「気をつけろ」「気合いで乗り切れ」以上のことは言えなくなってしまいます」

こういうことに関連した記述が多いのだが、人間の言葉やコミュニケーションは何のためなのかという本質を、よく考えている。

「第四章 「向いてない農家」は、日々こんなことを」は、久松農園のあれこれが、茶飲み話の雑談のように語られるが、じつに豊かな思考の連続なのだ。

大風は、作物やハウス、さまざまな設備や備品にまで被害をもたらす。

「大風から作物を守る方法はないかというと、そんなことはありません。お金さえかければ、方法はいくらでもあります。費用回収が大変なだけです」と述べたのち、「そもそも栽培とは、目的に対する合理的なアプローチを考え、置かれている条件の下で、持っている経営資源をどう配分するか、というゲームです」という。

言われてみれば、その通りなんだけど、こういう説明は、思いつかないのが、普通ではないだろうか。このあたりにも、農作業の言語化・数値化をめざす、久松さんのトテツもなさが表れている。

この四章の雑談のようなものには、天気や気候との付き合い方や、食のことにもふれている。「うまい」「まずい」問題を、因果関係と相関関係の混同という視点から批評していたり、おもしろい。なかでも、ここだ。

「今の日本で、とりたてて問題にするほどまずいものなんてそうそうないのです。でも、「お!」とはならない。「まずくはない」と「お!」の差が、小さいようで大きい。そのギャップを埋めるのが、小さくて強い農業の役目です」

食と味覚に対する、久松農園のビジョンとでもいえるか。どこまでも言語化が徹底している。

「まずくはない」でも「お!」とはならないあたりに、おれの関心である「普通にうまい」が存在するわけで、そのギャップは大いに気になるところだ。

以下、「第五章 向いてない農家、生き残るためにITを使う」「第六章 カネに縛られない農業を楽しむための経営論」「第七章 強くて楽しい「小」をめざして」と続く。

結論をいえば、この本は、さまざまな属性を落とせるだけ落とし、芯だけにしてみると、「生きることが批評である生き方」の本といえるだろう。

「就職しないで生きるには21」シリーズだけど、久松さんは就職したことがあるし、「農作業の言語化・数値化」という発想は、もしかすると最初に就職した会社の現場での影響もあるかもしれない。現在の農園も会社の代表取締役とはいえ組織で動くようになれば就職したと似た状況になる。

けっけきょく、どんな状況であっても、強く自由に生きていくためには、生きることが批評であるような生き方が必要であるということだ。

この本を読んで、そんな老後のツカイミチを考えてみるのも悪くない。批評精神を失わず、久松さんのようなビジョンを持った人たちと歩んだほうが、おもしろくて楽しい人生が、何歳であってもあると思う。

もちろん、同じことを同じようにする必要はないし、たとえば、おれが関係しているゲストハウスの経営なども、とくに若い人のために、小さくて強い経営をめざしてきた。

本文のところどころで、農業に対する一般的なステレオタイプなイメージを打ち破りながら、農業以外のことでは批評精神らしからぬステレオタイプな見方をしているところもある、久松さんは、とても批評精神に富んだ方で、それがキチンと自己にまで向けられるている点は、なかなかできることではなく、本書のおもしろさでもある。最初に引用した本文最後の締めが、「僕の密かで意地の悪い夢です」なんてね。

ま、それで踏みはずすことにもなったし、また小さいが強い農業へ向かうことにもなった。

大雑把な言い方になるが、日本の農業は、ということは「農協農業」はということだが、批評精神が育ちにくい環境だったというべきか。よくいわれる「親方日の丸」。それで、さまざまな問題の自立的解決が難しくなっていることが少なからずある。だからこそ、小さいが強い農業の可能性があるのだとも、読める。農業だけのことじゃないが。

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2015/06/04

「食べ物がおいしくなる状況を作り出そう!」。

昔から、有名店の店主が書く、食通談議のようなものは、たくさんあった。そういうものとは違うが。

生産者やメーカーや飲食店などが、ウチはこんなにうまいものを提供している、それは、こうこうこういうものを使って、こうこうこういうふうにして、と、細かいことまで説明し優秀性や優位性をアピールするのは、商売として当然だろう。

そして、各種メディアや、おれのようなライターなどは、消費者の立場で、それをできるだけ正確(客観的)に評価しながら、上手に伝える。

というのはタテマエで、実態としては、提供者側の代弁者であったりパブリッシャー機能を果たしていることが少なくない。

だって、いいものはいいし、もっといいものを知って欲しいし、知りたいというひとがいるのだから、いいでしょ。

どこも問題がないようだし、そういうことで本が売りやすくなったり売れたりすることが多い(会社お買い上げをねらったマーケティングもある)。ますます、メディアやライターは、生産者やメーカー、飲食店などに接近していく。

そこに、いろいろおかしなことがあるのだけど、癒着になれてしまえば、いい湯加減の風呂に入っているようなもので、業界全体がドップリそれに浸かって過ぎてしまう。もちろん、読者も含めて。

だけど、そうではない活動をしている人たちもいる。ときどきこのブログでも紹介してきた非公式物産展など。

『トランヴェール』6月号(特集で「大地の芸術祭}を扱っている)には、「ひと味違った食のプロジェクトで注目される現代美術家のEAT&ART TARO」さんのことが紹介されていて、オッ、と思った。

「もともと調理師をしていたTAROさんがアートの世界へ入ったきっかけは、「おいしいものって何だろう?」というシンプルな問いだった。とかく食材や調理法にばかりこだわりがちだが、料理のおいしさは、どんな場所で食べるか、誰と一緒に味わうかなど、状況によって変わる。ならば、「食べ物がおいしくなる状況を作り出そう!」という遊び心が活動のベースになった」

いま、書きながら思いだしたが、似たような活動をしている人たちがほかにもいるが、みな現代美術系のアーチストだ。アートというのは、因果律では把握や表現が難しいことに分け入ることができるのは確かだと思う。もっと「文章家」も含めて、こういう関心が広がってほしいね。

読者様だって、自分が知りたがっているていどのことを知って満足するのではなく、もっと先まで奥まで考える歓びがあるはずだ。「食べ物がおいしくなる」には、状況以外にも、いろいろある。そこに一個の人間としての、生活の可能性が、豊かにあるはずなのだ。その豊かさに、手を伸ばしているだろうか。

それはともかく、野暮酒場などは、開催のたびに「食べ物がおいしくなる状況を作り出そう!」の精神にあふれ、安酒でもおいしく飲める状況を作り出して楽しんでいるのだから、もう大変なアート空間ですね。

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2015/06/02

地下酒場。

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コンテンツのテーマやカテゴリーあるいはジャンルというのか、あらゆる分野で細分化がすすんでいる。酒場の分野では「コの字酒場」なんてのもあるぐらいだから、「地下酒場」ってのもあるだろうと思ったら、ざっとWebを見渡したところでは、「専門家」はいないようだ。

だから、なにかイッチョウ売りだしてみたいと思っている方は、やってみたらどうか。と書けば、山っけのある人は、必ずやるに違いないし、そもそも特集のテーマぐらいにはなってもよいと思う。

ニュー新橋ビルの地下の飲食街のように、「街」として独特な風情のところもあるし、たとえば、バーなんてのは、地下に降りていく階段からして、物語になる店がある。

ということを思いついたのは、じつは、写真を整理していて、この写真が出てきたからだ。

このバーは、間口1間半ばかりの細い狭いビルの地下2階にある。階段も狭く急で、地下1階のバーの入口のあたりだけ、階段の幅二つほど平なところがあるが、一直線で地下2階まで続く。穴倉に落ちるようだ。ときどき、入る前、出る時に転がるやつがいると、マスターが言っていた。

古いジャズバーで、棚には煙草の煙で変色したビニールカバーがかかったレコードが、えーと何百枚だったか、いや4ケタだったか。ひとくせもふたくせもありそうな常連が、カウンターに座り、煙突のように煙草の煙を吐く。そういう客を相手にするマスターも、ジンジョウじゃない。

店の雰囲気、マスター、客、明るい地上は似合わない。地下酒場ならではだと思う。ジャズバーは、地下にあるべき。地下に降りる階段、「地下」という言葉が、その感じを、ますます強くする。

そんな酒場が、ほかにもありますなあ。地下ならではの人間がうごめくところ。地下ならではの酒の味わい。

ま、そんなことを思ったわけです。

この写真は、昨年11月、たまたま開店早々にSさんと入ったときに、Sさんが撮ってくれた。日頃は、地下のジャズバーのマスターらしく、気難しいところもあって、写真どころではないのだが、この日は、まだ客がいない時間だったこともあってか、撮影に気軽に応じてくれた。マスターとのバカ話も、すごく楽しかった。

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2015/06/01

料理と味覚、東京の山の手と川の手。

「川の東京学」に関係するが、少し前、インターネットで「グルメランキング1位が密集する東京・小岩の行くべき店3選」という記事が話題になった。

東京の東の外れ、小岩駅。
この街がグルメタウンとして急激に注目を集めているのをご存知だろうか?
食べログを確認すると、タイ料理カテゴリーで日本一の「いなかむら」、ネパール料理カテゴリーで日本一の「サンサール」、焼きとんで東京1位の「豚小屋」など各ジャンルのトップ店が密集しているのだ。

というぐあい。
2015/01/29 15:21:23
http://guide.travel.co.jp/article/8154/

いわゆる日本の「伝統文化」や「伝統食」とは異なるものばかりではないか。「いずれも予算2~3千円あれば、さまざまなメニューが食べられる大衆店」というのも、おもしろい。

2015/05/30「豚レバ刺し問題。」で引用した記事では、墨田区向島の大衆酒場の店長は、「大衆酒場で安く出すには、鳥か豚のレバーになる」と言っている。

20年前、1995年の『dancyu』4月号は、特集が「家庭料理」だ。そこで、漫画家の槇村さとるさんが、自分と家庭料理について語っている。まさに、自身のフォークロア。

彼女は、1957年、東京都葛飾生まれ。父親は電気工事の職人だった。「ハイカラなものが一切上陸しない家でしたから、おかずは魚の焼いたのが多くて、肉はあまり食べませんでした」。11歳のある日、母親が家出する。「その晩から私、主婦でしたよ」「親戚のおばさんから鶏肉やモツの存在を教わったり、料理番組を見たりもしました」「そのころは、ただ早くつくりたかった」

11歳といえば1968年。「この暗黒の主婦時代」があって、漫画家・槇村さとるが生まれる。

「親戚のおばさんから鶏肉やモツの存在を教わった」という話は、向島の大衆酒場の店長の話とも通じる。

日々の生活で「安さ」「早さ」を判断(価値)の基準にする文化の存在は、単に「貧しい生活」ということですまされ、文化的側面は意識されたり評価されたりされることがほとんどなかった。とくに、山の手的文化にあっては。

よくサザエさんの家族が、戦後の家庭のロールモデルのように語られるが、料理においても、サザエさんの家族が住む山の手的文化の香りがロールモデルとしては不可欠だった。やきとんやモツにかぶりつく文化ではなく、「ハイカラ」な「上質」なイメージだ。

槇村さんが見た料理番組は、どのようなものか知らないが、おそらく、山の手的文化のイメージだっただろう。

料理雑誌や料理番組に登場する「料理研究家」も、山の手的文化のイメージの演出者であり代表者であり、たいがい山の手的文化の住人で、出身が川の手である場合でも山の手に住むかして、自らの出身地を明かし自身のフォークロアにもとづき料理や味覚を教授するようなことは、できる環境になかった。

安さ早さのなかに文化を見い出せない、あくまでも丁寧な手仕事を上質とするロールモデル。

デフレカルチャーの時代になって、「安さ」「早さ」は、料理と味覚の分野では不可欠なほど大いにもてはやされているが、スタンダードな文化として共有されたような感じはない。生活の文化としての料理と味覚の底の浅さではないのかな。

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