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2015/07/03

生存のめし。

20年前に発行の『大衆食堂の研究』では、大衆食堂のめしを「生存のめし」としているし、「生存」が裏テーマのようなアンバイになっている。

すでに何度か繰り返しているように、「生存すること」つまり「生活」であり、食を、「産業」「市場」「消費」というワク組みで捉えたり語ったりするのではなく、生存することを基本に、食事や料理や、ようするに食を、位置づけし直す必要がある、と考えてきたのだな。

もっとデカイことをいうと、これまで食に限らず、あらゆることが「産業」「市場」「消費」というワク組みで捉えられ(その上に、国家が鎮座しているのだが)、「産業」「市場」「消費」のためになることが煽られ求められてきたのだけど、そういう考え方は行き詰まっている。

もともと人間が生み出してきたことは、生存のためだったはずだ。それが、産業や市場や消費の役に立たない人間は人格すら認めてもらえず、国家や企業のために生存が犠牲になるようなぐあいに、いつの間にか逆立ちしている。

この本末転倒した状態のまま、細分化されたニッチなネタやテーマを拾っては目先だけ変えて、何か創造したような幻想を続けているのだけど、広い地平があるのにニッチニッチの先細り、まあ、その先に未来は、ないでしょう。

そこに、おれの大衆食や生活料理のビジョンが成り立つ。

なーんて、そんなデカイ話はさておいて。

『大衆食堂の研究』では、「生存」という言葉をどんなふうに使っていたか、少しだけ拾ってみたら、こんなぐあいだ。

………………
 安楽の日本のようだが、無事に生存しつづけることはやさしくない。」
………………
 食堂でめしをくう。それはたんに安いめしをくうのではない。ただ安いだけならガストもある、スタンドの丼屋もある。コンビニの弁当だっていいかもしれない。
 じゃあ、健康栄養か。ちがう。栄養素なんてごくささいな記号にすぎない。痩身美容健康長寿ちゃんちゃらおかしい。食堂のめしってのはそんなもんじゃない。食堂のめしはもっと生存の根源にかかわるめしなのである。
 栄養や料理や食文化については、うるさいほど騒がれた。しかし、生存について語られることがどれだけあっただろうか。語られるのは、あいかわらず、歴代上流階級・欧米上流階級を崇拝模倣する、「上品」で「文化的」で「芸術的」な、見栄ライフ、快楽シーン、物知り顔なウンチク。
………………
 確かな生存、確かな日々を感覚的につかめるめしをくっていないと、むなしゅうなるノ。市場にのまれて、ワタシは溶けて流れて虚無の中。
 しかし、ちかごろ、宗教っぼいのや占いっぼいのや心理学っぼいのや文化っぼいのや芸術っぼいのや、ココロっぼいことを商売にしている連中だけが元気なのは、そういうむなしさの流行のせいなんだろうか。ようするにこころにいいことありそうなふりして、他人のこころを手玉にとる、胡散臭いやつらが、ちかごろやたら目立つ。
………………

無事に生存しつづけることの難しさは、ますます増大しているなあ。

それはともかく、当ブログで『大衆食堂の研究』と「生存」を検索していたら、2010/07/16「ジャンク、パンク、先駆。気取るな!力強くめしをくえ!『大衆食堂の研究』15周年。」が、見つかった。

ま、あいかわらずで、いまここに引用したことも引用している。

おれはコダワリだのネチネチシツコイのは好みじゃないのだが、ビジョンに関わることだから仕方ない。ビジョンは、コロコロ変えるわけにはいかないし、ますます、気取らず力強くめしを食って生きなくてはならない状況になっている。

そんな20周年なのだ。

当ブログ関連
2015/06/29
7月11日(土)は、野暮酒場@小岩で「川の東京学」トーク。

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