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2015/07/04

モツと生存とアートをごちゃごちゃと。

2015/06/15「「モツ煮狂い」と「川の東京学」。」に登場の『モツ煮狂い』には、以下のような文章がある。

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 いま、夜の旧たから通りは静かですが、往時はひっきりなしに人通りがあり、職工さんのスタミナ源がもつ焼だったといます。一人で20本はざら、50本食べたツワモノもおり、酎ハイも一人で15杯という記録があるそうです。どちらが多く食べ、飲めるか競争をして、最後は取っ組み合いの喧嘩で終わる。そんな男らしい世界があったと教わりました。
 要するに、客がハイボールともつ焼だけで食事をした時代は、それで商売になったわけです。いまのお客はもう2‐3本しか食べないのが当たり前、主食で毎日食べる人は私をはじめ極少数にとどまるでしょう。メニューの選択肢がたくさんある中で、もつはB級グルメの対象として、「あえて」「わざと」食べるのが酒通っぽい、というスノビズムで消費されるものになりました。
 もつ酒場がうんちくや批評の対象になること自体が、近代の終わりを意味しており、その意味でも、大力のような昔ながらのもつ酒場は、貴重な近代化遺産といえます。
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かつては、もつ焼に酎ハイは職工さんたちの「主食」であり、生存のめしであり、働き食べる生存の営みだったことを書き残している。

食べること飲むがことが、生存の営みである生活の中から、外側のレジャー(娯楽や趣味)になっていき、やがてスノビズムの消費の対象になっていくのは、『大衆めし 激動の戦後史』にも書いたが、70年代から顕著になり、80年代のグルメの台頭によって勢いづいた。

そして、飲食分野の、あれもこれもが、うんちくや批評の対象になっていったのだが、生存の営みである生活が無くなってしまったわけではないし、生活の中の飲食は続いている。

とくに、2015/05/30「豚レバ刺し問題。」でもふれている「安さとボリューム」は、コアな文化として続くと思う。

もつ焼に酎ハイ、安さとボリュームなんて、「文化」といえるかい、ただのマッチョじゃないか。と、「文化系」の意識の高い人たちは言うかも知れない。文化やアートってのはね、生存なんていうレベルより、ずっと高尚なものなの、とか。

「よいもの」「よい暮らし」を謳う、ハイカルチャーな雑誌や書籍には、「品質のよい一生もの」を大切に使う生活の楽しみやシアワセみたいなことが述べられている。そりゃまあ、余裕のある人たちは、そういう楽しみ方をするだろう。

だけど、安さとボリュームには、ありふれたものをおいしく食べる、高度な文化があったりする。スーパーの衣料品売り場で買った、安物の衣服を、大事に繕いながら長持ちさせている人たちもいる。銀座や青山の有名店の菓子ではなくて、スーパーやコンビニで買ったケーキで、楽しくお茶する生活もある。

そこに文化的な優劣など存在しないはずだが、とかく、「よいもの」「よい暮らし」のススメは、安物の暮らしを見下すことにつながりやすい優劣観が潜んでいることが多い。早い話し、モノの優劣が、生活の優劣なのだ。

『大衆食堂の研究』では、こんなことを書いている。

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 七〇年代あたりから饒舌になった、こういうグルメ・食文化もどきは、同じことを言う。日本は、やっと、食の文化を考えられるゆとりができたのだ、と。それまでは、くうだけで精一杯だった、と。ようするにくうことの心配がなくなったから、グルメ・食文化がやれる、ということである。これはほんとうだろうか。もちろんデタラメのウソだ。すくなくとも、料理評論家だ食文化評論家だというやつらが、「フード・ビジネス」にくわせてもらえるようになったのは確かだろうが。
 ようするに、七〇年代以後の華やかなグルメ・食文化ブームは、エサの心配がない生簀の魚にはグルメも文化もあるが、川や海で生きている魚にはグルメや文化はない、という理屈なのである。これを「生簀文化論」と呼ぼう。
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と、ここで、「生簀文化論」に対抗し、アートや文化というものは人間の生存と密接であり、生存することがアートであったり文化であることを、我田引水的に引用しておく。

『生きていく絵 アートが人を〈癒す〉とき』(荒井裕樹著、亜紀書房)という本があって、2013年9月に発行の直後ぐらいに、いただいたのだが、おれはただでさえ読むのが遅いのに、この本は「難解」と意味が違って、文章はわかりやすくても、おれの頭の血のめぐりが悪いせいで、噛み砕いて理解するのに時間がかかり、まだ紹介できないでいる。

なのに、自分の都合のよいところだけを引用させてもらう。すみません。とにかく、この本は、とても重要なことを書いている。ありふれたものをおいしく食べる、ってことにも関係あるようだ。

そもそも、この本の帯には、「生存の技法」とあって、「技法」に「アート」とルビがふってあるのだが。

「自己表現の〈もの〉と〈こと〉」の見出しの本文は、こう始まっている。

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 病気や障害を持つ人たちのアートが議論される際、表現された作品を重視するのか、あるいは作品を生みだす場や関係性を大切にするのか、人によって意見が分かれるようです。これはとても難しい問題です。前者を強調しすぎると、表現者(=作者)の実態的な〈生〉から切り離されたところで、鑑賞という名の消費がおこなわれてしまうかもしれませんし、後者にばかり注目が集まれば、個々の作品自体が有している意味や可能性がおろそかにされかねません。
 多少乱暴ですが、前者を強調するのがアート業界の価値観であり、後者を強調するのが医療・福祉業界の論理なのだという整理もできると思います。
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ようするに「生簀文化論」的な考え方、表現された作品つまりモノを重視するのは、いまどきのハイカルチャー文化業界の価値観の影響であり、飲食を生みだす場や関係性つまりコトを大切にするのは、生存のめしの考え方であるということ。で、いいかな。

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2015/07/03
生存のめし。

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